学位論文要旨



No 118155
著者(漢字) 木村,呼郎
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ヨブオ
標題(和) マアナゴの集団構造に関する生態学的研究
標題(洋)
報告番号 118155
報告番号 甲18155
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2544号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 助教授 山川,卓
内容要旨 要旨を表示する

 ウナギ目魚類の産卵・回遊には謎が多い.日本・韓国・中国沿岸など東アジア全域に広く分布する水産重要種のマアナゴ(Conger myriaster)もまた例外ではない.これまでに受精卵,孵化仔魚,産卵親魚のいずれも採集された例がなく,本種の産卵場を示す直接的な証拠は得られていない.高井(1959)は本種の地理分布と黒潮・対馬暖流との位置関係に着目して,その産卵場を南西諸島近海の陸棚斜面と推定し,そこで産まれたレプトケファルスが海流によって本種の分布域全域に輸送・分散されるとする"単一産卵場説"を提唱した.一方,本種の産卵場は各地沿岸からそれほど遠くない近海に多数存在するとする"複数産卵場説"を示唆する傍証もある.このように生態学的知見の乏しい魚類にとって,集団構造の解析はその産卵・回遊生態を解明する際の重要な基礎知見を提供する.しかし,本種の集団構造に関しては,そもそも単一集団なのか複数集団なのかという基本的な問題にも統一的見解は得られていない.そこで本研究では,近年急速に発達した分子生物学的手法を用いて,着底後の稚魚・未成魚・成魚(以下,これらをまとめて"成魚"と呼ぶ)および着底前のレプトケファルスの詳細な集団解析をおこない,本種の集団構造を明らかにすることを目的とした.さらに,耳石日齢査定法を用いてレプトケファルスの初期生活史の解析をおこない,集団解析の結果と併せて本種の産卵・回遊生態を理解することもねらいとした.

成魚の集団構造

 まず,本種の分布域を以下の6つの海区に分けた.すなわち,東北海区(福島;かっこ内は採集地点),黒潮海区(徳島),瀬戸内海区(紀伊水道,周防灘),日本海区(若狭湾),東部東シナ海区(対馬),西部東シナ海区(青島,上海)である.これらの海区の計8地点から採集した223個体の成魚(各地点24〜32個体;全長26.3〜81.5cm)を用いて,mtDNAの部分塩基配列(cytochrome b〜調節領域)588bpを決定した.決定した塩基配列データを用いて地理的な遺伝的変異性の検討を行ったところ,地点内(1.56〜2.14%)と地点間(1.60〜2.09%)の平均塩基置換率にほとんど差はみられなかった.また,遺伝的分化程度の指標となるFstを算出した結果,8地点全体にも異質性は認められなかった(p>0.05).

 つぎに,mtDNAの塩基置換よりもさらに進化速度の速い,核DNAのマイクロサテライト領域の変異から集団構造の検討をおこなった.まず,マアナゴのゲノムライブラリーからマイクロサテライト領域を単離し,集団解析に有用な高い変異性を持つ3つの遺伝子座を得た.つぎにこれらの遺伝子座について,東北海区(大槌湾,福島),黒潮海区(東京湾,伊勢湾,徳島),瀬戸内海区(紀伊水道,周防灘),日本海区(若狭湾,島根),東部東シナ海区(対馬,有明海),西部東シナ海区(青島,上海)の6海区13地点より採集した計383個体の成魚(各地点25〜35個体;全長24.4〜81.5cm)のジェノタイピングをおこなった.その結果,どの地点も各々の遺伝子座に多数の対立遺伝子が得られ(平均14.9個),ヘテロ接合度(観察値)は高い値を示した(平均0.845).得られたジェノタイプデータを用いて,まず各地点を海区ごとにまとめて遺伝的分化程度の指標となるRstを算出した結果,東北海区と日本海区,瀬戸内海区と黒潮海区,瀬戸内海区と日本海区,瀬戸内海区と東部東シナ海区の各海区間に有意な差がみられた(p<0.01-0.05).つぎに海流系を考慮に入れ,上記の海区を親潮グループ(東北海区),黒潮・対馬暖流グループ(黒潮海区,東部東シナ海区,西部東シナ海区,日本海区),瀬戸内海グループ(瀬戸内海区)の3グループにまとめ,グループ間の遺伝的分化程度を階層的集団構造解析(AMOVA)によって調べた.その結果,これらの3グループ全体にも有意な異質性が認められた(p<0.0001).

 さらに,種々の集団遺伝学的パラメータ(Hardy-Weinberg平衡,集団サイズ,集団間の移住率)を求めて,上記の解析結果から予想される集団構造について詳細な検討をおこなった.その結果,東北海区と瀬戸内海区の繁殖集団は,それぞれ異なる海流系あるいは内海といった特異な地理的条件によって黒潮・対馬暖流グループに属する他の4海区と隔離されており,このためレプトケファルスや成魚の移住率が小さく保たれていると考えられた.また,これらの繁殖集団以外にも,黒潮海区,東部東シナ海区,西部東シナ海区,日本海区に不明瞭な複数の繁殖集団の存在が示唆された.しかし,これらの遺伝的分化程度は低く,黒潮・対馬暖流によるレプトケファルスの大規模な分散・混合によって遺伝的隔離が妨げられているものと考えられた.

レプトケファルスの遺伝的変異

 ここで用いた成魚の標本には,複数の年級群や産卵時期の異なる発生群が混合している可能性が高い.より正確にマアナゴの集団構造を把握するには,個々の産卵群の遺伝的変異性を知る必要がある.接岸回遊したレプトケファルスの個体群は,着底後に移動・混合のある成魚に較べて,産卵群の遺伝的組成をより純粋に保存していると考えられる.そこで次に,レプトケファルスの遺伝的解析から集団構造の検討をおこなった.

 まず,1998年3月に東北海区(福島)と黒潮海区(相模湾,伊勢湾)から採集した3標本,計79個体のレプトケファルス(各標本19〜30個体;全長78.9〜110.6mm)を用いて,成魚と同様にmtDNA解析をおこなった.その結果,標本内(1.66〜1.87%)と標本間(1.69〜1.81%)の平均塩基置換率にほとんど差はみられなかった.また,遺伝的分化程度の指標となるFstを算出した結果,3標本全体にも異質性は認められなかった(p>0.05).つぎに,1998年3月と1999年1〜4月に東北海区(福島),黒潮海区(相模湾,伊勢湾),瀬戸内海区(大阪湾,紀伊水道)から様々な時期に採集した13標本,計388個体のレプトケファルス(各標本27〜32個体;全長76.6〜123.6mm)を用いて,成魚と同様にマイクロサテライト解析をおこなった.その結果,どの標本も各々の遺伝子座に多数の対立遺伝子が得られ(平均143個),ヘテロ接合度(観察値)は高い値を示した(平均0.868).これらレプトケファルスの標本と成魚の各海区の標本を併せて,標本間の遺伝距離(delta-musquaredistance)を算出し,UPGMA法に基づくデンドログラムを構築したところ,東北海区と瀬戸内海区の成魚の標本,および福島(1999年4月28日)と紀伊水道(1999年3月17日)のレプトケファルスの標本は,その他全ての標本と明確に異なるクレードにまとまった.

 以上の結果,東北海区と瀬戸内海区には遺伝的に異なる繁殖集団の存在する可能性が強く示唆され,これらの繁殖集団はそれぞれの海区ごとに再生産をおこなっているものと考えられた.

レプトケファルスの初期生活史特性

 上記の遺伝学的解析の結果認められた複数の繁殖集団には,例えばそれぞれ異なる産卵場,異なる産卵期,異なる回遊経路を持つなど,何らかの生殖隔離機構があると考えられる.このことはさらに,レプトケファルスの初期生活史パラメータにも集団間で変異が生じていることを予想させる.そこで次に,レプトケファルスの体サイズ,発育段階,日齢,孵化日などを解析して,各地の初期生活史パラメータを比較した.

 まず,1998年3月と1999年1〜4月に東北海区(福島),黒潮海区(相模湾,伊勢湾),瀬戸内海区(大阪湾,紀伊水道)から様々な時期に採集した14標本,計407個体のレプトケファルス(各標本19〜32個体;全長76.6〜123.6mm)の体サイズと発育段階を調べた.各標本の平均全長をみると,東北海区で86.9〜107.5mm,黒潮海区で98.3〜103.5mm,瀬戸内海区で975〜103.4mmと,東北海区には体サイズの小さなレプトケファルスの来遊する傾向がみられた(p<0.001).福島(1999年4月28日),伊勢湾(1998年3月3日),大阪湾(1999年3月12日),紀伊水道(1999年3月17日)の4標本には多数の変態期個体(11〜17個体)が出現した.これら変態期個体の全長は,同じ変態進行度のものでも南の海区ほど体サイズの大きい傾向がみられた(p<0.001).

 つぎに,同一年度・同一時期に採集した福島(1998年3月9日),相模湾(1998年3月3日),伊勢湾(1998年3月3日)の3標本について耳石日齢解析をおこなった.その結果,各標本の平均日齢±標準偏差は,福島で143±17日,相模湾で143±21日,伊勢湾で194±31日であった.各標本の平均孵化日は,福島で1997年10月17日,相模湾で1997年10月11日,伊勢湾で1997年8月21日であった.伊勢湾の標本は,福島と相模湾の標本よりも有意に高齢で,孵化日も早かった(p<0.0001).このことから,伊勢湾に来遊したレプトケファルスは,他の採集地点のものより早い時期に生まれ,長時間かけて接岸回遊したものであると推測された.以上の結果,マアナゴの初期生活史パラメータは各地で異なることが明らかとなり,異なる繁殖集団は異なる生態学的特性を持つと考えられた.

 本研究の結果,マアナゴには東アジアの分布域全域に,遺伝的にも生態的にも異なる多数の繁殖集団の存在する可能性が強く示唆され,これまで一般に定説とされてきた"単一産卵場説"は棄却される.すなわち,マアナゴは従来考えられてきたような,本種分布域の全域から全ての親魚が東シナ海の産卵場ヘー斉に大規模な回遊をするのではなく,各地の沿岸の成育場とその近くの沖合の産卵場を移動する"局地的小回遊"をしている可能性が示唆される.したがって,本研究の結果に基づいて,本種の産卵生態については新たに"複数産卵場説"が提案される.今後この仮説については,卵やレプトケファルスの分布などの生態調査から,産卵場の数と場所を正確に把握する必要がある.さらに,レプトケファルスの加入機構や親魚の産卵場への回帰行動を調べ,繁殖集団の独立性を確認する必要があろう.本研究で明らかにした集団構造は,本種の産卵場調査をおこなう際の基礎資料となるだけでなく,本種の資源管理においても新しい指針を提示するものと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は,近年の漁獲量の減少から資源管理対策が急務とされているマアナゴの集団構造を,最新の分子生物学的手法により明らかにすることを目的とした.さらに,集団解析の結果と併せて,耳石日齢査定法を用いた初期生活史の解析をおこなうことで,これまで不明であったマアナゴの産卵・回遊生態について理解を進めることもねらいとした.論文は6章からなり,第1章の緒言と第2章の材料と方法に続いて,第3章から第6章では以下の結果を得た.

 第3章では,東北海区(大槌湾,福島;かっこ内は採集地点),黒潮海区(東京湾,伊勢湾,徳島),瀬戸内海区(紀伊水道,周防灘),日本海区(若狭湾,島根),東部東シナ海区(対馬,有明海),西部東シナ海区(青島,上海)の計6海区13地点より採集した計384個体の成魚の遺伝的変異を調べ,集団構造の検討をおこなった.まず,mtDNAの部分塩基配列(cytochrome b〜調節領域)588bpを決定し,遺伝的分化程度を算出したところ,全体に有意な異質性は認められなかった.つぎに,マアナゴのゲノムライブラリーから単離した3つのマイクロサテライト遺伝子座についてジェノタイピングをおこない,遺伝的分化程度を算出した結果,東北海区と瀬戸内海区に有意な異質性が認められた.また,海流系を考慮に入れ,上記の海区を親潮グループ(東北海区),黒潮・対馬暖流グループ(黒潮海区,東部東シナ海区,西部東シナ海区,日本海区),瀬戸内海グループ(瀬戸内海区)の3グループにまとめ,グループ間の遺伝的分化程度を調べた結果,これらの3グループ間にも有意な異質性が認められた.さらに,種々の集団遺伝学的パラメータ(Hardy-Weinberg平衡,集団サイズ,有効移住個体数)を求めて,上記の解析結果から予想される集団構造について詳細な検討をおこなった結果,東北海区と瀬戸内海区以外にも,黒潮海区,東部東シナ海区,西部東シナ海区,日本海区に複数の繁殖集団の存在することが示唆された.しかし,これらの遺伝的分化程度は低く,黒潮・対馬暖流によるレプトケファルスの大規模な分散・混合によって遺伝的隔離が妨げられているものと考えられた.

 第4章では,個々の産卵群の遺伝的組成を把握するために,1998年3月と1999年1〜4月に東北海区(福島),黒潮海区(相模湾,伊勢湾),瀬戸内海区(大阪湾,紀伊水道)から様々な時期に採集した14標本,計407個体のレプトケファルスの遺伝的変異を調べ,集団構造の検討をおこなった.その結果,mtDNA解析では遺伝的異質性は認められないものの,マイクロサテライト解析では成魚と同様に,東北海区と瀬戸内海区に遺伝的に異質な標本が出現した.このことから,成魚の解析結果と併せて,東北海区と瀬戸内海区には遺伝的に異なる繁殖集団の存在する可能性が強く示唆され,これらの繁殖集団はそれぞれの海区ごとに再生産をおこなっているものと考えられた.

 第5章では,初期生活史の地理的変異を検討するために,1998年3月と1999年1〜4月に東北海区(福島),黒潮海区(相模湾,伊勢湾),瀬戸内海区(大阪湾,紀伊水道)から様々な時期に採集した14標本,計407個体のレプトケファルスを用いて体サイズ,発育段階,日齢,孵化日を調べた.その結果,東北海区には体サイズの小さなレプトケファルスの来遊する傾向がみられた.また,変態期個体の全長は,同じ変態進行度のものでも南の海区ほど体サイズの大きい傾向がみられた.さらに,同一年度・同一時期に採集した標本の日齢・孵化日にも有意な差が認められた.以上の結果から,マアナゴの初期生活史パラメータは各地で異なることが明らかとなり,異なる繁殖集団は異なる生態学的特性を持つと考えられた.

 第6章では,これまでに得られた結果から,マアナゴの集団構造と産卵・回遊生態について総合的に考察した.マアナゴは,分布域各地に多数の繁殖集団が存在し,それらがレプトケファルスの大規模な分散や移住個体の再生産への加入により互いに遺伝的交流をおこなうことで,全体として緩く結合したメタ個体群構造を形成するものと考えられた.さらに,このような集団構造から,マアナゴの産卵・回遊生態については,沿岸の生息域とその近くの沖合の産卵場を移動する局地的小回遊をしている可能性が示唆された.

 以上,本研究はこれまで不明であったマアナゴの集団構造を,成魚とレプトケファルスの両発育段階について詳細に明らかにしたものである.同時に耳石解析を併用することで,それぞれの集団の初期生活史特性を明らかにし,これらの知見を基にマアナゴの産卵・回遊生態について大きく理解を進めたものである.本研究で明らかにした集団構造や生活史特性は,本種の資源管理において,これまでと違った新しい指針を提示するものと考えられた.よって審査員一同は,本論文が学術上,応用上寄与するところが少なくないと判断し,博士(農学)の学位論文としてふさわしいものと認めた.

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