学位論文要旨



No 118111
著者(漢字) 井上,義久
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ヨシヒサ
標題(和) アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子発現制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 118111
報告番号 甲18111
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2500号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,久典
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 前田,達哉
内容要旨 要旨を表示する

 近年各種栄養素は様々な遺伝子の発現を制御することが明らかにされ、具体的な作用機構に関しても明確にされている例も多い。しかし、食餌タンパク質やアミノ酸による遺伝子発現制御、特に転写制御機構に関しては、理解が進んでいない。

 当研究室では、特に摂食するタンパク質の量および質の変化による生体への影響について様々な解析を行ってきた。成長期のラットでは、食餌中のタンパク質の量および質の低下に伴い著しい成長の遅滞が観察される。現在、この現象はインスリン様成長因子I(Insulin-like Growth Factor;IGF-I)と呼ばれるホルモンの活性変化によるところが大きいと考えられている。血中には6種のIGF結合タンパク質(IGFBPs)が存在し、IGF-Iの活性はこれらIGFBPsとの結合状態により制御される。特にIGFBPsの中でもIGFBP-1は、食餌中タンパク質の量および質の低下に伴い主要産生臓器である肝臓でのmRNA量が増加し、それに伴って血中濃度が著しく増加する。IGBFP-1はIGF-Iと結合することでIGF-I活性を抑制することから、タンパク質による成長の変化にIGFBP-1が重要な役割を担っていると考えられている。

 培養細胞を用いた解析などから、タンパク質含量の低い食事の摂取によるIGFBP-1遺伝子の発現誘導は、血中アミノ酸濃度の変化により転写段階において誘導されることが明らかになった。しかし、この血中アミノ酸濃度の変化が肝臓においてどのように認識され、またどのような機構によって転写が誘導されるかは全く明らかになっていない。そこで、本研究では、ヒト肝ガン細胞HepG2を用いて、アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子の発現制御機構を解析した。

第1章アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子発現制御機構のシグナル伝達阻害剤を用いた解析

 当研究室では、ラットIGFBP-1遺伝子のプロモーター領域中にアミノ酸応答配列(Amino Acid Response Unit;AARU)を見出している。この配列にはIRE(Insulin Response Element)並びにHNF-3結合配列、USF結合E-box様配列が一部重なるように存在している。特にIRE配列はラット、マウス、ヒトのIGFBP-1プロモーター中で高度に保存されており、アミノ酸応答に関しても重要であることが示唆された。インスリンによるIREを介したIGFBP-1遺伝子の転写制御に関しては、PI3K(Phosphatydilinositol-3 kinase)並びにmTOR(mammalian Target of Rapamycin)が関与する事が明らかになっている。特にmTORはアミノ酸による4E-BP1並びにS6K1、2のリン酸化制御に関わる因子であり、IGFBP-1遺伝子の転写においてもこの経路が関与している可能性が高い。そこで、アミノ酸、特にロイシンによるIGFBP-1遺伝子発現制御機構とインスリンによるシグナルカスケードとの関連を、PI3K阻害剤であるワートマニン、mTORの阻害剤であるラパマイシンを用いて検討した。この結果、ラパマイシン単独ではIGFBP-1mRNA量は変化しないが、ワートマニンと同時に添加すると、ロイシン欠乏時と同程度までmRNA量を増加させた。ロイシン欠乏培地で培養した細胞にロイシンを再添加するとおよそ4時間でmRNA量が完全培地で培養した場合と同程度まで減少した。このロイシンの作用はワートマニンおよびラパマイシンにより部分的に阻害され(それぞれおよそ50%の阻害効果)、両方の添加による相加効果で完全に阻害されることが明らかになった。このことから、アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子の発現制御機構にPI3K並びにmTORがそれぞれ異なるシグナル経路を介して関与していることが示唆された。

第2章ロイシン構造類似化合物を用いたロイシン認識機構の解析

 アミノ酸(ロイシン)によるIGFBP-1遺伝子の発現制御にPI3KとmTORといったシグナル伝達因子が関与することが示されたことで、シグナルの起点となるロイシンの認識機構について調べた。まず、ロイシンの初期代謝産物であるαケトイソカプロン酸(αKIC)により発現が制御されるかを検討した。ロイシンをαKICに代謝する分岐鎖アミノ酸アミノ基転移酵素(BCAT)は可逆酵素であるため、細胞内では容易にαKICからロイシンヘの変換が起こる。そのためアミノ基転移反応の阻害剤であるアミノオキシ酢酸(AOAA)も同時に添加した。その結果、αKICを添加した細胞ではIGFBP-1mRNA量はロイシン添加群と同程度と低く、この作用はAOAAを添加しても阻害されなかった。このことから、IGFBP-1遺伝子の発現制御に関してはαKICもロイシンと同様に認識されることが示された。ロイシン欠乏によりオートファジーが誘導されることが知られているが、Miottoらは、合成ペプチドであるロイシルMAP(Multiple Antigen Peptide)は細胞内に取り込まれることなくオートファジーの誘導を阻害することを示した。これは、オートファジー制御に関しては細胞膜上でロイシンを認識していることを示唆している。そこで、ロイシルMAPを合成し、これによるIGFBP-1mRNA量の変化を調べた結果、ロイシルMAPを添加した細胞ではmRNA量がロイシンを添加した細胞と同程度まで減少していた。しかし、ロイシンアミノペプチダーゼの阻害剤であるベスタチン処理をすると、ロイシルMAPの分解が抑制されると共に、IGFBP-1 mRNA量も増加した。このことは、ロイシルMAP自体にIGFBP-1遺伝子の発現を制御する作用がないことが示している。以上より、IGFBP-1遺伝子の発現とオートファジーでは、ロイシンの認識という点に関しては異なった制御を受けていると考えられる。

第3章アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子の転写制御と転写後制御機構の検討

 ロイシン欠乏によるIGFBP-1 mRNA量の増加は転写レベルで誘導されていることが示唆されている。そこで、HepG2細胞におけるPI3KやmTORの作用機構や、ロイシαKICの認識機構をより詳細に解析するために、ラットIGFBP-1遺伝子プロモーターを用いたレポーターアッセイ系の構築を試みた。使用したプロモーター配列は、竹中らがAARUを同定した際に用いた領域と同じものを用いた。しかし、HepG2細胞ではロイシン欠乏によるプロモーター活性の上昇は、非常に弱かった。他の肝ガン細胞由来の細胞株を用いた検討や、様々なトランスフェクト法を検討した場合、さらにはヒトおよびマウスのIGFBP-1遺伝子のプロモーターを使用した場合も、ロイシン欠乏によるプロモーター活性の上昇は観察されないか、もしくは観察されてもその程度は低く、これだけではmRNA量の増加を説明できなかった。ロイシン欠乏による誘導を行わない状態でもプロモーター活性が高いことから、一過性に導入したプロモーターではアミノ酸によるプロモーター活性の抑制が効いていない可能性が高い。肝細胞におけるstable transfection 系、IGFBP-1遺伝子を含む長大なDNA断片の検討などが必要であると考えられた。一方、竹中の結果においても、ロイシンによるIGFBP-1 mRNA量の変動の程度がプロモーター活性の変化だけでは説明できなかったことから、IGFBP-1 mRNAの安定性に関しても検討を行った。HepG2細胞でのIGFBP-1 mRNAの半減期はおよそ12時間であることが知られているが、ロイシンの再添加などによるmRNA量の減少は非常に早い。そこで、ロイシンの有無によってIGBFP-1 mRNAの安定性が制御されていないかを検討したところ、ロイシン欠乏により、安定性が著しく高くなり、ロイシンの再添加により一時的に安定性が低くなることが明らかになった。血中でのIGFBP-1の半減期は短いことが知られているが、mRNAのレベルでも、ロイシンの再添加により速やかに分解する機構が存在することが新たに明らかになった。

第4章アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子発現制御における核外輸送系の関与

 IGFBP-1プロモーター中のIREに結合する転写因子としてFoxOサブファミリーに含まれるFKHR、FKHR-L1、AFXが同定されている。FKHRsはインスリン刺激によりリン酸化されると核外に移行すること、さらにこのリン酸化がラパマイシンによって阻害されることが報告されている。絶食の応答に関しては、当研究室においてラット肝臓のFKHRsが核に移行するという結果を得ている。そこで、アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子の発現制御に、核内外の局在が変化する因子が関与していないか、核外移行因子CRM-1の阻害剤であるレプトマイシンB(LMB)を用いて検討した。この結果、LMBは、第1章で観察されたラパマイシンと同じ作用を示した。さらに、ラパマイシンもしくはワートマニンと同時に添加することによる相加効果についても検討したが、ここでもラパマイシンと同じ作用を示し、ラパマイシンとLMBを同時に添加しても相加効果は全く見られなかった。従って、アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子発現制御機構において、mTORは何らかの因子の核移行の制御を担っていることが示唆された。しかし、FKHRの細胞内局在がアミノ酸によって制御されるかどうかは明らかに出来なかった。アミノ酸によって直接細胞内局在が制御される因子はFKHRを含めて今のところ知られていないため、この因子の同定が待たれるところである。

総括 アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子の発現制御にPI3K並びにmTORがそれぞれ別個に関与することが示唆された。また、mTORは何らかの因子の核内外の移行を制御することでIGFBP-1遺伝子の発現制御に関与していると考えられた。ロイシンの認識機構においては、ロイシン以外にαKICも認識することが明らかになった。さらに、ロイシルMAPではIGFBP-1 mRNA量を低下させることができなかったことから、この認識機構は、オートファジー制御に関与する機構とは異なると考えられた。今後は、ロイシンの認識分子の同定並びに、認識分子とPI3KやmTORをつなぐ伝達因子の分析を行うためのアッセイ系の構築が急務であるが、本実験により得られた知見をもとに、より詳細なアミノ酸によるシグナル伝達経路が解明されることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 インスリン様成長因子結合タンパク質-1(IGFBP-1)は、食餌中タンパク質の量および質の低下に伴い主要産生臓器である肝臓でのmRNA量が増加し、それに伴って血中濃度が著しく増加する。IGBFP-1はIGF-1と結合することでIGF-1活性を抑制することから、タンパク質による成長の変化にIGFBP-1が重要な役割を担っていると考えられている。このタンパク質含量の低い食事の摂取によるIGFBP-1遺伝子の発現誘導は、血中アミノ酸濃度の変化により転写段階において誘導されることが示唆されている。しかし、血中アミノ酸濃度の変化が肝臓においてどのように認識され、またどのような機構によって転写が誘導されるかは全く明らかになっていない。本研究は、ヒト肝ガン細胞HepG2を用いて、アミノ酸によるIGFBP-1遺伝子の発現制御機構を解析し、その結果を四章にまとめたものである。

 第一章では、IGFBP-1遺伝子の発現制御に、アミノ酸、特にロイシンがシグナル因子として機能しているかをシグナル伝達因子の阻害剤を用いて検討を行った。この結果、mTORの阻害剤であるラパマイシンがワートマニン存在下でのみIGFBP-1 mRNA量を増加させること、このラパマイシンの作用はロイシン欠乏時には観察されないことが明らかになった。また、ロイシンが欠乏した細胞ヘロイシンを投与すると、短時間でIGFBP-1 mRNAが減少するが、ラパマイシンとワートマニンはそれぞれ単独でこのロイシンの作用を部分的に阻害し、相加作用により完全に阻害することも示され、ロイシンによるIGFBP-1遺伝子発現の制御機構にPI3K並びにmTORがそれぞれ異なるシグナル経路を介して関与していることが明らかとなった。

 第二章では、シグナルの起点となるロイシンの認識機構を解析するために、ロイシンの初期代謝産物であるαケトイソカプロン酸(αKIC)や合成ペプチドであるロイシルMAP(Multiple Antigen Peptide)がIGFBP-1遺伝子発現へおよぼす影響を調べた。この結果、ロイシルMAP自身は、IGFBP-1遺伝子発現に影響は及ぼさないものの、ペプチダーゼの作用により分解されて生じるロイシンによって発現が抑制されること、ロイシンだけでなくαKICによってもIGFBP-1遺伝子発現が抑制されることが明らかになった。これらのことから、ロイシンが細胞内で認識されること、この認識因子はロイシンだけでなくαKICも認識できる可能性があることが示された。

 第三章では、前章までに得られた知見をより詳細に解析するためにIGFBP-1遺伝子のプロモーター配列を用いたレポーターアッセイ系の構築を試みたが、ロイシンによるプロモーター活性の変化は観察されず、肝細胞における安定遺伝子導入系、IGFBP-1遺伝子を含む長大なゲノムDNA断片を用いた検討などが必要であると考えられた。一方で、ロイシン欠乏によりIGFBP-1mRNAの安定性が著しく増加すること、ロイシンの投与により、一時的に安定性が大きく低下することを新たに明らかにした。血中でのIGFBP-1の半減期は短いことが知られているが、mRNAのレベルでも、ロイシンの再添加により速やかに分解する機構が存在することが示唆された。

 第四章では、ロイシンによるIGFBP-1遺伝子発現制御機構に核外移行制御が関与することを、核移行を担う因子CRM1の特異的阻害剤であるレプトマイシンBを用いて示した。また、ラパマイシンとの相加作用がないことから、この核外移行制御がmTORによって制御されていることが明らかになった。

 以上、本論文は、アミノ酸、特にロイシンによるIGFBP-1遺伝子発現制御機構を様々な観点から解析し、このIGFBP-1遺伝子の発現制御機構に関わる因子および機構の存在を明らかにしたものである。アミノ酸の生理機能については、その作用機構が未だ明らかなっていないことが多く、本論文によって得られた知見は、それら作用機構を解明するに当たって大いに資するものがあり、学術上応用上貢献することが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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