学位論文要旨



No 118078
著者(漢字) 松川,将治
著者(英字)
著者(カナ) マツカワ,ショウジ
標題(和) 硫黄配位子を持つ単核あるいは二核錯体上におけるニトロシル配位子の機能と化学変換に関する研究
標題(洋) Studies on Functions and Chemical Transformations of Nitrosyl Ligands in Sulfur-Ligated Mono- and Dinuclear Complexes
報告番号 118078
報告番号 甲18078
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5536号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 溝部,裕司
 東京大学 教授 加藤,隆史
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 助教授 工藤,一秋
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

 ニトロシル配位子(以下,NO配位子)は3電子供与の直線型(NO+)と1電子の屈曲型(NO-)の二つの配位様式をとり分けることによって様々な電子状態・配位環境にある錯体を安定化することが可能である.また,直線型から屈曲型への異性化に伴って金属上に空いた配位座が発生することから,ニトロシル錯体の反応性には大変興味が持たれる.特に,近傍に位置する複数の金属中心上にNO配位子を導入した多核錯体においては,NO配位子が多核金属中心の電子制御を柔軟に行うことで多様な構造,反応性を賦与し,通常の単核,多核錯体とは異なった基質分子の活性化が実現できる可能性がある.また一方で,NO配位子自体が多核反応場上で特異な活性化,化学変換を受けることも期待される.しかし,NO配位子の持つ特性に焦点を当て,多核ニトロシル錯体の合成と反応性の開発を行った研究例はほとんどない.

 以上のような背景をもとに本研究は,金属架橋配位子として効果的であることが知られている硫黄配位子をニトロシル錯体上に導入することで,得られる単核あるいは多核錯体の構造・反応性がNO配位子によってどのように制御されるのか,また多核反応場に取り込まれたNO配位子がどのような反応性を示すのかを解明することを目的とする.

【結果】

1.NO配位子を持つイリジウム-チオラート錯体の合成,構造,及び反応性

 まず,屈曲型NO配位子を持つIrIII錯体[IrCl2(NO)(PPh3)2](1)を例にとり,チオラート配位子の導入による構造と反応性の変化を調べることにした.1とメシチレンチオラートアニオンとを反応させたところ,単核のビスチオラート錯体[Ir(SMes)2(NO)(PPh3)](2a; Mes=C6H2Me3-2,4,6)が生成した(Scheme1).NO配位子は直線型NO+へと変化しており,これに伴ってIr中心は形式1価となっている.

 続いて2aをプロピレンスルフィドで処理したところ,NO配位子が屈曲型へと異性化することで発生する配位座にプロピレンスルフィドが開環を伴って取り込まれ,IrIII五配位錯体3を与えた.このように,得られるニトロシル-チオラート錯体がNO配位子の異性化に伴う潜在的な反応サイトを持つことが明らかとなったことから,さらに1と多様な種類の置換基Rを持つチオラートアニオンとの反応を検討した(Scheme2).

 その結果,ヒドロスルフィドアニオン(R=H)との反応では単純な置換反応が進行して4が得られる一方,R=PrIの場合にはチオラート配位子が架橋配位したIrIII二核錯体5が生成した.さらに還元力の強いチオラートアニオン(R=But)を作用させた際には金属中心の還元及びNO配位子の直線型への異性化を伴ってIr0二核錯体6が得られ,嵩高いアレーンチオラートアニオンとの反応ではチオラート配位子が立体反発のため架橋構造を取れないことから,NO配位子が直線型へと異性化しIr1単核錯体2が生成する.このように,反応試剤に応じてNO配位子が柔軟にその配位様式を変化させることで金属中心の電子状態を制御し,幅広い形式酸化数と多様な構造を持つ錯体を与えるという興味深い結果を得ることができた.

 錯体2は,塩化ベンゾイルで処理することでNO配位子がIr上から失われ,さらにチオラート配位子のオルト位のメチルC-H結合の切断,チオラート配位子のカップリングによるジアリールジスルフィド配位子の形成を伴って,二核錯体7へと誘導できる(Scheme3).また,5の同様の反応からは,チオラート配位子一つとニトロシル配位子一つが塩素配位子へと置換されたIrI-IrIII錯体8が生成した.これらの反応では,当初注目していたNO配位子が失われているが,かわって置換活性な塩素配位子あるいはジアリールジスルフィド配位子が二核錯体上へ導入されており,反応場を持つ多核錯体へと誘導する手法として有効である.

2.架橋ジアリールジスルフィド配位子の置換による二核イリジウム錯体上での小分子の配位挙動

 錯体7は,ジアリールジスルフィド配位子を解離することで方向のそろった二核反応場を与えることが予想され,隣接した複数の金属上への基質分子の配位と活性化が期待できる.そこで,7のジアリールジスルフィド配位子の置換反応による,二核Irコア上への基質分子の取り込みを検討した.

 まず,7をイソシアニドあるいはCOで処理したところ,ArSSAr配位子の置換反応が進行し,錯体9,10が生成した(Scheme4).これに対してヒドラジンとの反応は,一分子のヒドラジンが金属間を架橋した錯体11を与えた.ヒドロキシルアミンとの反応では二分子のヒドロキシルアミンが二核Ir上に配位した錯体12が得られるが,本錯体では二つのヒドロキシルアミン配位子のうち一方は二核コアのエカトリアル平面内に取り込まれていた.この非対称な構造は,アキシャル位の配位子間での水素結合を含む水素結合ネットワーク形成による安定化に起因すると考えられる(Figure).

3.NO配位子を持つ非対称な後周期遷移金属モノスルフィド架橋二核錯体の合成と反応性

 異なる性質を持った複数の金属中心を同一分子内に含む多核錯体は,対称な多核錯体には見られない反応性を示すものと期待される.本研究では,メタラチオールと見なすことのできるヒドロスルフィド(SH)錯体を利用することでNO配位子を持つ非対称二核錯体を合成し,その反応性を検討することとした.

 錯体1とIrのSH錯体[Cp*IrH(SH)(PMe3)](13a; Cp*=η5-C5Me5)を塩基存在下反応させることで,非対称なモノ(スルフィド)架橋二核錯体[Cp*Ir(PMe3)(μ-S)-Ir(NO)(PPh3)](14)を得た(Scheme5).14はIr錯体としては大変珍しいIrII-Ir0混合原子価状態をとっている.Cp*Irフラグメントはホスフィン及びスルフィド配位子のみを配位子として持つ一方,NO側のIrは,スルフィド,ニトロシル,ホスフィンの三つのみが配位するT字型構造をとっており,金属間には広い空間が存在する点が特徴である.錯体14はI2の酸化的付加反応によりIrIII2ジョード錯体15へと誘導することができた.本錯体は架橋及び末端ヨード配位子を一つずつ持ち,NO配位子は屈曲型で配位している.

 次にRuを含む異種金属錯体の合成を目的に,錯体13とRu錯体[RuCl-(NO)(PPh3)]とを反応させたところ,Ru0-IrIII錯体[Cp*Ir(PR3)(μ-H)(μ-S)Ru(NO)(PPh3)](16)(R=Me, Ph)が生成した(Scheme5).Ru中心は16電子平面四配位構造をとっているが,これはRu錯体としては非常に珍しい構造である.錯体16はCOで処理することにより,そのNO配位子が屈曲型へと変化し,Ru上にCO配位子が取り込まれた17へと誘導される.

 以上のように,モノ(スルフィド)架橋二核錯体では,NO配位子によってT字型Ir中心,平面四配位のRu中心という異例な配位構造の金属中心が安定化されており,また酸化的付加や配位子の取り込みに伴う直線型ニトロシル配位子の屈曲型への異性化が観測された.

4.ビス(スルフィド)架橋6族-9族混合金属二核錯体上のNO配位子の反応性

 次に,大きく性質の異なる前周期金属と後周期金属とを分子内に持つ二核錯体の合成へと展開した.9族金属SH錯体[CP*M(SH)2(PMe3)](M=Rh, Ir)と6族金属ニトロシル錯体[CP*M'(NO)Cl2](M'=Mo, W)とを塩基存在下で反応させたところ,ビス(スルフィド)架橋錯体[CP*M(PMe3)(μ-S)2M'(NO)Cp*](18-21)を得ることが出来た(Scheme6).9族金属から6族金属への供与結合が存在し,Cp*配位子とM'の結合のうち,NO配位子のトランス方向にある二つの炭素原子と金属間の距離は約2.5Åと長く伸びている.さらに赤外スペクトルでは,直線型NO配位子の吸収が極めて低波数領域に現れる.これらの事実は,9族金属からの電子供与によって6族金属が非常に電子豊富になっていることを示すものである.

 そこで次に求電子剤としてMeOTfとの反応を行ったところ,NO配位子の酸素原子のメチル化が進行しメトキシイミド錯体22が生成した(Scheme6).末端ニトロシル配位子の酸素原子への求電子反応はほとんど未知であり,本反応のような直接的メチル化反応は前例を見ない.生体内での脱窒過程に含まれる一酸化窒素還元酵素の反応メカニズムとも関連した重要な結果であり,また電子不足な前周期金属・電子豊富な後周期金属という性質の大きく異なる金属を組み合わせることでNO配位子の新しい反応性を引き出せたことは意義深い.

Scheme1

Scheme2

Scheme3

Scheme4

Figure

Scheme5

Scheme6

審査要旨 要旨を表示する

 ニトロシル配位子(以下NO配位子)は3電子供与の直線型(NO+)と1電子供与の屈曲型(NO-)の二つの配位様式をとることで様々な電子状態・配位環境にある錯体を安定化することが可能である.また直線型から屈曲型への異性化に伴って金属上に空いた配位座が発生することから,ニトロシル錯体には潜在的な配位不飽和性があるものといえる.従って,近傍に位置する複数の金属中心上にNO配位子を導入した多核錯体においては,NO配位子が多核金属中心の電子制御を柔軟に行うことで多様な構造,反応性を賦与し,通常の単核,多核錯体とは異なった基質分子の活性化が実現できる可能性がある.また一方で,NO配位子自体が多核反応場上で特異な化学変換を受けることも期待され,金属酵素による一酸化窒素分子の生化学的変換との関連から興味が持たれる.しかし実際にNO配位子の持つ特性に焦点を当て,多核ニトロシル錯体の合成と反応性の開発を系統立てて行った研究例はほとんどない.本論文は,金属架橋配位子として効果的な硫黄配位子をニトロシル錯体上に導入することで,得られる単核あるいは多核錯体の構造・反応性がNO配位子によってどのように制御されるのか,また多核反応場に取り込まれたNO配位子がどのような反応性を示すのかを解明することを目的に行った研究の結果をまとめたものであり,5章より構成されている.

 第1章では序論として,NO配位子の持つ一般的な化学的性質,現在までのニトロシル錯体についての研究を概観し,さらに遷移金属多核錯体の特性について言及した後,本研究の背景と目的を述べている.

 第2章では,イリジウムのニトロシル錯体とチオラートアニオンとの反応により,チオラートの置換基の種類に応じて多様な構造,核数,金属の酸化数を持つ錯体が得られることを明らかとしている.これらの錯体中では,NO配位子が金属中心の配位子の立体的,電子的性質に応じて配位様式を変化させることで錯体の安定化に寄与しており,NO配位子の電子的柔軟性が顕著に現れている.さらに,得られた錯体を酸塩化物で処理することで,NO配位子にかわって反応場となりうる塩素配位子が錯体上に導入されるという結果を見出した.例えば単核ビス(アレーンチオラート)錯体からは,直線型NO配位子が引き抜かれることで錯体が二核化し,クロロ及び架橋ジアリールジスルフィド配位子を持つ錯体を得ることが出来た.

 第3章では,第2章で述べたジアリールジスルフィド架橋二核錯体上のジアリールジスルフィド配位子が置換活性であることを見出し,その各種小分子による置換反応を検討した.その結果,ジスルフィドの解離により生成する二核配位サイト上には,二分子のイソシアニド及び一酸化炭素分子が平行に,また一分子のヒドラジンが架橋配位する一方,ヒドロキシルアミンは,水素結合ネットワークの形成を伴って二分子が非対称に取り込まれることが明らかとなった.このように,ニトロシル-チオラート錯体から導かれる二核錯体が基質の特異な取り込みを行う二核配位サイトを提供することが明らかとなった.

 第4章では,ニトロシル錯体とヒドロスルフィド錯体との反応により非対称なスルフィド架橋二核錯体を合成し,その反応性を調べた.イリジウム,ロジウム,ルテニウムのニトロシル錯体とイリジウムのヒドロスルフィド錯体の反応により得られる二核錯体は,NO配位子により安定化された特異な構造,原子価の金属中心を持ち,金属間には反応場となる空間が存在する.これら錯体中の直線型NO配位子が屈曲型へと変化することで,基質分子を金属上に取り込みうることも見出した.

 第5章では,後周期金属ヒドロスルフィド錯体と前周期金属ニトロシル錯体とを組み合わせることで得られる混合金属二核錯体に関する研究を行い,末端NO配位子の新しいパターンの反応性を見出した.すなわち,9族金属(ロジウム,イリジウム)と6族金属(モリブデン,タングステン)を含む硫黄架橋二核錯体を合成し,求電子剤との反応を検討した結果,タングステンを含む錯体ではNO配位子の酸素原子が反応点となりアルキル化が進行した.この結果は通常の単核錯体ではみられないもので,9族金属によりW-NOフラグメントが極めて電子豊富となったことを反映しており,混合金属多核錯体上におけるNO配位子の化学変換反応として興味深い.またモリブデンを含む錯体では求電子攻撃が架橋硫黄原子上に進行するという対照的な結果についても報告している.

 以上のように本論文では,NO配位子が金属に対する供与電子数を調節することで,金属周りの配位環境に応じて多様な単核・多核構造を安定化することを明らかとした.また,そのNO配位子の異性化が多核錯体上への新たな配位子の取り込みにおいて有効に機能すること,さらに金属間の相互作用によりNO配位子が新しいパターンの反応性を示すことを見出した.これらの成果は,有機金属化学,錯体化学,生物無機化学的にきわめて重要な知見である.

 よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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