学位論文要旨



No 118152
著者(漢字) 大地,まどか
著者(英字)
著者(カナ) オオジ,マドカ
標題(和) ワレカラ類(甲殻綱:端脚目)における有機スズ化合物の生物学的影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 118152
報告番号 甲18152
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2541号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 助教授 渡邉,俊樹
内容要旨 要旨を表示する

 船舶や漁網等の防汚塗料として使用されてきたトリブチルスズ(TBT)等の有機スズ化合物は、海洋生物に対する毒性の強さから、その使用が一部の先進国で規制されている。しかしながら、現在も依然として海洋環境中に残留しており、その沿岸生態系への影響が懸念される。これまで、TBTの汚染状況の評価は主に魚類や貝類を用いて行われてきたが、TBTの生物学的影響については未だ不明な点が多い。

 沿岸生態系における有機スズ化合物の蓄積特性は、有機塩素系化合物や重金属とは異なり、栄養段階の上昇に伴う濃縮はみられない。その特異的な蓄積は、栄養段階の低次に位置するワレカラ類にみられる。甲殻綱端脚目に属するワレカラ類は、岩礁性魚類の重要な餌生物であり、生物量の多い低次生産者として沿岸生態系では重要な役割を果たしている。したがって、ワレカラ類の個体群変動は沿岸生態系の均衡に影響を及ぼすものと考えられる。ワレカラ類は短寿命で世代交代が約一ヶ月であるため、TBTの生物影響を短期間で数世代にわたり解明することが可能であり、指標生物として有効であると考えられる。

 本研究では、ワレカラ類を用いて海洋環境レベルのTBTの生物学的影響を把握し、指標生物としての有効性を検討することを目的とした。

1、ワレカラ類とヨコエビ類に対するTBTの急性毒性

 近縁で生態的地位も類似するワレカラ類とヨコエビ類を用いて、TBTに対する感受性やその分解代謝能力を調べるため、急性毒性実験を行った。

 岩手県大槌湾の岩礁域で潜水およびドレッジにより、5種のワレカラ類と3種のヨコエビ類を採集した。室温20℃、無給餌下で、各生物を48時間、7段階の濃度のTBT溶液(0、0.001、0.01、0.1、1、10、100μgTBTCl1-1)に暴露し、半数致死濃度(LC50)を算出した。ワレカラ類のLC50(1.2〜6.6μg1-1)は、ヨコエビ類(17.8〜23.1μg1-1)より低く、TBTに対する感受性が高いことが示唆された。従来の知見と比較したところ、ワレカラ類はTBTに対し感受性が極めて高い生物であることが明らかになった。

 分解代謝能力を検討するため、大槌湾で採集した海水および生物の有機スズ化合物の組成を調べた。分析は既法に準拠し、GC-FPD(炎光光度検出器付きガスクロマトグラフ)で定量を行った。ワレカラ類は海水と同様にTBTが約70%を占めたが、ヨコエビ類はTBTの分解代謝物のジブチルスズ(DBT)とモノブチルスズ(MBT)の総量が70%以上であった。したがって、ワレカラ類はヨコエビ類よりTBTに対する分解代謝能力が低いことが示唆された。

 以上の結果から、ワレカラ類は、ヨコエビ類よりTBTの分解代謝能力が低いため感受性が高く、海洋環境中のTBT汚染状況を調べるための指標として最適であることが明らかになった。

2、孵化後のTBT暴露がワレカラ類に及ぼす生物学的影響

 腹足類では、孵化後のTBT暴露により雌が雄性化することが知られている。そこで、5段階の濃度のTBT溶液(0、10、100、1000、10000ngTBTCl1-2)をホソワレカラCaprella danilevskiiの孵化後一世代にわたり暴露し、性比等に及ぼすTBTの生物学的影響を調べた。

 大槌湾で採集したホソワレカラを、室温20℃、光周期12L:12Dで飼育した。実験にはTBTの濃度が検出限界(2,0ng1-1)以下の濾過海水を用いた。実験溶液の交換は毎日行い、溶液中のTBTの濃度を一定に保った。雌が成熟期に達した後、雄と交配させ産卵を促した。

 孵化した幼体は、各濃度のTBT溶液に暴露し、成熟期に達した雌では育胞内の卵形成や卵発生等の生殖状況を観察した。幼体の生残率は、対照区(0ngl-1区)では100%であったが、TBT暴露後50日目では10〜1000ng1-1区で8.3〜25.0%まで減少した。なお、10000ng1-1区では暴露後4日以内に全個体が死亡した。雌の比率は、TBTの濃度に関わらず44.4〜50.0%の範囲であり、対照区(45.0%)と有意な差は認められなかった。10ng1-1区と100ng1-1区で卵形成阻害や抱卵数の減少がみられた。雌の成熟到達日数は、対照区(33日)と比較して10ng1-1区と100ng1-1区で39日となり、遅延がみられた。各齢の体長は100ng1-1区と1000ng1-1区で、各齢への到達日数は1000ng1-1区で、雌雄とも対照区と比較して遅延がみられた。10ng1-1区以上で鰓の欠損や壊死、脚の欠損や麻痺、脱皮障害等の外部形態の異常が認められた。このような形態異常は対照区ではみられなかった。

 以上の結果から、孵化後のTBT暴露は、ホソワレカラの性比に影響を及ぼさないが、生残、生殖、成熟、成長および形態形成等に影響を及ぼすことが明らかになった。

3、卵発生期のTBT暴露がワレカラ類に及ぼす生物学的影響

 ホソワレカラの孵化後のTBT暴露では、腹足類とは異なり、性比に変化がみられないことが明らかになった。したがって、本種ではTBTの作用時期が異なることが考えられた。そこで、ホソワレカラの卵発生期に5段階の濃度のTBT溶液(0、10、100、1000、10000ngTBTCl 1-1)を暴露し、一世代以上にわたる飼育により、性比等に及ぼすTBTの生物学的影響を調べた。

 産卵した雌は、卵発生期間に相当する5日間、各濃度のTBT溶液に暴露した。孵化した幼体は濾過海水で飼育し、観察を行った。成熟期に達した雌は、雄と交配させ産卵を促し、育胞内の卵形成や卵発生等の生殖状況を観察した。

 TBTに暴露した雌の親個体については、成熟期1齢目に相当する暴露期間中に100ng1-1区以上で死亡がみられた。成熟期2齢目の産卵数は、対照区(0ng1-1区)と比較して10〜1000ng1-1区で減少した。成熟期1齢目と、TBT暴露後の成熟期2齢目における産卵数を比較したところ、100ng1-1区では3.5個、1000ng1-1区では2.9個であった産卵数が、次齢では各々1.3個、1.0個と減少がみられた。孵化した幼体の雌の比率は、対照区では36.0%であったが、TBT濃度の上昇に伴い増加し、100ng1-1区では85.7%、1000ng1-1区では81.8%となった。卵の生残率は、対照区では100%であったが、TBT暴露5日間で10〜10000ng1-1区で0〜69.2%と減少した。孵化後の幼体を、濾過海水に移行した後も、全ての実験区で生残率の減少がみられた。生残率は、成熟するまでに(39〜45日)10〜1000ng1-1区で15.6〜38.5%に減少した。成熟期1齢目では、100ng1-1区と1000ng1-1区で卵形成阻害と抱卵数の減少がみられた。対照区と10ng1-1区ではこれらの生殖異常が認められなかったが、異常個休の割合はTBT濃度の上昇に伴い増加し、100ng1-1区で66.7%、1000ng1-1区で100%となった。成熟到達齢は、対照区(8齢)と比較して10〜1000ng1-1区(9齢)で遅延がみられた。幼体の各齢における体長および各齢への到達日数については、雌雄とも対照区と比較して各濃度区で有意差は認められなかった。

 以上の結果から、卵発生期のTBT暴露は、ホソワレカラの成長や形態形成に影響を及ぼさないが、生残、生殖および成熟に影響を及ぼすことが明らかになった。とりわけ、卵発生期に性比を攪乱することが示唆された。

4、TBTによるワレカラ類の性の攪乱時期の推定

 ホソワレカラではTBTが卵発生期に性比を攪乱することが明らかになった。そこで、卵発生期間をさらに細分化し、TBTによる性比の攪乱の時期を推定した。

 卵発生期に相当する5日間を12時間毎に分割した。産卵した雌は、各時間帯にTBT溶液(100ng1-1)に暴露した後、濾過海水で飼育した。抱卵した雌の育胞内の卵数や孵化した幼体の性別を調べた。

 性比は、対照区では雌が38.7%であったが、産卵後12〜60時間に暴露した個体で雌の比率の増加がみられた。雌の比率は36〜48時間で最高(71.4%)になった。産卵後12〜84時間にTBTに暴露された個体では抱卵数の減少がみられた.卵が脱落する頻度は、暴露時期が遅くなるに従って26.7%から4.6%に減少した。以上の結果から、TBTがホソワレカラの性比および卵形成や卵発生に影響を及ぼす時期は、卵発生期間の比較的初期であることが明らかになった。

 ワレカラ類は、分解代謝能力が低いためTBTに対する感受性が高く、海洋環境レベルのTBTがワレカラ類の生残や生殖に及ぼすことが明らかになった。TBTは、腹足類では雄性化を誘導することが知られているが、ワレカラ類では逆に雌の比率を増加させることが明らかになった。これらの生物学的影響は、現在もワレカラ類の個体群動態に影響を及ぼしていることを示唆している。食物連鎖の低次に位置するワレカラ類の個体群変動は、これらを捕食する高次消費者の生残にも影響を及ぼし、沿岸生態系の均衡に影響を及ぼすものと考えられる。種の存続に影響すると考えられるTBTの性比撹乱の機構については、今後、分子生物学的および内分泌学的手法により解明する必要がある。

 ワレカラ類は有機スズ化合物のモニタリングの指標生物として最適であることから、これらを用いることにより精度の高い海洋環境の調査が可能である。今後、世界各地に棲息するワレカラ類を用いて有機スズ化合物の汚染状況を調査することは、沿岸生態系の保全研究を進展させる上で極めて重要である。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、沿岸生態系を脅かしている有機スズ化合物の一種であるトリブチルスズ(TBT)に着目し、海洋環境レベルのTBTがワレカラ類に及ぼす生物学的影響を解明することを目的とした。さらに、これまでTBTの汚染状況の指標生物として用いられてきた魚類や貝類にとってかわる生物として、ワレカラ類を用いることの有効性を検討した。本論文は7章からなり、緒言および第2章の有機スズ化合物の海洋汚染および生物学的影響に関する総説に続く第3章〜第7章では、以下の結果を得た。

 第3章では、岩手県大槌湾の岩礁域で採集した近縁で生態的地位も類似する5種のワレカラ類と3種のヨコエビ類を用いて、TBTに対する48時間半数致死濃度(LC50)を調べた。ワレカラ類のLC50(1.2〜6.6μg1-1)はヨコエビ類(17.8〜23.1μg1-1)より低いことから、ワレカラ類のTBTに対する感受性はヨコエビ類のそれに比較してより高いことが示唆された。これを従来の知見と比較したところ、ワレカラ類はTBTに対し感受性が極めて高い生物であることが明らかになった。さらに、大槌湾で採集した海水および生物の有機スズ化合物の組成を調べた結果、ワレカラ類は海水と同様にTBTが優占する一方、ヨコエビ類はTBTの分解代謝物が優占していたことから、ワレカラ類はヨコエビ類よりTBTに対する分解代謝能力が低いことが示唆された。このことから、ワレカラ類は、ヨコエビ類よりTBTの分解代謝能力が低いため感受性が高く、海洋環境中のTBT汚染状況を調べるための指標として最適であることが明らかになった。

 第4章では、5段階の濃度のTBT溶液(0〜10000ngTBTCl1-1)をホソワレカラCaprella danilevskiiの孵化後一世代にわたり暴露し、性比等に及ぼすTBTの生物学的影響を調べた。その結果、幼体の生残率は、対照区と比較して全てのTBT暴露区で減少した。TBT暴露区で、卵形成阻害、抱卵数の減少等の生殖障害、および成熟遅延が認められた。この他、TBT暴露区で、成長阻害、脱皮遅延、鰓の欠損や壊死、脚の欠損や麻痺、および脱皮障害等の外部形態の異常が認められた。なお、性比には影響は見られなかった。よって、孵化後のTBT暴露は、ホソワレカラの性比に影響を及ぼさないが、生残、生殖、成熟、成長、および形態形成等に影響を及ぼすことが明らかになった。

 第5章では、ホソワレカラの卵発生期に5段階の濃度のTBT溶液(0〜10000ngTBTCl1-1)を暴露し、一世代以上にわたる飼育により、性比等に及ぼすTBTの生物学的影響を調べた。

 TBTに暴露した雌の親個体については、暴露期間中に死亡や抱卵数の減少が認められた。孵化した幼体の雌の比率はTBT濃度の上昇に伴い増加し、100ng1-1区以上では80%以上となった。卵の生残率は、対照区では100%であったが、TBT暴露5日間で全てのTBT暴露区で減少し、わずか10ng1-1でも70%に減少した。孵化後の幼体を濾過海水に移行した後も、全ての実験区で生残率の減少が認められた。成熟した雌では、TBT暴露区で卵形成阻害や抱卵数の減少等の生殖異常、および成熟遅延が認められた。なお、成長や形態には影響は認められなかった。したがって、卵発生期のTBT暴露は、ホソワレカラの成長や形態形成に影響を及ぼさないが、生残、生殖および成熟に影響を及ぼすことが明らかになった。とりわけ、卵発生期の暴露によって性比の攪乱が観察された。

 第6章では、性比が攪乱されることが明らかになった卵発生期間をさらに細分化し、TBTによる性比の攪乱の時期を推定したところ、卵発生期の比較的初期に雌の比率が増加することが明らかになった。この他、卵発生期の比較的初期に抱卵数の減少も確認された。よって、TBTがホソワレカラの性比および卵形成や卵発生に影響を及ぼす時期は、卵発生期間の比較的初期であることが明らかになった。

 最後の第7章では、以上をまとめてワレカラ類における有機スズ化合物の生物学的影響について総合的に考察した。ワレカラ類は分解代謝能力が低いためTBTに対する感受性が高く、海洋環境レベルのTBTがワレカラ類の性比、生残および生殖等、様々な生物学的影響を及ぼすことが明らかになった。これらの生物学的影響は、現在も食物連鎖の低次に位置するワレカラ類の個体群動態にも影響を及ぼしていることを示唆しており、沿岸生態系の均衡に影響を及ぼすものと考えられた。さらに、ワレカラ類は有機スズ化合物のモニタリングの指標生物として最適であり、これらを指標として用いることにより精度の高い海洋環境の調査が可能になった。

 以上、本研究ではこれまで不明であったワレカラ類における有機スズ化合物の生物学的影響を明らかにし、ワレカラ類が有機スズ化合物のモニタリングの指標生物として有効性であることを明らかにした点で、学術上高く評価された。また、沿岸生態系の保全管理のために、有機スズ化合物の生物学的影響に関する知見を数多く提供するものとして応用上寄与するところが少なくないと判断された。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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