学位論文要旨



No 118171
著者(漢字) 岡本,哲明
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,テツアキ
標題(和) クラフトパルプのナノ構造に関する研究
標題(洋)
報告番号 118171
報告番号 甲18171
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2560号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,尭介
 東京大学 教授 小野,拡邦
 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 助教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

 紙は非常に長い歴史を持つ材料であり、現在もその使用量は増加し続けている。水を含んだパルプは、ただ乾燥するだけでお互いが自発的に接着し紙を形成する。この繊維間結合の性質は紙の物性に大きな影響を与えるうるものとして、古くから研究が進められてきた。それらによると、繊維間結合形成の機構は、パルプに含まれるセルロースの水酸基同士の水素結合の形成によるとされている。パルプが均一な固体構造を持つならば、このスケールの相互作用のみで紙の物性の十分な理解ができるかもしれない。しかし、生物由来の材料であるパルプは分子スケールから細胞スケールまで非常に階層性に富んだ構造を有している。このことは、紙の物性のより本質的な理解のためには、パルプがもつ階層構造の詳細な知見が不可欠であることを意味している。しかし、このうちナノスケールの構造に関しては、解析可能な手法が非常に限られていたため、十分な解析がなされてこなかった。一方、近年相次いで開発されたFE-SEM、AFMは、パルプのナノ構造を解析しうる十分なポテンシャルを持つと思われる。しかし、いずれの顕微鏡を用いても、ナノスケールで得られる像が試料作成条件、および観察条件に大きく依存する可能性がある。このため、その像が得られた機構に対する慎重な解釈が必要となる。逆に言えば、得られた像に対する解釈を十分に行うことができれば、様々な条件で観察した像を比較することで、ナノ構造に対するより多くの情報を得ることが可能なものと考えられる。

 そこで、本研究では、FE-SEMを用いて様々な条件で乾燥、コーティングしたクラフトパルプを観察し、得られる像の違いを積極的に利用することで、そのナノスケールの構造解析を行った。さらに、全く結像原理の異なるAFMもあわせて用いることで構造解析をより確かなものにしたうえで、クラフトパルプのナノ構造のモデルを提案した。

パルプ表面壁層の帰属

 クラフトパルプのナノ構造の解析に先立って、細胞壁のどの部分がパルプ繊維表面に露出しているのか決定した。未漂白試料においては、そのほとんどの部分がランダムに走行するフィブリルに覆われていることを確認した。また、しばしば壁孔を覆っていたことから、このランダムなフィブリルの層は一次壁であることがわかった。完全漂白パルプでは、多くの場所で、ランダムに走行するフィブリルの層がはがれて、繊維軸に垂直に走行するフィブリルが現れていた。このことから、漂白過程で、未漂白パルプを覆っていた一次壁の多くが除去され、その下の二次壁外層が現れることがわかった。

 さらに、各漂白段の試料を観察することにより、この一次壁の剥離は、酸素処理段で起こっていることを明らかにした。一次壁は、リグニン含量の高い中間層と接しているため、その剥離は、選択的脱リグニンとして機能している可能性が高いと思われる。このことから、酸素処理段では一次壁の剥離という形でも脱リグニンが進行していることが示唆された。

FE-SEMによるナノ構造の観察

 完全漂白クラフトパルプのナノ構造の観察は、その表面の多くを占める二次壁外層部について行った。SEMで非導電性試料を観察する場合、金属によるコーティングが必要となる。そこでまず、一般的にSEMのコーティングに用いられているイオンスパッターによりコートした試料について観察を行った。さらに、コーティング条件の変化による像の変動を評価するため、近年開発されたCVDプラズマコーターによりコーティングした試料を観察した。また、より様々な状態の試料を観察するため、乾燥時に加わる力の異なる数種類の試料を調製した。

 イオンスパッターコートした試料では、乾燥法によって観察されるフィブリルの太さが大きく変化した。大気中乾燥(AD)試料、および普通の凍結乾燥(NFD)試料では15nm前後の細いフィブリルが観察された。一方、急速凍結-凍結乾燥(RFD)試料では30nm以上の太いフィブリルが観察された。しかし、同時に、ADやNFD試料と同じ細いフィブリルが観察される場所も多く存在していた。ここで、フィブリルの太さの変化は乾燥時に試料に加えられた力の大きさに依存しているものと考えられ、RFD試料では急速凍結時の凍結速度のムラにより太いフィブリルと細いフィブリルが混在したものと考察した。そこで、均一な乾燥が可能と考えられる臨界点乾燥(CPD)試料の観察を行った。しかし、CPD試料においても、太いフィブリルのほかに、しばしば、細いフィブリルが観察された。これは、フィブリルの太さの大きな変動が、必ずしも乾燥時の力によって引き起こされるとは限らない、ということを意味する。この現象のひとつの説明として、クラフトパルプが元来、太いフィブリルと細いフィブリルの二種類の表面を持っているということも可能である。しかし、細いフィブリルがへこんだ場所や傾いた場所で多く観察されたことから、フィブリルの太さの変動はコーティングのされ方の違いによるものである可能性もある。CPD試料におけるフィブリルの太さのムラが後者により説明される場合、NFD試料やAD試料で観察された細いフィブリルもコーティングのされ方により細く見えていた可能性が出てくる。そこで、原理の異なるコーティング法であるCVDプラズマコーターによりコートした試料の観察を行った。

 より均一なコーティングが期待されるCVDプラズマコーターでコートしたCPD試料は、ほぼ全面がイオンスパッターコーティングの場合とよく似た太いフィブリルで覆われていた。また、RFD試料の多くも太いフィブリルに覆われていた。以上より、イオンスパッターでコーティングしたCPDやRFD試料で観察された細いフィブリルは、試料本来の性質や乾燥時に加わった力により観察されたのではなく、コーティングのムラにより出現した可能性が大きくなった。そこで、イオンスパッターでは細いフィブリルが全面に観察されたNFDやAD試料をCVDコートして観察してみた。すると、NFD試料では、イオンスパッターコート試料で観察された細いフィブリルはほとんど観察されずに、CPD試料やRFD試料よりやや細い程度のフィブリルが多く観察された。このやや細いフィブリルはコートを薄くしていってもあまり太さが変化せず、コントラストが小さくなっていくだけであった。このことから、細いフィブリルがコーティングによって埋もれてしまったとは考えにくい。一方、AD試料においては、NFDよりも細いフィブリル(イオンスパッターによるものよりは太い)が観察された。イオンスパッターによるコートでは両試料ともほぼ同じ見た目であったことを考えると、ADやNFDのイオンスパッターコーティングで観察された細いフィブリルは、CPDやRFDで観察された細いフィブリルと同じような状態でコートされたため観察されたものと考えられる。つまり、NFD試料の最表面にはCVDコートで観察されたようなやや細いフィブリルが存在し、その内部に細いフィブリルが存在するものと思われる。また、AD試料では、乾燥時に働く力により、太いフィブリルがかなり激しく収縮し、内部の細いフィブリルの輪郭がCVDコートした試料でも確認されるようになったと考えられる。

 CVDコートの結果とイオンスパッターの結果を合わせて解釈すると、イオンスパッターコーティングにおいて観察された細いフィブリルは、その数本が束なった周りを多孔性の物質に覆われており、これが太いフィブリルとして観察されていた、と推測された(イオンスパッターコーティングでは、条件により金属粒子が多孔性の物質を透過し内部の細いフィブリルもコーティングされていたものと考えられる)。また、細いフィブリルの周りを取り巻く物質は、乾燥時の力の増大により収縮することも確認された。

AFMによるナノ構造の観察

 前章で、コーティング条件によりSEM像が大きく変動していることが示された。また、それぞれの像を総合的に解釈することで、ナノ構造の推測も行ったが、それは必ずしも確実なものであるとはいい難い。そこで本章では、コーティングを必要としないAFMを用いたナノ構造の解析を行い、前章において推測したナノ構造のモデルの正当性を確かめた。

 観察に先立って、AFMによりクラフトパルプのナノ構造を観察する条件を検討した。AFMでは、その使用する探針の品質により、像中のナノ構造の見え方が大きく異なっていた。そこで、観察後に標準試料を観察することで探針の品質の評価を行い、一定基準以上の探針による像のみを用いた。これにより、AFMによるクラフトパルプのナノ構造の解析を再現性よく行うことが可能となった。続いて、実際のパルプ試料の観察を行ったが、その像は、コントラストが非常に小さいことが多かった。これは、パルプ試料がもつ凸凹がAFM像のコントラスト表示レンジを広げてしまうことにより生じていた。そこで、ナノ構造のコントラストが増大するように適切な画像処理を行うことにより、AFM像とFE-SEM像の比較が可能となった。

 NFD試料のAFM像ではCVDプラズマコーティングによる試料と似て、やや太いフィブリルが多く観察された。しかし、今回のように先端の曲率半径が10nm前後の探針を用いた場合、近接して走行する10nm前後の細いフィブリルを画像化すると、非常に小さなコントラストしか与えない可能性がある。そこで、走査範囲を小さくとり、コントラストを強調した像を取得した。すると、太いフィブリル上に、高さ1-2nmの細いフィラメントが約10nm周期でフィブリル軸にほぼ垂直に走行していることが確認された。この周期構造により太いフィブリル内の細いフィブリルが観察されなかったものと考えられる。形態的解析により、この周期構造は細いフィラメントがらせん状に走行していることにより現れていると推測された。このらせん状のフィブリルが細いフィブリル数本を束ねたものが、FE-SEMで太いフィブリルとして観察されたものと考えられる。

 以上、FE-SEMおよびAFMの観察結果を元に、図に示すような完全漂白クラフトパルプの二次壁外層におけるナノ構造のモデルを提案する。ここで、15nm以下の細いフィブリルは、その数本が束になり、その周囲を多孔性の物質に覆われている。この多孔性の物質の少なくとも一部は、らせん状に取り巻く1-2nmの細いフィラメントからなる。X線回折から得られている知見によると、木材細胞壁におけるセルロースの針状結晶の幅は数ナノメートル以下であるとされている。このセルロースの針状結晶は、本研究で提案したモデルの細いフィブリル中に含まれると考えられる。また、多孔性の物質は、その形態的特長および、乾燥により変形するという性質から結晶性は低いと思われる。このように、植物細胞壁試料において、セルロースの針状結晶のまわりを取り巻く物質をはっきりと確認したのは、本研究がはじめてである。セルロースの針状結晶が低結晶性の物質に覆われているということは、紙の繊維間の結合の形成においてもっとも大きな役割をするのはこの低結晶性物質である、ということを意味する。本研究で存在が明らかにされた低結晶性物質の構造や組成の詳細な決定は、紙の物性の根源的な理解のために大きく役立つものと考えられる。

Fig. The proposed model of fibrils of kraft pulp

審査要旨 要旨を表示する

 水を含んだ植物繊維からなるパルプは、ただ乾燥させるだけで繊維間に結合が生じる。この現象を利用してシート状に成形されたものが紙であり、紙の性質には繊維間結合の性状が非常に大きな影響を与えるものと考えられている。紙の繊維間結合の主体はセルロース分子の水酸基同士の水素結合であるとされているが、その十分な理解のためには分子レベルから細胞レベルまでの多様な構造を有する繊維構造、とりわけ繊維表面微細構造を明らかにすることが不可欠であると考えられる。しかし、パルプ繊維表面微細構造のナノスケールでの構造解析法は、これまで透過型電子顕微鏡(TEM)に限られており、十分な理解を得るまでには到っていなかった。本論文では、近年相次いで開発された電界放射型走査電子顕微鏡(FE-SEM)、および原子間力顕微鏡(AFM)を使用して、クラフトパルプ繊維表面の微細構造を、ナノスケールで追求している。

 本論文は5章から成っており、第1章ではナノ構造解析手法の開発の経過について紹介するとともに、木材パルプに関連した既往の研究を概観している。また、第5章では全体の総括をしている。第2章では乾燥履歴のない工場製針葉樹クラフトパルプを凍結乾燥したのち、その繊維表面のフィブリルの走行状態を詳細に観察し、未晒パルプでは表面の多くの部分が一次壁に覆われているのに対し、完全漂白パルプでは一次壁のほとんど、あるいは多くの部分が除去され、二次壁外層が露出していることを確認した。また、このような1次壁の剥離が酸素脱リグニン段で進行することを明らかにしている。

 第3章では完全漂白パルプ繊維表面、特に二次壁外層のナノ構造をFE-SEMを用いて観察している。各種の乾燥条件で注意深く乾燥した後、イオンスパッター・コーティングした試料では、乾燥法によって観察されるフィブリルの太さが大きく変化することを見出している。大気中乾燥(AD)試料、および普通の凍結乾燥(NFD)試料では15nm前後の細いフィブリルが観察されたが、急速凍結-凍結乾燥(RFD)試料では30nm以上の太いフィブリルが観察された。しかし、同時に、ADやNFD試料と同じ細いフィブリルが観察される場所も多く存在していた。フィブリルの太さのこのような変化を引き起こす要因としては、乾燥時に試料に加わる力の大きさ、およびコーティングのむらが考えられるが、前者に関しては、均一に乾燥が進行すると考えられる臨界点乾燥(CPD)試料においても、太いフィブリルのほかに、しばしば、細いフィブリルが観察されたことから、フィブリルの太さの大きな変動を、これのみに起因すると考えることはできないとしている。後者に関しては、より均一なコーティングが期待されるCVDプラズマコーターでコートしたCPD試料のほぼ全面が、またRFD試料の多くもイオンスパッター・コーティングの場合とよく似た太いフィブリルで覆われていたことから、コーティングのむらがイオンスパッター・コーティングで観察された細いフィブリル出現の原因となっていると結論している。また、CVDコーティングとイオンスパッター・コーティングの結果から、イオンスパッター・コーティングにおいて観察された細いフィブリルは、その数本が束になった周りを多孔性の物質に覆われており、これが太いフィブリルとして観察されていたものと考察している。細いフィブリルの周りを取り巻く物質が、乾燥時の力の増大により収縮することも確認している。

 第4章では、同一試料についてコーティングを必要としないAFMを用いた観察を行い、前章において考察したナノ構造の妥当性を確かめている。NFD試料のAFM像ではCVDプラズマコーティングによる試料と似て、やや太いフィブリルが多く観察された。さらに、この太いフィブリル上に、高さ1-2nmの細いフィラメントが約10nm周期でフィブリル軸にほぼ垂直に走行していることが確認された。この周期構造により太いフィブリル内の細いフィブリルが観察されなかったものと考えられる。この周期構造は細いフィラメントがらせん状に走行していることにより現れていると推測している。また、このらせん状のフィブリルが細いフィブリル数本を束ねたものが、FE-SEMで太いフィブリルとして観察されたものと考察している。

 以上、本研究はこれまで十分な検討がなされてこなかったクラフトパルプ繊維表面の微細構造をナノレベルで明らかにしたものであり、パルプ繊維の表面性状の理解に大きく貢献するものと考えられる点で、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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