学位論文要旨



No 118061
著者(漢字) 堀場,弘司
著者(英字)
著者(カナ) ホリバ,コウジ
標題(和) 放射光光電子分光による遷移金属化合物の金属-絶縁体転移に関する研究
標題(洋) Synchrotron Radiation Photoemission Study of Metal-Insulator Transitions in Transition Metal Compounds
報告番号 118061
報告番号 甲18061
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5519号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 助教授 花栗,哲郎
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 光電子分光は、固体の物性に最も深く関わっているフェルミ準位近傍の電子状態を直接観察できる手法である。更に検出する光電子の放出角度や入社光のエネルギーを変化させて得られる角度分解光電子分光では、固体のバンド構造を直接観測することが可能であり、より詳細な電子状態を調べることができる。金属-絶縁体転移はフェルミ準位近傍の電子状態の劇的な変化物性に直接関わっており、光電子分光による研究が非常に適した系である。そこで本研究では、CDW転移に伴う金属-絶縁体転移を示す1T-TaSxSe2-xと、2重交換相互作用による金属-絶縁体転移を示す強相関酸化物La1-xSrxMnO3を対象とし、その物性の起源を解明するため、放射光を用いた高分解能光電子分光を用いて、転移点近傍における電子状態の系統的な変化の直接観察を行った。

2.実験方法:高分解能放射光ビームラインKEK-PF BL-1Cの建設

 角度分解光電子分光は、一般的には擬2次元・1次元系の単結晶試料について、エネルギー一定の励起光源を用い、光電子検出角度を変化させて行われる。この手法により試料表面と平行方向のバンド分散を直接観察することが可能である。しかしこの手法は3次元性の強い物質には適用することが困難であり、試料表面と垂直方向のバンド分散を測定することが必要となる。試料表面と垂直方向のバンド分散を測定するためには、励起光のエネルギーを変化させながら試料表面と垂直方向に放出される光電子を検出する手法(Normal Emission法)が用いられるが、この測定にはエネルギー可変の放射光源が必要不可欠となる。そこで、3次元物質の電子状態や低次元物質における3次元的相関の寄与を解明するため、高エネルギー加速器研究機構放射光研究施設において、放射光ビームラインBL-1C及び角度分解光電子分光装置の設計・建設を行った。分光器には定偏角不等間隔平面回折格子分光器を用い、3枚の回折格子により光子エネルギー20eVから250eVまでをカバーする。高い光子フラックスを達成するため、トロイダル鏡を用いることにより光学素子の数を必要最低限に抑える工夫を行った。ビームラインの特性評価においては、全てのエネルギー範囲において高い光子フラックスとエネルギー分解能10,000以上を達成した。エンドステーションにはVG ARUPS10及びScienta SES-100角度分解光電子分光装置を設置し、光子エネルギー40eVにおいて、金のフェルミ端で全エネルギー分解能6.3meVを達成した。

3.結果と考察

(1)角度分解光電子分光による1T-TaSxSe2-xの電子状態

 遷移金属ダイカルコゲナイド1T-TaSxSe2-xは高い2次元性を有し、CDW転移に伴う物性に興味が持たれている。本来2次元系のCDW転移はフェルミ面のネスティングが不完全であるためにCDW状態においても系は金属性を有することが知られているが、1T-TaSxSe2-xはx=1.2とx=1.5の間で金属-絶縁体転移を示す。その絶縁性の越原は、Mott局在によるというモデルと、層間の3次元的相互作用によるというモデルが提案されているが、未だ解明されていない。

 そこで本研究では、まず1T-TaS2との比較によりその金属-絶縁体転移の起源を探るため、金属的挙動を示すSeエンドの1T-TaSe2について、角度分解光電子分光により詳細な電子状態の解析を行った。実験的に得られた結晶表面に平行方向のバンド構造においては、Ta 5dに由来するバンドがCDWの超周期構造により0.2eV付近と0.8eV付近の2本のサブバンドに分裂している様子が確認出来た。また、フェルミ準位を明瞭に横切るバンドは確認出来なかったが、フェルミ準位に有限の大きさの電子状態密度が存在している様子が観測された。これはN. V. Smithらによってなされた、CDWの超周期構造によりバンドが折りたたまれることを考慮した理論計算の結果と定性的に良い一致を示している。このことは1T-TaSe2のバンド構造が、CDWの超周期構造により折りたたまれたTa 5dバンドの描像で基本的に理解できることを示している。

 1T-TaSe2の結晶表面に垂直な方向のバンド分散においては、平行方向のバンド構造と同様の、0.2eV付近と0.8eV付近の2本の平坦なバンドの他に、k⊥=±0.25A-1付近でフェルミ準位を横切り、г点で最もフェルミ準位から離れるようなもう1本のバンドが観測された。このことから、1T-TaSe2はCDW状態においても、無視できない大きさの3次元的な層間相互作用を有していることがわかる。一方1T-TaS2においてはこのような垂直方向のバンド分散は確認されないことから、層間の相互作用は非常に小さいといえる。このことは1T-TaS2の絶縁性が層間のダイマリゼーションによって起こるという描像に対して否定的である。一方層間相互作用の増大はp-d混成の増大によって引き起こされると考えられ、それによって面内のクラスター間のトランスファーも増大すると考えられるので、この結果はMott局在の描像に矛盾しない。

 本研究では、更に金属-絶縁体転移近傍の電子状態の変化からその物性の起源を探るため、転観点近傍の両組成であるx=1.2とx=1.5について角度分解光電子分光を行った。絶縁体相のx=1.5の試料においてはフェルミ準位に約60meV程度のギャップが存在し、フェルミ準位近傍の下部ハバードバンドに由来すると考えられるピーク強度が大きく増大する様子が観測された。一方で、金属相のx=1.2の試料においては、フェルミ準位にギャップは観測されなかったが、フェルミ準位近傍には下部ハバードバンドの名残りと思われるピークが観測された。これらの電子状態はモット転移の描像に良く一致し、この系の金属-絶縁体転移がモット局在によるということを強く示唆するものである。

(2)in situレーザーMBE-光電子分光装置の開発

 強相関酸化物の電子状態の解明を目的として、これまでに光電子分光を用いた研究が盛んに行われている。しかしながら、劈開面のない3次元物質においては、ヤスリがけや破断といった表面状態が定義出来ない試料表面清浄法が用いられており、それに起因すると考えられる様々な解釈の食い違いが生じている。このような問題を解決するためには、試料表面を原子レベルで制御し、かつ作製した試料をin situで光電子分光測定することが必要不可欠である。そこで、従来の光電子分光測定の問題を克服し、強相関系化合物の電子状態を解明するために、光電子分光装置とコンビナトリアルレーザーMBE装置を超高真空中で連結した複合装置の開発を行った。レーザーMBEにより表面を原子レベルで制御した試料を作製し、試料評価槽において表面状態を評価した後、光電子測定槽に搬送する。光電子分光装置の性能としては、到達真空度3×10-11Torr、試料品度20K〜400K、エネルギー分解能6meV、角度分解能0.2°を達成した。

(3)in situ放射光光電子分光によるLa1-xSrxMnO3薄膜の電子状態

 ペロブスカイト型Mn酸化物La1-xSrxMnO3は、超巨大磁気抵抗効果やハーフメタリック等、非常に特異な物性を示す。この物質の物性の起源を解明するため、光電子分光を用いた電子状態の研究が盛んに行われている。しかしながら、光電子分光で観測されるフェルミ準位近傍における状態密度の抑制は、試料表面のdisorder等の本質的でない要因に起因するという指摘もなされている。この問題を解決するために、La0.6Sr0.4MnO3単結晶試料をヤスリがけして得られた表面のスペクトルと、in situで作製したLa0.6Sr0.4MnO3薄膜表面のスペクトルとの比較を行った。Bulk試料ではin situ薄膜試料に比ベフェルミ準位近傍のeg準位の強度が大幅に減少している様子が観測された。更に薄膜試料においては、2p-3d共鳴領域において明確なフェルミ端が観測された。薄膜には基板からの歪み等の影響も存在するために単純な比較は出来ないが、従来の光電子スペクトルにおけるフェルミ準位近傍の状態密度の抑制は表面のdisorderによるところが大きいと考えられる。

 このように試料の表面状態におけるスペクトルヘの寄与を精密に特定した上で、La1-xSrxMnO3薄膜の金属-絶縁体転移に伴う電子状態の変化を調べるため、Sr組成をx=0からx=0.55まで系統的に変化させたLa1-xSrxMnO3薄膜を作製し、そのin situ光電子分光を行った。Sr置換に伴い、最もフェルミ準位に近いeg準位の状態密度が減少する様子が観測された。このことは、Sr置換によってMn3dのeg準位にホールがドープされていることを示している。また、ホールドープに伴い価電子帯がスペクトル形状を一定に保ったまま、全体が低結合エネルギー側にシフトしていく様子が観測された。この結果は、La1-xSrxMnO3薄膜のホールドープに電子構造の変化は、基本的にRigid Band描像で記述できることを示しており、La1-xSrxMnO3の金属-絶縁体におけるPhase Separationの可能性に対して否定的な結果であると言える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、金属-絶縁体(MI)転移を示す遷移金属化合物において、放射光光電子分光を用いて観察されたそのMI転移における電子状態の変化について述べられたものである。光電子分光は、固体の物性に最も深く関わっているフェルミ準位近傍の電子状態を直接観察できる優れた手法であるが、非常に表面敏感な手法であるためにその表面処理に伴う様々な問題が生じている。本論文では従来の光電子分光の問題点を克服するために新しい光電子分光装置を開発し、その装置を用いることにより従来得られなかった電子状態に関する新たな知見を得ている。

 第1章では、本研究のテーマである光電子分光によるMI転移における電子状態の研究について述べられている。特に、本研究で取り扱う2つの物質、1T-TaSxSe2-xとLa1-xSrxMnO3におけるMI転移と従来の研究における問題点について述べられている。1T-TaSxSe2-xでは角度分解光電子分光による電子状態の系統的な情報がないためにこれまでそのMI転移の起源が理解されていなかった。特に、2次元層状化合物であるこの系において層間の3次元的相互作用が重要であるという指摘がなされており、3次元的なバンド構造の実験的決定が必要とされていた。La1-xSrxMnO3においては、これまで光電子分光による研究は盛んに行われているものの、その表面状態によりスペクトルが正確な電子状態を反映していないという議論が生じていた。また、劈開面を持たない3次元物質であるために、角度分解光電子分光によるバンド構造の決定が不可能であった。

 第2章では、本研究で用いた光電子分光の原理とそれを発展させた角度分解光電子分光や共鳴光電子分光等の分析手法について述べられている。特に、本研究で主に使用した放射光の励起光エネルギーが可変であるという特徴を生かすことによって可能となる、試料表面に垂直方向のバンド分散の測定原理(Normal Emission法)や共鳴光電子分光の手法について述べられている。

 第3章では、KEK-PFにおいて新しく建設した真空紫外光放射光ビームラインBL-1Cについて述べられている。試料表面と垂直方向のバンド分散を測定するためには、励起光のエネルギーを変化させながら試料表面と垂直方向に放出される光電子を検出する手法(Normal Emission法)が用いられるが、この測定にはエネルギー可変の放射光源が必要不可欠となる。そこで、3次元物質の電子状態や低次元物質における3次元的相関の寄与を解明するため、高エネルギー加速器研究機構放射光研究施設において、放射光ビームラインBL-1C及び角度分解光電子分光装置の設計・建設を行った。分光器には定偏角不等間隔平面回折格子分光器を用い、3枚の回折格子により光子エネルギー20eVから250eVまでをカバーする。高い光子フラックスを達成するため、トロイダル鏡を用いることにより光学素子の数を必要最低限に抑える工夫を行った。ビームラインの特性評価においては、全てのエネルギー範囲において高い光子フラックスとエネルギー分解能10,000以上を達成した。エンドステーションにはVG ARUPS10及びScienta SES-100角度分解光電子分光装置を設置し、光子エネルギー40eVにおいて、金のフェルミ端で全エネルギー分解能6.3meVを達成した。

 第4章では、電荷密度波転移に伴うMI転移を示す物質1T-TaSxSe2-xについて、上記ビームラインを用いて得られた光電子分光の結果が述べられている。遷移金属ダイカルコゲナイド1T-TaSxSe2-xは高い2次元性を有し、CDW転移に伴う物性に興味が持たれている。本来2次元系のCDW転移はフェルミ面のネスティングが不完全であるためにCDW状態においても系は金属性を有することが知られているが、1T-TaSxSe2-xはx=1.2とx=1.5の間でMI転移を示す。その絶縁性の起源は、Mott局在によるというモデルと、層間の3次元的相互作用によるというモデルが提案されているが、未だ解明されていない。そこで本論文において、角度分解光電子分光により詳細な電子状態の解析を行った。1T-TaSe2の結晶表面に垂直な方向のバンド分散においては、平行方向のバンド構造と同様の、0.2eV付近と0.8eV付近の2本の平坦なバンドの他に、k⊥=±0.25 A-1付近でフェルミ準位を横切り、Γ点で最もフェルミ準位から離れるようなもう1本のバンドが観測された。このことから、1T-TaSe2はCDW状態においても、無視できない大きさの3次元的な層間相互作用を有していることがわかる。一方1T-TaS2においてはこのような垂直方向のバンド分散は確認されないことから、層間の相互作用は非常に小さいといえる。このことは1T-TaS2の絶縁性が層間のダイマリゼーションによって起こるという描像に対して否定的である。一方層間相互作用の増大はp-d混成の増大によって引き起こされると考えられ、それによって面内のクラスター間のトランスファーも増大すると考えられるので、この結果はMott局在の描像に矛盾しない。更にMI転移近傍の両組成であるx=1.2とx=1.5については、絶縁体相のx=1.5の試料においてはフェルミ準位に約60meV程度のギャップが存在し、フェルミ準位近傍の下部ハバードバンドに由来すると考えられるピーク強度が大きく増大する様子が観測された一方で、金属相のx=1.2の試料においては、フェルミ準位にギャップは観測されなかったが、フェルミ準位近傍には下部ハバードバンドの名残りと思われるピークが観測された。これらの電子状態はモット転移の描像に良く一致し、この系の金属-絶縁体転移がモット局在によるということを示唆していると結論づけた。

 第5章では、従来の酸化物の光電子分光における表面の問題を克服するために開発した、in situ光電子分光-レーザーMBE複合装置について述べられている。強相関酸化物の電子状態の解明を目的として、これまでに光電子分光を用いた研究が盛んに行われている。しかしながら、劈開面のない3次元物質においては、ヤスリがけや破断といった表面状態が定義出来ない試料表面清浄法が用いられており、それに起因すると考えられる様々な解釈の食い違いが生じている。また、そのような3次元物質においては角度分解光電子分光によるバンド構造の決定が不可能であった。このような問題を解決するためには、試料表面を原子レベルで制御し、かつ作製した試料をin situで光電子分光測定することが必要不可欠である。そこで、従来の光電子分光測定の問題を克服し、強相関系化合物の電子状態を解明するために、光電子分光装置とコンビナトリアルレーザーMBE装置を超高真空中で連結した複合装置の開発を行った。レーザーMBEにより表面を原子レベルで制御した試料を作製し、試料評価槽において表面状態を評価した後、光電子測定槽に搬送する。光電子分光装置の性能としては、到達真空度3×10-11Torr、試料温度20K〜400K、エネルギー分解能6meV、角度分解能0.2°を達成した。本装置によりレーザーMBEを用いて作製した酸化物薄膜の"その場"光電子観察及び単結晶表面の角度分解光電子分光が可能となった。

 第6章では、上記の装置を用いて得られたLa1-xSrxMnO3のin situ光電子分光について述べられている。ペロブスカイト型Mn酸化物La1-xSrxMnO3は、超巨大磁気抵抗効果やハーフメタリック等、非常に特異な物性を示す。この物質の物性の起源を解明するため、光電子分光を用いた電子状態の研究が盛んに行われている。しかしながら、光電子分光で観測されるフェルミ準位近傍における状態密度の抑制は、試料表面のdisorder等の本質的でない要因に起因するという指摘もなされている。この問題を解決するために、La0.6Sr0.4MnO3単結晶試料をヤスリがけして得られた表面のスペクトルと、in situで作製したLa0.6Sr0.4MnO3薄膜表面のスペクトルとの比較を行った。その結果、Bulk試料ではin situ薄膜試料に比ベフェルミ準雌傍のeg準位の強度が大幅に減少している様子が観測された。更に薄膜試料においては、2p-3d共鳴領域において明確なフェルミ端が観測された。これらの結果から、従来の光電子スペクトルにおけるフェルミ準位近傍の状態密度の抑制は表面のdisorderによるところが大きいことを見いだした。このように試料の表面状態におけるスペクトルヘの寄与を精密に特定した上で、La1-xSrxMnO3薄膜の金属-絶縁体転移に伴う電子状態の変化を調べるため、Sr組成をx=0からx=0.55まで系統的に変化させたLa1-xSrxMnO3薄膜を作製し、そのin situ光電子分光を行った。その結果、ホールドープに伴い価電子帯がスペクトル形状を一定に保ったまま、全体が低結合エネルギー側にシフトしていく様子が観測された。この結果は、La1-xSrxMnO3薄膜のホールドープに電子構造の変化は、基本的にRigid Band描像で記述できることを示しており、La1-xSrxMnO3のMI転移においてはPhase Separationが生じていないことを示唆していると結論づけた。また3次元物質であるLa1-xSrxMnO3のバンド構造を実験的に初めて決定することに成功した。

 以上、本論文は従来の光電子分光の問題点を克服するための新しい装置の開発、及びその装置を用いることにより得られた電子状態に関する新たな知見について述べられている。特に強相関酸化物薄膜のin situ光電子分光測定を可能にしたことは、基礎物理の発展のみならず、近年半導体に変わる新規デバイスとして期待されている「強相関エレクトロニクス」におけるデバイス特性の制御、作成プロセスの最適化という応用上の観点からも新しい分析手法として萌芽的、開拓的な成果を与えていると言える。

 以上のことから、本論文は博士(工学)の学位にふさわしい内容を持つものと判断した。

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