学位論文要旨



No 118149
著者(漢字) 糸井,史朗
著者(英字)
著者(カナ) イトイ,シロウ
標題(和) 魚類FoF1-ATPaseの温度適応に関する分子生物学的および生化学的研究
標題(洋)
報告番号 118149
報告番号 甲18149
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2538号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 助教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

 魚類は変温動物でその体温は環境水温の変化に伴って変化する。体温の変化は代謝に大きな影響を及ぼすことが想定されるが、広温域性淡水魚のコイCyprinus carpioやキンギョCarassius auratusは、季節的に0℃付近から30℃以上までと大きく変動する温度帯においても恒常的な生命活動を維持する。このような進化の過程で魚類が獲得した温度適応能については、種々の側面から分子レベルの研究が行なわれてきた。例えば、コイやキンギョでは温度馴化に伴って異なるミオシン・アイソフォームを発現して広い温度帯で遊泳運動を行なうことが明らかにされている。一方、呼吸代謝はQ10の法則で知られるように10℃の温度低下で約1/2に低下する。したがって、低温でも維持される魚類の高い遊泳能力は、何らかのエネルギー代謝の補償機構が存在しなければ達成できない。しかしながら、魚類のエネルギー代謝に関する分子レベルの知見は少なく、とくに温度適応との関係からみた研究はほとんど見当たらない。

 本研究はこのような背景の下、コイの低温馴化に伴って発現量が増大する水溶性タンパク質55kDa成分の同定を行ったところ、ミトコンドリアATP合成酵素(FoF1-ATPase)のβ-サブユニットであることが示された。そこで、コイを対象に本酵素を構成する種々のサブユニットの低温馴化に伴う発現変動を詳細に検討した。同時に、低温および高温馴化魚の普通筋からミトコンドリアを単離しFoF1-ATPase比活性を測定して比較した。さらに、水温を変えて飼育した海産魚のヒラメParalichtys olivaceusおよびマダイPagrus majorにつき、FoF1-ATPaseの各サブユニットの発現量や比活性の変化を調べて比較したもので、得られた研究成果の概要は以下の通りである。

1.コイの温度馴化に伴う普通筋溶性タンパク質組成の変化

 まず、10℃および30℃で5週間以上飼育して温度馴化させたコイ成魚の普通筋から水溶性タンパク質を抽出し、等電点電気泳動とSDS-PAGEからなる2次元電気泳動分析に付して、タンパク質組成を両馴化魚間で比較した。その結果、10℃馴化魚の55kDa成分量は30℃馴化魚のそれの約2倍に上昇していることが明らかとなった。そこで、この55kDa成分のN末端アミノ酸配列を分析したところ、VAPAAAAAAASGR以下計37残基が決定された。当該配列をBlast検索したところ、他生物種のFoF1-ATPaseβ-サブユニットと高い相同性を示した。

2.コイの温度馴化に伴う普通筋FoF1-ATPaseの遺伝子解析

 コイの低温馴化に伴って発現量の増大した55kDa成分がFoF1-ATPaseβ-サブユニットであることが示唆されたことから、様々な真核生物の当該サブユニット遺伝子の塩基配列を参考にプライマーを作製し、10℃馴化コイ普通筋cDNAライブラリーを鋳型としてPCRを行った。さらに、増幅cDNA断片をプローブにスクリーニングを行ったところ、先のN末端アミノ酸配列分析で決定された配列を含むFoF1-ATPaseβ-サブユニットの全アミノ酸518残基をコードする1,777bpのcDNAクローンが得られた。さらに、このcDNAをプローブに10℃および30℃馴化コイ普通筋のmRNA蓄積量を調べたところ、10℃馴化魚は30℃馴化魚の約2倍であることが示された。

 FoF1-ATPaseは、ミトコンドリア内膜に存在する分子量50万にも及ぶ巨大タンパク質複合体で、核およびミトコンドリア・ゲノムにコードされる多数のサブユニットから構成され、電子伝達系の酵素群と共役して細胞に必要なATPの大部分を合成する。そこで、β-サブユニットと同様に核ゲノムによってコードされているα-、γ-、c-サブユニットの全長をコードするcDNAをコイ普通筋からクローン化した。その結果、各cDNAは上記の順にそれぞれ、552残基をコードする1,889bp、292残基をコードする1,119bp、および140残基をコードする667bpの塩基からなることが示された。また、各サブユニットのmRNA蓄積量は低温馴化に伴っていずれも約2倍増大することが明らかとなった。

 一方、ミトコンドリア・ゲノムにコードされているFoF1-ATPaseのa-およびA6L-サブユニット(ATPase6-8)や、ミトコンドリアの内膜に存在する電子伝達系のチトクロームc酸化酵素サブユニットIIおよびチトクロームbのmRNA蓄積量については、10℃馴化魚は30℃馴化魚の約7倍と著しく高かった。なお、mRNA蓄積量の測定に当たっては、各サブユニットのcDNA断片を既報のコイのミトコンドリア・ゲノム全塩基配列のデータを用いてPCRで増幅し、その増幅産物をプローブとしてノザンブロット解析を行った。

 ところで、ミトコンドリア・ゲノムにコードされた成分のmRNA蓄積量の増大や、筋組織中のミトコンドリア量の増大にはmtDNA量の変化が関与することが報告されている。そこで、核ゲノム・コードのFoF1-ATPaseα-サブユニットおよびミトコンドリア・ゲノム・コードのATPase6-8の部分DNA配列をプローブにサザンプロット解析を行い、核ゲノム量に対するmtDNA量の比につき10℃および30℃馴化コイを対象に調べた。その結果、mtDNA相対量の馴化温度による違いは認められなかった。

3.コイの温度馴化に伴う普通筋FoF1-ATPase量および比活性の変化

 まず、10℃および30℃馴化コイの普通筋から1%SDSおよび4M尿素を含む溶液で全タンパク質を抽出し、SDS-PAGE分析した。次に、市販の抗ウシFoF1-ATPaseα-サブユニット・マウス抗体を用いてイムノブロッティングを行った。その結果、10℃馴化コイ筋組織中のFoF1-ATPaseα-サブユニット量は30℃馴化コイの約2倍と測定され、先の水溶性タンパク質を試料とした2次元電気泳動分析による差と一致した。

 次に、10℃および30℃馴化コイ普通筋からミトコンドリアを単離しSDS-PAGE分析に付した。次に、FoF1-ATPase α-サブユニットについては前述と同様のイムノブロッティングで当該バンド同定し、別途SDS-PAGEゲルタンパク質染色した後に定量した。一方、FoF1-ATPaseβ-サブユニットについてはSDS-PAGEゲルをタンパク質染色した後に当該バンドの定量を行なった。その結果、α-およびβ-サブユニット量とも両馴化魚のミトコンドリア間で差は認められなかった。

 さらに、単離したミトコンドリアを対象にFoF1-ATPase比活性を25℃で測定したところ、10℃および30℃馴化コイでそれぞれ、155±11および67±5nmol/min・mg mt proteinと、前者は後者の約2倍であった。なお、この差は測定温度10℃および30℃でも同じであった。以上のように、コイはFoFl-ATPaseを量的および質的に変化させて体温の低下に伴う代謝活性の低下を補償していることが示された。

4.ヒラメおよびマダイの飼育温度依存的な普通筋FoF1-ATPaseの変化

 ヒラメおよびマダイについては、8〜10℃の低温および23〜25℃の高温で4週間以上飼育し、FoF1-ATPaseの変化を調べた。まず、ヒラメにつきβ-サブユニットを指標に単位全筋肉タンパク質量当りのFoFl-ATPase量の変化を検討した。その結果、10℃飼育ヒラメのFo-F1-ATPase量は25℃飼育ヒラメの約3倍であることが示された。一方、FoF1-ATPaseの比活性については10℃および25℃飼育魚でいずれも約80nmol/min・mg mt proteinと、両飼育魚間で差は認められなかった。したがって、ヒラメの場合は低温下の代謝をFoF1-ATPase量の増大のみで補償しているものと結論された。

 次に、マダイでは8℃飼育魚は23℃飼育魚に比べて、単位全筋肉タンパク質当たりのFoF1-ATPase量は約2倍増大した。さらに、本酵素の比活性は8℃および23℃飼育魚でそれぞれ65±9および33±9nmol/min・mg mt proteinと、8℃飼育魚で約2倍大きいことが示された。したがって、マダイでは低温飼育に伴い、コイと同様のFoF1-ATPaseの量的および質的変化が生じて代謝の補償を行なっていることが明らかとなった。

 以上、本研究により、コイは低温馴化に伴い、FoF1-ATPaseを量的に増大させるとともに、比活性をも増大させ、低温下におけるエネルギー代謝を量的および質的に補償していることが示された。一方、海産魚のヒラメでは低温下の代謝をFoF1-ATPase量の増大のみで補償していることが示された。さらに、同じく海産魚のマダイでは、低温飼育に伴いコイと同様のFoF1-ATPaseの量的および質的変化を示した。しかしながら、今回検討した3魚種のいずれも低温下の代謝補償をFoF1-ATPaseの何らかの変化で補償していることが明らかにされた。筋肉中のATPの残存量は死後硬直の進行に大きな影響を与えることから、魚類の低温飼育で亢進されるFoF1-ATPase活性の増大は、魚類の高鮮度保持に有利と考えられ、今後この方面の研究の発展が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 魚類は変温動物でその体温は環境水温の変化に伴って変化する。体温の変化は代謝に大きな影響を及ぼすことが想定されるが、広温域性淡水魚のコイやキンギョは、幅広い温度域で恒常的な生命活動を維持する。このような温度適応能については、種々の側面から分子レベルの研究が行なわれてきたが、魚類のエネルギー代謝について温度適応との関係からみた分子レベルの研究は少ない。本論文では、コイの低温馴化に伴って発現量が増大する水溶性タンパク質55kDa成分の同定を行って、ミトコンドリアATP合成酵素(FoF1-ATPase)のβ-サブユニットであることが示されたことから、コイを対象に本酵素の他サブユニットの低温馴化に伴う発現変動を詳細に検討するとともに、低温および高温馴化魚の普通筋のFoF1-ATPase比活性を測定した。さらに、ヒラメおよびマダイについても飼育温度の違いに伴う本酵素量や比活性の変化を調べて比較した。

 まず、コイでは10および30℃で5週間以上飼育して温度馴化させた後、普通筋から水溶性タンパク質を抽出し、等電点電気泳動とSDS-PAGEからなる2次元電気泳動分析に付して、タンパク質組成を両馴化魚間で比較した。その結果、10℃馴化魚の55kDa成分量は30℃馴化魚のそれの約2倍に上昇した。本成分のN末端アミノ酸配列は、他生物種のFoF1-ATPaseβ-サブユニットと高い相同性を示した。

 次に、コイFoF1-ATPaseβ-サブユニット遺伝子のcDNAクローニングを試みた結果、先のN末端アミノ酸配列分析で決定された配列を含むFoF1-ATPaseβ-サブユニット全長をコードするcDNAクローンが得られた。さらに、当該サブユニット遺伝子の部分cDNA断片をプローブに10および30℃馴化コイ普通筋のmRNA蓄積量を調べたところ、10℃馴化魚は30℃馴化魚の約2倍であった。

 FoF1-ATPaseは、核およびミトコンドリア・ゲノム(mtDNA)にコードされる多数のサブユニットから構成されることから、核ゲノムにコードされているα-、γ-、c-サブユニットのcDNAクローニングを行い、各サブユニットのmRNA蓄積量を調べた。その結果、いずれのサブユニットでもmRNA蓄積量は低温馴化に伴って約2倍に増大した。一方、mtDNAにコードされているFoF1-ATPaseのa-およびA6L-サブユニット(ATPase6-8)などのmRNA蓄積量については、10℃馴化魚は30℃馴化魚の約7倍と著しく高かった。

 mtDNAコード成分のmRNA蓄積量の増大や、筋組織中のミトコンドリア量の増大にはmtDNA量の変化が関与することが報告されている。そこで、核ゲノム・コードのFoF1-ATPaseα-サブユニットおよびmtDNAコードのATPase6-8遺伝子の部分DNA配列をプローブにサザンブロット解析を行ったが、核ゲノム量に対するmtDNA量には、馴化温度による違いは認められなかった。

 10および30℃馴化コイの普通筋から全タンパク質を抽出し、SDS-PAGE分析した。次に、市販の抗ウシFoF1-ATPaseα-サブユニット・マウス抗体を用いてイムノブロッティングを行ったところ、10℃馴化コイ筋組織中のα-サブユニット量は30℃馴化魚の約2倍と測定され、先の水溶性タンパク質を試料とした2次元電気泳動分析による差と一致した。続いて、10および30℃馴化コイ普通筋からミトコンドリアを単離しSDS-PAGE分析に付して、ゲル上のα-およびβ-サブユニットのバンドを定量した結果、両サブユニットとも馴化温度による差はなかった。単離したミトコンドリアを対象にFoF1-ATPase比活性を25℃で測定したところ、10℃馴化魚では30℃馴化魚の約2倍であった。

 ヒラメおよびマダイについては、8〜10℃の低温および23〜25℃の高温で4週間以上飼育し、FoF1-ATPaseの変化を調べた。まず、ヒラメでは10℃飼育魚のFoF1-ATPase量は25℃飼育ヒラメの約3倍であった。一方、FoF1-ATPaseの比活性については10および25℃飼育魚間で差は認められなかった。次に、マダイでは8℃飼育魚は23℃飼育魚に比べて、筋組織中のFoF1-ATPase量は約2倍に増大した。また、本酵素の比活性は8℃飼育魚で23℃飼育魚の約2倍であった。

 以上本論文は、魚類は低温飼育に伴い、FoF1-ATPaseを量的および質的に変化させて、低温下におけるエネルギー代謝を補償していることを示した。筋肉中のATPの残存量は死後硬直の進行に大きな影響を与えることから、魚類が低温飼育でFoF1-ATPase活性を亢進される事実は、魚類の高鮮度保持に有用な指針を示したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)学位論文として価値あるものと認めた。

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