学位論文要旨



No 118014
著者(漢字) 飛田,聡
著者(英字)
著者(カナ) ヒダ,アキラ
標題(和) STMナノスペクトロスコピーの開発とその応用
標題(洋) Development of STM-Nanospectroscopy and Its Applications
報告番号 118014
報告番号 甲18014
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5472号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 市川,昌和
 東京大学 教授 田島,道夫
 東京大学 助教授 長谷川,幸雄
内容要旨 要旨を表示する

 物質が示す多彩な性質の起源を明らかにすることは、物質の機能設計を目指した研究における最も重要な課題の一つであり、そういった物性の大部分を直接決めている電子状態(特にバンド構造や欠陥等に付随する局在準位)を調べる研究は古くから行われている。中でもとりわけ最近は、ナノスケールの構造体や電子状態の不均一性が示す特異な現象に大きな関心が集まっており、どうやってナノ領域の電子状態を調べるかといったナノ計測技術に対する強い要請が生まれている。空間分解能だけを見れば、走査トンネル顕微鏡(STM)の関連技術として既に確立されている走査トンネル分光法(STS)は、試料表面電子の局所状態密度をまさに一原子・一分子レベルの分解能で測定することができる実験手法である。しかしながら、実際にSTSを用いてバンド構造や欠陥準位等を測定しようとしても、原理的な問題で多くの場合正しい結果が得られないことが分かっており、上記の要請に応え得る新しい技術の開発が急務になっている。

 このような背景を踏まえ、本研究では、バンド構造や局在電子準位をナノスケールの空間分解能で測ることを可能にする「STMナノスペクトロスコピー」とも呼ぶべき一群の実験手法の開発に挑んだ。本研究の目的は、STMナノスペクトロスコピーの原理を考案し、モデル実験を通して原理の実証を行い、さらにSTMナノスペクトロスコピーの威力を具体的な応用例をもって示すことにある。

第1部 STMナノスペクトロスコピーの開発

○バンド構造を測る方法

 結晶に電場が加わると、バンド構造の特異点における光吸収係数αにFranz-Keldysh効果と呼ばれる振動的変化が誘起される。電場変調分光(EFMS)法は、結晶に変調電場を印加してFranz-Keldysh効果に起因するαの変化を吸収/反射分光測定する実験技術であり、室温でも精度良くバンド深部の構造まで明らかにすることができる。我々は、電場変調分光法において本質的な役割を果たしている電場を局所的に探針で誘起できるというSTMの特徴に着目し、STMを用いた高分解能電場変調分光(STM-EFMS)法の考案と実験装置の開発を行った。直接遷移型半導体であるGaAsを試料として実証実験を行った結果、基礎吸収をはじめスピン-軌道相互作用により分裂した価電子帯吸収も、従来のEFMS測定の結果と比べて遜色ないレベルで検出できることが分かった。また、観測されるSTM-EFMS信号の強度はSTMバイアス電圧を小さくするにつれて弱くなり、想定通りSTM探針で誘起される局所電場によるEFMS測定が実現されていることが確かめられた。同様の測定は、Siの間接遷移ギャップや、GaAs/AlGaAs単一量子井戸中に形成されている個々の離散準位に対しても可能であり、STM-EFMS法を適用できる材料系とそのバンド構造に制約がないことが示された。さらに、STM探針を走査してSTM-EFMS信号強度の2次元分布を測る実験を行い、低温成長GaAs結晶中に存在するある種の点欠陥の周囲で局所的にバンドギャップが変動している様子を捉えることにも成功した。以上の結果から、STM-EFMS法を用いることにより、nmオーダーの空間分解能で精度良く局所的なバンド構造を測定できることが明らかになった。

○局在電子準位を測る方法

 STMトンネル電流が表面ポテンシャルや探針-試料間距離の変化に敏感であることを利用すると、キャリアの捕獲・放出に伴う個々の欠陥準位の荷電状態変化や構造変化さらには非発光再結合過程で発生する熱による局所的な試料膨張などを、直接検出できる可能性がある。GaAs(110)面を試料として検証実験を行なった結果、断続変調した光照射に伴って生じるトンネル電流の変動振幅をマッピングすることで、表面下に埋もれた個々の孤立欠陥が引き起こす表面変位をナノスケールの空間分解能で検出できることが明らかになった。また、表面下欠陥の直上にSTM探針を固定して、トンネル電流の変動振幅をフォトンエネルギーの関数としてスペクトル測定すると、サブバンドギャップエネルギー領域に明瞭なピークが現れることが分かった。このようなピークは完全結晶部分では一切観測されず、単一の欠陥準位に対して光吸収スペクトルを測定できていることも確かめられた。さらに、トンネル電流変動成分の波形解析から、この欠陥が光吸収に伴って熱を発生する"非発光再結合中心"であり、欠陥の周囲に生じる局所的な熱膨張が表面変位の原因になっているこ.とが分かった。以上の結果から、このような測定を行うと、欠陥に付随する局在準位の検出および分光測定が孤立したものに対しても可能であると同時に、欠陥準位の動的な側面をも直接調べることができることが明らかになった。

第2部 STMナノスペクトロスコピーの応用

○色素分子会合体の構造および電子状態と光吸収特性

 シアニン等のイオン性色素分子は、静電的な相互作用を通して自己組織的に凝集し、J会合体に代表される分子会合状態を形成することが知られている。中でもメロシアニン分子のJ会合体は、光エネルギー変換材料や非線型光学材料あるいは低次元伝導性物質としての応用が期待されており、それらの性質の起源がどのような微視的会合形態および電子状態にあるのかに興味が集まっている。我々は、STMナノスペクトロスコピーとSTSを複合的に用いることにより、高配向性グラファイト(HOPG)基板上に吸着させたメロシアニン分子が形成している個々の会合体の構造と電子状態および光吸収特性を調べた。

 HOPG基板上には様々な大きさおよび形状の会合体が観察されるが、主だった特徴に着目すると、(1)2次元的に広がった小判状の会合体(2)1次元的な紐状の会合体(3)点状の会合体に大きく分けられる。波長可変光源からの単色光を断続変調して試料に照射し、それに同期したトンネル電流の変動成分を測定することにより各々の会合体の光吸収特性を調べた結果、(1)(2)の会合体は600nm付近の波長の光に対して吸収を示すのに対し、(3)の会合体の光吸収は520nm付近の波長で起こることが明らかになった。また、各々の会合体に対してSTS測定を行った結果、(1)(2)の会合体は比較的良く似た電子構造を有しているのに対し、(3)の会合体は非占有状態の電子構造に違いがあることも分かった。光吸収特性から、(1)(2)がJ会合体で(3)がダイマー等の集合体であると判定され、特徴的な形状に成長することにより生じる固有の電子状態が、J会合体の光吸収特性の起源になっていることが明らかになった。

○GaAs結晶中のEL2センターの同定

 バルクのGaAs結晶中に存在する深いドナー準位の一種であるEL2は、低温で1μm付近の波長の光を照射していると光吸収を起こさなくなるという興味深い性質を示すことが知られている(フォトクウェンチ効果)。これは、EL2の欠陥構造が光吸収に伴い別の準安定な原子配置へと変化するために起こり、学術的にも応用上の観点からも、そういった双安定性を示す欠陥の実体が何なのかが盛んに議論されてきた。現在のところ、孤立したAsアンチサイト欠陥(AsGa)がEL2の最有力候補と目されているが、マクロに観測されるEL2には様々なバリエーションが存在する場合も多く、EL2の実体は一種類の欠陥ではないという見方(EL2ファミリー説)もされるなど、未だに最終的な結論は得られていない。

 我々は、低温成長GaAs結晶に存在するある種の点欠陥がEL2と良く似た光吸収を示すことをSTMによる光吸収分光測定で突き止め、さらにその欠陥が、90Kまで冷却したうえで近赤外光を照射していると、STM像にもSTSスペクトルにも明瞭に検知される特徴的な構造変化を起こすことを見出した。それと同時に、STM探針から個々の欠陥に電子注入を行うことにより、欠陥を構造変化前の初期状態に回復させることも可能であることが分かった。このことを利用して、個々の欠陥に対し光誘起構造変化の速度を照射光波長の関数として測定した結果、得られた励起スペクトルは、EL2が示すフォトクウェンチ効果のそれと非常に良く一致しており、この欠陥こそEL2そのものであることが明らかになった。また、光誘起構造変化前後のこの欠陥のSTM像は、孤立ASGaモデルに基づいたSTM像計算の結果とも定性的に一致し、EL2の実体が孤立ASGaであることがほぼ決定的になった。さらに、光吸収スペクトルと励起スペクトルの差異に着目してフォトクウェンチ効果のメカニズムを考察し、新しく提案した配位座標モデルとLandau-Zener機構により励起スペクトルの形状をうまく説明できることが分かった。その一方で、STM像のコントラストからEL2と判定される欠陥であっても、基板との界面近傍に位置するものは光誘起構造変化を起こさないことを見出し、その原因が応力状態の違いにある可能性が高いことをSTM-EFMS測定を通して突き止めた。この解釈を裏付けるために、圧電素子を使って結晶に応力を加えながらフォトルミネッセンス(PL)測定を行ってEL2のフォトクウェンチ特性がどのように変化するかを調べた結果、わずかな応力に対してフォトクウェンチ効果を示さないEL2の数が大きく増減することが明らかになり、マクロに観測されるEL2のバリエーションの成因も、このような結晶の内部応力場で説明できることを示した。

 以上のように、本研究で開発したSTMナノスペクトロスコピーは、極めて局所的でかつ精度の高い分光測定を可能にする強力な実験手法であり、今後、様々な系における物性発現機構の解明に大きく貢献し得る可能性を秘めている。

審査要旨 要旨を表示する

 近年、ナノテクノロジーの飛躍的進歩に伴って、ナノスケールの構造体やその極限である結晶欠陥に特有の物性およびその発現機構を直接実空間で調べることのできるようなナノスケール分解能を有する分光技術に対する強い要請が生まれている。本論文では、その要請に応えることを目的として、「STMナノスペクトロスコピー」と呼ぶ一群の新しい測定手法を開発し、さらに開発した手法の有効性を、いくつかの応用例をもって示した研究の成果がまとめられている。論文は、2部8章で構成されている。

 「STMナノスペクトロスコピーの開発」と題した第1部は、背景と研究の意義を述べた第1章と、開発した3種類のSTMナノスペクトロスコピー手法について詳述した第2章、第3章、第4章からなる。

 第1章では、代表的な顕微分光技術の現状と問題点を整理し、ナノ分光計測を実現するためには、従来の顕微分光法の欠点を克服する全く新しい原理に基づく実験手法を考案する必要があることを述べている。そして、STMを用いて試料が示す光応答をスペクトロスコピックに検出するという方法で、ナノ分光計測を実現できる可能性があることを指摘し、(1)STMトンネル電流変化を介して光応答を検出するSTM-Photo-Modulated Current Spectroscopy(PMCS)法、(2)STM像変化を介して光応答を検出するSTM-Photo-lnduced Transformation Spectroscopy(PITS)法、(3)電場変調トンネル電流を介して光応答を検出するSTM-Electric Field Modulation Spectroscopy(EFMS)法という3種類のSTMナノスペクトロスコピー手法の概念を説明している。

 第2章では、STM-PMCS法の原理が述べられ、検出され得る光応答として、光伝導電流、表面光起電力、局在準位の荷電状態変化、表面変位が挙げられている。そして、STM-PMCS測定を行うために開発された実験装置の構成が示され、その装置を用いることにより、実際に、孤立したGaAs表面下欠陥が引き起こす局所的な光誘起表面変位を検出できること、さらにその応答の照射光波長依存性を測定することで試料表面下にある単一欠陥の光吸収スペクトルを得ることができることを明らかにしている。

 第3章では、STM-PITS法の原理が述べられ、検出され得る光応答として、欠陥の光誘起構造変化、分子の光化学反応、原子・分子の光誘起拡散や脱離等が挙げられている。そして、STM-PITS測定を行うために開発された実験装置の構成が示されている。

 第4章では、半導体のバンド構造を精度良く測定できる巨視的分光手法として従来より確立されている電場変調分光(EFMS)法の原理が紹介された後、STM探針によって誘起される局所電場を利用してナノ分解能でEFMS測定を実現しようとするSTM-EFMS法の原理が述べられている。続いて、STM-EFMS測定を行うために開発された実験装置の構成が示され、その装置を用いることによりGaAsの直接遷移バンドギャップおよびSiの間接遷移バンドギャップを高いエネルギー精度で測定できること、そして空間分解能も単一点欠陥が形成しているナノスケールの歪場をイメージングできるほど高いことを明らかにしている。

 「STMナノスペクトロスコピーの応用」と題した第2部は、導入となる第5章と、本研究で開発した3種類のSTMナノスペクトロスコピー手法を応用して、結晶欠陥および2種類のナノ構造体を対象として行った研究について詳述した第6章、第7章からなる。

 第5章では、STMナノスペクトロスコピーの特徴を整理し、不均一な系に対して特定のナノ領域もしくはナノ構造体に対する分光測定が可能なこと、および巨視的に観測される物性の構造的・電子状態的起源の解明が可能なことが利点として述べられている。

 第6章では、STMナノスペクトロスコピーを駆使して、長年にわたり論争が繰り広げられてきたGaAs結晶中のEL2センターの構造決定問題に決着をつけた実験の詳細が述べられている。まず、STM-PMCS法を用いて、低温成長GaAs結晶中にEL2センターと同様の光吸収特性を示す深い準位が存在することを明らかにし、続いて、そのような深い準位の中に、低温で光誘起構造変化を起こすものが存在することを、STM-PITS測定から見出している。そして、走査トンネル分光法(STS)で調べた構造変化前後の電子状態およびSTM-PITS測定で得た光誘起構造変化の励起スペクトルをもとに、それらの深い準位がEL2センターであることを明らかにしている。また、構造変化前後のSTM像の特徴が、孤立したAsアンチサイト欠陥のoff-centerモデルに基づいて行われたSTM像計算の結果と一致することを示し、EL2センターの実体を孤立Asアンチサイト欠陥であると結論している。また、同様の測定から、光誘起構造変化を起こさないEL2センターも存在することを見出し、そのようなセンターが位置する領域は特殊な歪状態にあることを、STM-EFMS測定を行って明らかにしている。

 さらに、EL2センターの光誘起構造変化が歪状態に大きく影響されることを、応力印加下のフォトルミネッセンス測定を通して示し、EL2センターに見られるバリエーションの起源が、センターの置かれた歪環境の違いで説明できることを述べている。最後に、光誘起構造変化の励起スペクトルの特徴に注目して新しい配位座標モデルを提案し、光誘起構造変化のメカニズムに統一的な説明を与えている。

 第7章では、STMナノスペクトロスコピーを利用して2種類のナノ構造体の分光解析を行った結果が述べられている。第1例は、約6nmの厚みを有するAIGaAs/GaAs/AlGaAs単一量子井戸であり、STM-EFMIS法を用いれば、単一量子井戸中に形成された離散準位間で起こる光学遷移を精度良く検出できることを明らかにしている。第2例は、特異な光吸収特性を示すことで注目を集めているメロシアニン分子のJ会合体であり、STM-PMCS法を用いてグラファイト基板上に作製された個々のメロシアニン分子集合体の光吸収特性を調べ、数10nmの大きさを有する紐状および小判状の分子集合体がJ会合体であることを明らかにしている。さらに、STSを用いてJ会合体の電子構造を調べ、特異な光吸収特性の起源がJ会合体に固有の非占有電子状態にあることを示している。

 第8章では、開発したSTM-PMCS法、STM-PITS法、STM-EFMS法を用いて得られた実験結果が総括され、STMナノスペクトロスコピーの有効性を説いている。また、将来展望として、単一原子・分子スペクトロスコピーの可能性に触れ、論文が締め括られている。

 以上をまとめると、本論文は、ナノ分光計測を実現するための方法論としてSTMナノスペクトロスコピーなる一群の独創的な測定手法を開発し、さらに開発した手法を利用して、単一欠陥の光吸収スペクトルの測定、EL2センターの構造決定、単一量子井戸の光学遷移測定、メロシアニンJ会合体の特異な光吸収特性の起源解明に成功した結果を示して、STMナノスペクトロスコピーの有効性を示した。

 本論文は、従来の方法では実現できなかった極めて高い空間分解能とエネルギー分解能を有する顕微分光法を開発し、その有効性を実証した点で、物理工学、物質科学の発展に寄与するところが大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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