学位論文要旨



No 118047
著者(漢字) 合田,義弘
著者(英字)
著者(カナ) ゴウダ,ヨシヒロ
標題(和) 電子輸送現象の第一原理解析手法の開発とナノ構造からの電界電子放出への応用
標題(洋) Ab Initio Method for Electron Transport and its Applications to Field Emission from Nanostructures
報告番号 118047
報告番号 甲18047
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5505号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 渡邉,聡
 東京大学 教授 堀池,靖浩
 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 講師 弓野,健太郎
 東京大学 教授 塚田,捷
内容要旨 要旨を表示する

1はじめに

 電界及び電気伝導に関する物理現象は、エレクトロニクスと直接結び付いているという意味で極めて重要である。特に近年では、走査トンネル顕微鏡の発明を端緒として、電極間原子鎖の直接観察とコンダクタンス測定、カーボンナノチューブを用いた電界効果トランジスターの作製及び電界電子放出等、ナノテクノロジーのブレイクスルーを目指して盛んに基礎研究が行われている。なかでも、強電界を印加した表面から電子がトンネル効果により真空へ放出される現象である電界電子放出は、フラットパネルディスプレイ等への応用として工学的に重要であるばかりでなく、電界に対する固体表面の応答として基礎的にも非常に興味深い現象である。

 この様な実験の結果を解釈し物理現象のメカニズムを解明する方法として、密度汎関数法に基づく第一原理計算は、実験的に決定されるパラメータに頼る事無く系の電子状態を求める事ができるため、非常に有効と言える。しかし、電子輸送の問題を扱うためには通常のバンド計算では不十分であり、電界の印加により電流が流れている場合での電子状態を評価する事が必要である。

 そこで、本研究では、強電界下における表面電子状態を、電流を運ぶ散乱状態をあらわに考慮しつつ密度汎関数法に基づき非経験的に理論解析する手法を新たに開発した。そして、金属表面上の単原子で終端された突起、及びシリコン表面とその表面上における金属の吸着ナノ構造からの電界電子放出を本手法を用いて理論解析した。

2理論解析手法

 本手法では、電子が非弾性散乱を受けず電子波のコヒーレンスが保たれる電子輸送を想定し、定常状態に対する理論解析を行う。解析で用いるモデルは半無限の電極、表面ナノ構造、及び真空の3つの領域からなる(図1)。半無限の電極はイオンの正電荷を一様に分布させたジェリウムモデルにより記述され、マクロスコピックな電子浴の役割を果たす。ナノ構造を構成する原子のイオン殻は、通常の第一原理計算と同様擬ポテンシャルにより記述される。また表面平行方向には周期的に原子を配置する。ジェリウム電極内部と真空領域では一電子波動関数は解析的にあらわされる。本手法では、領域間の境界での波動関数の接続条件を利用して未知の透過係数と反射係数を境界条件から消去する事により、ナノ構造とその近傍の領域の波動関数を求める。これにより、既存の他手法より簡明なアルゴリズムで密度汎関数法に基づく第一原理計算を行い、電子分布及び電流分布を求める事が可能となった。

3単原子で終端された微小突起を持つ金属表面からの電界電子放出

 近年、微細加工技術の進歩により、ナノスケールの構造を持つ電界電子放出源の作製が可能となっている。特に、単原子で終端された突起を持つ放出源は、電流の全エネルギー分布(TED)に複合ピークが観測されるため注目されているが、他の実験グループが追試に成功していないため、その正当性については結論が得られていない。そこで、Al(100)表面を例として単原子で終端された突起からの電界電子放出の第一原理計算を本研究で提案した手法を用いて行い、実験データに合わせるためのパラメータを一切用いずに、実験グループの間の不一致の原因を明らかにする事を試みた。

 Al(100)表面上の突起構造のモデルとしては、ピラミッド状のAlクラスターを3種類(4層30原子、3層14原子、2層5原子)用いた。図2に10V/nmの電界を印加した場合の放出電流の全エネルギー分布(TED)を示す。30原子からなる突起の場合はFermiエネルギーEFから1eV程度下のエネルギー領域に2次ピークが現れているが、5原子からなる突起からはEFに一つだけピークを持つTEDスペクトルが得られた(図2)。これより、追試実験において単原子で終端された突起から複合ピークが得られなかった原因は、突起のサイズが小さかったためであると考えられる。また、電子密度分布の解析により、EFから1eV程度下のピークは先端原子に局在した電子状態を通る共鳴トンネルに起因する事がわかった。

 図3は、14原子の突起を持つAl(100)表面に10V/nmの電界を印加した場合の一電子有効ポテンシャルの計算結果である。突起先端のAl原子の前方におけるポテンシャル障壁の低下により、EF付近の電子のエネルギーが障壁と同程度になると、トンネル確率は飽和し線形に近いエネルギー依存性を持つ。したがって、図3の様に障壁が局所的に低下している場合には、EFより低いエネルギー領域に対しても無視できない大きさのトンネル確率が得られ、TEDスペクトルに2次ピークが現れる。一方、突起のサイズが小さい場合には局所的な障壁の低下が十分ではなく、局所状態密度(LDoS)にはピークがあるにもかかわらず、TEDスペクトルには2次ピークが現れなかった。これは、上記の説明を支持するとともに、LDoSの解析のみではTEDスペクトルに複合ピークが現れるかどうかは予測できない事を意味する。

4Si(100)表面からの電界電子放出

 シリコン表面からの電界電子放出は、放出源の作製において既存のLSI加工プロセスが応用できるため、盛んに研究されているが、表面原子構造の詳細とその放出特性への影響については知られていない。そこで、清浄及び水素終端Si(100)表面からの電界電子放出の第一原理計算を行い、Si(100)表面における表面状態の電界電子放出に及ぼす効果を明らかにする事を試みた。

 表面の結合状態の影響を解析するために、水素終端Si(100)表面の第一原理計算を行い清浄表面と比較した。図4に放出電流のFowler-Nordheim(FN)プロット(log10(j/F2)vs.1/F)を示す。電界が弱い場合(a)には水素終端表面の方が清浄表面よりも放出特性が良い事がわかる。この結果は実験と一致し、仕事関数の差(水素終端表面:4.67eV、清浄表面:5.12eV)により説明出来る。また、電界が強い場合(b)には水素終端表面のFNプロットは非線形性を示した。有効ポテンシャルとLDoSの解析の結果、電界が強い場合の劇的な放出特性の向上は、強電界によるバンドベンディングが起こり表面に局在した2次元的な伝導バンドから電子が放出されているためである事が明らかになった。

5金属吸着Si(100)表面からの電界電子放出

 シリコン表面上にナノ構造を作製する事は、電界電子放出特性の向上に有効であるため興味が持たれているが、最も単純な場合である金属の吸着構造においても、放出特性向上のメカニズムや原子スケールでの最適な吸着条件等は明らかになっていない。そこで、Alを吸着原子の例として、Si(100)表面における金属吸着による電界電子放出特性向上のメカニズムを本手法での第一原理計算により明らかにする事を試みた。

 Si(100)2×2-Al表面にF=10V/nmの電界を印加した場合の電流密度の計算結果(1100nA/nm2)は清浄Si(100)表面(360nA/nm2)及びAl(100)表面(590nA/nm2)より顕著に大きい。清浄Si(100)表面との差はAl吸着による仕事関数の低下(0.97eV)によって説明できるが、Si(100)2×2-Al表面とAl(100)表面との仕事関数の差は小さく(0.25eV)、電流密度の大きな差を説明する事は出来ない。そこで、図5(a)に示す様に、ポテンシャル障壁の空間分布の解析を行った。その結果、電界印加時には吸着Al原子の付近でポテンシャル障壁が局所的に低くなっており、図5(b)の様に電界電子放出は吸着Al原子の付近で主に起こる事がわかった。また、Si(100)2×2-Al表面とAl(100)表面のポテンシャル障壁の最小値の差(0.94eV)は仕事関数の差よりも顕著に大きく、両者の放出特性の差を説明する事が出来る。以上の結果から、表面ナノ構造の放出特性の解析のためには、表面の場所によらない仕事関数ではなく、電界印加時のポテンシャル障壁の分布を解析する事が重要であると言える。

6結論

 本研究では電子輸送現象の理論解析手法を新たに開発した。本手法は密度汎関数法に基づき電流を運ぶ散乱状態を計算する事により、ナノ構造の電子輸送特性を実験的なパラメータを用いずに評価する事ができる。さらに本研究では、この手法を用いてナノ構造からの電界電子放出の理論解析を行った。その結果、放出特性を左右する要因としては、仕事関数と放出源先端の曲率だけではなく、トンネル障壁の原子スケールでの空間的変化、及び表面の電子状態とその電界遮蔽能力が重要である事が明らかになった。ナノ構造特有の電子輸送特性を解明し活用していくためには、本研究で開発された理論解析手法による第一原理計算は非常に有用である。様々な電子輸送現象の理解に対して、本手法に基づく解析の果たす役割は今後さらに大きくなって行くと期待される。

1) Y. Gohda et al., Phys. Rev. Lett. 85, 1750 (2000).

2) Y. Gohda and S. Watanabe, Phys. Rev. Lett. 87, 177601 (2001).

3) Y. Gohda et al., Mater. Sci. Eng. A 327, 1 (2002).

4) Y. Gohda and S. Watanabe, Surf. Sci. 516, 265 (2002).

5) Y. Gohda and S. Watanabe, submitted to J. Vac. Sci. Technol. B.

6) Y. Gohda and S. Watanabe, submitted to Phys. Rev. B.

図1:ナノ構造をもつ半無限電極表面のモデル。

表面平行方向に系は周期的である。

図2:単原子で終端されたAl突起(a:30原子、b:14原子、c:5原子)を持つAl(100)表面からの放出電流の全エネルギー分布(TED)スペクトル。

図3:14原子の突起を持つAl(100)表面に、F=10V/nmの電界を印加した場合の一電子有効ポテンシャルの空間分布Veff(r//,z)。等高線の間隔は2eVである。白地の部分はVeff>0、黒地の部分はVeff<0である。

図4:水素終端及び清浄Si(100)表面から放出電流のFNプロット。

電流密度jの単位はnA/nm2である。

図5:(a):Si(100)2×2-Al表面におけるポテンシャル障壁の等高線プロット。電界強度はF=10V/nmであり、ポテンシャル障壁の最小値をゼロとしてある。(b):E=EFの電子に対する電界電子放出電流の空間分布。(a)の点線で示す表面に垂直な面に対してプロットした。灰色の丸はAl原子の位置を示す。

審査要旨 要旨を表示する

 電界及び電気伝導に関する物理現象は、電子素子等への応用上の重要性のため古くから盛んに研究されてきたが、近年では、走査プローブ顕微鏡による微細加工と物性計測、電極間原子鎖の直接観察とコンダクタンス測定、カーボンナノチューブを用いた電界効果トランジスターの作製及び電界電子放出等、ナノテクノロジーのブレイクスルーを目指した研究の中でその重要性が一段と増している。中でも電界電子放出は、フラットパネルディスプレイ等への応用として工学的に重要であるばかりでなく、電界に対する固体表面の応答として基礎的にも非常に興味深い現象である。本論文では、電流を運ぶ散乱状態をあらわに考慮しつつ強電界下における表面電子状態を非経験的に計算する手法を新たに開発し、これを用いて単原子で終端された突起を持つAl表面、清浄および水素終端Si表面、およびAlを吸着したSi表面からの電界電子放出を理論解析した。本論文は6章からなる。

 第1章は緒言であり、ナノ構造での電界・電気伝導関連現象の重要性を述べ、電界電子放出現象の基礎と既存の理論研究をまとめている。さらに、電界電子放出に対する原子レベルからの第一原理計算がまだ不十分であることを指摘して本研究の目的を明確にした。

 第2章では、本研究で新たに開発された、散乱状態をあらわに考慮しつつ密度汎関数法に基づき非経験的に電子状態及び電気特性を理論解析する手法について述べている。解析で用いるモデルは半無限の電極、表面ナノ構造、及び真空の3つの領域からなるが、電極内部と真空領域での一電子波動関数が既知であれば、領域間の境界での波動関数の接続条件を利用して未知の透過係数と反射係数を境界条件から消去する事により表面ナノ構造領域の波動関数を求めることが可能になることを示した。これにより、既存の他手法より簡明なアルゴリズムで密度汎関数法に基づく第一原理計算を行い、電子分布及び電流分布を求める事が可能となった。さらに解析的な解が知られているモデル系に対する計算により、本手法が十分に高い精度を持つことを示した。

 第3章では、単原子で終端されたAl突起を持つAl(100)表面からの電界電子放出の解析に第2章の手法を応用した。単原子で終端された突起を持つ放出源からの放出電流の全エネルギー分布には複数のピークが観測される場合と単一ピークの場合とが知られていたが、複数のピークが出現する原因は不明であった。これに対し、30原子からなる突起を持つ系に対する計算結果では2つのピークが現れるが5原子からなる突起を持つ系の場合には1つのピークしか現れないことを見出し、複数ピーク出現の有無が突起サイズに帰着できることを示した。さらに、突起サイズによるピーク数の変化が、突起先端原子に局在した電子状態の存在、電界印加による突起先端前方の局所的なポテンシャル障壁の低下、および突起サイズによるこの障壁低下の度合いの違いとから理解できることを示した。

 第4章では、清浄Si(100)表面および水素終端Si(100)表面からの電界電子放出を理論解析し、電界が弱い場合には水素終端表面の方が清浄表面よりも放出特性が良いことと、これが仕事関数の差により説明できることとを確認した。さらに、強い電界を印加された水素終端表面の場合に放出電流のファウラー・ノルドハイム・プロットに顕著な非線形性が見られることと、これが強電界によるバンド湾曲のため表面に局在した2次元的伝導バンドからの電子放出に起因することとを明らかにした。

 第5章では、金属吸着Si(100)表面からの電界電子放出における放出特性向上のメカニズムや原子スケールでの最適な吸着条件等を明らかにするため、Alを吸着原子の例として金属Si(100)表面からの電界電子放出を第一原理計算により解析した。Si(100)2×2-Al表面からの電界放出特性が清浄Si(100)表面及びAl(100)表面からのそれより顕著に大きいことを明らかにし、この3者の特性の違いは仕事関数の差からは統一的には理解できないのに対し、ポテンシャル障壁の空間分布の違いから統一的に理解できることを示した。

 第6章は総括である。

 以上のように、本論文は、表面ナノ構造における電子輸送現象を密度汎関数法に基づいて理論解析するための新たな手法を開発し、これを用いてナノ構造からの電界電子放出特性を解析して構造による特性変化の機構を明らかにし、また放出特性を左右する要因として、従来から知られていた仕事関数と放出源先端の曲率だけではなく、トンネル障壁の原子スケールでの空間的変化と表面電子状態の違いによる電界遮蔽能力の違いが重要であることを明らかにした。よって本論文の表面物性工学、電子物性工学への寄与は大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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