学位論文要旨



No 118015
著者(漢字) 村上,輝好
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,テルヨシ
標題(和) 非平衡現象の数値的研究
標題(洋) Simulational Study of Nonequilibrium Phenomena
報告番号 118015
報告番号 甲18015
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5473号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 伊藤,伸泰
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 講師 伴野,達也
内容要旨 要旨を表示する

1 Introduction

 多数の分子からなる系の巨視的な現象は分子一つ一つの個性を反映したミクロな運動の集団的な振舞いとして出現する。そして、その集団的な運動は分子一つ一つの個性を越えて連続体として支配されるものであると考えられている。それらのミクロな離散的な構成要素の運動と連続体としての振舞いとを関係づけるものが統計力学である。これによって、様々な種類の分子がどのような巨視的な性質を示すのかを明らかになっている。

 ところが現在において、統計力学的な理解が進んでいるのは専ら平衡状態である。最近、非平衡定常状態や寿命の長い準安定状態などに対する統計力学として、Tsallis統計と呼ばれる新たなパラダイムが登場してきた。しかし、時間的に変動する非平衡状態に対する一般的な理論は存在していない。

 そのような中で、今日の計算機の進歩はミクロな運動を直接追う事を可能にしている。とはいうものの、数億程度の構成要素数が現状では限界であり、アボガドロ数程度の真に巨視的な系を再現するには至っていない。この手法は分子動力学(MD)シミュレーションと呼ばれ、様々な系に対して適用されている。しかし、個々の系に対する各論的な理解はそれによって深まっているが、平衡統計力学のように個々の分子の個性に左右されない一般的な理論に対する足掛かりを得るには、非平衡現象の本質をうまく実現する単純なモデルをMDで研究する必要がある。

 そこで我々が考察の対象に選んだモデルは剛体粒子系である。電磁気的な性質や界面張力、気液転移などを考察することは不可能な系ではあるが、非平衡性を再現するのに必要と考えられる非線形性やカオス性を有する最も単純なモデルであると私は考えている。非平衡現象を理解する難しさの原因の一つとして、様々な巨視的な現象が共存する状況を考えなければならないことにある。そのような状況として、熱力学的現象(熱伝導、相転移)と流体力学的現象(粘性流、不安定性)が共存する状況を考察する。これらの現象についての分類表を表1に示す。

 以下では、上述の四つの現象に着目して非平衡現象の研究を行った結果を述べる。始めに、2平面に囲まれた粒子系の非平衡状態について、次に、テイラー・クエット流についてのMDの結果をそれぞれ記し、最後にまとめと今後の展望について述べる。

2 2平面に囲まれた剛体粒子系の非平衡状態

 平面クエット流は無限に広い2枚の平板の片方がもう一方の板に対して一定の相対速度を持って運動する際の平板間の流体の流れである。一般的には、平板の温度は等しい状況を考えるが、ここでは、熱的な効果をも同時に考察するために、平板の温度も調節する。x=0とx=Lxにそれぞれ温度TH、TLの平らな表面を持つ硬い熱浴壁を置き、その他のy、zの方向には周期的境界条件を課す。このモデルでは、剛体球と熱浴壁との相互作用の詳細には触れず、熱浴との衝突後に温度T(=TH、TL)の平衡状態の速度分布関数(1)を持つようにランダムに跳ね返す方法を用いる。

 ここで、κBと剛体球の質量は1とした。式(1)は、速度Uで動く温度Tの壁を想定したものであり、以下では、TH≧TLとし、シアはx=0の壁でかけるものとし、x=Lxでは常にU=0とする。定常状態の長時間平均について考察した結果を述べる。なお、2.1章以外は3次元系を考察する。

2.1流体相における熱伝導

 まず始めに、熱流が定常的に存在している流体相のみの系について考察した結果を示す。TH>TL、U=0とする。この状況では、熱流は温度勾配に比例して流れるというフーリエ則が実現し、傾き一定の温度勾配が実現すると予想される。これは連続体的な描像では自明であり、この状況が剛体粒子系に対して実現しない場合にはより複雑な非平衡現象を剛体粒子系で考察することに対する物理的意味は著しく低下するものと思われる。しかし、熱伝導、および、熱化の過程のミクロな起源は自明ではなく、これまでにも非線型格子を中心に多くの研究がなされている。

 本研究では、2次元、3次元系に対して、

(i)局所平衡分布を実現し、エネルギー等分配が成り立つ。

(ii)傾き一定の温度勾配が実現する。

(iii)2次元ではk(Lx)〜logLx、3次元ではLx→∞で収束する。

 という結果が得られた。(i)、(ii)から、2次元、3次元においても、各サイズに対してフーリエ則が実現するが、熱力学的極限では2次元系では拡散的な熱伝導を実現せず、バリステックなエネルギー輸送が残ってしまうことがわかる。そして、この結果は線形応答の久保公式によって予想される結果と一致し、これらの一連の結果は非線型格子系におけるものとも一致した。

2.2固液共存系におけるエネルギー輸送

 次に、非平衡現象ではあるが線形応答の現象である熱流(TH>TL)に加え、平衡現象であるものの強い非線形性を持つ熱力学的現象である相転移について考察する。さらに、流体力学的現象と熱力学的現象の共存する状況をも考察するためにずり速度U=3.0の場合も考える。全系での密度を凝固点と融解点の中間の値に設定する。

 ずり速度に依存せず、以下の結果が共通して得られた。

(I)高温側に流体相、低温側に固相が自律的に実現する。

(II)流体相と固相で異なるエネルギー輸送を示す。

(III)それらの輸送特性の変化する点の位置が2相界面の位置と一致する。

 系のサイズ(Lx=6.6、剛体球の半径は0.1)のほぼ半分の位置に密度が凝固点から融解点へと急激に変化する領域があり、固液界面が形成されているのがわかる。

 U=0の場合は、対流などの質量の流れは存在しないが、U=3.0の場合はずり方向に流れができることが予想されるので速度プロファイルを観察した。速度プロファイルは次の3っの領域、

(i)一定の速度勾配(クエット流)を持つ主流(x<2.5)

(ii)速度勾配を持たない固相(x>3.5)

(iii)固相と流体相の境界層(2.5<x<3.5)

 より構成されている。(ii)の領域は、密度プロファイルでの固相の領域と完全に一致している。そして、この固相との界面の影響で、流体相は(i)の主流と(iii)の境界層の2つの領域から構成される。この二つの領域における速度勾配による流体相の内部摩擦により、温度が上昇していることが期待される。

 このことをふまえて、エネルギー輸送について考察する。連続体的記述に従えば、圧力、熱伝導率κ、ずり粘性率ηは系内で一定であると仮定すると、エネルギー保存則は線形応答の範囲で〓に帰着される。この式を適用するには現在の非平衡状態において温度が定義される必要があるが、ずり速度の有無にかかわらず、局所平衡分布は実現し、エネルギーが等分配されることが確認されている。そこで、平衡状態と同様に温度を定義し、この式をそれぞれの場合に適応する。

 U=0の場合は速度勾配は存在しないため、熱伝導方程式〓となる。流体相領域と固相領域で異なる温度勾配を持つことから、式(3)に示したように固相の熱伝導率は流体相より高いことがわかる。ここで、"f"、"s"はそれぞれ、"f"luid、"s"olidを表す。

 U=3.0の場合は、式(2)を(i)と(ii)のそれぞれの領域に対して別々にフィッティングを行った結果が図2の2つの線である。MDによる結果と連続体的記述は非常によく一致している。(i)の領域では放物線に、(ii)の領域では直線となり、2つの線の交点は界面の位置にほぼ等しい。この結果は、このモデルで実現した非平衡状態は、流れが熱力学的な性質に影響を与えていず、局所平衡を仮定した連続体的記述の枠組みの中にあることを示唆している。また、境界層という界面の影響が顕著に現れている流体領域に対しても、主流の局所平衡を仮定した取り扱いが可能であることを示している。

 熱伝導と相転移という熱力学的性質だけでなく、粘性流という流体力学的現象までそれぞれを重ね合わせることによって理解可能であることが示唆される。このことは連続体的記述では前提とされてきたことであるものの、MDによって始めて例証された研究と言える。

2.3潤滑膜のMD

 次にこの章では、前章の理解を潤滑膜に適応した結果を示す。具体的には、本研究でのモデルを固定された物体の上を動く物体の動摩擦時における潤滑状態とみなした結果を述べる。このモデルでは両端の壁が直接、接触することはないため、流体潤滑と呼ばれる状況を想定している。ここでは、一般的な潤滑の状況であるTH=TLとする。

 流体潤滑状態では、無次元量ηU/p(pは圧力)で潤滑状0.04態が表されることが実験的にも連続体的記述からも知られている。動摩擦係数μは、摺動面における摺動方向の応力テンソルをσとすると、〓となる。この章では、摺動速度Uを変化させた時の動摩擦係数の無次元量ηU/pに対する依存性を評価する。しかし、潤滑剤という流体相のみが実現する潤滑状態だけでなく、潤滑剤が両端の壁付近で固化する(shear-induced freezing)、新たな状況を想定してパラメータを設定した。実験的には、潤滑剤が固化、もしくは、吸着する場合の潤滑状態を想定している。固化によって潤滑膜の厚さが実効的に変化すること、および、粘性率が未知であることも考慮して、無次元量ηU/pではなく、〓に対して動摩擦係数をプロットする。図3にその結果を示す。U≧5.0では、両端で固化しているが、バルクの流体領域の速度勾配を用いることによって、動摩擦係数が〓でスケールされる。これは界面の効果よりもバルクの主流の性質によって、流体潤滑が決まることを再現する結果である。

3テイラークエット流

 ここでは、さらに非線形な流体力学的現象としてテイラー不安定性について考察する。回転する2重同軸円筒に囲まれた流体は回転方向の旋回流に加えて軸方向には対称なトロイダル渦が発生する。この渦はテイラー渦と呼ばれ、テイラー数という無次元量を用いて、その分岐が理論的に説明されている。このような流体力学的不安定性に対して剛体粒子系でMDを行い、速度場のフーリエ展開とトルクのテイラー数依存性を考察し、連続体で予想される臨界テイラー数でテイラー渦が発生することが確認された。図4に渦の様子を示す。また、温度プロファイルも連続体的記述と一致することが確認された。この結果、エネルギー輸送と不安定性が共存する状態においても、それぞれの重ねあわせで記述できると言える。

 ここでさらに、相転移と不安定性の関係を調べるために、固液共存系におけるテイラー渦をMDで観察した。質量の流れが固相に与える力学的な力も観察することができたが、相転移と不安定性の関係についての定量的な評価は今後の課題として残されている。

4まとめと今後の展望

 エネルギー輸送、相転移、流れ、不安定性、という4つの巨視的な現象を剛体粒子系に対してMDを行い、非平衡現象の連続体的記述はミクロな離散要素の集団的振舞いから構成されることを例証した。ここで興味深いのは、長さのスケールがマイクロメートル以下であるにもかかわらず連続体描像が適応できること、流れの速度スケールが分子の熱速度と同程度でもエネルギー等分配が破れないことである。この2つの結果のミクロ、および、統計的な理解は今後の課題であるが、この結果を積極的に利用して、ナノ、および、マイクロスケールの技術の解明、予測に活用できると思われる。そのような例として、マイクロリアクターと呼ばれるマイクロチップ上の化学装置が挙げられる。また、化学反応の統計力学的理解を得るべく、燃焼過程やナノ、および、マイクロエンジンなどが興味深い研究対象と考えられる。また、固液界面の自律的な形成にあるように、移動境界問題など、連続体的記述では取り扱いにくい現象に積極的に剛体球を活用することも有望である。現在の計算機の能力ではレイノルズ数が数百までの計算しかできず、乱流などのミクロ、および、統計力学的理解には計算機の能力の向上が待たれるが、ストークス流などの粘性が支配的な領域でも、連続体的記述では取り扱いにくい現象は存在する。

 このように、剛体球という単純な系でありながらそれが示す現象は多岐にわたる。それによって非平衡現象の統計力学的理解が進むと同時に、連続体的記述の限界を超える可能性も秘めていると言えよう。

表1:考察の対象とする巨視的現象の分類表

図1:U=0での温度プロファイル

図2:U=3での温度プロファイル

図3:動摩擦係数の∂xuy/p依存性

図4:回転方向に垂直な方向の速度場。

審査要旨 要旨を表示する

 熱平衡状態から離れた非平衡状態の制御は工学技術の中核をなす。このことはたとえば、現代科学技術社会の基幹技術である熱機関技術の歴史と現在とから確認することができよう。非平衡現象の物理学的研究は、ボルツマン、アインシュタインにはじまる現代的なものだけに限ってもすでに1世紀を超える歴史がある。数多くの輝かしい成果が得られ、工学のみならず広く科学諸分野の確たる基礎を培ってきた。とはいえ、解明が期待されている非平衡現象は未だ尽きない。これまでも新しい研究技術が現れるたびにその地平を広げてきた非平衡現象の物理研究であるが、20世紀の終わりに確立した計算科学的手法を活用し、主に統計物理学的な視点から非平衡研究現象の基礎を再検討した成果をまとめたものが本論文である。特に剛体粒子模型の計算機シミュレーションによる研究が本研究の特徴である。

 第1章では、非平衡現象に対するこれまでの統計物理学的研究を紹介しつつ、本研究の背景と目的とが述べられている。特に剛体粒子模型を使うことの特長を論じている。剛体粒子模型とは一定の大きさを持った剛体を模型の構成要素粒子として使うもので、相互作用ポテンシャルの言葉では、粒子同士が重なった場合には無限に大きな、重ならない場合には0のポテンシャルエネルギーを持つものと表現される。この系は、熱力学的には流体・固体の2相(2次元ではさらに固相が2種類ある)をもつ一方、簡潔な状態方程式・相図をもっという著しい特徴があり、理想気体の次に簡単な系といえる。計算統計物理学的研究の対象として、的確な選択と評価できる。

 第2章では、もっとも基本的な非平衡状態として、定常熱伝導およびずり流れがある場合を解析している。まず、剛体円盤(2次元)および剛体球(3次元)からなる系の左端を高温、右端を低温とした場合の非平衡定常状態を解析した。その結果、フーリエ型の温度分布が得られること、さらに熱伝導率が2次元では系の大きさの対数で発散すること、3次元では-1/2乗で収束することを確認した。ずり粘性率に対しても同様の依存性を確認している。さらにこれら応答係数の値は久保公式を使って評価したものと一致することも確認しており、線形非平衡統計力学上の歴史的な課題の1つに対する計算統計物理学的な解決として高く評価できる。さらに系の内部で自律的に固体流体転移が生ずることも示し、さらにこの転移が熱平衡相図を使って良く説明できることを示した。このことは熱流のある非平衡状態定常状態でも局所熱平衡が良い近似で成立していることを意味する。次に、同様の非平衡定常状態の左端にずり速度を与えた場合の定常状態を解析した。その結果、局所熱平衡状態に基づく固体流体転移を維持しつつ、流体相では固体との界面近くを除いてニュートン流体としてのふるまいが確認された。こうした性質が、ずり速度が熱速度を超えるほどの状態でも維持されている点が特筆に価する。

 第3章、第4章では、第2章の結果から示唆される、興味深い現象とその応用とを研究している。第2章のような温度差とずり速度とがある系は、工学的には流体潤滑現象を分子論的な系とみることができる。こうした系で、物体の相対速度によっては潤滑剤の固化が生ずることを理論的に実証し、ずり速度誘導相転移と名付けた。ずり速度により粘性による流体相中の発熱のため、境界付近が固体に相転移するのである。これは潤滑現象の現象論的な研究からも示唆されていたものである。

 第5章では剛体粒子模型を使い、回転角速度の異なる同心2重円柱管内の流れを解析した。その結果、テーラー渦として知られている対流が実現し、臨界テーラー数は連続体による解析と一致した。さらに流体固体相転移を伴った渦も実現した。

 第6章では全体をまとめ、さらに本研究を基礎として今後期待される工学的応用と理学的研究の進展とを展望している。さらに本研究で特に問題となる圧縮性流体の連続体力学による記述を付録にまとめてある。

 本研究では、統計物理学的な非平衡現象に対する一般的な研究という、ともすると形式論に陥りがちな課題に対して、計算機シミュレーションを道具に具体的かつ説得力のある研究を展開した点を、まず高く評価できる。剛体粒子模型という最適な系を提唱し、熱揺らぎから巨視的な運動までを理論的に再現し、特にこれまでの研究が及ばなかったメソスコピックな系の非平衡状態を系統的に研究した。その結果、局所熱平衡状態と連続体力学とを使った巨視的な模型が、ナノスケールの現象にまで適応可能である場合があることを示した。このことはナノテクノロジーの実験的な研究からも示唆されており、本研究により理論的な裏付けが与えられたことから今後の原子・分子スケールでの技術の研究・開発に与える影響は大きいものと考えられる。また理論的には、相転移という熱力学的な現象と流れという連続体力学的な現象とを自立的に生じる模型として今後ますます重要となると考えられる。さらに本研究で提案された剛体粒子系の計算機シミュレーションは今後、複雑な流れの解析手法として、混相流や熱流体の研究への展開が期待される。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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