学位論文要旨



No 118134
著者(漢字) 吉田,真子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ナオコ
標題(和) 発生期における中枢神経幹細胞の細胞生物学的研究
標題(洋)
報告番号 118134
報告番号 甲18134
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2523号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 久恒,辰博
 東京大学 客員助教授 戸塚,護
 東京大学 助教授 八村,敏志
内容要旨 要旨を表示する

 成熟した中枢神経系は、多数のニューロンおよびグリア細胞によって構成されているが、これらの細胞の大半は脳発生期に神経幹細胞から分化することによって生じたものである。これまで神経幹細胞の分化に関する研究は、in vitroの培養実験による分化誘導因子の探求によって行われて来た。この方法によってグリア細胞への分化に関与する多くの液性因子が同定されたものの、ニューロンヘの分化に関しては有力な因子の発見に至らず、現在も神経幹細胞からニューロンヘの分化機構解明が神経科学分野における中心課題となっている。ニューロンは、神経幹細胞の自己複製が停止した後、分裂周期から離脱することによって分化誘導されることが明らかとなっている。このことから、本研究では神経幹細胞の増殖とニューロンヘの分化の間には極めて密接な関係があると考えた。すなわち、神経幹細胞に対する増殖シグナルが喪失した時にニューロンへ分化するのではないかと考えた。液性因子以外で細胞増殖に関与する分子の一つとして接着分子が知られている。接着分子は細胞表面に発現して各種のシグナル伝達を仲介する作用をもち、中でもインテグリンシグナルの研究は免疫系細胞において非常に進んでいる。そこで、本研究では神経幹細胞におけるインテグリンの発現と増殖およびニューロンヘの分化の関係解明を目的とした。特にインテグリンに注目した別の理由として、免疫系では一般的な実験手法でありながら神経系ではあまり用いられて来なかったフローサイトメトリーによる定量的な解析が可能であった点があげられる。

第1章 インテグリンα5β1による神経幹細胞の増殖調節

 本研究では神経幹細胞を選択的に培養するための基質としてフィブロネクチンを用いていたことから、その主要なレセプターであるインテグリンβ1の発現について解析を試みた。胎生14.5日目のマウス終脳より調製した初代培養神経幹細胞を用いてフローサイトメトリーによる解析を行った結果、インテグリンβ1の発現量の異なる2つの細胞群(β1highおよびβ1low)が認められた。このことから、β1low細胞群ではインテグリンβ1の発現量が量的に少ないことがフィブロネクチンとの細胞-基質間相互作用に影響を与え、β1high細胞群よりも増殖能が低いことが予期された。そこで、セルソーターを用いてインテグリンβ1の発現量の差による神経幹細胞の分離培養実験を行い、各細胞群の増殖能の違いについて解析を試みた。細胞の分離後、1週間培養を行い、各細胞群における生細胞数を計測した。その結果、β1high細胞群では細胞数があまり変化しなかったのに対し、β1low細胞群では培養翌日から細胞数が急激に減少した。これにより、神経幹細胞においてインテグリンβ1の発現量が細胞の増殖に影響を与えることが明らかとなり、フィブロネクチンとインテグリンβ1が接着することによって引き起こされる細胞-基質間相互作用が神経幹細胞の増殖において重要な役割を担うことが示唆された。続いて、インテグリンβ1がヘテロダイマーを形成するαサブユニットの同定を試みた。本実験では、初代培養細胞よりも均一な細胞集団である株化神経幹細胞(MSP-1およびMHP-2細胞)を用いて発現解析を行った。フィブロネクチンをリガンドとするインテグリンとして複数のものが報告されているが、本研究ではα5β1およびαVβ1について解析を行った。その結果、インテグリンβ1とともにα5およびαvの共発現が認められた。また、MSP-1細胞を用いて最も主要なフィブロネクチンレセプターとして知られるインテグリンα5β1の染色を行い、共焦点レーザー顕微鏡による観察を行った結果、複数のインテグリンがクラスター化した接着斑と思われる構造が数多く認められた。インテグリンは接着斑を形成することによって細胞内外のシグナル伝達を仲介する作用をもつことから、インテグリンα5β1が神経幹細胞の増殖のためのシグナルを仲介している可能性が示唆された。

第2章 グルタミン酸による神経幹細胞の増殖調節

 第1章において接着分子であるインテグリンの発現が神経幹細胞の増殖に影響を与えることが明らかとなったことから、本章ではインテグリンの発現を調節する外的因子の同定を試みた。その中でも最も主要な神経伝達物質であるグルタミン酸に注目した。まず、株化神経幹細胞であるMSP-1およびMHP-2細胞を用いて、カルシウムイメージング法によりグルタミン酸受容体の解析を行った。その結果、グルタミン酸刺激による細胞内Ca2+濃度上昇が認められ、両細胞においてグルタミン酸受容体が機能していることが確認された。次に、培地中に高濃度のグルタミン酸が含まれるため、常に細胞がグルタミン酸によって刺激された状態であったことから、両細胞のグルタミン酸を含まない培地への適応化を試みた。その結果、MHP-2細胞からはグルタミン酸非存在下においても増殖可能な亜株の樹立に成功した一方、MSP-1細胞は増殖することができず早期に死滅した。この原因として、MSP-1細胞とMHP-2細胞の性質的な違いが考えられた。第1章におけるインテグリンの発現解析から、特にインテグリンα5β1の発現パターンが2つの細胞株では異なることを見出した。すなわち、MSP-1細胞がインテグリンα5β1を高発現する細胞でのみ構成されていたのに対し、MHP-2細胞はインテグリンα5β1の発現量の多い細胞と少ない細胞の両方によって構成されていた。このことから、MHP-2細胞においてのみ認められたインテグリンα5β1の発現量の少ない細胞が、グルタミン酸非存在下においても増殖し、最終的に亜株として樹立された可能性が示唆された。その一方で、インテグリンα5β1を高発現するMSP-1細胞の増殖にはグルタミン酸の存在が必要不可欠であった。加えて、初代培養神経幹細胞を用いて上記と同様のグルタミン酸非存在下における培養を試みたところ、細胞の増殖にはグルタミン酸が必要であった。これらのことから、神経幹細胞の増殖がグルタミン酸によって調節されていることが示唆された。

第3章 神経幹細胞からニューロンヘの分化に伴うインテグリンα5β1の発現低下

 第1章および第2章では、初代培養細胞や株化細胞といったin vitroにおける培養を経た神経幹細胞を用いて解析を行ったため、その影響を完全には否定できなかった。そこで、本章では中枢神経幹細胞に特異的に発現する中間径フィラメントであるnestinのプロモーター下にGFPを組み込んだpNestin-GFPトランスジェニックマウスを用いて、よりin vivoに近い状態の神経幹細胞における解析を試みた。そのほとんどが未分化な神経幹細胞によって構成される胎生10.5日目の終脳細胞を用いた発現解析の結果、細胞株の場合と異なりインテグリンαvに関しては非常に低い発現しか認められなかった。そこで、本章では特にインテグリンα5β1に注目して以下の解析を行った。胎生10.5日目から18.5日目までのnestin-GFP+細胞におけるインテグリンα5およびβ1の発現解析を行った結果、胎生10.5日目ではそのほとんどがインテグリンα5およびβ1の発現量の多い細胞であったが、発生が進むにつれて発現量の多い細胞に加えて発現量の少ない細胞の増加が認められた。発生とともにニューロンが増加することから、これらの発現量の少ない細胞はニューロン前駆細胞である可能性が示唆された。そこで、nestin-GFP+細胞においてインテグリンα5β1の発現量の異なる2つの細胞群(α5β1highおよびα5β1low)の存在が認められた胎生14.5日目の終脳細胞を用いて、第1章と同様の分離培養実験を行った。細胞の分離後、分化抑制剤であるbFGF存在下において2日間培養を行った後、α5β1highおよびα5β1low細胞群におけるnestin-GFP+細胞およびMAP2ab+ニューロンの数を計測した。その結果、α5β1low細胞群ではbFGF存在下であったにも拘わらず非常に多くのニューロンの存在が確認され、nestin-GFP+α5β1low細胞については分化の系譜がニューロンへ移行した細胞である可能性が示唆された。一方、α5β1high細胞群についてはnestin-GFP+細胞が多く存在し、それらが神経幹細胞としての性質を維持している可能性が示唆された。そこで、α5β1high細胞群の神経幹細胞特性を調べる実験を行ったところ、自己複製能および多分化能を有する細胞であることが確認された。また、胎生14.5日目の大脳皮質切片を用いて組織染色を行った結果、神経幹細胞が多く存在する脳室周辺域においてnestin-GFPとともにインテグリンα5β1の強い発現が認められ、それらの細胞において第1章のMSP-1細胞と同様の接着斑と思われる構造も観察された。その一方で、分化途中のニューロンが多く存在する中間帯ではその発現が低下していた。これらのことから、神経幹細胞がニューロンヘと分化する過程でインテグリンα5β1の発現が低下することが示唆された。

 以上のことから、本研究によって神経幹細胞ではインテグリンα5β1が高発現しており、神経幹細胞の増殖および形態維持に機能していることが明らかとなった。そして、インテグリンα5β1の発現量の低下に伴い、単に神経幹細胞の増殖能が低下するだけでなく、ニューロンヘの分化にも寄与していることが明らかとなった。本研究によって解明されたこれらの事象は、神経幹細胞からニューロンヘの分化機構解明という学問的側面に対してはもちろんのこと、神経幹細胞を利用した中枢神経機能再生という応用的側面に対しても有意義な知見であると言える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、発生期における中枢神経幹細胞の細胞生物学的研究を行ったものである。神経幹細胞とは、自己複製を繰り返して増殖した後、ニューロンおよびグリア細胞へ分化する性質を有した細胞である。従来、神経幹細胞の分化に関する研究はin vitro培養実験を用いた分化誘導因子の探求により行われていた。これによりグリア細胞分化に関与する多くの液性因子が同定された一方、ニューロン分化に関しては有力な因子の発見には至らず、現在もニューロンヘの分化調節機構の解明が神経科学分野における中心課題となっている。そこで、本研究では神経幹細胞の増殖とニューロンヘの分化の間には密接な関係があると考え、液性因子以外の増殖シグナルとして接着分子であるインテグリンに注目し、神経幹細胞におけるインテグリンの発現と増殖およびニューロンヘの分化の関係を解明することを主な目的とした。

 緒言では本研究の背景と意義について概説されている。

 第1章では、インテグリンα5β1が神経幹細胞の増殖に与える影響について解析を試みた。神経幹細胞の培養基質として経験的にフィブロネクチンを用いていたことから、そのレセプターであるインテグリンβ1の発現について、胎生14.5日目のマウス終脳由来初代培養細胞を用いて、フローサイトメトリーによる定量的な解析を行った結果、β1の発現量の異なる2つの細胞群(β1highおよびβ1low)が認められた。そこで、セルソーターを用いて各細胞群の分離培養実験を行った結果、β1low細胞群では増殖性が顕著に低いことが判明した。続いて、株化細胞(MSP-1およびMHP-2細胞)を用いてα5β1の共発現を確認するとともにMSP-1細胞に対してα5の染色を行い、共焦点レーザー顕微鏡により観察した結果、数多くの接着斑が認められ、α5β1が神経幹細胞の増殖に機能している可能性が示唆された。そこで、基質であるフィブロネクチンの有無が増殖に与える影響についてAlamar Blue Assay法を用いた解析の結果、フィブロネクチンによる増殖促進作用が確認された。これらのことから、インテグリンα5β1が神経幹細胞の増殖調節に機能することが示された。

 第2章では、神経伝達物質の一つであるグルタミン酸が神経幹細胞の増殖に与える影響について解析している。まず、カルシウムイメージング法により神経幹細胞におけるグルタミン酸受容体の発現を確認した。続いて、グルタミン酸非存在下における培養実験を行った結果、初代培養細胞およびMSP-1細胞は増殖できずに死滅した一方、MHP-2細胞からは亜株が樹立された。この原因として、第1章の発現解析の結果、MHP-2細胞においてのみ認められたα5β1の発現量の少ない細胞が、グルタミン酸非存在下でも増殖した可能性が示唆された。MSP-1細胞および初代培養細胞の増殖にはグルタミン酸が必要不可欠であったことから、グルタミン酸が神経幹細胞の増殖を調節することが示唆された。

 第3章では、神経幹細胞からニューロンヘの分化に伴うインテグリンα5β1の発現量の変化について解析を試みた。本章では、中枢神経幹細胞に特異的に発現する中間径フィラメントであるnestinのプロモーター下でGFPを発現するpNestin-GFPトランスジェニックマウスを用いて、直接的に神経幹細胞を調製した。胎生14.5日目の大脳皮質組織に対する染色の結果、神経幹細胞層である脳室周辺域においてnestin-GFPとともにインテグリンα5の強い発現が認められた一方、未成熟ニューロン層である中間帯ではその発現が低下していた。さらに、各発生段階におけるα5およびβ1の発現解析を行った結果、脳発生とともにnestin-GFP+細胞においてα5およびβ1の発現量の少ない細胞の増加が認められた。そこで、第1章と同様、nestin-GFP+細胞+α5β1highおよびα5β1low細胞群の分離培養実験を行った結果、α5β1low細胞群ではニューロンが、α5β1high細胞群ではnestin-GFP+細胞が多く認められた。さらに、α5β1high細胞群の神経幹細胞としての性質を確認するため単細胞培養実験を行った結果、自己複製能および多分化能が確認された。これらのことから、神経幹細胞ではインテグリンα5β1が高発現しており、ニュ一口ンヘの分化に伴ってその発現量が低下することが明確に示された。

 以上、本論文は、インテグリンα5β1およびグルタミン酸が神経幹細胞の増殖を調節しており、特にニューロンヘの分化に際して神経幹細胞におけるインテグリンα5β1の発現量は低下することを新たに示し、今後、神経幹細胞を利用した中枢神経機能再生への応用が期待される重要な知見を明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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