学位論文要旨



No 118059
著者(漢字) 中尾,嘉秀
著者(英字)
著者(カナ) ナカオ,ヨシヒデ
標題(和) 局在化軌道を用いた電子相関理論の開発
標題(洋) Development of electron correlation theory with localized orbitals
報告番号 118059
報告番号 甲18059
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5517号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 水野,哲孝
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 中野,晴之
 東京大学 助教授 野原,実
内容要旨 要旨を表示する

 近年、計算機と電子状態理論の飛躍的な進歩により、非経験的な分子軌道法を用いて、分子の性質や化学反応の機構を詳細に解明できるようになった。しかし、遷移金属などの電子相関が非常に重要な系では高精度な電子状態計算が必要とされ、系が大きくなると容易に限界に達する。

 第1列遷移金属は開殻の3d軌道から生じる複数の電子配置を考慮する必要があり、電子相関の効果が大きい。このため、理論計算で取り扱うことが非常に難しく、これまであまり取り扱われてこなかった。そこで、我々の研究室で開発された多参照摂動法のMultireference Moller-Plesset (MRMP)法と名状態多参照摂動法のMulticonfigurational quasi degenerate perturbation theory (MC-QDPT)法を用いて第1列遷移金属の高精度計算を行い、前期と後期の遷移金属イオンとアンモニアの反応機構の相違を明らかにした。

 遷移金属や励起状態などの複数の電子配置が必要とされる電子状態を理論計算で取り扱う場合、CASSCF波動関数を参照関数としたMRMP法を用いる必要がある。CASSCF法は収束性の問題があるため取り扱いが難しいが、CASCI波動関数では収束性の問題がなく手軽に取り扱うことが可能である。そこで、CASCI波動関数を参照関数とした多参照摂動法(SCF-MRMP法)を二原子分子とベンゼンの垂直励起や基本的な化学反応に対して適用して、CASSCF波動関数を参照関数としたMRMP法との比較を行った。その結果、CASCI波動関数でも動的電子相関を効率的に取り込むことができることが分った。

 電子状態理論で電子相関を取り込むためには、AO積分からMO積分への積分変換が必要になる。この変換にかかるコストは2電子積分が基底関数の4乗に依存するため、5乗に依存してしまう。これらのコストを抑えるため、局在化軌道を用いた電子相関理論が近年興味を持たれている。局在化軌道を用いた場合、積分変換のコストが低下するが、エネルギーを見積もるために大きな計算コストを必要とする。本研究では、局在化軌道を用いた電子相関理論としてMoller-Plesset摂動法の理論とプログラムの開発を行い、大規模な分子系への高精度理論の適用を目指す。

 本論文は、大規模な分子への電子相関を取り込んだ電子状態理論の適用を目的として、

(1)第1列遷移金属イオンとアンモニアや水の分解反応の理論的研究

(2)CASCI波動関数を参照関数としたMRMP法

(3)局在化軌道を用いた電子相関理論

 以上、3つのテーマで構成される。

(1)第1列遷移金属イオンとアンモニアや水の分解反応の理論的研究

 Armentroutらは、気相中で遷移金属イオンを照射することにより、炭化水素化合物などの安定な分子の結合を選択的に分断する手法を開発し、様々な系での実験を試みている。例えば、第1列遷移金属イオンによるアンモニアの分解反応に関する実験では、前期と後期の遷移金属とで異なる反応経路を迫ることを報告している。本研究では、多参照摂動法(MRMP)及び多状態多参照摂動法(MC-QDPT)と共に多参照CI法のmultireference singles and doubles CI(MR-SDCI)法を適用して、第1列遷移金属イオンM+(M=Sc、Ni、Cu)とNH3の反応過程(反応中間体、遷移状態、反応経路、近接励起状態)に対する理論計算を行い、結合活性化の機構及び前期イオンと後期イオンでの反応機構の違いを明らかにした。

 実験ではFig.1に示すような反応機構が提案されている。各分子の構造をCASSCF法により決定し、エネルギーはMRMP(Cu)またはMC-QDPT(Sc,Ni)計算に零点振動の補正を行った値を用いた。Table 1にそれぞれの遷移金属イオンに対する反応過程の中間体、遷移状態、解離生成物のエネルギー(M++NH3に対する相対値)を示す。Sc+に対する計算で、H2の解離反応において3重項状態より、1重項状態が非常に安定であることが分かった。1重項状態ではScNH3+から容易にN-H結合を分断して、最安定構造HScNH2+になり、四中心の遷移状態を経てH2の解離が起きると考えられる。ただし、Sc+(3D)や後期イオンに関してはこの様な解離は反応障壁が高いために起きない。Sc+では、金属と配位子が共有結合し、更にNのπ軌道も結合に関与することで非常に安定化していることが理論計算により明らかになった。

 第1列遷移金属イオンと水の反応から生じるH2を体系的に調べるため、MO+の計算を行った。その結果、前期の3イオン(Sc+,Ti+,V+)のみが非常に強く共有結合し、安定化が起こることが明らかになった。この事は前期の3イオンでのみ、H2脱離が起きるという実験事実に合致する。

 第1列遷移金属を含んだ分子に対して高精度計算を用いることで、アンモニアや水との反応特性を明らかにした。また、金属の電子状態により反応が大きく変化することが分かった。

(2)CASCI波動関数を参照関数としたMRMP法

 励起状態などの複数の電子配置が必要とされる電子状態を理論計算で取り扱う場合、CASSCF波動関数を参照関数としたMRMP法を用いる必要がある。CASSCF法は収束性の問題があるため取り扱いが難しいが、SCF法により得られた軌道を用いたCASCI波動関数では繰り返し計算が必要で無く、収束性の問題がないので、手軽に取り扱うことが可能である。このため、大きい分子系へ適用できる可能性がある。本研究では、N2の基底状態や近接する励起状態のポテンシャル、ベンゼンのπ-π*垂直励起、H2とCOの反応の活性障壁等にMRMP(CASCI)法を適用して、MRMP(CASSCF)法との比較検討を行った。

 HF、B3LYP、BOP法で決定した軌道を用いたCASCI波動関数を参照関数としてMRMP計算を行う。ベンゼンのactive spaceは6個のπ電子、12個のπ軌道を、基底関数はCに対してDunningのcc-pVTZ、Hはcc-pVDzを、構造はR(C-C)=1.395A、R(C-H)=1.085Aを用いた。Table 2にベンゼンのπ-π*の垂直励起エネルギーを記した。MRMP(CASCI)法はMRMP(CASSCF)法と比べると絶対平均誤差は約0.1eVと小さく、MRMP(CASCI)法は正確に励起エネルギーを見積もることが明らかとなった。また、2原子分子の計算から平衡結合長、振動数、断熱遷移、基底状態や励起状態を充分な精度で取り扱えることが確認された。以上の事から、MRMP(CASCI)法は少ないコストで動的電子相関を効率的に取り込むことができる、有効な方法であると考えられる。

(3)局在化軌道を用いた電子相関理論 局在化軌道を用いた電子状態理論は電子相関を効率的に取り込むことができるため、近年興味が持たれている。特に、その効果はAO積分からMO積分への積分変換に顕著に表れる。canonical軌道を用いた積分変換では、基底関数サイズの5乗に依存して計算コストが増大するが、局在化軌道の場合はより低いコストで積分変換が可能となる。しかしながら、エネルギーを見積もるためには大きな計算コストを必要とする。本研究では、大規模な分子系への電子状態理論の適用を目指して、局在化軌道を用いたMP2法の開発を行うことを目的とする。

 occupied軌道はBoys localization法により得られるorthogonal軌道を、virtual軌道は密度行列Pを用いて(1)式で示されるように、AOをvirtual空間に射影して得られるnon-orthogonal軌道を用いる。

 Fig.2に示すように、occupied軌道iに近接するvirtual軌道の組{a}に対して、occupied軌道jに対してはvirtual軌道の組{b}にのみ励起させる。

 エネルギーの評価は(2)式で定義されるS2行列を対角化するユニタリー行列Usを求めて、固有値が小さいベクトルを除去し、規格化する行列Xsを求める。次に、(3)式で定義されるF2'(=Xs+F2XS)を対角化する行列XFを求める。以上の操作により、virtual軌道が持つ線型従属の問題が除去できる。X(=XSXF),f2(=X+F2X),V'(=X+VX)を用いてMP2の2次のエネルギーE2は(4)式のようになる。

 Table 3にcis-retinal, trans-retinal, α-carotene, β-carotene, indinavir, taxolの局在化軌道を用いたMP2の2

 次の摂動エネルギーを記した。基底関数は6-31Gを、virtual軌道はoccupied軌道から2.0A離れた軌道までを含めた。その結果、10〜20%のvirtual軌道を用いるだけで電子相関の約98%を見積もり、計算時間はtaxolでcanonicalな場合の10分の1以下となり、非常に効率よく電子相関を取り込むことができる。

 本論文では、電子相関の影響が非常に大きい遷移金属への高精度計算を行い、第1列遷移金属イオンとアンモニアや水の分解反応の機構を明らかにすることができた。また、CASCI波動関数を参照関数としたMRMP法をベンゼンや2原子分子に適用し、充分な精度を持つことが示された。局在化軌道を用いた摂動法の理論とプログラムの開発により、大規模な分子系への高精度理論計算の道を拓いた。

Fig.1. Reaction mechanisms of M+ + NH3. (a) Early transition metal cation (b) Late transition metal cation

Table 1. Energies (in kcal mol-1) of stationary points of the reactions, M+(M=Sc,Ni,Cu )+NH3.

Table 2. Vertical π-π* excitation energies (in eV) of benzene. Errors relative to MRMP are given in parentheses.

Table 3. The correlation energies by the localized MP2 method (basis 6-31G).

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「局在化軌道を用いた電子相関理論」と題し、全7章からなる。遷移金属元素を含む複雑な電子系の定量的理論計算法を確立するとともに、局在化軌道を用いた摂動法であるlocal MP2法を開発し、大規模分子系の定量的計算に新しい道を拓いたものである。

 第1章は序論であり、理論化学、特に電子状態理論の現状を分析し、複雑な電子状態を高精度に記述する理論の開発及び大規模分子系の定量的計算法の開発が急務であることが強調され、本論文の研究目的が述べられている。

 第2章は、第1列遷移金属イオンとアンモニアの分解反応の理論的研究である。複雑な電子系を定量的に扱うには、Hartree-Fock近似の誤差である電子相関エネルギーを取り込こむ必要がある。電子相関は電子の衝突から生じる動的電子相関と縮退効果などから生じる静的電子相関から成り立っている。申請者は多参照摂動法のMultireference Moller-Plesset(MRMP)法と多状態多参照摂動法のMulticonfigurational quasi degenerate perturbation theory(MC-QDPT)法を用いて第1列遷移金属イオン(Sc+,Ni+,Cu+)を用いたアンモニアの分解反応を取り上げ、理論計算からArmentroutらの実験を解釈している。また前期と後期の遷移金属イオンとアンモニアの反応機構の相違を明らかにし、静的電子相関と動的電子相関効果をバランスよく取り込むことの重要性を指摘している。

 第3章では、第1列遷移金属イオンと水との反応を理論計算から体系的に研究している。前期遷移金属イオンSc+,Ti+,V+のみが強く水と共有結合をし安定な化合物をつくること、その結果としてこれらのイオンの場合にのみH2脱離反応が起きることを明らかにしている。また、金属の電子状態により反応が大きく変化することを解明し、実験結果の解釈に成功している。

 第4章は遷移金属酸化物の理論研究をまとめている。遷移金属酸化物はさまざまな電子構造、スピン状態をとり、きわめて複雑である。申請者は系統的に第1列遷移金属酸化物を理論面より解明するとともにその物性を予測している。また、数値計算よりab initio分子軌道法と密度汎関数との比較も行っている。第2章から第4章に記述された一連の研究により複雑な電子構造をもつ遷移金属化合物の理論的取り扱いが確立されたといってよい。これらの研究は国際的にも高い評価を得ている。

 第5章は、CASCI波動関数を参照関数としたMRMP法の開発についてまとめてある。申請者は電子相関の物理的内容を吟味し、新しい定量的理論計算法を開発した。通常、静的電子相関を取り込むためにCASSCF計算を実施し、CASSCF波動関数を参照関数として変分法や摂動論によって動的電子相関理論を見積る。CASSCF法には繰り返し計算が含まれ、収束性の問題がある。一方、繰り返し計算のないCASCI波動関数は収束性の問題もなく手軽に取り扱うことができる。申請者は静的電子相関が多電子波動関数や基底関数に関して収鮫が早いことを着目し、CASCI波動関数を参照関数とした多参照摂動法(SCF-MRMP法)を開発し、数値的検証からCASSCF波動関数を基とする摂動論と同じような計算精度が得られることを明らかにした。静的電子相関は比較的低いレベルの近似でも十分に記述でき、その後の摂動論などで動的電子相関を取り込めば参照関数の近似の低さをカバーできることを示したもので、複雑な電子系や大規模電子系への応用が期待される。

 第6章は局在化軌道を用いた電子相関理論の開発である。現在、もっとも望まれていることは大規模分子系への理論化学の展開である。電子相関効果は従来、分子全体に広がった軌道、非局在軌道を用いて評価されてきた。しかし動的電子相関は電子の衝突から生じる近距離相互作用である。非局在軌道を用いると動的相関の局所的な特徴を生かすことができず、これが計算効率を悪くしている原因となっている。申請者は局在化軌道を利用した電子相関理論を開発した。相関エネルギーを見積もる新しいアルゴリズムを開発し、局在化軌道を用いた電子相関理論として2次のMoller-Plesset摂動法(Local MP2)を開発した。Local MP2法は系の大きさに関係なく比較的少数の相関軌道を用いることで電子相関の約98-99%を見積もることができること、計算時間も非局在軌道を用いるこれまでの方法に比べて10分の1以下に短縮できることを数値計算で示している。この新しい理論によって大規模分子系の定量的理論計算へ道が拓かれたといえる。

 第7章は本論文のまとめであり、分子の電子体態理論に関する将来の展望が述べられている。

 以上のように本論文は、複雑な電子状態を高精度に記述する理論の開発及び大規模分子系の定量的計算法の開発が行い、分子の電子状態計算に関する新しい知見を提供したものであり、理論化学、分子工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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