学位論文要旨



No 118145
著者(漢字) 神尾,道也
著者(英字)
著者(カナ) カミオ,ミチヤ
標題(和) クリガニの性フェロモンに関する研究
標題(洋) Studies on Sex Pheromones of the Helmet Crab Telmessus cheiragonus
報告番号 118145
報告番号 甲18145
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2534号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 渡部,終五
 国際基督教大学 準教授 小林,牧人
 東京大学 助教授 松永,茂樹
内容要旨 要旨を表示する

 エビやカニなどの甲殻類には、古くから性フェロモンの存在が認められている。特に交尾前ガード、メスの脱皮とその後に続く交尾というsoft female mating型の配偶行動をとるカニ類のオスは、メスの尿に対し求愛ダンス、およびメスの探索行動などの観察しやすい配偶行動を示すため、性フェロモンの研究が活発に行われてきたが、フェロモンの本体が明らかにされた例はない。

 ケガニの近縁種のクリガニ(Telmessus cheiragonus)もsoft female mating型の配偶行動を示すばかりでなく、交尾期の個体を大量に捕獲可能であるため、性フェロモン研究に適している。そこで、本研究では、クリガニの性フェロモンの解明を目指し、交尾行動の観察、バイオアッセイの開発、およびフェロモン分子の単離と同定を試みた。その概要は以下の通りである。

交尾行動の観察

 先ず、性フェロモンの解明に必要な、配偶行動の観察を行った。甲殻類の交尾前ガード、交尾、および交尾後ガードは、性比および相対的な体サイズの影響を受けて変動すると言われているので、性比および体サイズの交尾前ガード時間に対する影響をオスに偏った性比区およびメスに偏った性比区について検討した。脱皮から交尾までの間隔と交尾の持続時間は短く、8時間おきの観察では測定することができなかったので、個別の水槽に隔離したペアをビデオテープで連続的に撮影して測定した。その結果、クリガニの配偶行動のタイプは交尾前ガード、メスの脱皮につづく交尾、そして交尾後ガードという典型的はsoft female mating型で、交尾前ガードは11.0±5.0SD日続き、脱皮から交尾までは41.2±10.9SD分の間隔があり、交尾は110.6±6.6SD分間行われ、さらに交尾後ガードは4.0±6.6SD時間続いた。

 オス間競争では、大型個体が優位であり、最も小さいグループのオスは一度もメスをガードできなかった。性比に依存した交尾前後ガード時間の可塑性は認められなかった。交尾はメスの脱皮後に行われたが、ひとつの水槽内に脱皮前のペアと脱皮後交尾中のペアが存在すると脱皮前のペアでもオスが交尾を試み、失敗に終わることが観察された。この理由として狭い水槽中では、脱皮後のメスから放出されるフェロモンが、正常な交尾行動を撹乱すると考えられた。ガザミの仲間ではオスがメスに対して求愛ダンスを行うことが知られており、フェロモン検出のための指標として利用されているが、クリガニのオスは求愛ダンスその他の交尾前ガードに先立つ行動を示さなかった。

フェロモン検出法の開発と尿のフェロモン活性の確認

 メス飼育水を含んだスポンジに対するオスの反応を指標とした行動試験(スポンジ法)はこれまで用いられていたが、再現性の低さが問題であった。そこで、希釈されていないフェロモンサンプルを採取することを考え、ガザミ類の例に倣って触角腺開口部からメスの尿を採取して試験することにした。その結果、メスの尿をスポットしたスポンジに対して抱きつき行動を示した。さらに飼育条件を種々検討した結果、10℃で飼育したオスをアッセイの2時間前に15℃の水槽中で個別飼育すると、高い確率でメス尿に反応することが分かった。

 オス尿、脱皮前、後のメス尿、海水のフェロモン活性をこの方法を用いて試験したところ、メス尿にのみ活性が認められた。海水で希釈したメス尿の検出限界は100倍希釈であり、スポットする体積は20μLで十分であった。エビ抽出液をスポンジにスポットすると鋏脚ではさんでひきちぎり摂食するのに対し、メス飼育水を含んだスポンジに対しては、オスは抱きついて鋏脚と歩脚で撫で回す行動を示した。摂餌行動とも区別でき、この方法が性フェロモンの検出法として適切であることが確認された。

交尾フェロモンの発見

 甲殻類で実験的に存在が証明されている性フェロモンはすべて交尾前行動を引き起こすものであり、オスの交尾行動すなわちペニスの挿入-射精がどのような刺激によって開始されるのかは不明であった。上述のクリガニの行動観察で交尾行動を引き起こすフェロモンの存在が示唆されたが、メスの尿は交尾前ガード行動しか引き起こさなかったことから、交尾行動を刺激するフェロモンが脱皮後のメスの触角腺開口部以外から放出されると考えた。そこで、脱皮後のメスの飼育水および脱皮前のメスの飼育水に対するオスの反応をスポンジ法で調べたところ、脱皮後のメスの飼育水に対してのみ交尾行動を示すことが観察され、一方、脱皮前の飼育水に対しては交尾前ガードのみが観察されたことから、オスの交尾行動を引き起こすフェロモンが脱皮後のメスから放出されていると判断した。

 次に、このフェロモンが脱皮後の尿中に含まれないことを確認するため、脱皮後の尿と脱皮後の飼育水に対するオスの反応をスポンジ法を用いて調べたところ、飼育水に対しては交尾行動を示すが、尿に対しては交尾前ガード行動しか示さなかった。さらに、触角腺開口部を塞いで尿の放出を阻害したメスに対してもオスは交尾行動を示すので、触角腺開口部以外から交尾行動刺激フェロモンが放出されると考えられた。端脚類ではメスの体表にフェロモンが存在し、接触なしではオスはそれを感知できないと考えられているため、クリガニのメスの体表をスポンジで拭ってオスの反応を観察したが、交尾行動は観察されなかった。さらに、凍結後解凍したメスに対してオスはガード行動も交尾行動を示さず、飼育水のみを含みメスと接触のないスポンジに対してオスが交尾行動を示すことから、交尾行動刺激フェロモンはメスの体のいずれかの場所から水中に放出されると考えられた。しかし、生殖孔、肛門、および腹部の縁を接着剤で塞いだ脱皮メスに対してオスは交尾行動をとったことから、交尾フェロモンは触角腺開口部、肛門、生殖孔、そして腹部内面以外の場所から放出されるものと判断した。

 クリガニの交尾は脱皮後1時間以内に始まること、および殻の硬化したメスは交尾しないことから、交尾行動刺激フェロモンの放出は殻が硬化する前に終わると予想された。ところが、スポンジ法で放出期間を測定した結果、脱皮後21日以上にわたって交尾行動刺激フェロモンは放出され続けていた。また、この時点でメスの殻は硬化しているのに加え、交尾を試みるオスに抵抗して交尾を受けつけなくなっており、交尾の成立にはメスによる交尾行動刺激フェロモンの放出とメスが抵抗しないことが必要であることが明らかとなった。なお、限外ろ過から本フェロモンの分子量は1000以下の水溶性物質と推定された。

フェロモン受容器の特定とElectroantennulogramの開発

 後述の通り、行動実験からだけではフェロモンの検出に限界あると思われたので、昆虫のフェロモンのスクリーニングに広く用いられている触角電位(electroantennogram:EAG)の開発を試みた。ザリガニおよびカニ類ではフェロモン受容器は第一触角であり、さらにガザミではその外肢がフェロモン受容器であると報告されている。EAGは甲殻類フェロモン研究にも有効であると考えられるが、昆虫のEGAを真似たザリガニのEAG反応がアーチファクトであることが示されており、フェロモン研究には用いられてこなかった。本研究でも第一触角を用いたが、ザリガニで観測されたようなアーチファクトを測定しないために、触角中の神経束から直接活動電位を記録する方法を考案した。すなわち、オスクリガニの第一触角を切り取り、流水中に設置し、エビ抽出液、オス尿および、メス尿で刺激し、触角に含まれる全神経を触角外に取り出して活動電位をまとめて記録した。ところ、外肢、内肢ともに化学受容器として働くことが分かった。そこで外肢あるいは内肢を切除後反応の変化をスポンジ法で観察した。その結果、外肢を切除したときのみフェロモンに対する反応が無くなったことから、第一触角外肢がフェロモン受容器であることが確認された。さらに、第一触角外肢のEAG反応は濃度依存的なので、本法はフェロモンの検出に有効であると考えられた。

メス尿からの抱きつきフェロモンの分離と同定の試み

 尿に含まれる抱きつき行動刺激フェロモンの性質を調べたところ、分子量1000以下の不揮発性かつ高極性分子であることが明らかとなったので、ゲルろ過を用いてフェロモンの分離精製を行うことにした。はじめにSephadexG50ゲルで尿を分画したところ、活性は乾燥重量が最も大きかった画分付近に認められ、尿中の無機塩類が混在すると考えられた。次に、この活性画分をToyopearl HW40SFで分画した。しかし、スポンジ法による活性およびEAGによる反応は広範囲に広がって認められた。なお、ゲルろ過画分をさらに逆層HPLCを用いて分画すると行動上の活性が失われた。そこで、ゲルろ過活性画分中に含まれる化合物の同定を試みた。2DNMRで解析したところ、トリゴネリン、トリメチルアミンオキシド、尿素、酢酸イオンが検出された。しかし、検出された個々の化合物、すべての混合物、そしてそれらをオス尿に溶かしたものはすべてスポンジ法で不活性であった。

 次に、オス尿とメス尿の成分比較を行った。その結果、コハク酸、トリメチルアミンオキシド、酢酸塩がメス尿にのみに認められたが、いずれも活性を示さなかった。なお、オスとメス尿間で、アミノ酸組成、糖類、および核酸関連化合物の含量に大きな違いは見出されなかった。フォトダイオードアレイ分析では、オス尿に高濃度のホマリンが検出され、交尾直前直後のメスの尿中には検出されなかった。交尾終了後、単独生活のメス尿には高濃度で含まれていることから本物質を含まないことも尿のフェロモン活性の条件である可能性が考えられる。

 以上本研究では、クリガニの性フェロモンの同定を目的に、行動観察、行動および神経レベルでのフェロモン検出法の開発、配偶行動のフェロモンによる段階的な制御機構の解明を試みた結果、一連の配偶行動を明らかにすることとともに、カニ類では最初の交尾行動刺激フェロモンの存在を明らかにすることができた。一方、スポンジを用いるアッセイ法を開発して、抱きつきフェロモンの単離と同定を試みたが、メス尿中の成分をいくつか明らかにすることができたものの、フェロモン本体の解明には至らなかった。今後、電気生理的な手法を用いることにより、フェロモンの解明が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 エビやカニなどの甲殻類には、古くから性フェロモンの存在が認められている。特に、交尾前ガード、メスの脱皮とその後に続く交尾というsoft female mating型の配偶行動をとるカニ類については研究が活発に行われてきたが、フェロモンの本体が明らかにされた例はない。そこで、本研究では、ケガニの近縁種のクリガニTelmessus cheiragonusの性フェロモンの解明を目指し、交尾行動の観察、バイオアッセイの開発、およびフェロモン分子の単離と同定を試みた。その概要は以下の通りである。

 先ず、性フェロモンの解明に必要な、配偶行動の観察を行った。すなわち、個別の水槽に隔離したペアをビデオテープで連続的に撮影して測定したところ、クリガニの配偶行動のタイプは交尾前ガード、メスの脱皮につづく交尾、そして交尾後ガードという典型的はsoft female mating型で、交尾前ガードは11.0±5.0SD日続き、脱皮から交尾までは41.2±10.9SD分の間隔があり、交尾は110.6±6.6SD分間行われ、さらに交尾後ガードは4.0±6.6SD時間続いた。オス間競争では、大型個体が優位であり、最も小さいグループのオスは一度もメスをガードできなかった。性比に依存した交尾前後ガード時間の可塑性は認められなかった。交尾はメスの脱皮後に行われたが、ひとつの水槽内に脱皮前のペアと脱皮後交尾中のペアが存在すると脱皮前のペアでもオスが交尾を試み、失敗に終わることが観察された。これは、狭い水槽中では、脱皮後のメスから放出されるフェロモンが、正常な交尾行動を撹乱すると考えられた。

 次ぎに、バイオアッセイの開発を試みた。メスの尿をスポットしたスポンジに対して抱きつき行動を示したので、さらに飼育条件を種々検討した結果、10℃で飼育したオスをアッセイの2時間前に15℃の水槽中で個別飼育すると、高い確率でメス尿に反応することが分かった。オス尿、脱皮前、後のメス尿、海水のフェロモン活性をこの方法を用いて試験したところ、メス尿にのみ活性が認められた。海水で希釈したメス尿の検出限界は100倍希釈であり、スポットする体積は20μLで十分であった。

 甲殻類で実験的に存在が証明されている性フェロモンは、すべて交尾前行動を引き起こすものであり、オスの交尾行動がどのような刺激によって開始されるのかは不明であった。上述のクリガニの行動観察で交尾行動を引き起こすフェロモンの存在が示唆されたが、メスの尿は交尾前ガード行動しか引き起こさなかったことから、交尾行動を刺激するフェロモンが脱皮後のメスの触角腺開口部以外から放出されると考えた。そこで、脱皮後のメスの飼育水および脱皮前のメスの飼育水に対するオスの反応をスポンジ法で調べたところ、脱皮後のメスの飼育水に対してのみ交尾行動を示すことが観察され、一方、脱皮前の飼育水に対しては交尾前ガードのみが観察されたことから、オスの交尾行動を引き起こすフェロモンが脱皮後のメスから放出されていると判断した。次に、このフェロモンがどこから放出されるのかを検討したところ、触角腺開口部、肛門、生殖孔、そして腹部内面以外の場所から放出されるものと判断できたものの、未解明のまま残された。なお、クリガニの交尾は脱皮後1時間以内に始まること、および殻の硬化したメスは交尾しないことから、交尾行動刺激フェロモンの放出は殻が硬化する前に終わると予想された。ところが、スポンジ法で放出期間を測定した結果、脱皮後21日以上にわたって交尾行動刺激フェロモンは放出され続けていた。また、限外ろ過から本フェロモンの分子量は1000以下の水溶性物質と推定された。

 後述の通り、行動実験からだけではフェロモンの検出に限界あると思われたので、昆虫のフェロモンのスクリーニングに広く用いられている触角電位(electroantennogram:EAG)の開発を試みた。すなわち、オスクリガニの第一触角を切り取り、流水中に設置し、エビ抽出液、オス尿および、メス尿で刺激し、触角に含まれる全神経を触角外に取り出して活動電位をまとめて記録したところ、外肢、内肢ともに化学受容器として働くことが分かった。そこで外肢あるいは内肢を切除後反応の変化をスポンジ法で観察した。その結果、外肢を切除したときのみフェロモンに対する反応が無くなったことから、第一触角外股がフェロモン受容器であることが確認された。さらに、第一触角外肢のEAG反応は濃度依存的なので、本法はフェロモンの検出に有効であると考えられた。

 最後に、尿に含まれる抱きつき行動刺激フェロモンの同定を試みた。予備実験で、フェロモンは分子量1000以下の不揮発性かつ高極性分子であることが明らかとなったので、Sephadex G50およびToyopearl HW40SFを用いたゲル濾過で尿を分画したところ、スポンジ法による活性およびEAGによる反応は多くの画分にわたり認められた。そこで、ゲルろ過活性画分中に含まれる化合物の同定を試みた結果、トリゴネリン、トリメチルアミンオキシド、尿素、酢酸イオンが検出されたが、これらの化合物と混合物には活性が見られなかった。さらに、オス尿とメス尿の成分比較を行ったところ、コハク酸、トリメチルアミンオキシド、酢酸塩がメス尿にのみに認められたが、いずれも活性を示さなかった。なお、オスとメス尿間で、アミノ酸組成、糖類、および核酸関連化合物の含量に大きな違いは見出されなかった。また、オス尿に高濃度のホマリンが検出され、交尾直前直後のメスの尿中には検出されなかった。交尾終了後、単独生活のメス尿には高濃度で含まれていることから本物質を含まないことも尿のフェロモン活性の条件である可能性が考えられる。

 以上本研究では、クリガニの性フェロモンの同定を目的に、行動観察、行動および神経レベルでのフェロモン検出法の開発、配偶行動のフェロモンによる段階的な制御機構の解明を試みた結果、一連の配偶行動を明らかにすることとともに、カニ類では最初の交尾行動刺激フェロモンの存在を明らかにし、さらにスポンジを用いるアッセイ法を開発して抱きつきフェロモンの性質を明らかにしたもので、学術上、応用上寄与するところが大きい。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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