学位論文要旨



No 118029
著者(漢字) 谷川,尚
著者(英字)
著者(カナ) タニガワ,ヒサシ
標題(和) 金属酸化物中の水素同位体と欠陥との相互作用
標題(洋)
報告番号 118029
報告番号 甲18029
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5487号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 山脇,道夫
 東京大学 教授 寺井,隆幸
 東京大学 教授 関村,直人
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 助教授 長崎,晋也
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 固体増殖材におけるトリチウムの移行過程において、固体内の欠陥や表面状態が大きな影響を与えていることが明らかになっている。これらの現象を理解するためには水素同位体と欠陥、表面状態との相互作用を明らかにする必要があるが、既往の研究の多くは実験結果の現象論的解釈に留まっており、相互作用の機構については十分に理解されていない。不定比性や格子欠陥など、構造の不均一性が物質の挙動に及ぼす影響を解明することは、固体増殖材に限らず金属酸化物一般において重要な課題である。本研究においてはLi2Oに対して赤外吸収分析と光電子分光測定を行い、固体内もしくは表面における水素同位体と欠陥との相互作用を明らかにすることを目的とする。透過法によるFT-IR測定からは固体内のO-H伸縮振動について、XPS、UPS測定からは表面近傍の電子状態について情報が得られる。また、実験で観察された現象を原子構造や電子移動の効果から理解するため、量子化学計算による解析を行った。

2.赤外吸収分析による固体内-ODの観測

2.1.実験方法

 試料にはLi2O単結晶を用い、試料への重水素の導入は熱吸収、イオン照射の2通りとした。熱吸収の場合には、973K、約0.5atmのD2ガス雰囲気中で12hr程度保持し、重水素を吸収させた後に室温まで試料を冷却した。酸素空孔密度を制御するために冷却速度を680K/0.5min(急冷)、680K/200min(徐冷)の2通りとし、FT-IRを用いて透過測定を行なった。イオン照射の場合にはビームラインの末端にホルダーを設置し、照射下で透過測定を行った。1MeV、約5.0μAのD+を3hr照射し、照射量は3.5x1017cm-2に達した。

2.2.熱吸収試料の赤外吸収スペクトル

 D2ガスを熱吸収後、急冷と徐冷を施した試料の赤外吸収スペクトルをそれぞれ測定した。急冷試料のスペクトルを図1に示す。急冷、徐冷試料の両方に、室温において2715cm-1、473Kにおいて2510cm-1にピークが観察された。これらのピークは加熱時の挙動から、それぞれLi2O固体内でLiOD相として存在している-OD、LiOD相の分解後に固体内で分散して存在しているD+による-OD(Li2O-D+)によるものだと帰属された。また、室温において急冷試料には2700cm-1から2550cm-1の領域に複数のピークが観測された。これらのピークはF-center(電子を捕獲した酸素空孔)の回復温度である523K以上で消滅することから、急冷によって導入されたF-centerの影響を受けた-ODによるものであると帰属された。

2.3.イオン照射試料の赤外吸収スペクトル

 D+を照射した試料については、熱吸収試料においてLi2O-D+に帰属されたピークと、F-centerの影響を受けた-ODに帰属されたピークとが観測された。Li2O-D+によるピークは照射中にのみ観測され、照射停止とともにF-centerの影響を受けた-ODによるピークの強度が増加した。

 後に述べる量子化学計算による評価から、Li2O固体内の-OHはLi空孔に配向した形が最も安定であると考えられる。イオン照射下や試料が高温の状態では-OHの周りにLi空孔が存在しうるので、Li2O-D+に帰属されたピークはLi空孔に配向した-ODによる可能性が高い。Li2O-D+によるピークが照射中にのみ観測されるのは、照射後にLi空孔が緩和するためだと考えられる。Li2OにおけるLi+の易動度はO2に比べて2桁以上大きいことが報告されているため、Li空孔が回復した後もF-centerの密度は高いと考えられる。本実験の結果は、照射中にはLi空孔に配向していた-ODが、照射後のLi空孔の回復にともなってF-centerの影響を受けるサイトヘと緩和する過程を反映していると考えられる。

3.量子化学計算による固体内-OHの状態解析

 赤外吸収分析の結果が示しているF-centerとLi空孔が-OHに与える影響について、量子化学計算によって評価した。

3.1.計算方法

 計算コードにはガウス型基底関数を用いる全電子SCFコードであるCRYSTAL98と、平面波基底関数を用いる擬ポテンシャル密度汎関数法(DFT)コードであるCASTEPとを用いる。CRYSTALにおける計算にはHartree-Fock法を用いた。CASTEPの計算では一般化密度勾配近似を用いた。第一原理に基づく量子化学計算における電子を捕獲した欠陥の取扱い方法は確立していないが、ここでは原理の異なるコードの結果を比較することでF-centerが水素同位体に及ぼす影響の評価を試みる。

3.2.欠陥が近傍に存在する-OHの存在状態

 まず、欠陥近傍の構成イオンの緩和について2つの計算コードから評価し、計算の精度内で十分に一致することを確認した。次に完全結晶中とF-center、Li空孔が近接位置に存在する場合の-OHの安定位置を求めた。その結果F0centerの場合にはO-H結合をした状態のみでなく、O-H結合が切れてF0centerに捕獲された状態をとることが示唆された。電子密度分布の評価から、各欠陥が生成した際の-OHの緩和は2つの効果、欠陥生成に伴うLi+の緩和によるクーロン斥力の変化と、F-centerに捕獲された電子との相互作用とによって説明された。各々の場合について系からHを取り出すのに必要なエネルギーを評価すると、Li空孔に配向した-OHとF0centerに捕獲されたHとが、他の場合と比べてはるかに安定であることが分かった。Li空孔に配向したHが安定であることは、赤外吸収分析での議論を裏付けるものである。F0centerに捕獲されたHについては、Mullikenの電予密度解析からF0centerの電子がHへと移動したことが明らかになったが、これはF0centerによるHの還元反応だと考えることができる。

3.3.F0centerによるプロトンの捕獲と拡散機構

 中性子照射を受けたLi2O中でのトリチウムの拡散は、以下の反応式で示される酸化還元反応の繰り返しで進むと考えられている。

 LiOT+F0→LiT、LiT+1/2O2→LiOT

 前節で議論したF0centerによるHの捕獲と還元は、上記の第1式に対応すると考えられる。そこでHがF0Centerに捕獲される反応についてポテンシャル曲線を計算し、この反応の活性化エネルギーとして0.75eVを得た。この値はLi2O中のトリチウム拡散における活性化エネルギーの報告値の範囲内にあり、この捕獲反応が拡散に関わる可能性が量子化学計算から示されたと言える。

4.XPS、UPSによるLi2O表面の電子状態観測

 XPSによるLi2O表面のO1sスペクトルの観察では、表面に析出したLiOH、Li2O中の酸素によるピークがそれぞれ帰属され、水酸基の存在によるピークのブロードニングも明らかにされた。価電子スペクトルは内殻スペクトルに比べ、水酸基の吸着や欠陥の生成に対してより敏感に変化すると考えられる。そこで表面状態を変えた試料を水蒸気に曝露し、試料表面の価電子スペクトルを観察した。

4.1.実験方法

 試料にはLi2O単結晶を用い、測定室と隔離された予備室において不純物除去のための873K、1dayの加熱に加え、500eV、210secのArスパッタリング、10-3PaのD2ガス下での973K、3hrの加熱を前処理として行った。Arスパッタリングによっては表面に欠陥が、還元雰囲気下での加熱によっては酸素欠乏層がそれぞれ形成されると期待される。紫外光源としてはHe II線(40.8eV)を用い、観測中の測定室はHeガスで10-6Paに保った。

4.2.表面状態による水の付着性の変化

 水蒸気に曝露した試料の価電子スペクトルを各温度で測定し、得られたスペクトルをLi2O中のO 2pの成分、表面に解離吸着した水酸基の1πと3σ軌道とにそれぞれ帰属した。異なる前処理を行った試料の測定からは図2に示すように、真空中で加熱した試料には水酸基によるピークが観察されない条件において、ArスパッタリングとD2ガス下での加熱を施した試料には水酸基によるピークが観察され、スパッタリングや還元処理によって表面に活性な吸着サイトが形成され、水の吸着が容易になったことが示された。

5.まとめ

 Li2O中の水素同位体と欠陥との相互作用について、赤外吸収分析と量子化学計算による評価から、F-centerとLi空孔の影響を受けた水素同位体の存在状態を明らかにし、F-centerとLi空孔が水素同位体に与える影響をイオン間のクーロン相互作用と、欠陥が捕獲した電子と水素同位体との相互作用とで説明した。また照射試料における拡散に、F0centerによるプロトンの還元反応が関わる可能性を示した。

 表面における反応については光電子分光測定から、表面に生成した欠陥や酸素不足層が水分子の解離吸着に対して活性なサイトとしてはたらくことを明らかにした。

図1 IR spectra of D2 absorbed and quenched Li2O single crystal

図2 Valence-band spectra of Li2O surface with different pretreatments

審査要旨 要旨を表示する

 固体増殖材におけるトリチウムの移行過程において、固体内の欠陥や表面状態が大きな影響を与えていることが明らかになっている。これらの現象を理解するためには水素同位体と欠陥、表面状態との相互作用を明らかにする必要があるが、既往の研究の多くは実験結果の現象論的解釈に留まっており、相互作用の機構については十分に理解されていない。不定比性や格子欠陥など、構造の不均一性が物質の挙動に及ぼす影響を解明することは、固体増殖材に限らず金属酸化物一般において重要な課題である。本論文においてはLi2Oに対して赤外吸収分析と光電子分光測定を行い、固体内もしくは表面における水素同位体と欠陥との相互作用を明らかにすることを目的としている。透過法によるFT-IR測定からは固体内のO-H伸縮振動について、XPS、UPS測定からは表面近傍の電子状態について情報が得られている。また、実験で観察された現象を原子構造や電子移動の効果から理解するため、量子化学計算による解析を行っている。本論文はこのような研究の成果を6つの章にまとめたものである。

 第1章は序章であり、研究の背景と目的が述べられている。

 第2章は赤外吸収分析による固体内-ODの観測であり、Li2O単結晶に熱吸収およびイオン照射により重水素を導いた。D2ガスの973Kにおける熱吸収後、急冷(680K/0.5min)と徐冷(680K/200min)を施した試料の赤外吸収スペクトルをそれぞれ測定している。急冷、徐冷試料の両方に、室温において2715cm-1、473Kにおいて2510cm-1にピークが観察され、これらのピークは加熱時の挙動から、それぞれLi2O固体内でLiOD相として存在している-OD、LiOD相の分解後に固体内で分散して存在しているD+による-OD(Li2O-D+)によるものと帰属している。また、室温において急冷試料には2700cm-1から2550cm-1の領域に複数のピークが観測されている。これらのピークはF-centerの回復温度である523K以上で消滅することから、急冷によって導入されたF-centerの影響を受けた-ODによるものであると帰属している。1MeVD+を照射した試料については、熱吸収試料においてLi2O-D+に帰属されたピークと、F-centerの影響を受けた-ODに帰属されたピークとが観測されている。Li2O-D+によるピークは照射中にのみ観測され、照射停止とともにF-centerの影響を受けた-ODによるピークの強度が増加している。照射中にはLi空孔に配向していた-ODが、照射後のLi空孔の回復にともなってF-centerの影響を受けるサイトヘと緩和する過程を反映していると考えている。

 第3章は量子化学計算による水素同位体の存在状態の評価であり、赤外吸収分析の結果が示しているF-centerとLi空孔が-OHに与える影響について評価している。計算コードにはガウス型基底関数を用いる全電子SCFコードであるCRYSTAL98と、平面波基底関数を用いる擬ポテンシャル密度汎関数法(DFT)コードであるCASTEPとを用いている。欠陥近傍の構成イオンの緩和について2つの計算コードから評価し、計算の精度内で十分に一致することを確認している。次に完全結晶中とF-center、Li空孔が近接位置に存在する場合の-OHの安定位置を求めている。その結果F0centerの場合にはO-H結合をした状態のみでなく、O-H結合が切れてF0centerに捕獲された状態をとることを示唆している。各々の場合について系からHを取り出すのに必要なエネルギーを評価すると、Li空孔に配向した-OHとF0centerに捕獲されたHとが、他の場合と比べて安定であることが示されている。F0centerに捕獲されたHについては、Mullikenの電子密度解析からF0centerの電子がHへと移動したことが明らかになったが、これはF0centerによるHの還元反応だと考えている。

 第4章は酸化リチウム中における水素同位体の存在状態と拡散機構について示している。中性子照射を受けたLi2O中でのトリチウムの拡散は、F0centerによる捕獲と還元と、その後の酸化反応の繰り返しで進むと考えている。そこでHがF0centerに捕獲される反応についてポテンシャル曲線を計算し、この反応の活性化エネルギーとして0.75eVを得ている。この値はLi2O中のトリチウム拡散における活性化エネルギーの報告値の範囲内にあり、この捕獲反応が拡散に関わる可能性が量子化学計算から示されたとしている。

 第5章は光電子分光法による酸化リチウム表面の電子状態観測であり、表面状態を変えた試料を水蒸気に曝露し、試料表面の価電子スペクトルを観察している。水蒸気に曝露した試料の価電子スペクトルを各温度で測定し、得られたスペクトルをLi2O中のO 2pの成分、表面に解離吸着した水酸基の1πと3σ軌道とにそれぞれ帰属している。真空中で加熱した試料には水酸基によるピークが観察されない条件において、ArスパッタリングとD2ガス下での加熱を施した試料には水酸基によるピークが観察され、スパッタリングや還元処理によって表面に活性な吸着サイトが形成され、水の吸着が容易になったことを示している。

 第6章は結論であり、本研究で得られた成果をまとめている。

 以上を要するに、本論文は金属酸化物中の欠陥と水素との相互作用について、酸化リチウムを例として、赤外吸収分析と量子化学計算により多くの知見を得たものである。特に、F-centerとLi空孔の影響を受けた水素同位体の存在状態を明らかにし、F-centerとLi空孔が水素同位体に与える影響をイオン間のクローン相互作用と欠陥が捕獲した電子と水素同位体との相互作用とで説明した。また照射試料における拡散に、F0centerによるプロトンの還元反応が関わる可能性を示した。表面における反応については光電子分光測定から、表面に生成した欠陥や酸素不足層が水分子の解離吸着に対して活性なサイトとしてはたらくことを明らかにしている。このような成果は今後の核融合炉セラミック増殖材開発および金属酸化物と水素同位体との相互作用に関する研究の進展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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