学位論文要旨



No 117974
著者(漢字) 小林,寛
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ヒロシ
標題(和) ローイングVPP(艇速推定プログラム)に関する研究
標題(洋)
報告番号 117974
報告番号 甲17974
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5432号
研究科 工学系研究科
専攻 環境海洋工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木下,健
 東京大学 教授 宮田,秀明
 東京大学 教授 山口,一
 東京大学 教授 影本,浩
 東京大学 助教授 林,昌奎
内容要旨 要旨を表示する

 身体を動かすということは、人間にとって根源的な欲求の一つである。スポーツはそれに応え、身体を動かすことの楽しさや喜びを通じて肉体的・精神的な充足をもたらすものであり、人間が生涯をおくるにあたり重要な位置を占めている。特に、競技スポーツは人間の可能性の極限を追及する行いであり、選手が極限へ挑戦する姿は見る者に大きな感動や活力を与える。そのスポーツに関する研究として、スボーツ工学が注目されている。スボーツ工学は、スポーツにおいて工学的見地からハードウェアの性能・安全性・快適性の向上を目的とした研究分野である。国際競技力を向上させる用具の開発などを通じて、スポーツ工学が社会に貢献することが期待されている。

 昨今、様々な競技において、スポーツ工学により用具などの改良が行われてきた。中には、用具の進歩が競技そのものに大きな変革をもたらす場合も少なくない。一方で、用具の性能評価については、競技者のプレー内容は用具によって変わり、逆に競技者のプレー内容によって用具の性能は変化するといった難しさが存在する。人間と用具との相互作用によってパフォーマンスが決定される複雑系となっている場合がほとんどである。

 スポーツ競技のひとつである漕艇は、19世紀初頭にエイトによるレースが行われるなどの歴史がある。その後ほど無く、リガーがアウトリガーになり船幅が大幅に狭まった結果抵抗削減に大きく寄与し、漕手が座るシートが漕手の動きに合わせてスライドするスライディングシートにより長いブレードの引きの長さが得られるようになるなど、改良が行われてきた。20世紀に入ってからも、船体のFRP化などによる軽量化、オールのシャフトのCFRPによる軽量化と剛性の向上や、オールのブレードの形状変化など、改良が続けられてきている。

 しかし、改良の手法・評価は主に漕手の感覚にもとづいた経験的手法によるものがほとんどで、工学的見地による定量的な研究が行われた例は数少ない。最近になって実艇を使用した実験がいくつか行われ始め、漕艇運動をモデル化してシミュレ∵ションを行おうとする試みも行われてきている。

 漕艇運動において、漕手の行った仕事の全てが船体への推進力となるわけではなく、途中で失われるエネルギーを差し引いたエネルギーとなる。漕手の消費した仕事がどれだけ有効に船体の推進に役立っているかという効率は、生理学的な効率と機械的効率に分けることができる。生理学的効率は、糖質や脂質などを燃やしてどれだけの機械的仕事を得られるかということである。機械的効率は、漕手がその生理学的効率を経て発揮した機械的仕事が、推進装置であるオールを介してどれだけ有効に船体推進にはたらいているかをあらわす。

 生理学的効率は身体運動学の分野であり、ATP再合成プロセスにおける有酸素運動・無酸素運動の問題や、トレーニング科学などを始めとして近年盛んな研究が行われているのでそちらに譲ることにし、本研究ではオールの推進器としての機械的効率について着目する。

 推進装置としてのオールの研究において、今までに行われてきた数値計算のほとんどは、漕手の重心加速度とオールの回転運動を入力値として運動方程式を解いている。しかし、実際の漕艇ではオールの回転運動を制御するようには漕いでおらず、意識して制御可能なのはオールのハンドルを引く力と体の動かし方である。

 本研究では、漕艇運動について、漕手が筋肉を使って出力する力すなわちオールのハンドルを引く力と、スライディングシートと漕手の上体の移動等による漕手の重心位置の変化を入力値とする時系列シミュレーションを確立することと、そのシミュレーションをVPPとして用いることにより、様々にパラメータを変更した際の漕艇運動の推定を目的とする。これは漕手の「筋力」、および体の動かし方である「漕法」の2つ、いわば漕手のパフォーマンスによって艇がどのような運動を行うかを求めるものである。

 艇速の変化、および各部に加わる荷重などの物理量のシミュレーションが実現すれば、それに基づき機械的推進効率を求めることができる。機械的効率は、漕手の行った仕事がどれだけ艇の推進に寄与したかを示すものであり、漕艇の運動を評価する際に重要な指標となる。このとき、上記のような入力値やオールの長さやブレードの面積などの様々なパラメータを変更することで、船体速度や機械的効率の変化などを推定することが可能になり、より適した用具の選定や漕法の実現に資することになるものである。

 漕艇の運動のシミュレーションを行う際に問題となるのは、オールのブレードに加わる流体力の推定と、漕手の体の動きをモデル化することである。

 漕艇の運動のシミュレーションを行うためには、漕いでいる間にオールのブレードに加わる流体力を推定する必要がある。実艇実験の考察より、オールのブレードはストローク過程中に翼としてはたらき、ブレードに流入する対水流速による流体力としてブレードに荷重が加わっているが、実験結果から推算したところ、通常の定常状態での流体力理論を用いて推定された流体力よりも大きい荷重が加わっていることが明らかになった。このことから、ブレードにはたらく流体力については水中での運動による過渡的な影響が大きいことが分かり、定常状態を仮定してブレードに加わる流体力を推定することは不適切で、過渡影響を考慮した流体力の推定法を得る必要性があることが分かった。

 そこで、回流水槽を用いてオールのブレードを模した平板の試験を行い、流れの中で回転する平板に加わる流体力を測定したところ、流速や迎角が過渡的に変化する場合に翼にはたらく流体力は定常な場合と全く異なり、大変大きな値を示すことが明らかになった。平板には板に直角方向の力が主にはたらき、その力の流体力係数Cnは、流速・迎角・迎角が変化する速度の関数となり、その値はreauced frequency(換算周波数)によって良く整理されることが分かった。

 漕艇では、漕手の質量が船体の質量の数倍にもなるため、漕手の重心移動は船体の運動に大きな影響を及ぼす。漕手の重心移動は漕手の体の動かし方(漕法)に依存している。漕手の体の動かし方を、重心移動に反映させるためには、漕法の違いによる重心移動の変化を表現できるような、漕手の体の動きをモデル化することが必要である。

 本研究では漕手の体の動きを

・シートの移動(=脚の動き)

・上体を屈める角度

・腕の動き

 の3つの部分に分解し、人間の身体の幾何学的な条件のもとで、実艇実験に対して漕手の重心移動をほぼ同定することができた。このことにより、漕法の違いを漕手の重心移動に反映することが可能となった。

 漕艇の運動を、船体・漕手・オールの3つに分けてモデル化し、全体の系のエネルギー方程式を解いて漕艇運動を推定するシミュレーション法を開発した。シミュレーション中、オールのブレードに加わる流体力の推定には上述の水槽試験の結果を用いた。『漕手のオールハンドルを引く力』および『漕手の重心移動』を入力することで、すなわち発揮する力と漕手の運動を入力することで、船体速度やオールの振り角の推定をすることが可能となり、漕艇運動の機械効率も求められる。

 実艇実験によるデータを入力した結果、実艇実験の結果とシミュレーション結果が良く一致し、本シミュレーションにより漕艇の運動を精度良く推定可能であることが確かめられ、本シミュレーションはVPP(Velocity Prediction Program:船速推定プログラム)として、漕艇運動の推定に有用であることが示された。

 漕艇の運動に関する種々のパラメータを変更することにより、船体速度や漕艇の機械効率にどのような変化が生じるか上述のVPPを用いて計算を行い、船体速度や機械効率の向上にはどのような方法が有効かを調べた。

 オールの振り角のレンジ(振り幅)を大きくすることやオールのアウトボードの長さを長くすることは、1サイクル内でストローク過程に費やされる時間が相対的により長くなるため、船体速度や機械効率を改善する傾向にある。

 オールブレードの面積を大きくすることと、流体力係数を一定値倍することは今回のVPPでは同義である。流体力係数に関して特にローイングレートが高い場合においては、ストローク課程のうち前半の流体力係数を向上させた方が、後半を向上させるよりも、係数全体を向上させた場合の機械効率の改善幅に近く、より機械効率の向上に寄与していることが分かった。ブレードの形状変更により機械効率の向上を目指す場合は、ストローク過程前半の流体力係数の向上を図るべきである。

 また、ストローク過程・フォワード過程いずれにおいても、漕手の重心移動を変更することは、船体速度や機械効率に与える影響が大きい。ただし、重心移動の変更を行うことが必ずしも船体速度や機械効率の向上にはつながらず、確実に改善の方向に寄与するような明確な変更指針は今のところ得られていない。

 本研究により、漕手が発揮する力と漕手の体の動きを入力とするVPP(艇速推定プログラム)が開発された。本VPPでは、オールのブレードにはたらく過渡的な力を考慮に入れ、エネルギー方程式を解くことで船体とオールの運動を求めることができる。入力値や、オールの運動に関係するパラメータを変更することで、漕法やオールの変更が船体速度や機械効率に及ぼす影響を推定することが可能となり、それらを改善するための指針を得ることができた。

審査要旨 要旨を表示する

 昨今、スポーツに関する工学として、スボーツ工学が注目されている。スポーツ工学は、スポーツにおいて工学的見地からハードウェアの性能・安全性・快適性の向上を目的とした研究分野である。国際競技力を向上させる用具の開発などを通じて、スポーツ工学が社会に貢献することが期待されている。

 スポーツ競技のひとつである漕艇は、19世紀初頭にエイトによるレースが始まって以降、様々な用具の改良が行われてきたが、改良の手法・評価は主に漕手の感覚にもとづいた経験的手法によるものがほとんどで、工学的見地による定量的な研究が行われた例は数少ない。最近になって実艇を使用した実験がいくつか行われ始め、漕艇運動をモデル化してシミュレーションを行おうとする試みも行われてきている。

 漕艇運動において、漕手の消費した仕事がどれだけ有効に船体の推進に役立っているかという効率は、生理学的な効率と機械的効率に分けることができる。生理学的効率は、糖質や脂質などを燃やしてどれだけの機械的仕事を得られるかということである。機械的効率は、漕手がその生理学的効率を経て発揮した機械的仕事が、推進装置であるオールを介してどれだけ有効に船体推進にはたらいているかをあらわす。本論文ではオールの推進器としての機械的効率について着目している。

 本論文では、漕艇運動について、漕手が筋肉を使って出力する力すなわちオールのハンドルを引く力と、スライディングシートと漕手の上体の移動等による漕手の重心位置の変化を入力値とする時系列シミュレーションを確立することと、そのシミュレーションをVPPとして用いることにより、様々にパラメータを変更した際の漕艇運動の推定を目的とする。これは漕手の「筋力」、および体の動かし方である「漕法」の2つ、いわば漕手のパフォーマンスによって艇がどのような運動を行うかを求めるものである。

 漕艇の運動のシミュレーションを行う際に問題となるのは、オールのブレードに加わる流体力の推定と、漕手の体の動きをモデル化することである。

 漕艇の運動のシミュレーションを行うためには、オールのブレードに加わる流体力を推定する必要がある。実艇実験の考察より、オールのブレードはストローク過程中に翼としてはたらき、ブレードにはたらく流体力については水中での運動による過渡的な影響が大きいことが分かり、定常状態を仮定して推定することは不適切で、過渡影響を考慮した流体力の推定法を得る必要性があることが分かった。

 そこで、回流水槽を用いた水槽試験を行ったところ、流速や迎角が過渡的に変化する場合に翼にはたらく流体力は定常な場合と全く異なり、大変大きな値を示すことが分かった。平板にはたらく力の流体力係数は、流速・迎角・迎角が変化する速度の関数となり、その値はreduced frequency(換算周波数)によって良く整理されることが明らかになった。

 漕艇では、漕手の質量が船体の質量の数倍にもなるため、漕手の重心移動は船体の運動に大きな影響を及ぼす。漕手の重心移動は漕手の体の動かし方(漕法)に依存している。漕手の体の動かし方を、重心移動に反映させるためには、漕法の違いによる重心移動の変化を表現できるような、漕手の体の動きをモデル化することが必要である。本論文では漕手の体の動きを、幾何学的条件を加味する形でモデル化することで、実艇実験に対して漕手の重心移動をほぼ同定することができた。このことにより、漕法の違いを漕手の重心移動に反映することが可能となった。

 漕艇の運動をモデル化し、全体の系のエネルギー方程式を解いて漕艇運動を推定するシミュレーション法が本論文により開発された。シミュレーション結果は実艇実験の結果と良く一致し、本シミュレーションにより漕艇の運動を精度良く推定可能であることが確かめられ、本シミュレーションはVPP(Velocity Prediction Program:艇速推定プログラム)として、漕艇運動の推定に有用であることが示された。

 漕艇の運動に関する種々のパラメータを変更することにより、船体速度や漕艇の機械効率にどのような変化が生じるか上述のVPPを用いて計算を行い、船体速度や機械効率の向上にはどのような方法が有効であるかが明らかになった。

 オールの振り角のレンジ(振り幅)を大きくすることやオールのアウトボードの長さを長くすることは、船体速度や機械効率を改善する傾向にあること、ブレードの流体力係数についてはストローク課程の前半で流体力係数が向上することが船体速度向上により効果的であることが分かった。

 また、ストローク過程・フォワード過程いずれにおいても、漕手の重心移動を変更することは、船体速度や機械効率に与える影響が大きい。ただし重心移動の変更を行うことが必ずしも船体速度や機械効率の向上にはつながらず、確実に改善の方向に寄与するような明確な変更指針は今のところ得られていない。

 本論文により、漕手が発揮する力と漕手の体の動きを入力とするVPP(船速推定プログラム)が開発された。本VPPでは、オールのブレードにはたらく過渡的な力を考慮に入れ、エネルギー方程式を解くことで船体とオールの運動を求めることができる。入力値や、オールの運動に関係するパラメータを変更することで、漕法やオールの変更が船体速度や機械効率に及ぼす影響を推定することが可能となり、それらを改善するための指針を得ることができた。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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