学位論文要旨



No 118077
著者(漢字) 樋口,麻衣子
著者(英字)
著者(カナ) ヒグチ,マイコ
標題(和) 原癌遺伝子Aktによる細胞運動の制御
標題(洋)
報告番号 118077
報告番号 甲18077
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5535号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 多比良,和誠
 東京大学 助教授 関,実
 東京大学 講師 新海,政重
内容要旨 要旨を表示する

1緒言

 癌の発生に関与する遺伝子には、癌遺伝子と癌抑制遺伝子があり、それらの遺伝子の変異が多段階的に蓄積することが、癌の発生および悪性化の原因である。通常、生体には細胞の増殖、分化、死などを調節する制御機構があり、それらが正常に保たれていることが生体の維持に必要である。しかし、遺伝子の変異によりこの制御機構を逸脱した細胞が出現すると、細胞が異常増殖を始め、癌が発生する。さらに遺伝子変異が蓄積し、癌細胞が運動性を獲得すると癌は悪性し、他の組織への浸潤・転移を起こす(図1)。このため、細胞運動のメカニズムの詳細を解明することができれば、癌の悪性化に対する予防治療への応用が期待できる。

 細胞運動には、アクチン細胞骨格系の再編成が重要であり、その中心的な役割を果たしているのがRhoファミリーGタンパク質である。繊維芽細胞は血小板由来成長因子(PDGF)などの刺激により運動性が上昇するが、このとき細胞内では、PI3キナーゼが活性化し、その下流でRhoファミリーGタンパク質のRac/Cdc42が活性化する。活性化されたRac/Cdc42はさらに下流のエフェクターを介してアクチン重合を促進し、細胞の運動性を上昇させる(図2)。一方、Rac/Cdc42と同様にPI3キナーゼの下流で活性化されるものとして、Aktがよく知られている。Aktはウイルス性癌遺伝子v-Aktの細胞性ホモログとして同定されたキナーゼで、Aktの増幅・活性化が癌の悪性化と密接な相関があることが知られている。Aktは細胞の生存を促進することが様々な系で報告されているが、Rac/Cdc42との関係および細胞運動への関与については不明であった(図3)。そこで、本研究では、哺乳類繊維芽細胞において、Aktが運動性に関与する可能性について検討を行った。

2Aktによる細胞運動の制御

 本研究では、細胞の運動性を評価するために、Boyden Chamberを用いたMigration Assayを行った。このアッセイでは、多孔性membraneの上層に細胞をまき、一定時間後に下層に移動した細胞をカウントすることにより、運動性を評価する(図4)。

2-1Aktの導入による運動性の変化

 Rat1繊維芽細胞にPDGF刺激を加えた時の運動性の変化について検討を行った。細胞にPDGF刺激を加えると運動性が上昇した。これまでの報告通り、優性抑制型Racを細胞に導入すると、PDGF刺激による運動性の上昇が阻害されたが、優性抑制型Cdc42およびRhoでは阻害されなかった。本研究では、優性抑制型Aktを導入することにより、PDGF刺激による運動性の上昇が著しく阻害されることを見出した(図5)。このことから、PDGF刺激による運動性の上昇にはAktの活性が必要であるということが示された。

 次に、活性型Aktを細胞に導入することにより、運動性の上昇が見られるか、検討を行った。細胞に活性型RacおよびCdc42を導入すると、これまでの報告通り細胞の運動性が上昇した。今回、活性型Aktを導入した場合にも、細胞の運動性が著しく上昇することを見出した(図6)。このことから、Aktの活性化が細胞の運動性上昇に十分であるということがはじめて示された。

2-2Rac/Cdc42とAktの関係

 AktはT308とS473がリン酸化されることで活性化される。そこで、リン酸化型Aktに対する抗体で細胞染色を行い、細胞内のどこでAktが活性化されているか、検討を行った。RacおよびCdc42は運動方向先端のleading edgeに局在するが、リン酸化型Aktも同様にleading edgeに局在し、それらの局在が重なることが示された(図7)。このことから、Rac/Cdc42の下流でAktが活性化されている可能性が示唆された。そこで、Rac/Cdc42をNIH 3T3細胞に導入し、リン酸化型Aktに対する抗体でウエスタンブロッティングを行った。活性型Rac/Cdc42の導入により、いずれもAktのリン酸化が上昇した(図8)。このことから、Rac/Cdc42の下流でAktが活性化されていることが示された。そこで次に、Rac/Cdc42とAktの関係について、Migration Assayを行い、検討した。活性型Rac/Cdc42によって上昇した細胞の運動性は、優性抑制型Aktを導入することにより完全に抑制された(図9)。このことから、Rac/Cdc42による運動性の上昇にはAktの活性が必要であるということが示された。

2-3PTENノックアウトマウス由来細胞の運動性

 実際にAktが癌細胞の運動性に関与する可能性について検討した。癌抑制遺伝子PTENは、さまざまな癌において欠損や変異が見つかっている。PTENはリン脂質フォスファターゼ活性を持ち、PI3Kによって産生されるリン脂質を脱リン酸化することでPI3キナーゼの活性と拮抗する。実際に、PTENのノックアウトマウス由来の細胞では、その運動性が著しく上昇していること、Rac/Cdc42の活性が上昇していること、Aktのリン酸化が亢進していることが報告されている。これまで、運動性の上昇についてはRac/Cdc42の活性の上昇が貢献していると考えられていた。

 そこで本研究では、PTENノックアウトマウス由来の繊維芽細胞の運動性上昇にAktが関与する可能性について検討した。PTENノックアウトマウス由来の繊維芽細胞に優性抑制型Rac/Cdc42を導入すると、運動性の上昇が抑制された。そして今回、優性抑制型Aktを導入した場合にも、運動性の上昇が著しく抑制された(図10)。このことから、PTENノックアウトマウス由来の繊維芽細胞の運動性上昇にもAktが関与していることが示された。

 以上、細胞運動性についてのまとめ図を図11に示す。Aktは癌原遺伝子であるが、その癌化のメカニズムは必ずしも明らかではない。本研究の結果から、Aktが細胞の運動性・浸潤能の上昇に関与している可能性が示唆された。

3Aktによる神経突起伸長の制御

 繊維芽細胞における運動方向先端のleading edgeと神経突起先端のgrowth coneは、同じようなメカニズムで方向性を持った動きをしていると考えられている(図12)。本研究により繊維芽細胞の運動性にAktが関与することが明らかになったため、神経突起伸長にもAktが関与する可能性について検討を行った。本研究では、神経成長因子(NGF)刺激により神経突起を伸ばし、神経細胞のモデルとして用いられる培養細胞であるPC12細胞を用いて実験を行った。

3-1活性型Aktの細胞内局在

 神経突起を伸ばしたPC12細胞において、どこでAktが活性化されているのか、リン酸化型Aktに対する抗体で細胞染色を行った(図13)。まず、phalloidineによりF-actinを染色すると、growth coneにアクチンが集積し、またRacはこれまでの報告通り、growth coneに局在していることが確かめられた。今回、リン酸化型Aktも、Racと同様にgrowth coneに局在し、神経突起先端でAktが活性化されていることが示唆された。

 AktはPHドメインを介してPI3キナーゼの産生したPIP3に結合するため、AktのPHドメインとGFPとの融合タンパク質GFP-PHAktはPI3キナーゼの活性モニターとして用いられ、Aktが活性化する場所を可視化することができる。そこで、GFP-PHAktをPC12細胞に導入し、NGF刺激による局在の変化を観察した(図14)。GFP-PHAktはNGF刺激によりすばやく細胞膜付近に移行し、その後細胞体から突出する突起の先端に局在することがわかった。これらの結果から、Aktが神経突起伸長において何らかの役割を果たしていることが示唆された。

3-2神経突起の形態変化

 Aktが神経突起伸長においてどのような役割を果たしているのか検討するため、NGF刺激による神経突起の形態の変化を観察した。活性型Aktを細胞に導入すると、神経突起の伸長が著しく促進された。このとき、細胞体から伸びる神経突起の数が減少し、突起の分岐が減少するという特徴が見られた。一方、活性型RacおよびCdc42を導入した細胞では突起の分岐が著しく促進され、活性型Aktの特徴とは異なることがわかった(図15)。そこで、これらの結果を3つのパラメーターで比較した。神経突起の長さの比較を図16(A)に示す。活性型Aktを導入すると、神経突起の長さが著しく促進されることがわかった。細胞体から伸びる神経突起の数の比較を図16(B)に示す。活性型Racを導入すると神経突起の数が増加するが、逆に活性型Aktでは神経突起の数が減少した。突起の分岐についての比較を図16(C)に示す。活性型Racを導入すると、分岐が著しく促進されるのに対し、活性型Aktを導入した場合には分岐が著しく減少するという特徴が見られた。

 神経突起伸長におけるまとめ図を図17に示す。NGF刺激によりPI3キナーゼが活性化され、その下流でRac/Cdc42およびAktが活性化される。Rac/Cdc42は神経突起の伸長、分岐を促進するのに対し、Aktは神経突起の伸長を促進するが、分岐を阻害するという可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 細胞運動は、発生時の形態形成や、免疫細胞の動員、創傷治癒などの生理現象に関与し、多細胞からなる生体が正常な機能を維持するために必須の役割を担っている。そのため、細胞運動は生体内で厳密に制御されている。そして、その制御機構に異常が生じてしまった例が癌細胞の浸潤・転移で、運動性を獲得した癌細胞は、他の組織へ移動し、病巣を拡大していく。近年、癌原発巣に対する診断・治療は急速に進歩し、新しい診断法・治療法が次々に開発されている。しかし、遠隔臓器への転移・再発については診断・治療が難しく、癌による死亡原因の多くを占めている。従って、癌転移機構の解明とそれに基づく予防・治療法の開発が癌の克服には必要不可欠であり、そのためには細胞運動メカニズムの詳細について理解することが必要である。

 一方、脳神経系に存在する神経細胞は、標的に向かって神経突起を伸ばし、きわめて秩序だった神経ネットワークを形成している。神経突起伸長は、細胞運動の一種であると考えられており、突起の先端に存在する成長円錐(growth cone)が突起伸長において重要な働きをしている。この成長円錐(growth cone)の構造は線維芽細胞の先端部(leading edge)とよく似ており、同じようなメカニズムを用いて方向性をもった運動をしていると考えられている。近年、神経疾患に対する治療法として再生医学が注目されており、神経機能障害が軸索再生により回復する例が報告されている。しかし、軸索再生治療には問題も多く残されており、神経修復による治療法の確立には、神経突起伸長のメカニズムの詳細な理解が必要である。

 このような、神経突起伸長を含めた細胞運動については、運動性を制御する細胞外因子については詳しい解析がなされてきた。しかし、細胞外からの刺激によってどのようなメカニズムで細胞の運動性が調節されるのか、その細胞内シグナル伝達についてはまだ解明されていない部分が多く残されている。本研究では細胞運動性を制御する細胞内シグナル伝達について、PI3キナーゼ-Akt経路が果たす役割を解明することを目的とした。

 第一章では、研究の背景、既往の研究、および本研究の意義について述べた。

 第二章では、哺乳類線維芽細胞の運動性におけるPI3キナーゼ-Akt経路の役割について解析した。Aktは原癌遺伝子で、Aktの増幅や活性化が癌の悪性化と密接な相関があることが報告されているため、Aktの細胞運動への関与の可能性が考えられた。しかし、Aktは細胞運動に重要であるアクチン重合には関与しないことが報告されており、細胞運動への関与はないものと考えられていた。本章では、Boyden Chamberを用いた運動性アッセイを行うことにより、Aktの細胞運動性への関与について検討した。線維芽細胞はPDGFなどの増殖因子刺激によって運動性が上昇することが知られているが、まず、優性抑制型Aktを用いた実験から、PDGF刺激による運動性の上昇にAktの活性が必要であることを示した。そして、活性型Aktを用いた実験から、Aktの活性化が細胞運動性の上昇に十分であることを明らかにした。また、Rac/Cdc42はアクチン重合を促進することにより細胞運動性を上昇させることが知られているが、このRac/Cdc42の下流でAktが活性化されることを明らかにし、さらにRac/Cdc42による運動性の上昇にもAktの活性が必要であることを示した。そこで、実際に癌細胞の運動性にAktが関与する可能性についても検討を行った。PTENは癌抑制遺伝子で、PTENの変異を伴う癌細胞では浸潤能が高いことが知られている。実際に、PTENノックアウトマウス由来線維芽細胞では野生型由来の細胞に比べて運動性が上昇しているが、この細胞の運動性の上昇が優性抑制型Aktにより阻害されることが明らかとなった。以上の結果から、Rac/Cdc42の下流でAktが細胞運動性の上昇に重要な役割を果たしていると結論し、癌細胞の運動性にもAktが関与する可能性を示した。

 第三章では、神経突起伸長におけるPI3キナーゼ-Akt経路の役割について解析した。まず、PI3キナーゼ阻害剤を用いた実験から、PI3キナーゼが神経突起の分岐を抑制する効果を持っていることが明らかとなった。そこで、PI3キナーゼの下流でAktが神経突起伸長に関与する可能性について検討した。まず、活性型Aktを用いた実験から、Aktにも神経突起の分岐抑制効果があることが明らかとなった。また、Aktは神経突起の伸長を著しく促進させる効果があることを示した。さらに、Aktの活性化モニター分子として用いられるGFP-PHAktを導入した細胞をリアルタイムで観察し、細胞が神経突起を伸ばし始める際の突出部分や、神経突起先端にGFP-PHAktが局在し、そのような場所でAktが活性化されることを明らかにした。以上の結果から、Aktが神経突起形成の最初のステップにおいて重要な役割を果たしており、神経突起の形態制御においては、突起の伸長を促進し、分岐を抑制する働きを持っていると結論した。

 第四章では、本研究を総括し、今後の研究の展望を述べた。

 以上のように、提出者は、PI3キナーゼ-Akt経路の細胞運動性への関与について検討し、Aktが哺乳類線維芽細胞の運動性、および神経突起伸長において重要な役割を果たしていることを示した。これらの成果は、細胞運動性のメカニズムの理解を深めるとともに、癌細胞の浸潤・転移および神経疾患に対する治療の新たなターゲットの可能性を提案する上で、医学・薬学・工学分野に貢献するものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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