学位論文要旨



No 118103
著者(漢字) 中野,千賀
著者(英字)
著者(カナ) ナカノ,チカ
標題(和) 草原における送粉共生系の評価手法
標題(洋)
報告番号 118103
報告番号 甲18103
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2492号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 武内,和彦
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 加藤,和弘
 東京大学 助教授 宮下,直
内容要旨 要旨を表示する

1序論

 近年,各地で急速に進行している生物の生息地の破壊や分断・孤立化,侵入生物の蔓延は,地域の生物種の生息を脅かし,種の絶滅,生物多様性の低下をもたらす主要な要因であるとされている。日本の草原の多くは,伝統的な利用,管理によって多様な生物種を擁する半自然草原として維持されてきたが,開発に加えて管理放棄のため,その減少や劣化が著しく,それに伴い多くの草原性の種の絶滅の危険が高まっている。種の減少は,多様な生物種とそれらの間の生物間相互作用によって保たれる,生態系の機能と安定性を損なうものである。

 生態系の健全性を評価することは,多様な自然環境の体系的な保全を実現する上で重要である。しかし,多様な構成種と様々な生物間相互作用との総体である生態系を,すべての要素構造,機能に着目して評価することは困難である。このため,環境影響評価法施行後の日本における環境アセスメントでは,評価対象となる生態系の健全性の指標となり得る生物種を,上位性,典型性,特殊性の視点から複数選び,それらの生息や分布,繁殖状況の把握を通して生態系の健全性を評価する方法が推奨されている。

 顕花植物とその花粉を媒介する送粉者との間の関係は,送粉が植物の有性生殖に欠かせない過程であるため,陸域生態系における最も普遍的な共生的生物間相互作用であるといえる。しかし送粉者の喪失により,植物の花が咲いても果実の実らない「実りなき秋」ともいうべき現象が世界中に広がりつつあることにも表れているように,環境改変による変質や崩壊がおこりやすい。したがって送粉共生系の健全性は,生物間相互作用の点からの生態系の健全性を評価する上で特に重要な意味をもつ。

 送粉共生系を植物の有性生殖の観点から評価するには,花に訪れる動物(訪花者)の植物の送粉に対する有効性を,群集レベルで定量的に評価する必要がある。まず本研究では,送粉共生系,すなわち植物-送粉者間の関係を,群集レベルで網羅的に把握するための調査,解析法について,北海道の海岸草原を対象として研究を行った。また,植物への有効な送粉を群集レベルでより簡便に定量的に評価する手法を提案し,北海道の海岸草原で得られたデータにあてはめることで,その手順を検討した。さらにその手法を,実際に長野県軽井沢町の草原再生管理地におけるモニタリングに適用し,その有効性を検討するとともに,実際のモニタリングヘの適用を考えて,調査の省力化について検討した。

2北海道東部の海岸草原における送粉共生系の変動性と特殊化

 この章では地域の送粉共生系の概要を,開花量と昆虫の訪花頻度/行動を調査することによって把握する方法を検討した。北海道東部の海岸草原において,3年間(1997〜1999年)にわたり,2ヶ所の調査地(調査地A,調査地B)で定期的にセンサス調査を実施し,顕花植物の開花と昆虫の訪花を記録した。得られたデータを用いて,特定の植物種の花へのそれぞれの訪花昆虫グループの訪花回数の,その植物の開花期間における全ての植物への訪花回数にもとづく期待値からの偏り,すなわち「植物による送粉者への選好性」,および特定の昆虫グループに訪花されたそれぞれの植物種の開花花数の,その昆虫グループの出現期間における全ての昆虫グループの訪花回数にもとづく期待値からの偏り,すなわち「昆虫による植物への選好性」にもとづいて植物と昆虫の関係を解析した。その結果,いずれの側からの選好性も,時間的(季節間,年間)にも空間的(調査地間)にも花と昆虫の量や組成の変化に応じて大きく変化すること,すなわち,植物と送粉者との関係は大きく変動することが明らかとなった。しかし,それにもかかわらず,特定の昆虫グループに特化した植物種が10種認められた。それらのうち7種はマルハナバチ類に特化していた。さらに,マルハナバチ類への特化は,花の形がのど状か旗状の植物種において統計的に有意に高い比率で認められた。同様の統計的な偏りは,花の色が紫色の植物種に対しても認められた。マルハナバチ媒花ともいうべきそのような花の特殊化は,マルハナバチの高い学習能力による花への定花性(fidelity)と複雑な形態の花への高い操作性とが選択圧となってもたらされるものであるといえよう。

3送粉有効性指標を用いた送粉共生系の評価手法の開発

 この章では,送粉共生系を植物に対する有効な送粉の点から評価するための指標(送粉有効性指数)を提案した。送粉有効性指数は,訪花者の送粉能力として,単位時間あたりの花序間の移動回数,および植物の生殖器官である葯や柱頭への接触性を要素指標とし,これらと訪花頻度との積として算出した。この指標を用いて,第2章の北海道の海岸草原における,生物間相互作用の定量的評価を試みた。すなわち,A,Bの調査地ごとに算出された有効な送粉の総計が,植物種と送粉者との個々の組み合わせにどのように配分されるかによって,送粉共生系全体における特定の植物種と送粉者との関係の,相対的重要度を把握した。

 その結果,マルハナバチ類による有効な送粉が,調査地Aでは全体の有効な送粉の約75%,調査地Bでは約60%を占めることが示され,調査された海岸草原における,送粉者としてのマルハナバチ類の重要性が明らかにされた。しかし,それらマルハナバチ類による有効な送粉のうち,半分以上は外来植物のシロツメクサヘの送粉によるものであった。マルハナバチ以外ではハナアブ類の重要性が比較的高かった。すなわちこの海岸草原では植物種の多くが,主要にはマルハナバチ媒とハナアブ媒に分けられることが示された。また,人為的な撹乱が比較的多い調査地Bでは,そうではない調査地Aに比べて,植物と送粉者との有効な送粉者との関係が希薄であった。

4草原再生管理地における送粉共生系のモニタリングとその省力化に向けた検討

 この章では,長野県軽井沢町のカラマツ林伐採跡地の草原再生管理地において,第3章で検討した送粉共生系の評価手法を適用し,管理開始前の2000年,および管理が実施された2001年と2002年の3年間にわたってモニタリングを行った。この管理地では,在来植物からなる草原の健全な送粉共生系の維持がめざされている。モニタリングの結果,この草原管理地では,春と夏にはマルハナバチ類や小型ハナバチ類が重要な送粉者であり,秋になるとこれらに加えてハナアブ類の重要性が高まることが明らかとなった。また,管理が実施されるようになってからは,開花花数でみる限り,草原性の多年生草本が増加し,それに伴い2002年には,それらの植物種への有効な送粉の配分が高まった。一方,洪水や護岸整備によって春のマルハナバチ類の餌資源として重要なオドリコソウが激減したことによって,2002年の春にはマルハナバチ類の訪花がまったくみられなくなった。管理前に開花花数において優占していたヒメジョンは,外来種の抜き取り管理が実施された後には激減し,送粉者との関係においても無視できるほどになったが,一方でシロツメクサやセイヨウタンポポの花数が増加し,昆虫の有効な送粉の配分割合が高まった。以上の結果から今後の管理としては,マルハナバチの訪花を維持するために在来のマルハナバチ媒花の減少を極力抑えること,外来種の徹底した抜き取りを行うことなど,健全な送粉共生系を維持する上で必要な指針が導かれた。

 この評価手法を実際の環境影響評価やモニタリングに利用することを想定して,省力化にむけた検討をしたところ,この草原管理地のように植物の開花が春と秋に集中する冷温帯の草原については,開花集中期の春と秋に5,6日程度のモニタリングをすることで十分に有効な評価が可能であることが示唆された。

5.摘要

 本研究では冷温帯の草原における植物-送粉者間の関係,およびその生態系レベルでの評価法に関して,以下のことが明らかとなった。すなわち,1)植物相や昆虫相の変化に応じて送粉共生系における関係は時空間的に大きく変動するものの,特定の昆虫グループに特化した植物種が認められた。その中でマルハナバチ類に特化したマルハナバチ媒花については,送粉シンドロームとして特徴ある花の形状や色をもつことが明らかになった。2)植物の有効な送粉を群集レベルで評価する指標を考案し,北海道で得られた野外データに適用することでその手順と有効性を示した。3)この評価手法を軽井沢町の草原再生管理地での送粉共生系のモニタリングに適用し,この手法の有効性が確かめられた。4)実際のモニタリングヘの適用のための調査の省力化を検討し,調査対象種や調査期間を限定することにより,かなりの省力化が可能であることが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

 概して温暖で降水量に恵まれている日本列島では,森林が発達しやすく,草原は,その多くが放牧,定期的な刈取り,野焼きなどの利用・管理によって維持されてきた半自然草原である。近年では,開発や管理放棄により,生物多様性豊かな草原の喪失や変質がめだつようになり,その保全や再生をめざす市民の活動が盛んになってきた。それらの取り組みを順応的にすすめるにあたって,目標を明確にし,実践の効果を適切に測るための指標や評価手法が求められている。

 顕花植物とその花粉を媒介する送粉者との間の関係は,陸域生態系における最も普遍的な共生的な生物間相互作用であり,特に顕花植物の豊かな草原においては,多様な植物と多様な昆虫からなる送粉共生系が成立している。送粉者の喪失に伴い植物の花が咲いても果実の実らない「実りなき秋」ともいうべき現象がひろがりつつあることにも象徴的に表われているように,送粉共生系は,環境改変による変質や崩壊を蒙りやすい。その意味でも,送粉共生系は,生物間相互作用の面から生態系の健全性を評価する上で,特に重要な評価対象であるといえる。

 本研究では,まず,北海道の海岸草原において,3年間にわたって収集した開花量と昆虫の訪花頻度および行動を調査し,そのデータにもとづいて植物と昆虫の間の種間関係を統計的手法によって分析・評価することで送粉共生系を概観し,その時間的空間的変動性を把握することを試みた。さらにそこから特殊化した関係を抽出し,送粉シンドローム仮説を検討した。この海岸草原における送粉共生系は,年によって,また,人為干渉の違いにも応じて大きく変動したが,特定の昆虫グループに対する特殊化が10種の植物種において認められ,それらのうち7種はマルハナバチ媒であった。

 次に,送粉共生系を植物に対する有効な送粉の点から評価するために,本研究において新たに考案された指標(送粉有効性指数)を用いて,海岸草原の送粉共生系における生物間相互作用の定量的評価を試みた。訪花者の送粉能力を,単位時間あたりの花序間の移動回数および植物の生殖器官である葯や柱頭への接触性の有無(0,1)で捉え,これらと訪花頻度との積として送粉有効性指数を算出した。さらに,この指標を用い,調査地ごとに算出された有効な送粉の総計の個別の植物種と送粉者との関係への配分率によって,送粉共生系全体における特定の植物種と送粉者との関係の相対的重要性を定量的に捉える方法を考案した。この方法を適用した分析の結果,マルハナバチ類による有効な送粉が有効な送粉全体に占める割合はきわめて大きく,人為的干渉の小さい調査地では全体の有効な送粉の約75%,頻繁な草刈りによって開花量が抑制される調査地においても60%を占めることが示された。

 さらにこの評価手法を,長野県軽井沢町のカラマツ林伐採跡地の草原再生管理地におけるモニタリングに適用することで,その有効性を検討した。草原の管理開始前の2000年,および管理が実施された2001年と2002年の3年間にわたってモニタリングを実施したところ,ここでは,春と夏にはマルハナバチ類や小型ハナバチ類が重要な送粉者であり,秋になるとこれらに加えてハナアブ類の重要性が高まることが明らかとなった。また,管理が実施されるようになってからは,草原性の多年生草本の開花量が増加し,それに伴い2002年には,それらの植物種への有効な送粉の配分が高まったこと,春に多くのマルハナバチの訪花を受けていたオドリコソウの花数の人為的干渉による減少に伴い,マルハナバチの訪花そのものが著しく減少したことなどが把握された。管理前に開花花数において優占していたヒメジョオンは,外来種の抜き取り管理が実施された後には激減し,送粉者との関係においても無視できるほどになったが,管理対象とはしなかったシロツメクサやセイヨウタンポポの花数が増加し,これらの植物に対する有効な送粉の配分率が著しく高まった。このようなモニタリング結果は,その時点での適切な管理計画を、事業の目標に照らして立案する上で欠かせない情報を与える。

 さらに,この評価手法を実際の事業現場におけるモニタリングに用いることを想定して,省力化にむけた検討を行ったところ,植物の開花が春と秋に集中する冷温帯の草原については,そのそれぞれにおいて数日ずつ調査を行うだけで,有効な評価に必要なデータを収集できる可能性が示された。

 本研究は,生態系における主要な共生的生物間相互作用としての重要性にもかかわらず,これまで研究がほとんどなされてこなかった群集レベルでの送粉共生系の分析手法の確立に大きく寄与する優れた成果をあげた。また,生態系保全や自然再生の現場でのモニタリング等に活用することのできる具体的な指標や手法を提案した。ここで提案された分析手法は,今後,送粉共生系の研究においても,自然再生などの実践においても,広く利用されることが期待される。したがって,本研究は,学術面でも応用面でも十分な成果をあげたといえる。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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