学位論文要旨



No 118025
著者(漢字) 浦久保,秀俊
著者(英字)
著者(カナ) ウラクボ,ヒデトシ
標題(和) マルチコンパートメントニューロンモデルを用いたスパイクタイミング依存型シナプス可塑性に関する数値解析
標題(洋)
報告番号 118025
報告番号 甲18025
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5483号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,駿介
 東京大学 教授 中澤,正治
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 助教授 渡邉,正峰
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 生物の脳は、神経細胞(ニューロン)同士の接続部であるシナプスのシグナル伝達効率を変化させることで、脳の神経回路それ自身を発達させ、また情報を記録することが知られている。このシナプス伝達効率の変化をシナプス可塑性と呼び、古くからプレシナプスニューロンとポストシナプスニューロンの平均発火頻度に依存して発生すると考えられてきた[1]。

 ところが近年、スパイクタイミング依存型シナプス可塑性(STDP:spike-timing dependent synaptic plasticity)と呼ばれる、プレ、ポストシナプスニューロンの正確な発火タイミングにも依存した、非対称な時間窓をもつシナプス可塑性が報告され、注目を集めている[2]。STDPは神経回路網の形成に大きく関わるため、その生成機構やふるまいを理解しようと多くの生理実験が行われてきた。しかし、観測可能量が制限されていることもあり、STDPのメカニズムを実験のみからとらえることは容易ではない。

 そこで本研究では、計算機シミュレーションというアプローチによって、第一にSTDP時間窓の生成機構の解明を試み、第二にSTDPが生じるシナプス入力部位の条件を検証した。この目的のために、ポストシナプスニューロンの形状を、複数のHodgkin-Huxley型モデルニューロンを電気的につなぎ合わせるマルチコンパートメントモデルによって再現し、シナプス入力部(スパイン)のCa2+濃度や膜電位の変化を観測した[3]。

2.スパイン内カルシウム濃度に着目したSTDP時間窓の再現

2.1 Ca2+濃度が決定するシナプス可塑性

 近年発見されたSTDPは、ポストシナプスニューロン発火時刻(tpost)、およびプレシナプスニューロン発火時刻(tpre)に依存して、図1(a)のような特徴的な時間窓をもつ。すなわち、tpost-tpreが0〜20msecである場合は、シナプス可塑性の一種である長期増強(LTP:long-term potentiation)が生じ、tpost-tpreが-20〜0msecである場合は長期抑圧(LTD:long-term depression)が生じるのだ。このような微妙なタイミングで極性が変化するシナプス可塑性のメカニズムは何であろうか?

 これまでのシナプス可塑性に関する研究より、スパイン内のCa2+濃度([Ca2+]spinei)が強く上昇するときはLTPが発生し、[Ca2+]spineiが弱く上昇するときはLTDが発生することがわかっている(図1(b))[4]。そこでスパイクタイミングに依存した[Ca2+]spinei変化のシナリオがいくつか提案された[5][6]。しかし、これらのシナリオはあくまで仮説であり、実験による完全な検証は困難である。

 そこで、本研究ではポストシナプスニューロン上のスパインをモデル化し、計算機シミュレーションによって、生理実験から予想されるシナリオ通りにSTDPが再現可能であるか検討した。その結果、[Ca2+]spineiのみからではSTDPが再現不可能であることがわかったので、さらに代謝型グルタミン酸受容体(mGluR:metabotropic glutamate receptors)の活性がシナプス可塑性に関わる事実をふまえてモデルの改良を行い、STDP時間窓を再現した。

2.2 シミュレーションモデル

 本研究では、Miglioreらがモデル化した海馬CA1錐体ニューロン[7]を基礎に、さらにスパインをモデル化する。モデル化したニューロンおよびスパインには、Ca2+上昇のシナリオを再現するための各種の動的イオンチャネル、およびプレシナプスニューロン発火によって活性化する各種の受容体をモデル化した。

2.3 Ca2+濃度のみでは再現できないSTDP

 まずモデル化したポストシナプスニューロンを、プレシナプスニューロン発火に対して一定の遅延Δt(=tpost-tpre)を伴って発火させ、各Δtについて平均[Ca2+]spineiを観測した(図2)。LTPタイミングでは平均[Ca2+]spineiの上昇が見られるが、LTDタイミングには何も変化がおこらない。この結果は、これまで提案されたCa2+のシナリオでは、STDPのLTD部分は再現できないことを意味する。

2.4 mGluRの効果により再現されたSTDP

 そこで次の可能性として、mGluR活性の効果を考えた。mGluRはプレシナプスニューロン発火によって活性化し、スパイン内Ca2+と協調してシナプス可塑性を導く原因となり得る。そこで、ここでは仮にmGluRはプレシナプスニューロンの発火とともに活性化して、その後指数関数的に減衰するCa2+フィルターの役目を果たすと仮定し、各Δtにおけるフィルターされた[Ca2+]spineiのみがシナプス可塑性に関わるとした。

 mGluRによりフィルターされたCa2+は、ポストシナプスニューロン発火により一時的に上昇する[Ca2+]spineiを検出し、LTDタイミングにおいて副次的な平均[Ca2+]spinei上昇をつくる(図3)。ここで、この平均[Ca2+]spinei上昇がSTDPのLTD部分を導いていると考え、適切な平均[Ca2+]spinei-LTP/LTD変換関数を用いると、実験で報告されるSTDPとほぼ同様の時間窓を得ることができた。

3.STDPが生じるシナプス入力部位の条件

3.1 LTPタイミングにおけるCa2+上昇のシナリオ

 STDPにおいてLTPをもたらすCa2+上昇は、プレシナプスニューロン発火による興奮性シナプス後電位(EPSP:excitatory postsynaptic potential)と、ポストシナプスニューロン発火に伴いデンドライトヘ逆伝播する活動電位(AP:action potential)の同期が原因となる。適当な強度のEPSPとAPの同期は、シナプス入力部位に線形和以上の電位上昇を導くからだ。

 しかし、ニューロン中すべてのシナプス入力部位について、同期による線形和以上の電位上昇が生じるとは考えられない。なぜなら、AP強度は細胞体からの距離に依存して減衰し、さらにEPSP強度もデンドライト直径の増加にともない減衰するためである。しかし、生理実験において任意のシナプス入力部位にEPSPを発生させ、APとの同期による電位変化を観測することは簡単ではない。

 そこで本研究では、モデルニューロン中でEPSPとAPを同期させるシミュレーションを行い、線形和以上の電位上昇をもたらすシナプス入力部位の条件を検証した。各シナプス入力部位における同期実験より、適度な強度のEPSPとAPの同期のみが、線形和以上の電位上昇を示す。そこで、線形和以上の電位上昇を示すシナプス入力部位をニューロン形状データ中にみると、空間的に限られた領域のシナプス入力部位のみが、LTPをもたらす線形和以上の電位上昇を示すことがわかった。

3.2 シミュレーションモデル

 Pyapaliらが公開しているラット海馬CA1錐体ニューロン形状のデジタルデータベース[8]より、1つのニューロンを採用し、それを2493個のコンパートメントに分割することでニューロンの形状を再現した。これに、生理学的知見に基づいて各種の動的チャネル、受容体をモデル化することで、膜電位のふるまいを再現した。

3.3 線形和以上の電位上昇を示すシナプスの条件

 デンドライト上、ランダムに決定したシナプス入力部位について、EPSPとAPを同期させると、5-30mVのAPと、6mV以上のEPSPを示すシナプス入力部位のみが、同期により線形和以上の電位上昇を示した(図4)。さらに、この線形和以上に電位上昇するシナプス入力部位をニューロン形状データ中に見ると、そのシナプス入力部位は細胞体から200-500μm離れたApicalデンドライト、および細胞体から200μm以上離れたBasalデンドライトに限られた(図5)。この部位のシナプスにおけるEPSPとAPの同期刺激がLTPを導くと考えられる。

4.まとめ

 本研究では、近年報告されたSTDPについて、その非対称な時間窓の生成機構と、STDPが発生するシナプス入力部位の条件について検証を行った。その結果、非対称な時間窓はポストシナプススパインのCa2+シナリオのみでは再現できず、新たにmGluRの作用を仮定することにより再現できることがわかった。また、STDPが生じるシナプス入力部位は、空間的に限局されている可能性を示した。

[1]D.O.Hebb:The Organization of Behavior(Wiley, New York,1949)

[2]G.Bi and M.Poo:J.Neurosci.18(1998)P.10464

[3]M.L.Hines and N.TCarnevale:Neural Comput.9(1997)P.1179

[4]S.Yang et al.:J.Neurophysiol.81(1999)P.781

[5]D.A.Hoffman et al.:Nature 387(1997)P.869

[6]D.J.Linden:Neuron 22(1999)P.661

[7]M.Migliore et al.:J.Comput.Neurosci.7(1999)P.5

[8]G.K.Pyapali et al.:J.Comp.Neurol.391(1998)P.335

図1:(a)STDP時間窓。横軸はtpost-tpre、縦軸は刺激前後のシナプス伝達効率の変化。(b)スパイン内Ca2+濃度とシナプス可塑性の関係

図2:各Δtにおける平均[Ca2+]spinei。

図3:mGluR活性でフィルターされた[Ca2+]spineiより再現するSTDP時間窓。

(a)mGluR瀞性でフィルターされた[Ca2+]spineiの平均。(b)[Ca2+]spinei-LTP/LTD変換関数。(c)再現されたSTDP時間窓。

図4:APとEPSPを各々独立に与えた時、各シナプス入力部位が示す最大電位。

(a)はApicalデンドライト、(b)はBasalデンドライトである。各点の色は、EPSPとAPを同期させたときの電位上昇から、EPSPとAPの独立線形和を引いたもの。白抜き点はデンドライト主軸を示す。

図5:EPSPとAPの同期が線形和以上の電位上昇を与えるシナプスの位置。

黒点は全シナプス入力部位。赤点はEPSPとAPの同期により線形和以上の電位上昇を示すシナプス入力部位。

審査要旨 要旨を表示する

 生物の脳は、シナプス伝達効率の可変性、すなわちシナプス可塑性を通じてニューロンネットワークを形成して、様々な情報を脳内に蓄えることが知られている。近年、この伝達効率がプレシナプスニューロンとポストシナプスニューロンの発火タイミングにも依存することが見出された。この現象は、スパイクタイミング依存型シナプス可塑性(STDP)と呼ばれ、ニューロンネットワークの形成に重要な役割を果たしていると考えられることから、その生成機構と振舞いの解明を目指して多くの研究が行われている。「マルチコンパートメントニューロンモデルを用いたスパイクタイミング依存型シナプス可塑性に関する数値解析」と題する本論文は、マルチコンパートメントモデルと呼ばれる生体ニューロンモデルを用いて、このSTDPの生成機構とその振舞いを計算機シミュレーションによって明らかにすることを目的として行なわれた研究を取りまとめたもので、全6章から構成されている。

 第1章は序論で、STDPを紹介し、その神経情報処理上の重要性を簡単なニューロンネットワークを例に論じている。

 第2章では、本研究で使用するニューロンモデルが基礎としているHodgkin-Huxley方程式を紹介して、ニューロンの外的形状、シナプス入力、そしてスパイン内Ca2+動態等のニューロン特性を定式化する方法を述べている。

 第3章では、海馬CA1錐体ニューロンのモデルを用いてSTDPの生成機構を議論している。具体的には、これまでの研究から、STDPにプレシナプスニューロンとポストシナプスニューロンの発火タイミングの変化に依存して変化するポストシナプススパインのCa2+濃度が関係していることがわかっているので、このスパインをモデル化してSTDPを導くようなCa2+濃度の振舞いが得られるかどうかを検討したが、そのような結果は得られなかったとしている。しかしながら、同じくシナプス可塑性に深く関わるとされている代謝型グルタミン酸受容体(mGluR)の活性をも考慮することとし、試行錯誤の結果、STDPを実現できるmGluR活性とCa2+の相互作用のあり方を導出することができたとしている。

 第4章では、海馬CA1錐体ニューロンを用いてSTDPが起きるシナプス入力部位の条件を検討している、STDPにおけるシナプス長期増強(LTP)は、デンドライトを逆伝搬する活動電位(AP)と興奮性シナプス後電位(EPSP)が適切な強度で同期することにより生じる大きな電位上昇によると考えられている。ところがニューロンにおけるAP強度とEPSP強度はシナプス入力部位に依存して異なるため、大きな電位上昇を示すシナプスは限られている可能性がある。そこで、ランダムに選んだシナプス入力部位でAPとEPSPを同期させて、大きな電位上昇を示すシナプスの空間的条件を探索したところ、直径の小さな細胞体から遠位のBasalデンドライトと中位のApicalデンドライト上のシナプスに限って大きな電位上昇が生じることを見出したとしている。さらに、APとEPSPの同期が示す電位上昇の広がりは近年報告されている刺激部周辺シナプスに広がるシナプス可塑性、すなわちヘテロシナプス可塑性を説明できる可能性があるとしている。

 第5章では、STDPとニューロン発火の相互作用について検討している。STDPは単独ニューロンの発火と相互作用しつつニューロンネットワークを発展させていると予想されるので、ニューロン発火機構の違いによるSTDPの振舞いの違いを知ることは重要である。このため、単一コンパートメントHodgkin-Huxleyモデルニューロンとleaky integrate-and-fireモデルニューロンについて、一定時間差を有するのシナプス入力ペアに対するシナプス伝達効率の変化を求めたところ、逆相関関数に見られる発火機構の違いを反映しているとみられる異なる振舞いが見出されたこと、また、複雑なパケット入力に対してはニューロン発火機構の違いによって異なる伝達効率分布が形成されることを見出したとしている。

 第6章では以上の成果をとりまとめ、今後の課題及び本研究で示された神経科学における計算機シミュレーションの役割と可能性を展望している。

 以上を要すれば、本論文は脳の情報処理の基本要素であるニューロンのシナプス可塑性の生成機構とその振舞いを数値シミュレーションにより明らかにすることに取り組み、微視的な面から人間の情報処理機構に関する理解を深めることに成功しており、より優れた人と機械の関係を追及するシステム量子工学の発展に寄与するところが少なくない。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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