学位論文要旨



No 118163
著者(漢字) アーサン,モハメド・ナズムル
著者(英字) Ahsan,Md.Nazmul
著者(カナ) アーサン,モハメド・ナズムル
標題(和) カタクチイワシ・トリプシンの分子構造および生化学的性状に関する研究
標題(洋) Studies on the Molecular and Biochemical Properties of Anchovy Trypsin
報告番号 118163
報告番号 甲18163
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2552号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

 変温動物の魚類は環境水温とほぼ等しい体温を保つが、水界の温度は一般に低いため、魚類の体温は哺乳類のものと比べて通常低い。魚類はこのように低い体温でありながらも、生命活動は恒温動物の高等脊椎動物のものとは変わらない。生体内反応といえども化学反応の法則に従えば温度が低下すれば低くなる。したがって、魚類が低温でも充分な代謝活性を維持するためには、低温でも十分な活性を示す酵素の存在が必要となる。魚類の死後変化は高等脊椎動物のそれに比べて速く、その原因の一つとして魚類に含まれる消化酵素の活性の高さがあるが、その生理的理由は前述の通りである。このような魚類消化酵素の活性の高さは、魚肉の熟成には利点となっている。とくにカタクチイワシ類は世界中で魚醤油の原料として多用されており、その理由には消化酵素の活性の高さが考えれるが、構造と機能の関係には不明な点が多い。

 このような背景の下、本研究はカタクチイワシEngraulis japonicusを対象に、まずトリプシンのcDNAクローニングを試みた。次に、このトリプシンを幽門垂から単離し、酵素活性を調べた。さらに、一次構造の情報から立体構造を予測し、機能との関係を検討した。最後に、リコンビナント・トリプシンを人為的に発現する組換えDNA体の構築を試みたもので、成果の概要は以下の通りである。

カタクチイワシ・トリプシノーゲンのcDNAクローニング

 カタクチイワシの幽門垂からPCR法によりトリプシンの不活性前駆体トリプシノーゲンの全長をコードする2種類のcDNAクローン、aTgIおよびaTgIIを単離した。aTgIの全長は832bpで翻訳領域(ORF)は720bpからなり、23bpの5'非翻訳領域(UTR)と89bpの3'-UTRを含んでいた。一方、aTgIIの全長はaTgIより少し長い974bpで、723bpのORF、aTgIと同じ大きさの23bpの5'-UTR、aTgIより長い228bpの3'-UTRを含んでいた。aTgIの3'側の408bpをプローブとしたノーザンブロット解析で組織別の転写蓄積量を調べたところ、幽門垂で最も高く、次いで小腸、胃の順であった。一方、筋肉から調製したゲノムDNAを制限酵素で消化してノーザンブロット解析に用いたプローブでサザンブロット解析したところいくつかのバンドがみられ、aTgIおよびaTgII以外にもアイソフォームが存在する可能性が示された。

 aTgIおよびaTgIIcDNAの塩基配列からそれぞれaTgIおよびaTgIIのアミノ酸配列を演繹し他動物種のものと比較した。まず、カタクチイワシ両アイソフォームはN末端側に13アミノ酸からなるシグナルペプチドと、6アミノ酸からなるプロペプチドを含んでいた。次に、aTgIおよびaTgIIのトリプシン部分、それぞれaT-IおよびaT-IIの演繹アミノ酸配列は、いずれも12個のシステイン残基を含み、その位置が保存されていることから両分子の立体構造には6個のSS結合があることが示唆された。また、トリプシン活性の特異性を決定するTrp172およびAsp189も保存されていた。さらに、触媒の三組を形成するHis59、Asp102およびSer195、さらにはautolysis loop構造と2個所の分子表面に存在するloop構造もよく保存されていた。なお、本研究のアミノ酸番号はキモトリプシンの基準配列に基づいて記載した。一方、カタクチイワシではautolysis loopに2つのアミノ酸の欠失がみられた。さらに、基質結合ポケット近傍にもアミノ酸変異がみられた。また、カタクチイワシaT-Iではloop2に負電荷をもつアミノ酸が含まれていた。最終的に、aTgIがコードするaT-IではヒラメParalichthys olivaceusのトリプシンと84%、aTgIIがコードするaT-IIは南極産タラ類Paranotothenia magellanicaのトリプシンとは85%のアミノ酸同一率を示した。

単離カタクチイワシ・トリプシンの物理学的および酵素化学的性状

 カタクチイワシの内臓から硫安分画、アフィニティークロマトグラフィー、ゲルろ過、イオン交換クロマトグラフィーを骨子とする方法で、トリプシンの2つのアイソフォームaT-IおよびaT-IIを精製した。両アイソフォームともnative-およびSDS-PAGEで高純度であることが示され、さらにゼラチン・ザイモグラフィーでもこれが確認された。単離したaT-IおよびaT-IIをN末端アミノ酸配列分析に供したところ、両アイソフオームとも演繹アミノ酸配列と一致する配列が得られた。また、ゲルろ過により分子量を測定したところ、いずれも24,000の値が得られ、cDNAクローンの演繹アミノ酸配列から算出したトリプシン領域の値によく一致した。

 両アイソフォームの活性はいずれも市販のトリプシン特異的阻害剤およびセリンプロテアーゼ阻害剤で完全に阻害された。合成基質BAPAおよびBAEEを用いて25℃でaT-IおよびaT-IIの触媒効率kcat/Kmを測定したところ、いずれもウシ・トリプシンに比べて高く、とくにaT-IIのBAPAに対する活性はウシの35倍であった。これは主にカタクチイワシ・トリプシンでKm値が小さいことに起因し、カタクチイワシが進化の過程で海洋環境に低温適応し基質との親和性を増大させたためと考えられた。両アイソフォームとも25℃、pH7-12で活性を示し、至適pHは9.5と測定された。また、pH8でBAPAを基質として酵素活性を測定したところ、20℃でも高い活性を示した。さらに、pH8、種々の温度で30分間処理して残存活性を25℃で測定したところ、50℃以上で失活することが明らかになった。

カタクチイワシおよびウシのトリプシンの立体構造の比較

 SWISS-MODELの公開サーバーを用いたコンピュータによる分子構造モデルを構築し、カタクチイワシ・トリプシンの高い触媒活性と構造との関係をウシ・トリプシンを対照にしつつ調べた。なお、カタクチイワシ・トリプシンの構造予測には既報の大西洋サケSalmo salarトリプシンの結晶構造解析データを用いた。まず、カタクチイワシ・トリプシン両アイソフォームのポリペプチド骨格の構造は、autolysis loopを除いて他脊椎動物のそれに良く一致した。先述のように、カタクチイワシ・トリプシンのautolysis loopは2つのアミノ酸の欠失が存在する。また、哺乳類のトリプシンでは分子サイズの大きなTyr151がGln192の方向に突き出しているが、カタクチイワシではこのTyr151がセリンに置換されていた。そのため、カタクチイワシ・トリプシンではS1基質結合ポケットの入り口におけるGln192の自由度がより大きな構造的自由度を得ていることが明らかとなった。さらにカタクチイワシ・トリプシンでは構造上重要な分子表面に存在するloop2で負電荷のアミノ酸が分子表面の静電的な力を作り出し、ウシ・トリプシンの場合とは異なった。このような、カタクチイワシ・トリプシンのS1基質結合ポケットに存在する負電荷の要素が、基質中の正電荷のアルギニンやリシンを効果的に基質結合クレフトに向かわせていることが予測された。

組換えDNA体によるカタクチイワシ・トリプシンの人為的発現

 活性をもつリコンビナントのカタクチイワシ・トリプシンを得るために、酵母Pichia pastorisおよび大腸菌Escherichia coliの発現系の構築を試みた。まず、酵母についてはpUniD/V5-His-TOPOを供与体ベクター、pPICZα-Eを受容体ベクターに用いて発現系を構築した。この系はトリプシノーゲンのようにシグナルペプチドやプロペプチドを切り離して天然型の立体構造をもつ活性タンパク質を人為的に発現させるために開発されたもので、本研究でも活性型のトリプシンが細胞外に得られた。しかしながら、いくつかの条件検討を試みたが、発現したトリプシンのほとんどは自己消化作用あるいは共存する他のプロテアーゼによって分解し、産業的な利用を目指すためには収量が低すぎた。そこで、安価に構築できる大腸菌プラスミドpETBlueとその宿主の系について検討を加えた。その結果、リコンビナント・タンパク質は封入体に得られた。このまま封入体から抽出したトリプシンには加水分解活性は認められなかったが、6M塩酸グアニジンで不溶体を溶解し、05M non-detergent sulfobetaineの存在下で再生処理を施すことによってカタクチイワシ内臓から単離したトリプシンの75%の比活性をもつ発現タンパク質が12mg/Lの高収量で得られた。

 以上、本研究により、カタクチイワシ幽門垂から2種類のトリプシンノーゲンをコードするcDNAを単離した。活性体のトリプシン領域につきアミノ酸配列を他動物種のものと比較したところ、autolysis loopに2つのアミノ酸の欠失があるなど、カタクチイワシの特徴がみられた。一方、2種類のトリプシンを幽門垂から単離し、触媒効率kcat/Kmを測定したところ、ウシ・トリプシンのそれに比べて著しく高かった。カタクチイワシの構造と機能の相関はコンピュータを利用した立体構造モデルでも確認された。さらに、リコンビナント・トリプシンを大量生産する組換えDNA体の構築にも成果が得られ、低温でも高活性のカタクチイワシ・トリプシンの産業的な利用に開発の道筋が示されたもので、比較生化学上および応用上に資するところが大きいと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 魚類の死後変化は高等脊椎動物のそれに比べて速く、その原因の一つとして魚類に含まれる消化酵素の活性の高さがあるが、構造と機能の関係には不明な点が多い。本論文はカタクチイワシEngraulis japonicusを対象に、トリプシンのcDNAクローニングを試みた。次に、このトリプシンを幽門垂から単離し、酵素活性を調べた。さらに、一次構造の情報から立体構造を予測し、機能との関係を検討した。最後に、リコンビナント・トリプシンを人為的に発現する組換えDNA体の構築を試みた。

 まず、カタクチイワシの幽門垂からトリプシンの不活性前駆体トリプシノーゲンの全長をコードする2種類のcDNAクローン、aTgIおよびaTgIIを単離した。aTgIの3'側のDNA断片をプローブとしたノーザンブロット解析で組織別の転写蓄積量を調べたところ、幽門垂で最も高く、次いで小腸、胃の順であった。一方、筋肉から調製したゲノムDNAを制限酵素で消化してノーザンブロット解析に用いたプローブでサザンブロット解析したところいくつかのバンドがみられ、aTgIおよびaTgII以外にもアイソフォームが存在する可能性が示された。

 aTgIおよびaTgIIcDNAの塩基配列からそれぞれaTgIおよびaTgIIのアミノ酸配列を演繹し他動物種のものと比較した。まず、カタクチイワシ両アイソフォームはN末端側に13アミノ酸からなるシグナルペプチドと、6アミノ酸からなるプロペプチドを含んでいた。次に、aTgIおよびaTgIIのトリプシン部分、それぞれaT-IおよびaT-IIの演繹アミノ酸配列は、いずれも12個のシステイン残基を含み、その位置が保存されていることから両分子の立体構造には6個のSS結合があることが示唆された。また、トリプシン活性の特異性を決定するTrp172およびAsp189も保存されていた。さらに、触媒の三組を形成するHis59、Asp102およびSer195、さらにはautolysis loop構造と2個所の分子表面に存在するloop構造もよく保存されていた。

 次に、カタクチイワシの内臓からトリプシンの2つのアイソフォームaT-IおよびaT-IIを精製した。両アイソフォームの活性はいずれも市販のトリプシン特異的阻害剤およびセリンプロテアーゼ阻害剤で完全に阻害された。合成基質BAPAおよびBAEEを用いて25℃でaT-IおよびaT-IIの触媒効率Kcat/Kmを測定したところ、いずれもウシ・トリプシンに比べて高く、とくにaT-IIのBAPAに対する活性はウシの35倍であった。両アイソフォームとも25℃、pH7-12で活性を示し、至適pHは9.5と測定された。また、pH8でBAPAを基質として酵素活性を測定したところ、20℃でも高い活性を示した。さらに、pH8、種々の温度で30分間処理して残存活性を25℃で測定したところ、50℃以上で失活することが明らかになった。

 コンピュータによる分子構造モデルを構築し、カタクチイワシ・トリプシンの高い触媒活性と構造との関係をウシ・トリプシンを対照にしつつ調べた。まず、カタクチイワシ・トリプシン両アイソフォームのポリペプチド骨格の構造は、autolysis loopを除いて他脊椎動物のそれに良く一致した。また、S1基質結合ポケットの入り口におけるGln192の自由度が大きな構造的自由度を得ていることが明らかとなった。さらにカタクチイワシ・トリプシンでは構造上重要な分子表面に存在するloop2で負電荷のアミノ酸が分子表面の静電的な力を作り出し、ウシ・トリプシンの場合とは異なった。

 活性をもつリコンビナントのカタクチイワシ・トリプシンを得るために、大腸菌Escherichia coliの発現系の構築を試みた。その結果、リコンビナント・タンパク質は封入体に得られた。このまま封入体から抽出したトリプシンには加水分解活性は認められなかったが、0.6M塩酸グラニジンで不溶体を溶解し、0.5M non-detergent sulfobetaineの存在下で再生処理を施すことによってカタクチイワシ内臓から単離したトリプシンの75%の比活性をもつ発現タンパク質が12mg/Lの高収量で得られた。

 以上本論文は、カタクチイワシ幽門垂から2種類のトリプシンノーゲンをコードするcDNAを単離し、いくつかの特徴を示した。一方、2種類のトリプシンを幽門垂から単離し、触媒効率kcat/Kmがウシ・トリプシンのそれに比べて著しく高いことを明らかにした。さらに、リコンビナント・トリプシンを大量生産する組換えDNA体の構築にも成功し、産業的な利用開発に道筋を示したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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