学位論文要旨



No 117962
著者(漢字) 高橋,宏和
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ヒロカズ
標題(和) 聴性誘発電位の多点計測による聴皮質の機能構造の解明
標題(洋)
報告番号 117962
報告番号 甲17962
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5420号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中尾,政之
 東京大学 教授 光石,衛
 東京大学 教授 中村,仁彦
 東京大学 教授 江刺,正喜
 東京大学 教授 加我,君孝
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,微小多点表面電極(以下,表面電極と呼ぶ)を開発し,それを用いて音刺激・電気刺激による誘発電位を多点計測し,誘発電位の性質と聴皮質の機能構造を考察した.さらに,この生理学的な研究の工学的な応用として,聴性人工脳幹インプラント(ABI)の動物モデルを構築した.本論文では,工学的な知識と技術を積極的に異分野に導入することの重要性を示し,工学と医学とが融合されたときに,重要な知見が得られることを体現していると考える.

 従来の研究は,聴皮質の機能構造を,単一ニューロンの計測から主に調べてきたが,聴皮質全体の概括的な活動の考察にしばしば欠ける.そこで,本研究では,従来のように個々のニューロンの発火電位ではなく,集合電位に注目した.音刺激に誘発される集合電位,すなわち,聴性誘発電位を用いて聴皮質の機能構造を考察するためには,集合電位を多点計測できる電極が必要である.さらに,同電位は,特徴的なピークや波形をもつが,それらがどのようにして現れるかを明らかにする必要がある.これらの課題に対し,本研究では,微細加工技術・数学的なデータの解析手法といった工学的な知識・技術に加えて,生理学・解剖学の知識,動物実験での手術の技術といった各分野の知識・技術を総動員して取り組んだ.さらに,そのような研究体系を,生理実験だけでなく,ABIのような萌芽的なデバイスの研究開発に適用することを試みた.ABIは,脳幹の蝸牛神経核上に電極アレイを埋め込み,そこを直接電気刺激して聴覚を再生させる装置であるが,現在のところ,装着者に音高の違いを知覚させることができず,その有効性が疑われている.

 上記を踏まえて,本論文は,

(1)誘発電位を皮質表面から多点計測できる実験系を構築すること,

(2)そのデータを考察して誘発電位の考え方を体系化すること,

(3)それに基づき,聴性誘発電位を用いて聴皮質の機能構造を明らかにすること,

(4)本実験系をABIの基礎研究に拡張し,本研究手法が次世代の先端医療デバイスの基礎研究として有用であることを示すこと,

 の4点を目的として研究を実施し,下記の知見を得た.

(1)誘発電位を皮質表面から多点計測できる実験系を構築した.

 皮質の全体的かつ動的な現象を,低侵襲な電気牛理学的な手法を用いて考察するためには,表面電極を用いた誘発電位の計測が有用である.誘発電位を皮質表面から計測する表面電極には,曲率を有し,脈動している皮質表面に密着できるように,低剛性なポリイミドを基板に用いた.さらに,硬膜上から低侵襲かつ安定な計測を実現するためには,ポリイミド基板の中心に計測点を配し,基板を折り曲げて,押し付け力で基板中心の計測点を脳組織に密着させる曲折構造が適している.

 電極の製作にはリソグラフィ技術を用いて,ポリイミド基板に金の導電層を埋め込み,計測点を除いて,導電層上にポリイミドで絶縁層を形成した.

 生理食塩水中でのin vitro実験では,電極インピーダンスと,電極・計測系が発生する雑音の特性を調べた.計測点が80μm角の場合,1 kHzでの電極インピーダンスの大きさと位相は,それぞれ,約200kΩ,-65oだった.雑音のスペクトルは,周波数が低くなるにつれてその強度が増大し,周波数をfとすると,f-0.5からf-2.0の傾きを有している.2-3kHz以上の周波数帯では,熱雑音が優勢だったが,それよりも低い周波数帯では過剰雑音が発生し,それが低周波数帯の雑音スペクトルを支配している.表面電極の設計では,計測点の大きさや電極材料の電気化学的な性質を考慮し,これらの雑音によりS/N比が低下しすぎないように注意するべきであり,実験系の設計では,必要最小限の周波数帯域で計測し,必要に応じて適当な平均加算回数を設定するべきである.

 また,本論文で実施した様々な動物実験から,表面電極は,聴性誘発電位の波形の性質を理解し,さらにそれから脳機能を考察するための研究ツールとして適していることを示した.

(2)表面電極で得たデータを考察して,誘発電位の考え方を体系化した.

 シミュレーションでは,発火を伴うニューロン集団の活動および発火を伴わないニューロン集団の活動が,どのような電場電位を発生するかを考察した.その結果,ニューロン集団の活動から発生する電場電位の性質として,(i)シナプス入力強度が比較的強い場合,ニューロン集団が発火する条件下でも発火しない条件下でも,平均加算された電場電位は二相性の波形になり,特に,発火しない条件下では神経細胞の活動が同期していないときに,この傾向は強い,(ii)ニューロン集団が発火する条件下の平均加算された電場は,発火しない条件下のそれよりも,数ms程度早く出現する,(iii)ニューロン集団が発火する条件下で平均加算された電場電位の陰性ピーク・陽性ピーク間の時間は,発火しない細胞集団のそれよりも短く,一定の値をとり,細胞集団の活動がどれだけ同期しているかに依存する,という3点を明らかにした.

 さらに,表面電極を用いて聴皮質上で多点計測した聴性中潜時反応に,独立成分解析を適用し,同解析結果を前記シミュレーションおよびこれまでの生理実験の報告とから考察し,同反応の特徴的な波形の生理学的な解釈と特徴的なピークの起源の解明を試みた。独立成分解析は,実験データを,2つの近接電場電位成分と1つの遠隔電場電位成分と考えられる独立成分に分解した.分解された2つの近接電場電位成分は,シミュレーションとの比較・検証から,発火を伴うニューロン集団の活動と発火を伴わないニューロン集団の活動に起因すると推定できる.

 聴性中潜時反応が上記3成分からなると考えれば,同反応に見られる特徴的な波形を説明できる.すなわち,P1-N1-P2形は発火を伴う活動に起因する成分も発火を伴わない活動に起因する成分も大きいときに,P0-N0-P1-N1-P2形は両成分が小さいときに,PA-NA-PB-NB-PC形はシナプス活動がほとんどないか抑制性で発火に伴う成分も見られないときに現れる.

(3)聴性誘発電位を用いて聴皮質の機能構造を明らかにした.

 表面電極を用いて,トーンバースト音(一定の立ち上がり・立ち下がり時間をもつ純音)で誘発された聴皮質反応を多点計測し,聴皮質の機能構造を考察した.この聴性誘発反応を中潜時反応,長潜時反応,オフセット反応に分けて,それぞれの特徴を考察した.

 中潜時反応の特徴として,その周波数・音圧が異なると,聴皮質上での時空間的活動パターンが明らかに変化する,すなわち,明らかな周波数局在構造と音圧局在構造が存在することを示した.前聴覚野では,音の低周波数は吻側部で処理されているが,高周波数になるにしたがって尾背側部で処理されるようになり,周波数局在性はC字形に分布している.一次聴覚野では,低周波数と高周波数の情報は,それぞれ,尾側部と吻側部で処理されており,周波数局在性は帯状に分布している.また,聴皮質上での音圧情報の表現方法として,前聴覚野では,部位ごとに,音圧変化率に対して感度が異なり,同領野の端部は感度が低く,中心部は感度が高いこと,一次聴覚野では,そのような機能構造に加えて,音圧変化率と立ち上がり時間に依存する抑制性反応を用いて音圧情報を処理している可能性が高いことを明らかにした.なお,一次聴覚野の抑制性反応は,側方抑制に関連すると考えられる.このような処理の結果として,音圧を増大させると,前聴覚野では,音圧の大きさに応じて,選択的に反応する部位が,C字形の周波数局在構造の分布に交差するように移動する.一方,一次聴覚野では,音圧を増大すると,周波数局在性が失われ,中心部から大きな反応が得られるようになる.

 長潜時反応には,明らかな周波数局在性は見られない.同反応は,中潜時反応とは異なる遅い方法で,音圧情報を改めて表現しており,その処理には,一次聴覚野と同様に,抑制性反応を用いている可能性が高い.

 オフセット反応は,オンセット反応(中潜時反応)の周囲に分布し,その反応の大きさは,音圧変化率,立ち上がり・立ち下がり時間,刺激音のプラトーの長さ(刺激音の全体長)に,有意に依存する.これらを矛盾なく説明するためには,オフセット反応は,抑制されていた神経活動が,同期して自発発火レベルに回復する現象を反映しているという仮説が妥当であると考える.

(4)本実験系をABIの基礎研究に拡張し,本研究手法が次世代の先端医療デバイスの基礎研究として有用であることを示した.

 ABIの動物モデルでは,蝸牛神経核を刺激するために微小剣山電極アレイ,実験動物の知覚を把握するために表面電極を用いた.微小剣山電極アレイは,400μm間隔で格子状に,先端径50μmの微小タングステン電極を有する.

 動物実験では,蝸牛神経核の電気刺激で誘発された聴皮質上の反応波形は,音刺激で誘発されたそれと同じ特徴を示した.したがって,電気刺激で誘発された反応と音刺激で誘発された反応とを比較・検討することで,電気刺激が実験動物に与えた知覚を推測できる.実際に,音刺激と電気刺激とで誘発された聴皮質上の反応を比較・検討したところ,蝸牛神経核の背側核を刺激しても,腹側核を刺激しても,刺激部位に応じて異なる音高を知覚させている可能性が高いことを示し,ABIの有用性を直接的に裏付けた.

 今後,この動物モデルを用いれば,最適な刺激方法・刺激部位の解明,そのための電極の設計指針など,将来のABI技術を向上させるために,有用な情報を提供できると考える.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,微小多点表面電極(以下,表面電極と呼ぶ)を開発し,それを用いて音刺激・電気刺激による誘発電位を多点計測し,誘発電位の性質と聴皮質の機能構造を考察した.さらに,この生理学的な研究の工学的な応用として,聴性人工脳幹インプラント(ABI)の動物モデルを構築した.

 本論文は全7章から構成される.

 第1章では,1.1節で本研究の背景となるこれまでの研究を,生理学・臨床医学・工学分野に分けて概説し,それらの問題点・課題を指摘して,1.2節で本論文の目的,I.3節で本論文の具体的な内容を述べた.研究の背景として,まず,これまでの神経科学の歴史的な発見には,工学が大きく貢献していることを述べ,今後の神経科学の研究でも,それを再認識し,さらに工学・神経科学の交流を推進すべきであることを強調した.本論文は,聴皮質を主な研究対象として取上げている.そこで,従来の聴皮質の機能構造に関する研究を解説し,時空間的な神経活動パターンを得,神経細胞が集団としてどのように機能しているか,また特定の領野全体として,さらには聴皮質全体が,どのように機能しているかを考察する必要性を述べた.そのために,本研究では,従来のように個々のニューロンの発火パターンではなく,集合電位に注目することを述べた.音刺激に誘発される集合電位,すなわち,聴性誘発電位を用いて聴皮質の機能構造を考察するためには,同電位の特徴的なピークや波形がどのように現れるかを明らかにしなければならないことを強調した.また,聴性誘発電位が,聴皮質の機能構造の解明にはそれほど貢献していないが,十分な可能性を秘めていることを言及した.次ぎに,このような研究を実施するためには,集合電位を多点計測する電極の必要性を述べた.さらに,聴性人工脳幹インプラントの開発では,基礎研究的なアプローチが必要であることを述べ,本研究手法がそれに有用である可能性を述べた.これらの議論から,本研究の目的として,

(1)誘発電位を皮質表面から多点計測できる実験系を構築すること,

(2)そのデータを考察して誘発電位の考え方を体系化すること,

(3)それに基づき,聴性誘発電位を用いて聴皮質の機能構造を明らかにすること,

(4)本実験系をABIの基礎研究に拡張し,本研究手法が次世代の先端医療デバイスの基礎研究として有用であることを示すこと,

 の4点を導出した.

 第2章では,これらの目的を達成するために必要な実験系の機能を分析・考察した.

 第3章では,聴性誘発電位の波形の性質を理解し,さらにそれから脳機能を考察するために,皮質近傍から高分解能な集合電位を計測できる微小多点表面電極を設計・試作・評価した.3.1節では,電極に要求される機能を分析し,電極の基本設計について述べ,3.2節でそれを実際に試作した.3.3節は,生理食塩水中で,電極の基本的な電気化学的特性を明らかにし,3.4節では,同電極を実際に動物実験に用いて,その有用性を議論した.

 第4章では,聴性誘発電位の特徴的なピーク・波形の発生メカニズムを考察し,誘発電位の考え方を体系化した.4.1節では,この目的を達成するために,本研究で試みる手法を述べた.4.2節では,ニューロンの計算モデルを作り,それらが集団で活動したときに,どのような集合電位を発生するかを考察した.4.3節では,微小多点表面電極で計測した聴性誘発電位に独立成分解析を適用し,同解析で得られた独立成分を,4.1節の結果とこれまでの報告に基づいて考察して,その結果から聴性誘発電位に現れる特徴的なピークの発生メカニズムを提案した.

 第5章では,誘発電位の多点計測から聴皮質の機能構造を考察する.5.1節では,卜一ンバースト音刺激で誘発される反応を皮質上で多点計測し,その音刺激のパラメータが,どのように聴皮質で情報表現されているかを,中潜時反応・長潜時反応・オフセット反応に分けて考察した.5.2節では,蝸牛神経核を電気刺激したときに誘発される皮質の反応を多点計測し,電気刺激が音高の知覚を誘発できる可能性が高いことを示した.これらの結果は,本実験系が聴覚伝導路を考察するために有用であること,さらに,聴性人工脳幹インプラントを開発するための基礎研究として有用であることを示している.

 第6章では,それまでの実験結果を踏まえ,本研究全体を考察する.6.1節では,微小多点表面電極の有用性をそれまでの実験での試用体験から考察した.また,誘発電位を計測するための設計指針を示し,今後必要となる微小電極を展望した.6.2節では,動物実験の結果から得た知見をまとめ,誘発電位の性質とその計測の一長一短を議論した.6.3節では,現在用いられている誘発電位の解析方法の欠点を指摘し,有効な解析方法を展望した.6.4節では,本研究で得られた知見を,生理学・臨床医学・工学に分けて総括し,それぞれの分野で今後の研究を展望した.

 第7章では,本研究で得られた知見を結論としてまとめた.

 本論文は,工学的な知識と技術を積極的に異分野に導入することの重要性を示し,工学と医学とが融合されたときに,重要な知見が得られることを体現している.実際に,本論文は,工学的な知識や技術の異分野へ応用して,それらの有用性を示したばかりでなく,様々な生理実験を実施し,それから生理学・臨床医学での具体的な知見を多く得ている点に特長がある.

 よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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