学位論文要旨



No 118076
著者(漢字) 長尾,正顕
著者(英字)
著者(カナ) ナガオ,ショウケン
標題(和) 架橋セレン配位子を含む遷移金属多核錯体の合成と反応性に関する研究
標題(洋) Studies of Syntheses and Reactions of Multinuclear Transition-Metal Complexes Containing Bridging Selenium Ligands
報告番号 118076
報告番号 甲18076
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5534号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 溝部,裕司
 東京大学 教授 荒木,孝二
 東京大学 助教授 工藤,一秋
 東京大学 助教授 野崎,京子
 東京大学 講師 金原,数
内容要旨 要旨を表示する

1緒言

 工業的水素化脱硫触媒や様々な生体内酵素の活性部位において複数の遷移金属が硫黄で架橋された構造が存在することから、当研究室では、遷移金属-イオウクラスターの合成と反応性について詳細に研究を行ってきた。一方、遷移金属-セレンクラスターは、硫黄架橋クラスターと立体的、電子的に反応性が異なることが期待できるが、含セレン錯体についての研究は非常に限られている。そこで、本研究では架橋セレン配位子を含む新規な遷移金属多核錯体を合成し、その反応性を検討することを目的とした。

2ビスヒドロセレニド架橋二核錯体およびヒドロスルフィド-ヒドロセレニド架橋二核錯体の反応性

 ヒドロスルフィド架橋二核錯体[Cp*MCl(μ-SH)]2(2)は、種々のクラスター合成の有用な前駆体であることが明らかとなっている。最近当研究室で[Cp*MCl2]2(Cp*=η5-C5Me5, M=Rh(1a), Ir(1b))とH2Seの反応により、錯体2のヒドロセレニドアナログである[Cp*MCl(μ-SeH)]2(M=Rh(3a), Ir(3b))が得られることが見いだされた。このビスヒドロセレニド架橋二核錯体3を前駆体とした混合金属多核錯体の合成について検討した。

 錯体3とFeCl2との反応で[(Cp*M)2(μ3-Se)2FeCl2](M=Rh(4a), Ir(4b))が、またM'Cl2(cod)(cod=cyclooctadiene, M'=Pd, Pt)との反応で[(Cp*M)2(μ3-Se)2M'Cl2](5a: M=Rh, M'=Pt; 5b: M=Ir, M'=Pt; 5c: M=Ir, M'=Pd)が中程度の収率で単離でき、[Cp*IrCl(μ-SeH)]2(3b)と[RhCl(cod)]2との反応では、ロジウム錯体からcod配位子は脱離せず塩素配位子が脱離して反応した[(Cp*Ir)2(μ3-Se)2Rh(cod)][RhCl2(cod)](6)が単離できた。また、錯体3bとCoCl2との反応では三核錯体は得られず、カチオン性の五核クラスターが生成し、アセトニトリルから再結晶することで[(Cp*Ir)4Co(μ3-Se)4][CoCl3(MeCN)]2(7)が得られてきた。類似の骨格を持つイリジウム-鉄五核クラスター[(Cp*Ir)4Fe(μ3-Se)4][BPh4]2(8)はイリジウム-鉄三核クラスター4bと当量の錯体3b、過剰量のNaBPh4を加えることで得られた(Scheme1)。ここまで得られたクラスターについては、ヒドロスルフィド錯体から同じ構造を持ったクラスターが同様に合成できるが、5a, 5bの合成において反応は室温で進行し、50℃の加熱が必要な硫黄アナログでの反応と違いが見られた。また、ビスヒドロスルフィド錯体3は、ニッケル塩との反応でクラスター7,8と類似の骨格を持つボウタイ型五核クラスター[(Cp*Ir)4Ni(μ3-S)4]2+を与えることが知られているが、ビスヒドロセレニド錯体の場合、対アニオンとしてニッケルを含む四核キュバン型クラスター[(Cp*Ir)4(μ3-Se)4][NiCl4]のみが得られた。

3ヒドロスルフィド-ヒドロセレニド架橋二核錯体の合成と反応性

 [Cp*IrCl2]2(1b)と1当量のセレン化水素を反応させると、架橋塩素配位子が一つヒドロセレニド配位子に置換された[(Cp*IrCl)(μ-Cl)(μ-SeH)](9)を90%、錯体3bを5%、原料1bを5%の割合で含む混合物が得られてきた。錯体9を主生成物として含むこの混合物をH2Sガスで処理すると、[(Cp*IrCl)(μ-SH)(μ-SeH)](10)を90%の割合で含む黄色粉末を得ることができた(Scheme2)。錯体9,10は単離精製することはできなかったため、さらに金属錯体を反応されることにより混合カルコゲニドクラスターとして単離することを目指し反応を検討した。

 錯体10を含む混合物とFeCl2を反応させることで、[(Cp*Ir)2(μ3-S)(μ3-Se)FeCl2](11)が中程度の収率で得られ、FAB-MSより混合カルコゲニドクラスター11のみが単離されていることが明らかとなった。錯体10もビスヒドロセレニド架橋二核イリジウム錯体3bと同様の反応性を示し、M'Cl2(cod)との反応で[(Cp*Ir)2(μ3-S)(μ3-Se)M'Cl2](M'=Pt(12a), Pd(12b))の三核クラスターが得られ、CoCl2との反応でジカチオン性ボウタイ型五核クラスター13が、イリジウム-鉄三核クラスター11とNaBPh4との反応でクラスター14がそれぞれ中程度の収率で単離できた。錯体10を用いたこれらの反応も全て室温で進行し、ビスヒドロスルフィド錯体2bよりも反応性が高いことが明らかとなった。得られた錯体の中で、イリジウム-コバルト五核クラスター13のIr2-Co平面同士の二面角がテトラスルフィドアナログ、テトラセレニドアナログより大きくなっており、構造的な違いが見られた。また、イリジウム-白金三核クラスター12bとPPh3の反応を行うと、セレン原子のトランス位にある塩素配位子が選択的に置換されたクラスター15が得られた。これは、スルフィド配位子とセレニド配位子のトランス効果の違いを反映していると考えられる(Scheme3)

4テトラセレニド配位子で架橋された二核イリジウム錯体の合成と反応性

 ポリカルコゲニド鎖を配位子とする錯体は比較的よく知られており、その反応性には期待が持たれる。そこで、[Cp*IrCl2]2(1b)に導入するセレン源としてリチウムセレニド(Li2Sen)を用い、反応条件を種々検討したところ、原料錯体1bに対してLi2Se4を50℃、1時間反応させることで、2つのイリジウム間をテトラセレニド配位子が非対称に架橋している二核錯体[Cp*Ir(μ-Se4)]2(16)の黒色結晶が得られた。錯体16の硫黄アナログ[Cp*Ir(μ-S4)]2(17)についても錯体1bとリチウムスルフィドから合成できるがこの錯体は既知の錯体であり、[Cp*Ir(CO)2]と硫黄との反応で得られることがすでに報告されている。興味深いことに[Cp*Ir(CO)2]とセレンとの反応で[(Cp*Ir)2(μ-Se)(μ-Se4)](18)が得られることが知られているが、加えるセレンの量を増やしても錯体16は得られない。ここで錯体16と3級ホスフィンとの反応を検討したところ、3当量の三級ホスフィンを反応させるとセレン3原子が脱離し、錯体18が得られることが明らかとなった。しかしながら、硫黄アナログ17とホスフィンとの反応では、この反応はきれいに進行しなかった。

 錯体16に対し遷移金属を挿入することで多核クラスターを合成することを目指し、後周期低原子価錯体との反応を検討した。[Cp*Ir(μ-Se4)]2(16)に対し1当量の[Pd(PPh3)4]を室温で反応させた後に分離精製を行うことで、四核クラスター[(Cp*Ir)2{Pd(PPh3)}2(μ3-Se)2(μ2-Se)](19)と五核クラスター[(Cp*Ir)2{Pd(PPh3)}3(μ3-Se)3(μ3-Se2)](20)をそれぞれ低収率ながら得ることができた。この反応を低温から行うと、クラスター19が主生成物となり、中程度の収率で単離することができた。硫黄アナログ17についても同様の反応を試み、反応条件を様々検討したが生成物は複雑な混合物となってしまい、クラスターを単離することはできなかった。一方、テトラセレニド錯体に1当量、2当量、過剰量のアセチレンジカルボン酸ジメチル(DMAD)を加えると、テトラセレニド配位子が段階的にジセレノレン配位子に変換され、二核錯体[Cp*Ir{μ-Se2C2(COOMe)2}(μ-Se4)IrCp*](21)、単核錯体[Cp*Ir{Se2C2(COOMe)2}](22)、[Cp*Ir{SeC(COOMe)=C(COOMe)SeC(COOMe)=C(COOMe)}](23)が得られることが判明した。プロピオール酸メチルとの反応では21に対応する[Cp*Ir{μ-Se2C2H(COOMe)}(μ-Se4)IrCp*](24)は同様に得られるが、22に対応するジセレノレン錯体は結晶状態ではダイマー構造を有する[Cp*Ir{Se2C2H(COOMe)}]2(25)であり、これ以上プロピオール酸メチルとは反応しなかった。

 硫黄アナログであるテトラスルフィド架橋錯体のDMADとの反応は非常に遅く、室温で2日反応させることで22の硫黄アナログ26が、30日反応させることで23の硫黄アナログ27が得られジチオレン-テトラセレニド二核錯体21に対応する錯体は1HNMRでも観測することはできなかった。また、プロピオール酸メチルとの反応においても、錯体24に対応する硫黄アナログは観測されず、ジチオレン錯体も結晶中で単核の構造を取っている錯体28であることが判明し、テトラスルフィド錯体とテトラセレニド錯体で違いが見られた(Scheme4)。

Scheme1

Scheme2

Scheme3

Scheme4

審査要旨 要旨を表示する

 カルコゲン配位子によって架橋され、複数の金属が近接して存在する遷移金属・カルコゲンクラスターは、その多核の金属中心を反応場として用いることにより、基質の変換反応において高い触媒活性を発現することが期待できる化合物である。しかしながら、クラスター合成の一般性のある手法は未だ確立されているとは言えず、その合理的な合成法の開発が望まれている。また、含セレンクラスターと含硫黄クラスターの反応性の違いにも興味がもたれるが、含セレンクラスターの合成法についての研究は、含硫黄クラスターの合成法に比べ非常に限られている。本論文は架橋セレン配位子を骨格に含むクラスターの合理的な合成法の開発、および得られたクラスターの基質との反応性について述べたものであり、全5章で構成されている。

 第1章では、序論としてクラスターに期待できる反応性とこれまで行われてきたクラスター合成の手法、および一般的な含硫黄化合物と含セレン化合物の違いについて概観し、本研究の背景と目的を述べている。

 第2章では、ヒドロセレニドで架橋されたイリジウムあるいはロジウム二核錯体を出発原料としたセレン架橋混合金属クラスターの合成法について述べている。これらヒドロセレニド架橋二核錯体は、塩化鉄、ロジウム錯体、パラジウム錯体、白金錯体とそれぞれ反応し、新規な構造を有する一連の混合金属三核クラスターを与えることを見いだしている。また、ヒドロセレニド架橋二核イリジウム錯体に対する塩化コバルトおよびセレニド架橋三核イリジウム-鉄クラスターの反応で、それぞれボウタイ型五核クラスターを得ることに成功し、ヒドロセレニド架橋二核錯体が混合金属クラスター合成において有用な前駆体となることを見いだしている。得られた三核、五核クラスターについて類似のスルフィド架橋クラスターとの構造の違いを明らかにし、さらにイリジウム-コバルト五核クラスターについてスルフィド架橋クラスターとセレニド架橋クラスターの酸化還元電位の比較を行い、含セレンクラスターの酸化還元挙動を明らかにしている。

 第3章では、硫黄とセレンを配位子に持つ混合カルコゲニドクラスターの合成法について述べている。ヒドロスルフィド-ヒドロセレニド架橋二核イリジウム錯体を新規に合成し、この錯体に対する金属の取り込みを検討し、第2章と同様な反応を行うことで硫黄とセレンを含んだ三核、五核の混合カルコゲニドクラスターの合成に成功し、得られたクラスターについて詳細に構造を決定している。混合カルコゲニドクラスターを段階的に合成した報告例はこれまでわずかしか無く、本論文で見いだされた合成法は非常に有用である。また、イリジウム-パラジウムクラスターに対してホスフィンによる塩素配位子の置換反応を行い、硫黄とセレンの中心金属に与えるトランス効果の違いを明らかにしている。

 第4章では、新規に合成したテトラセレニド架橋二核イリジウム錯体について同定を行い、さらに金属錯体との反応による混合金属多核クラスターの合成、および有機基質との反応性において類似のテトラスルフィド架橋二核イリジウム錯体との比較検討を行っている。まず、リチウムセレニドを用いることで二核イリジウム錯体上にテトラセレニド配位子を導入し、この配位子を低原子価パラジウム錯体に酸化的付加をさせることによりイリジウム-パラジウム四核あるいは五核クラスターの合成に成功している。特に、得られた五核クラスターはこれまでにないユニークな構造を有していることが明らかになっている。さらにテトラセレニド架橋イリジウム二核錯体と有機基質との反応を検討している。この錯体は三級ホスフィンを反応させると、類似の硫黄錯体では見られないセレン三原子の脱離が進行し、モノセレニド-テトラセレニド架橋錯体に変換されることを見いだしている。また、活性アセチレン類との反応によりテトラセレニド配位子をジチオレン配位子へ変換する反応を見いだしている。得られたジセレノレン錯体が同様な反応によって得られた類似のジチオレン錯体には見られない構造を有しており、ジセレノレン錯体のセレン原子の有する配位力がジチオレン錯体の硫黄原子よりも強いために得られる錯体に違いが現れることを明らかにしている。

 第5章では、第2章から第4章に述べられた成果を総括し、さらに本研究の今後の展望を述べている。

 以上のように本論文では、金属-セレンフラグメントを用いることで、これまで報告例の少なかったセレンを含んだ混合金属クラスターを合理的合成法により幅広く単離することに成功するとともに、類似の硫黄架橋クラスターと構造・反応性の違いを明らかにしている。これらの成果は現在注目を集めている遷移金属多核錯体の化学における重要な知見であり、その今後の発展に大きく寄与するものと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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