学位論文要旨



No 118010
著者(漢字) 鍜島,麻理子
著者(英字)
著者(カナ) カジマ,マリコ
標題(和) レーザー干渉計による揺動散逸定理を応用したゴム粘弾性の精密測定
標題(洋)
報告番号 118010
報告番号 甲18010
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5468号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 三尾,典克
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 坪野,公夫
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 ゴムなどの高分子は、加えた力に対して瞬時に応答が現れる弾性的性質と、加えた力に対し、時間的な遅れを伴った応答を示す擬弾性の性質、そして、不可逆的な応答を伴う粘性の性質とを併せ持つ粘弾性を示す。粘弾性をあらわす量として、複素コンプライアンスなどが用いられる。

 試料に周期的応力〓を加えたとき、その応答である変位をγ(t)とすると、複素コンプライアンスJ*(iω)は(1)とあらわされる。複素コンプライアンスを〓のように実部と虚部に分けたとき、実部J'(ω)を動的貯蔵コンプライアンス、虚部J"(ω)を動的損失コンプライアンスとよぶ。これらの量から、試料の力学特性についての知識が得られるだけでなく、分子論的な特性についての知見も得られるため、粘弾性特性の測定は重要である。

 現在市販されている粘弾性測定装置の多くは、最小変位振幅が数十nmオーダーであるが、今回、レーザー干渉計をセンサとして用いた装置を作り、nmオーダーの変位振幅での粘弾性測定を行った。また、試料の熱揺らぎを直接測定し、熱揺らぎという力学の基本量と比較することにより、この測定系の線形、定常性を確かめ、また、測定に必要なパラメータの校正が正しいかを議論できた。このような微小振幅で測定を行うことにより、静置した、平衡状態のごく近傍での、試料の粘弾性特性を知ることができる。また、完全に線形な測定が行え、試料の破壊などの心配もないという利点がある。

2.試料と装置

 試料として、ネオプレンゴム、フッ素ゴム、シリコンゴムの直径30mm、厚さ1mmまたは2mmの円板を用いた。この板の表面に、マグネット、さらにその上にミラーをエポキシ系接着剤で貼り付けた(図(1(a)))。この試料を、アクリル樹脂製のホルダにはさんで固定した(図(1(b)))。ホルダにはコイルが巻いてあり、このコイルと試料表面のマグネットとで、試料に力を加える。

 試料の、力に対する変位を測定するため、マイケルソン型レーザー干渉計を用いた(図(1(c)))。マイケルソン型干渉計では、片方の腕に試料、もう片方の腕に固定した参照鏡をとりつけることにより、試料の変位を測定することができる。

 今回組み立てた干渉計では、腕の長さの差に比例した信号電圧が得られるが、これをサーボ回路を介して参照鏡に取り付けたピエゾアクチュエータにフィードバックすることにより、干渉計がもっとも感度のよい点で安定に動作するように制御した。

 この試料に、ある周波数の力を加え、それによる変位を測定する、ということを、周波数を掃引して繰り返すことにより、広い周波数帯域でのコンプライアンスを測定することができる。

3.微小変位振幅での粘弾性測定

 試料の複素コンプライアンスJ*(ω)(m/N)は、干渉計への入力電圧塔Vin(V)と出力電圧VOUT(V)から、干渉計の感度HI(V/m)、V-Iコンバータの変換係数R(Ω)、コイルの力発生効率Hcoil(N/A)を用いて、(2)と表される。これらのパラメータは全て実測できるので、これらを用いて、直接、コンプライアンスを得ることができる。

 信号の取得は、まず、市販のFFTアナライザを用いて行った。後に、さらに低周波数での測定を定常状態で行うため、実験系をより細かく制御する必要が出てきたので、ロックインアンプを用いて信号を取得した。

 図(2)に、フッ素ゴムについてのコンプライアンス測定の結果を示す。

 ここで加えた力による変位振幅は、熱振動の大きさの十倍から百倍程度であり、このような非常に微小な振幅で粘弾性測定を行った例はほとんどない。

 損失コンプライアンスは周波数によらずほぼ一定値をとり、ゴム状平坦領域が見えていると考えられる。マクスウェルモデルを1/τ(τ:緩和時間)の重みをつけて重ね合わせた一般的なモデルを、測定されたコンプライアンスにフィッティングした結果を図(2)に実線で示した。よくフィットできており、今回の測定周波数より広い範囲の時定数を持つ多くの緩和が存在することがわかる。

4.変位換算熱揺らぎの測定

 前述の粘弾性測定と同じマイケルソン干渉計を用いて、試料の変位換算熱揺らぎのパワースペクトルの直接測定を行った。熱揺らぎのパワースペクトル測定の際には、試料ホルダのコイルに電流を流さず、試料に力を加えない状態で静置して、試料の熱揺らぎによる自由振動を測定した。測定には市販のFFTアナライザを用いた。

 線形、定常な系では、コンプライアンスの虚部は、熱揺らぎのパワースペクトルと、揺動散逸定理によって結び付けられる。熱揺らぎのパワースペクトルをSx(ω)、力学損失を表すコンプライアンスの虚部をJ"(ω)とすると、揺動散逸定理は(3)とあらわされる。直接測定した熱揺らぎのパワースペクトルと、測定した損失コンプライアンスから(3)式を用いて計算されたパワースペクトルとを比較することができる。

 三種類の試料についての熱揺らぎの直接測定の結果と、コンプライアンスから(3)式を用いて計算されたパワースペクトルとを、図(3)に示した。

 それぞれ100Hzから2kHzの間で、熱揺らぎのパワースペクトルが測定できている。ノイズスペクトルは、100Hz以下では地面振動などのノイズが大きく、また、2kHz以上は干渉計のショットノイズリミットに達してしまい、これらの周波数領域では熱揺らぎのスペクトルは見えていない。それぞれのスペクトルで数百Hzに見られる大きなピークは、試料の形によって決まる力学共振のピークである。

 直接測定した熱揺らぎのパワースペクトルと、コンプライアンスから(3)式を用いて計算したパワースペクトルとは、調整パラメータを用いずに100Hzから2kHzの間でよく一致した。このことから、今回行われた微小振幅でのコンプライアンスの測定が、揺動散逸定理が成り立つ、熱平衡状態の非常に近傍で、線形、定常の条件を満たして行われた、ということが示される。

 また、共振周波数より低周波側で損失コンプライアンスが周波数によらずほぼ一定値をとることから、これらの熱揺らぎのスペクトルには、共通して、1/fの周波数特性が見られる。力学系の熱揺らぎの低周波数領域における1/f特性は、多くの力学損失の少ない物質で見られることは知られていたが、力学損失の大きい試料でも1/f特性が見られることを示した。損失のメカニズムや大きさがまったく異なる物質で同様の現象が観察されることは何らかの普遍性の発現を示唆し、興味深いと考える。

5.まとめ

 レーザー干渉計を用いて、微小振幅でのコンプライアンスの測定を行った。また、試料の熱揺らぎを直接測定し、測定されたコンプライアンスとを、揺動散逸定理を用いて比較することにより、今回示したコンプライアンス測定が、正しい校正の元、非常に平衡に近い状態で、線形性、定常性を満たして行われたことを示した。

 ゴムや高分子の分野では、その熱揺らぎについて議論されることはあまりない。しかし、ゴムにおいても、実験室レベルの短時間においては、十分熱揺らぎについて議論できる力学系として取り扱えることがわかった。今後、ゴムなどにおいても熱揺らぎについての議論をしていくことにより、さらに物性についての知見を深めていくことができる可能性を見出した。

 また、今まで力学損失の小さい物質で知られていた熱揺らぎの1/fの周波数特性が、ゴムという力学損失の大きな物質においても見られることを示した点も重要である。

図1:試料と実験装置(a)試料、(b)ホルダ、(c)実験ブロック図

図2:フッ素ゴムの(a)貯蔵コンプライアンス(b)損失コンプライアンス

図3:直接測定した熱揺らぎのパワースペクトル(実線)とコンプライアンスからの予想スペクトル(白丸)

(a)ネオプレンゴム(b)フッ素ゴム(c)シリコンゴム

審査要旨 要旨を表示する

 メカニカルプロ」ブを用いた微小信号計測の進歩に伴い、今まで非常に小さな雑音であるとしてあまり注目されてこなかった力学系の熱揺らぎが、雑音源として注目されるようになってきた。しかし、力学系の熱揺らぎは、電気系の熱揺らぎに比べて、それほど研究されていない。その主な原因は、力学系の熱揺らぎは、その信号が小さく、直接測定が難しいことにある。そこで、高感度なレーザー干渉計を利用し、弾性材料として広く利用されているゴムの粘弾性と呼ばれる力学物性の精密測定を行うとともに熱揺らぎを同時観測することにより、力学系の熱揺らぎに関しての知見を深める実験的研究を行った。本論文はその成果をまとめたものである。

 第1章では、本研究の背景と目的が述べられている。力学系の熱揺らぎを線形応答理論に基づく揺動散逸定理から考え、ゴムに代表される損失の大きな材料に関する研究の重要性が提言された。また、揺動散逸定理を基礎におくことで、力学特性の測定における測定条件等の正当性の確認が可能な点も指摘されている。

 第2章では、熱揺らぎの一般論が展開され、これまでの研究との関連が議論されている。熱揺らぎの大きさの周波数分布であるパワースペクトルは、揺動散逸定理によって、系の損失を表す線形周波数応答関数の虚部と関連づけられている。そして、どのような力学損失機構があるかによって、応答関数の虚部の周波数特性が変わってくる。従来は、損失の小さな材料に対する研究が行われており、構造摩擦と呼ばれる、原因のよくわからない内部摩擦の存在が議論されていた。しかし、本研究で試料としたゴムのような損失の大きな材料に関しては、どのような性質が見えるのかを議論するため、より一般的な定式化を行った。

 第3章では、力学損失の大きな試料として用いたゴムの典型的な特性である粘弾性について議論されている。ゴムなどの高分子は、弾性と粘性の性質とを併せ持った、粘弾性の1生質を示す。このような性質をあらわす量としては、様々な物理量が利用されているが、前章の熱揺らぎの議論に表れる周波数応答関数と同等な量として、複素コンプライアンスを取り上げ議論を展開し、様々な粘弾性モデルに関して熱揺らぎのスペクトルを求めている。

 第4章では、粘弾性測定の実験装置と測定結果が述べられている。測定装置は、レーザー干渉計とそれを収納する真空装置、制御装置および計測装置である。高分子物質におけるコンプライアンスの測定は、市販の機器を用いた測定が一般的である。しかし、今回は、熱揺らぎとの対応付けをするため、十分微小な変位振幅でのコンプライアンス測定を行う必要があった。そこで、レーザー干渉計を変位センサに用いた、非常に高感度なコンプライアンス測定装置を組み立て、微小変位振幅でのコンプライアンス測定を行った。試料としては、ネオプレンゴム、フッ素ゴム、シリコンゴムという3種類のゴムの薄板を円形に切り出し、その面外振動を測定した。その際、市販のフーリエ解析装置では、ゴムの過渡応答の影響でうまく測定ができないことがわかり、2台のロックインアンプをGPIBを利用したPC制御で動作させるシステムを構築し、特に、低い周波数での測定精度を飛躍的に高めることに成功した。得られた結果は、応答関数の実部である貯蔵コンプライアンスに関しては、周波数依存性が3つのゴムで異なるのに対して、虚部である損失コンプライアンスは、3つの試料で大きさの差はあるものの、共通にあまり大きな周波数依存性を持たないことが判明した。

 第5章では、同様の干渉計を用いて試料の熱振動を直接測定し、そのパワースペクトルを得た。実際には、外乱や装置雑音によって測定された周波数帯域は、100Hz付近から1kHzくらいであったが、10-13m程度の振動振幅の信号を十分な信号雑音比で測定した。バルクのゴムの熱振動を直接観測した例は、知りうる限り他にない。

 第6章では、コンプライアンスと揺動散逸定理を用いて計算した熱揺らぎの予測スペクトルと直接測定された熱揺らぎのスペクトルを比較し、両者がよく一致していることを示した。これは、揺動散逸定理の実験的な検証のひとつとなるという点と熱揺らぎという力学的な基準と比較することにより、コンプライアンスという力学特性の測定の正しさを保証することができるという両方の意味を持たせることが可能である。また、1/fの周波数依存性をもつ熱揺らぎが予測されるが、これは損失の小さな材料と同等な形をしており、損失の大きさとは関係ない普遍性をもつ現象であることも判明した。

 第7章では、全体をまとめている。

 本研究では、ゴムの粘弾性を熱揺らぎレベルの極微小振幅で測定する装置を開発し、揺動散逸定理という物理学における基本的な定理の実験的な検証を行うと同時に、力学系の熱揺らぎという力学的な基準に参照することにより、物質の力学特性の測定の正しさを保証できることを示した。また、これは、今までには雑音としてしか見られていなかった力学系の熱揺らぎを、精密計測における基準として積極的に用いる計測手法として、新しい提案を含むものである。

 よって、本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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