学位論文要旨



No 118162
著者(漢字) 吉川,尚子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,ナオコ
標題(和) 甲殻類におけるアラニンラセマーゼに関する研究
標題(洋) Studies on alanine racemase in crustaceans
報告番号 118162
報告番号 甲18162
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2551号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 助教授 村上,昌弘
 東京大学 助教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

 D型アミノ酸は、細菌類の細胞壁を構成するペプチドグリカンの構成成分として古くから知られており、細菌類に特有なものであると考えられてきたが、近年動物においても無脊椎動物から哺乳類に至るまで広く存在することが明らかにされている。特に、甲殻類や二枚貝類等の水生無脊椎動物の諸組織中には、多量の遊離D-アラニン(Ala)が検出されており、このD-AlaはL-Alaとともに高浸透環境下で蓄積されるため、細胞内等浸透圧調節の有効なオスモライトであると考えられている。さらに、これら甲殻類や二枚貝類では、動物界において唯一D-,L-Alaの相互変換を触媒するアラニンラセマーゼ活性が確認され、D-AlaはL-Alaから生合成されることが明らかとなった。したがって、D-Alaの蓄積メカニズム、代謝および生理的役割を解明するためには、アラニンラセマーゼの解析が必要である。しかしながら、これら甲殻類や二枚貝類に存在するアラニンラセマーゼは、細菌類の酵素とは異なり、非常に微量で不安定であるため、これまで3種から精製されたにとどまり、その構造および機能解析には至っていない。

 本研究では、このような背景の下、甲殻類の中でも特にアラニンラセマーゼ活性の高い、ウシエビPenaeus monodonおよびクルマエビP. japonicusの筋肉および肝膵臓を用いて、本酵素の一次構造解析を行い、その生理機能について検討を行ったもので、得られた研究成果の概要は以下の通りである。

1.ウシエビ筋肉アラニンラセマーゼの単離とその性質および部分アミノ酸配列の決定

 甲殻類のアラニンラセマーゼの一次構造を解析するために、ウシエビ筋肉を用いてアラニンラセマーゼの単離を行った。まず、ウシエビ筋肉800gより粗酵素液を調製し、硫安30-70%飽和沈殿画分についてDEAE-Toyopearl,Butyl-Toyopearl,Phenyl-Sepharose,Ceramic Hydroxyapatite Type IおよびSuperdex 200の各カラムクロマトグラフィーに供した。その結果、回収率16%で精製度127,592倍、比活性2,807μmol/min・mgの単離酵素が57μg得られた。分子質量はSDS-PAGEにより44kDa、ゲル濾過により90kDaを示し、二量体であると考えられた。

 次に、単離酵素の酵素学的性質について検討を行った。まず、基質特異性については、D-,L-Alaにのみ高い特異性を示し、他のアミノ酸には作用しなかった。Km値はD-,L-Alaに対してそれぞれ167および179mMと細菌類の酵素に比べて非常に高い値を示したが、D→L、L→D方向それぞれに対するVmaxは3,155および3,502μmol/min・mg、Kcatは2,314および2,568s-1と両方向ともにきわめて高く、触媒効率は両方向に対してほとんど同じ高い値を示した。また、平衡定数は0.84であり、ラセマーゼ反応の理論値に近い値であった。最適pHはD→L方向の反応ではpH10、L→D方向ではpH9.5を示し、これは他の真核生物の酵母および真菌類で報告されているものとほぼ一致していた。

 また、ピリドキサル5'-リン酸(PLP)要求性については、20μMPLPの添加により僅かに活性化がみられたが、PLP非存在下でも活性は消失しなかった。またシッフ塩基-PLP複合体特有の420nmの吸収は、精製時においてSuperdex 200カラムを用いたクロマトグラムでは確認されたが、活性画分を回収した際には希釈されたためか、認められなかった。しかしながら、PLP要求性酵素の阻害剤であるヒドロキシルアミンやアミノオキシ酢酸の添加により著しく阻害された。したがって、PLPはもともと強力に本酵素に結合しているものと考えられ、本酵素も細菌類の酵素と同様にPLP要求性酵素であることが示唆された。

 さらに、単離酵素の部分アミノ酸配列決定を行った。すなわち、単離酵素を還元ピリジルエチル化し、臭化シアンあるいはAchromobacter protease Iを用いて断片化を行った。得られたペプチド断片は逆相HPLCで分取して、アミノ酸シークエンサーによってアミノ酸配列を決定した。その結果、7つのペプチド断片の配列が明らかとなり、その中の3つの配列は、Blast searchにより細菌類のアラニンラセマーゼと相同性がみられた。その1つは、細菌類の酵素の活性部位を含む領域であることが示され、さらに、細菌類のC末端領域に相同性を示す配列も得られた。本酵素のN末端配列分析は、ウェスタンブロッティングによってPVDF膜に転写したものについて行ったが、N末端残基の同定はできなかった。これにより得られた配列は、断片化によって得られた部分アミノ酸配列と重複している箇所を含んでおり、これらはN末端に近い領域に位置するものと考えられた。

2.アラニンラセマーゼ抗ペプチド抗体の作製

 前項で得られた部分アミノ酸配列の1つは、細菌類のアラニンラセマーゼの活性部位の一部で、L-Ala結合部位とされるチロシン(Tyr)残基を含む領域と相同性がみられたため、この領域から抗原ペプチドを設計し、アラニンラセマーゼを認識する抗体を作製した。抗原ペプチドはキャリアタンパク質としてkeyhole limpet hemocyanin(KLH)にコンジュゲートさせ、ウサギに免役した。得られた抗血清の抗体価は抗原ペプチドに対してELISAにより測定し、イムノブロッティングによって、ウシエビ筋肉アラニンラセマーゼ単離標品を認識することを確認した。しかしながら、イムノブロッティングにおいては粗酵素液では反応がみられなかったため、抗原ペプチドをリガンドとしたアフィニティーカラムにより抗血清を精製し、ELISAを行うことで抗体の反応性を検討した。その結果、ウシエビ肝膵臓、クルマエビ筋肉および肝膵臓の酵素も同様に認識することが確認されたため、これらに存在するアラニンラセマーゼの構造は類似しているものと考えられた。

 さらに、抗ペプチド抗血清によるL→D方向の反応の阻害活性について調べた。すなわち、酵素と抗ペプチド抗血清を反応させたものについて活性を測定したところ、L→D方向の反応では僅かに阻害されたが、D→L方向ではやや活性化がみられた。したがって、この抗ペプチド抗原を含む領域は、L→D方向の反応に関与することが示唆された。しかしながら、このエピトープがTyr残基を含むかどうかは明らかではないが、L→D方向の酵素反応に及ぼす影響は僅かであった。

3.クルマエビ筋肉および肝膵臓アラニンラセマーゼ活性に及ぼす生理的要因

 まず、クルマエビを異なる塩濃度に順応させ、順応過程における酵素活性の変化について検討した。その結果、肝膵臓では100→150%海水に順応させたところ、D→L、L→Dの両方向ともに時間の経過に伴い僅かに活性の上昇がみられた。一方、100→50%海水順応においては、両方向ともに著しい活性の低下が認められた。しかしながら、筋肉においては、いずれもほとんど変化はみられなかった。したがって、海水順応過程においては、本酵素の著しい活性化は認められず、環境の塩濃度の変動は本酵素を直接的に活性化させる因子にはなり得ないと考えられた。一方、脱皮直後の個体について活性測定を行ったところ、筋肉、肝膵臓ともに高い活性が認められた。すなわち、甲殻類における本酵素活性は脱皮にともなう生体内の生理的変化に関与していることが示唆された。

4.クルマエビ筋肉および肝膵臓アラニンラセマーゼのcDNAクローニング

 クルマエビ筋肉および肝膵臓から常法により全RNAを調製し、mRNAを精製したものを鋳型とし、精製酵素から得られた部分アミノ酸配列に基づいて、イノシンを含む縮合プライマーを作成し、PCRを行った。その結果得られたクローンの塩基配列から演繹されたアミノ酸配列は、ウシエビ筋肉精製酵素から決定した部分アミノ酸配列と一致し、細菌類のアラニンラセマーゼとの相同性もみられた。次に、新たに決定した塩基配列をプライマーに3'および5'RACEを行った結果、最終的に421残基のコード領域を含む1,798bpの塩基配列が決定された。これは、細菌類のアラニンラセマーゼと約30%程度の相同性を示した。また、細菌類の酵素においてPLPとシッフ塩基を形成することが知られているリシン残基およびその周辺の領域においても相同性が認められた。したがって、本酵素は生物進化の過程で細菌類から保存されたものであることが示唆された。次に、SMARTによりモチーフ検索を行ったところ、N末端に、細菌類のアラニンラセマーゼにはみられない、32残基のシグナルペプチドを有することが示された。

 以上本研究では、甲殻類からアラニンラセマーゼを単離し、その部分アミノ酸配列を決定するとともに、動物界においては初めてアラニンラセマーゼのcDNAクローニングを行い、その一次構造を明らかにした。したがって、今後は今まで着手できなかった分子レベルからの研究が可能になるため、水生無脊椎動物に存在するアラニンラセマーゼはもとよりD-Alaに関するさらなる研究の進展が期待できる。以上のように本研究は、甲殻類のアラニンラセマーゼの構造解析を通じてその機能の一端を明らかにしょうとしたもので、これらの成果は分子生物学および比較生化学上に資するところが大きいものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 D型アミノ酸は、細菌類の細胞壁を構成するペプチドグリカンの構成成分として古くから知られており、細菌類に特有なものであると考えられてきたが、近年動物においても無脊椎動物から哺乳類に至るまで広く存在することが明らかにされている。特に、甲殻類や二枚貝類等の水生無脊椎動物の諸組織中には、3〜50μmol/gにおよぶ多量の遊離D-アラニン(Ala)が検出されており、このD-AlaはL-Alaとともに高浸透環境下で蓄積されるため、細胞内等浸透調節の有効なオスモライトであると考えられている。さらに、これら甲殻類や二枚貝類には、動物界において唯一D-,L-Alaの相互変換を触媒するアラニンラセマーゼ活性が確認され、D-AlaはL-Alaから生合成されることが明らかとなった。したがって、D-Alaの蓄積メカニズム、代謝および生理的機能を解明するためには、アラニンラセマーゼの解析が必要である。しかしながら、これら甲殻類や二枚貝類に存在するアラニンラセマーゼは、細菌類の酵素とは異なり、非常に微量で不安定であるため、これまで3種から単離されたにとどまり、その構造および機能解析には至っていない。

 本研究では、このような背景の下、甲殻類の中でもアラニンラセマーゼ活性の高い、ウシエビPenaeus monodonおよびクルマエビP. japonicusの筋肉および肝膵臓を用いて、本酵素の一次構造解析を行い、その生理機能について検討を行ったものである。

 第一章では、ウシエビ筋肉を用いてアラニンラセマーゼの単離を行い、回収率16%で精製度127,592倍、比活性2,807μmol/min・mgの単離酵素を57μg得ている。分子質量はSDS-PAGEにより44kDa、ゲル濾過により90kDaを示し、二量体であると考えられた。

 本酵素はD-,L-Alaにのみ高い特異性を示し、他のアミノ酸には作用しなかった。Km値はD-,L-Alaに対してそれぞれ167および179mMと細菌類の酵素に比べてきわめて高い値を示したが、D→L、L→D方向それぞれに対するVmaxおよびkcat値は両方向ともにきわめて高く、触媒効率は両方向に対して高い値を示した。また、ピリドキサル5'・リン酸(PLP)非存在下でも活性は消失せず、細菌類の酵素とは異なった。しかしながら、PLP要求性酵素の阻害剤により著しく阻害されることから、PLPは強固に本酵素に結合しているものと考えられ、細菌類の酵素と同様にPLP要求性酵素であることが示唆された。

 さらに、単離酵素の部分アミノ酸配列決定を行っている。その結果、7つのペプチド断片の配列が明らかとなり、そのうち3つの配列は細菌類のアラニンラセマーゼとの相同性が認められた。

 第二章においては、これら部分アミノ酸配列から抗原ペプチドを設計し、アラニンラセマーゼを認識する抗体を作製し、ELISAによりウシエビおよびクルマエビの筋肉および肝膵臓の酵素を認識することを確認している。

 第三章においては、クルマエビを異なる塩濃度に順応させ、順応過程における酵素活性の変化について検討している。その結果、肝膵臓では100→150%海水に順応させたところ、D→L、L→Dの両方向ともに時間の経過に伴い活性の上昇がみられ、100→50%海水順応においては、両方向ともに著しい活性の低下が認められた。しかしながら、筋肉においては、いずれもほとんど変化はみられなかった。一方、脱皮直後の個体では筋肉および肝膵臓ともに高い活性が認められた。すなわち、甲殻類における本酵素活性は脱皮にともなう生体内の生理的変化に関与することが示唆された。

 第四章においては、クルマエビ筋肉および肝膵臓から常法により全RNAを調製し、mRNAを精製したものを鋳型とし、精製酵素から得られた部分アミノ酸配列に基づいて、イノシンを含む縮合プライマーを作成し、PCRを行っている。この塩基配列をプライマーに3'および5'RACEを行った結果、最終的に421残基のアミノ酸に相当するコード領域を含む1,798bpの塩基配列を決定した。これは、細菌類のアラニンラセマーゼと約30%程度の相同性を示した。また、細菌類の酵素においてPLPとシッフ塩基を形成することが知られているリシン残基およびその周辺の領域においても高い相同性が認められた。したがって、本酵素は生物進化の過程で細菌類から保存されたものであることが示唆された。

 以上本研究では、動物界においては初めてアラニンラセマーゼの一次構造を明らかにした。したがって、今後は分子レベルでの研究が可能になるため、水生無脊椎動物に存在するアラニンラセマーゼはもとよりD-Alaに関するさらなる研究の進展が期待できる。これらの成果は分子生物学および比較生化学上に資するところが大きいものと考えられる。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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