学位論文要旨



No 117969
著者(漢字) 小谷,潔
著者(英字)
著者(カナ) コタニ,キヨシ
標題(和) 心拍変動の解析手法及びメカニズムに関する研究
標題(洋)
報告番号 117969
報告番号 甲17969
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5427号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高増,潔
 東京大学 教授 鈴木,宏正
 東京大学 教授 佐久間,一郎
 東京大学 教授 山本,義春
 東京大学 助教授 太田,順
内容要旨 要旨を表示する

 ヒトの心拍動の間隔は自律神経の制御を受けて変動し,その変動は心拍変動と呼ばれている.心拍変動は呼吸性の変動成分(RSA)と血圧の変動を介した変動成分(MWSA)の2つの周期成分と,それらより低周波のフラクタル性を持つ非周期成分から構成されている.

 心拍変動の周期成分は自律神経の活動指標とされている.一般的な手法では心電計のデータからR波とR波の間隔(RRI)を算出し,RRIを周波数解析して得られたRSAのパワー(0.15-0.5Hzのパワー)が副交感神経の活動指標となる.心拍変動による自律神経活動の評価は,簡便さ,無侵襲性に加えて,RSAが副交感神経活動の特異的な指標であることから,幅広く用いられている.その用途として,臨床医学研究における糖尿病などの病気の同定,人間工学における快適性や作業負荷の計測などが挙げられる.しかし,厳密にはRSAを副交感神経の活動指標とする上では,肺の進展受容体が圧反射の迷走神経運動核への入力を遮断するというゲート性が示されなければならないが,ゲート性はヒトにおいてはまだ示されていない.また人間工学的な用途に際しては,より短時間で高精度なRSAの抽出法が求められている.

 また,心拍変動の非周期成分の大きさは心筋梗塞患者の予後の評価などに用いられているが,その変動のメカニズムは複雑で不明な部分が多く,解明が待たれている.最近のサイエンスの動向として,複雑な心拍変動のメカニズムを解明するために非線形解析を用いた研究が注目を集めており,Schaferによって心拍・呼吸間の位相同期現象が示され(Nature392:239,1998),Ivanovによって心拍動のマルチフラクタル性が示されている(Nature399:461,1999).ところが,位相同期,マルチフラクタル性ともにどういう条件下で起こるのか,どういうメカニズムで起こるのか等は不明である.

 これらの現状を踏まえ,本論文では,RSAの抽出法の提案・解析と,位相同期とマルチフラクタル性のメカニズムの解明を胃内とする.

 はじめにRSAについて,時間領域と呼吸位相領域で波形を抽出する手法を提案した.時間領域の手法では呼吸パターンを統制した実験を行い,得られたRRIを補間・リサンプリングし,統制周期で加算平均することで安定したRSA波形を抽出する.この手法によってRSAの波形と振幅の情報が得られるが,(1)RSA波形を統制呼吸のパターンと比較することでRSAのメカニズムを考察できる,(2)振幅においても従来の周波数解析よりも精度が高い,という波形と振幅の両面での有効性を理論的に示した.そして,この時間領域の手法を拡張し,呼吸位相領域でのRSA波形の抽出法を提案した.呼吸位相領域の手法は,呼吸データについて解析信号による瞬時位相を算出し,呼吸位相に関して等間隔にリサンプリングし,位相2πごとに加算平均を行う.これによって自由呼吸下のデータであってもRSA波形を抽出することができる.このような波形解析は今までにないものであり,実験の結果からRSAのメカニズムについて,RSAが副交感神経の活動指標とする上での有力なメカニズムであるゲート性が成り立たないことを示した.また,生理学的な成果として,Eckbergの実験結果(J.Appl.Physiol.54(4):961,1983)に新たな解釈を行うことができた.

 次に,呼吸位相領域の解析を応用し,長時間(40分間)の自由呼吸下のデータから一呼吸ごとのRSAの振幅を抽出した.そして従来法に比べ,(1)外乱の入ったデータの除去や誤差評価が容易である,(2)RSAの呼吸による影響を適切に評価できる,ということを示し,副交感神経活動の評価に有効である事を示した.

 呼吸位相領域のRSAの抽出法は,自由呼吸下で決定論的に心拍変動への影響を考察することができる.そのため,副交感神経活動の評価は勿論の事,今後他センサの情報を用いる事で,他の変動要因の心拍変動に与える影響を調べる事ができ,心拍変動のメカニズムを解明する有力な手法となり得る.

 次に,心拍・呼吸間の位相同期の解析として,自由呼吸下と呼吸パターンの統制下での実験データを解析した.その結果,自由呼吸下では安定した位相同期は得られず,一方で呼吸パターンを統制した実験結果から,拍動プロットは呼吸周期の影響を受け,ヒストグラムは呼吸パターンの影響を受けることがわかった.

 自由呼吸下で安定した位相同期が得られなかった事からも,実験のみのアプローチでは,データ長さ,非定常性,個体差,実験条件の制約などによる問題があるといえる.そこで本論文では非線形現象の解明のため,生理学的な構造を持っ非線形心臓血管系モデルを構築し,モデルによる再現を試みた.モデルはSeidelの時間遅れのある連立非線形常微分方程式によるモデル(Physica D 115:145,1998)を基に構築した.呼吸の変動に生理学的な妥当性を与えるために,このモデルに,Katonaのイヌによる実験結果(J Appl Physiol.59:1258,1985)を考慮して,呼気時に圧反射が大きければ呼吸位相の進みを遅らせる作用を加えた.シミュレーションの結果,この血圧から呼吸への作用なしではシンクロは起こらず,血圧から呼吸への作用を大きくするとシンクロが起こり,シンクロの領域が広がる事がわかった.また,圧受容器にノイズを加えたシミュレーションの結果,得られたシンクロ比とその領域の広さはSchaferの実験によって得られたシンクロ比とその長さと一致しており,このモデルの妥当性を示している.さらに,パラメータを変化させて周期成分であるRSAとMWSAの大きさがシンクロの領域に与える影響を調べた.その結果,RSAの大きさはシンクロの起こりやすさに影響を与えないが,MWSAが大きいとシンクロが起こりにくくなることが示された.このモデルは生理学な妥当性を有しており,またヒトの実験で得られたシンクロの比率を再現しているため,メカニズムの解明の有力な手がかりとなる.

 心拍動のマルチフラクタル性を再現するに当たって,先に用いた非線形心臓血管系モデルを改良し,中枢にモノフラクタルノイズを2つ入力して再現する事を試みた.ノイズの入力位置はSpyerの論文(Trends in Neurosci. 12:506,1989)で高次中枢からの影響が見られる部分を選択した.その結果,圧反射に和で,副交感神経活動に積でそれぞれモノフラクタルノイズを入力した場合に,2つのノイズのインタラクションによって,得られたRRIがマルチフラクタル性を有し,入力ノイズとの間に統計的な有意差(P<0.01)を示す事ができた.さらに,再現したマルチフラクタル性の起源を探るシミュレーションを行った結果,圧反射に入れたノイズがマルチフラクタル性に大きく関与していることがわかった.また,副交感神経活動を先進させた条件でシミュレーションを行うと,副交感神経を亢進させるに従ってマルチフラクタル性が大きくなった.このようなシミュレーションの結果は,メカニズムの考察や次の実験の方向付けに役立てられる.

 本論文の成果は,心拍変動について,(1)生理学・人間工学にとって有用な解析手法の提案を行い,(2)最近の注目されている非線形現象を生理学的なモデルによって再現し,新たな知見を加えたものである.そのため,心拍変動の解析とメカニズムの解明についての有意な一歩を記せたといえる.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,「心拍変動の解析手法及びメカニズムに関する研究」と題し,ヒトの心拍変動の新しい解析手法を提案し,また,心拍変動の生理的なモデルによりそのメカニズムの解析を行っている.

 ヒトの心拍動の間隔は自律神経の制御を受けて変動し,その変動は心拍変動と呼ばれている.心拍変動は呼吸性の変動成分(RSA)と血圧の変動を介した変動成分(MWSA)の2つの周期成分と,それらより低周波のフラクタル性を持つ非周期成分から構成されてしいる.

 心拍変動の周期成分は自律神経の活動指標とされている.一般的な手法では心電計のデータからR波とR波の間隔(RRI)を算出し,RRIを周波数解析して得られたRSAのパワー(0.15-0.5Hzのパワー)が副交感神経の活動指標となる.心拍変動による自律神経活動の評価は,簡便さ,無侵襲性に加えて,RSAが副交感神経活動の特異的な指標であることから,幅広く用いられている.その用途として,臨床医学研究における糖尿病などの病気の同定,人間工学における快適性や作業負荷の計測などが挙げられる.しかし,厳密にはRSAを副交感神経の活動指標とする上では,肺の進展受容体が圧反射の迷走神経運動核への入力を遮断するというゲート性が示されなければならないが,ゲート性はヒトにおいてはまだ示されていない.また人間工学的な用途に際しては,より短時間で高精度なRSAの抽出法が求められている.

 また,心拍変動の非周期成分の大きさは心筋梗塞患者の予後の評価などに用いられているが,その変動のメカニズムは複雑で不明な部分が多く,解明が待たれている.最近のサイエンスの動向として,複雑な心拍変動のメカニズムを解明するために非線形解析を用いた研究が注目を集めており,Schaferによって心拍・呼吸間の位相同期現象が示され(Nature392:239,1998),Ivanovによって心拍動のマルチフラクタル性が示されている(Nature399:461,1999).ところが,位相同期,マルチフラクタル性ともにどういう条件下で起こるのか,どういうメカニズムで起こるのか等は不明である.

 これらの現状を踏まえ,本論文では,RSAの抽出法の提案・解析と,位相同期とマルチフラクタル性のメカニズムの解明を目的とする.

 はじめにRSAについて,時間領域と呼吸位相領域で波形を抽出する手法を提案した.時間領域の手法では呼吸パターンを統制した実験を行い,得られたRRIを補間・リサンプリングし,統制周期で加算平均することで安定したRSA波形を抽出する.この手法によってRSAの波形と振幅の情報が得られるが,(1)RSA波形を統制呼吸のパターンと比較することでRSAのメカニズムを考察できる,(2)振幅においても従来の周波数解析よりも精度が高い,という波形と振幅の両面での有効性を理論的に示した.そして,この時間領域の手法を拡張し,呼吸位相領域でのRSA波形の抽出法を提案した.呼吸位相領域の手法は,呼吸データについて解析信号による瞬時位相を算出し,呼吸位相に関して等間隔にリサンプリングし,位相2πごとに加算平均を行う.これによって自由呼吸下のデータであってもRSA波形を抽出することができる.このような波形解析は今までにないものであり,実験の結果からRSAのメカニズムについて,RSAが副交感神経の活動指標とする上での有力なメカニズムであるゲート性が成り立たないことを示した.また,生理学的な成果として,Eckbergの実験結果(J.Appl.Physiol.54(4):961,1983)に新たな解釈を行うことができた.

 次に,呼吸位相領域の解析を応用し,長時間(40分間)の自由呼吸下のデータから一呼吸ごとのRSAの振幅を抽出した.そして従来法に比べ,(1)外乱の入ったデータの除去や誤差評価が容易である,(2)RSAの呼吸による影響を適切に評価できる,ということを示し,副交感神経活動の評価に有効である事を示した.

 呼吸位相領域のRSAの抽出法は,自由呼吸下で決定論的に心拍変動への影響を考察することができる.そのため,副交感神経活動の評価は勿論の事,今後他センサの情報を用いる事で,他の変動要因の心拍変動に与える影響を調べる事ができ,心拍変動のメカニズムを解明する有力な手法となり得る.

 次に,心拍・呼吸間の位相同期の解析として,自由呼吸下と呼吸パターンの統制下での実験データを解析した.その結果,自由呼吸下では安定した位相同期は得られず,一方で呼吸パターンを統制した実験結果から,拍動プロットは呼吸周期の影響を受け,ヒストグラムは呼吸パターンの影響を受けることがわかった.

 自由呼吸下で安定した位相同期が得られなかった事からも,実験のみのアプローチでは,データ長さ,非定常性,個体差,実験条件の制約などによる問題があるといえる.そこで本論文では非線形現象の解明のため,生理学的な構造を持つ非線形心臓血管系モデルを構築し,モデルによる再現を試みた.モデルはSeidelの時間遅れのある連立非線形常微分方程式によるモデル(Physica D 115:145,1998)を基に構築した.呼吸の変動に生理学的な妥当性を与えるために,このモデルに,Katonaのイヌによる実験結果(J ApplPhysiol.59:1258,1985)を考慮して,呼気時に圧反射が大きければ呼吸位相の進みを遅らせる作用を加えた.シミュレーションの結果,この血圧から呼吸への作用なしではシンクロは起こらず,血圧から呼吸への作用を大きくするとシンクロが起こり,シンクロの領域が広がる事がわかった.また,圧受容器にノイズを加えたシミュレーションの結果,得られたシンクロ比とその領域の広さはSchaferの実験によって得られたシクロ比とその長さと一致しており,このモデルの妥当性を示している.さらに,パラメータを変化させて周期成分であるRSAとMWSAの大きさがシンクロの領域に与える影響を調べた.その結果,RSAの大きさはシンクロの起こりやすさに影響を与えないが,MWSAが大きいとシンクロが起こりにくくなることが示された.このモデルは生理学な妥当性を有しており,またヒトの実験で得られたシンクロの比率を再現しているため,メカニズムの解明の有力な手がかりとなる.

 心拍動のマルチフラクタル性を再現するに当たって,先に用いた非線形心臓血管系モデルを改良し,中枢にモノフラクタルノイズを2つ入力して再現する事を試みた.ノイズの入力位置はSpyerの論文(Trends in Neurosci.12:506,1989)で高次中枢からの影響が見られる部分を選択した.その結果,圧反射に和で,副交感神経活動に積でそれぞれモノフラクタルノイズを入力した場合に,2つのノイズのインタラクションによって,得られたRRIがマルチフラクタル性を有し,入力ノイズとの間に統計的な有意差(P<0.01)を示す事ができた.さらに,再現したマルチフラクタル性の起源を探るシミュレーションを行った結果,圧反射に入れたノイズがマルチフラクタル性に大きく関与していることがわかった.また,副交感神経活動を亢進させた条件でシミュレーションを行うと,副交感神経を亢進させるに従ってマルチフラクタル性が大きくなった.このようなシミュレーションの結果は,メカニズムの考察や次の実験の方向付けに役立てられる.

 以上のように,本論文は,心拍変動について,生理学・人間工学にとって有用な解析手法の提案を行い,最近注目されている非線形現象を生理学的なモデルによって再現し,新たな知見を加えたものであり,心拍変動の解析とメカニズムの解明について,工学的に大きく寄与すると考えられる.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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