学位論文要旨



No 118172
著者(漢字) 秋山,拓也
著者(英字)
著者(カナ) アキヤマ,タクヤ
標題(和) リグニンのβ-O-4型構造の立体化学に関する研究
標題(洋) Stereochemistry of β-O-4 structures in lignin
報告番号 118172
報告番号 甲18172
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2561号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,尭介
 東京大学 教授 飯山,賢治
 東京大学 教授 鮫島,正浩
 東京大学 助教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

 リグニンはフェニルプロパン骨格構造を持つ高分子である。高等植物に広く分布し、特に樹木では木部の構成成分の20.35%をリグニンが占めセルロースに次ぐ存在量を示す。

 既往の研究により、その生合成は以下の様に考えられている。リグニンは前駆物質である桂皮アルコール類のラジカル共鳴体(モノリグノールラジカル)同士のカップリング反応と、生成したキノンメチド中間体の安定化やシクロヘキサジエノン構造からの芳香核構造の再生によって一つの結合ができ、これに続く逐次的なラジカルカップリング反応によって高分子化する。このときラジカル共鳴体は4種の限界構造を持つために形成される結合様式は変化に富む。結合様式(β-ο-4,β-5,β-β,β-1,5-5など)の種類や割合についてこれまで様々な化学的分解法、NMRを中心としたスペクトル解析によって知見が蓄積され、リグニンの化学構造の概観が明らかとなってきている。しかしながらその立体構造についてはいくつかの部分構造について断片的な結果が得られているものの、それらの重要ではあるが限られた知見のみではリグニン全体の立体構造はもちろん、個々の結合様式の立体構造に関する議論さえ充分に展開できないのが現状である。リグニン全体の立体化学構造を把握するためには、それに大きく関与すると考えられる個々の結合様式の立体構造に対して知見を蓄積することが重要と考えた。前述のラジカルカップリング反応とこれに続くキノンメチド中間体への水酸基付加によって、側鎖に存在するβ位とα位の二つの不斉炭素の絶対配置がそれぞれ決定されるが、この生成機構は最も主要な結合様式であるβ-ο-4構造にも当てはまる。

 本研究では、β-ο-4構造の立体化学に関する研究を行った。側鎖立体構造の解析手段としてのオゾン分解法(既往)の改良を行うと共に、第一に、側鎖のβ位とα位の立体構造を解明すること、第二に、その立体構造の形成を規定する要因について考察を与えることを目的とした。

オゾン分解法の改良

 β-ο-4構造の立体化学構造の解析手段としてオゾン分解法があるが、この手法の定量的取り扱の確立、および収率の向上を目的とし改良を行った。

 リグニンはオゾンによる芳香核骨格の選択的な開裂を受け、側鎖部分は立体構造を保持したまま有機酸(溶媒に酢酸溶液などを用いた場合)として遊離する。erythroおよびthreo型β-ο-4構造からは、それぞれerythronic acidとthreonic acidが目的分解生成物として得られ、この立体構造を分析することによって元のβ-ο-4構造の側鎖立体構造を解析することができる。本章で行った改良点は以下の二点である。

 目的分解生成物であるerythronic acidとthreonic acidを従来法ではラクトン型で検出していたのを改め、開環型での検出方法を採用した。その結果GC上での面積の絶対値に再現性が得られ、また内部標準との良好な検量線が得られたことから本法の定量的な取り扱いが可能となった。次にオゾン反応後に残存すると想定される過酸化物の還元処理の効果を調べた。目的分解生成物であるerythronic acidとthreonic acidをオゾン分解法のスキームに従って処理した後の残存率は、オゾンとの反応後にチオ硫酸による弱い還元処理を加えることによって向上した。リグニンモデル化合物,1-(3,4-Dimethoxyphenyl)-2-(2-methoxyphenoxy)-1,3-propanediol(veratrylglycerol-β-guaiacyl ether)からのerythronic acid、threonic acidの収率は還元処理なしの場合に比べ、処理ありの時に15%向上し収率75%に達した。またこれによってオゾン分解法によって決定されたリグニンモデル化合物のerythro/threo比は1H-NMRによるerythro/threo比(2.3)と一致した。そして本法をウダイカンバ木粉に適用したところ、これら二つの有機酸の収率はフェニルプロパンユニットあたり29.1%の収量が再現性良く得られた。なお検討を与えた項目としてはこの他に、反応溶媒の影響(収率:酢酸-水-メタノール>酢酸-水>酢酸単独)、反応温度の影響(収率:0-40℃でほぼ変化なし)、多糖類からの上記有機酸の生成の影響(収率:1%)がある。

β-ο-4構造の光学活性 -β位不斉炭素の絶対配置-

 側鎖β位不斉炭素の絶対配置は、リグニン生合成中、モノリグノールのラジカルカップリング反応によって決定され、そのR,Sの不斉炭素の存在比は等しい(ラセミ)と考えられてきた。しかしながらリグニン生合成場には多糖類や既に生長したリグニンなどの不斉炭素があるため、ラジカルカップリング反応がこれらの影響を受け、過剰に片方の絶対配置を持つ不斉炭素が誘導される可能性がある。最も主要であるβ-ο-4構造についてβ-位のR、Sの不斉炭素の存在比に関する知見はこれまで示されていない。本章ではβ-ο-4構造のβ位におけるR,Sの不斉炭素がほぼ等量存在することをオゾン分解法によって明らかにした。

 ウダイカンバ木粉をオゾン分解して得られた分解生成物からerythronic acidとthreonic acidをそれぞれ分取し、HPLCに接続した旋光度検出器によってそれらの光学活性を調べた。その結果、erythronic acidがピークを示す保持時間40分において旋光度を持つ標品(D-erythronic acid)と比較すると、木粉のオゾン分解によって得たerythronic acidはほぼフラットとなった。このときクロマト上にerythronic acidのトップピークの保持時間と若干ずれた時間に小さな未確認のピークが検出されたが、これをerythronic acidであると仮定してもエナンチオマー過剰率(e.e.)は3%未満であり、ほぼラセミ体として存在することが示された。threonic acidのピークを示す保持時間42分前後においても、同様のピークが存在しているためこれを加味したが、エナンチオマー過剰率は8%未満となった。これによってerythroおよびthreo型β-ο-4構造の側鎖構造は両者ともほぼラセミ体として存在することが示された。これとerythro/threo比2.78(erythro:threo=74:26)の結果を合わせ、4種のβ-ο-4構造異性体比が算出された(Cα-Cβ,αS-βR(erythro):αR-βR(threo):αS-βS(threo):αR-βS(erythro)=37-38%:13-14%:12-13%:36-37%)。これよりβ-ο-4構造のβ-位不斉炭素の存在比はβS:βR=48〜50:50〜52%となる。

 次にβ-ο-4構造のerythro体、threo体のジアステレオマー比について、これまで数樹種の針葉樹でerythro/threo比は約1であるのに対して、広葉樹ではerythro体過剰であることが報告されてきた。上記のウダイカンバにおいてもerythro/threo比は2.78であったが、これは上図の様にβ位不斉炭素に続くα位不斉炭素の形成段階において、キノンメチド中間体のα位炭素へ水分子がSi面またはRe面のどちらに付加するかによって決定される。推定された4種のβ-ο-4構造異性体比はα位不斉炭素の絶対配置と隣接したβ位不斉炭素のそれは互いに無関係ではないことを示しており、β位の絶対配置がRのときもSのときも、与えるerythro/threo比はほぼ等しいことを示している。つまり、リグニン生合成場には数多くの不斉炭素が存在するため、新たに形成されるα位不斉炭素の絶対配置に対してその影響を加味しなくてはならないが、得られた結果は、α位不斉炭素の絶対配置はフェニルプロパンユニット内の隣接したβ位不斉炭素の影響を強く受けていることを示している。

β-ο-4構造のエリスロ体およびスレオ体を規定する要因 -α位不斉炭素の絶対配置-

 前項の結論から、リグニンに見られるerythro体過剰なβ-ο-4型構造をもたらす要因について議論するには、まず、キノンメチドのα位炭素への水付加反応を1つの不斉炭素をβ位に持ったキラルなキノンメチド(CβRまたはCβSのキノンメチド)からジアステレオマーが生成する単純なジアステレオ面選択反応とみなすことが現状においては合理的であると考えた。将来的にはこの議論の後に、低分子と高分子状態との違い(β位不斉炭素以外のリグニンの不斉炭素がβ位不斉炭素の立体配座に与える影響を与えることによって間接的に水付加反応の立体選択性に影響を与える程度など)を埋めるような議論をすることが必要になると考えられる。しかしながら現段階では上記のようなジアステレオ面選択反応として議論を進めた。

 この反応において原系や遷移状態の配座に影響をもたらす要因としては、リグニン二量体モデル化合物の水付加実験やX線結晶構造解析の知見から、A環とB環の芳香核構造(上図を参照)の違いやγ位水酸基の関与が可能性として挙げられる。実際のリグニン構造解析の結果からはB環の芳香核構造の違いと側鎖立体構造の関連が2例の報告で示されている。

 樹木ではリグニンの芳香核骨格構造は、ほぼsyringyl核とguaiacyl核とからなるが、これは芳香核5位のメトキシル基の有無によってそれぞれ分類される。また、針葉樹では通常ほぼguaiacyl核のみから成る。この芳香核骨格構造の違いがerythro/threo比に与える影響について、異なるsyringyl/guaiacyl比を持つligninを用いて調べられるのではないかと考え、以下の二つの実験を行った。広葉樹あて材を用い、あて部と対向部でのsyringyl/guaiacyl比の違いを利用して、樹幹の円周上の7点についてerythro/threo比およびメトキシル基含量について分析を行った。この結果、オゾン分解法によって決定されたerythro/threo比はあて材部で高く、対向部へ向かって減少した。このことからβ-ο-4構造のerythro/threo比は樹幹内で一様ではないことが示された。また、この比の分布はメトキシル基含量の分布と高い相関(R=0.98)を示したことから、erythro/threo比が芳香核骨格構造の違いに影響されていることが示唆された。

 21種類の木本植物(針葉樹6種、広葉樹15種)に対してerythro/threo比およびメトキシル基含量を求めた。すべての針葉樹においてerythro/threo比は1.Oであったのに対し、広葉樹においては樹種間でerythro/threo比は1.2(erythro:threo 54:46)から3.4(erythro:threo 77:23)までの幅広い分布を示した。erythro/threo比とメトキシル基含量とには樹種の相違を超えて相関が示された(R=0.90)。この結果は芳香核構造の違い(syringyl核、guaiacyl核)がβ-ο-4構造のerythroとthreo体の異性体比を規定する要因である、との提案を多数の樹種の分析に基いて裏付けるものである。

Fig. Formation of β-and α-asymmetric of β-ο-4 structures in lignin biosynthesis

審査要旨 要旨を表示する

 リグニンはフェニルプロパン骨格構造を持つ高分子で、高等植物に広く分布し、樹木の木部では、その20-35%を占めている。既往の研究により、その生合成は前駆物質である桂皮アルコール類のラジカル共鳴体(モノリグノールラジカル)同士のカップリング反応と、生成したキノンメチド中間体の安定化やシクロヘキサジエノン構造からの芳香核構造の再生によって一つの結合ができ、これに続く逐次的なラジカルカップリング反応によって高分子化すると考えられている。その化学構造、特に結合様式(β-ο-4,β-5,β-β,β-1,5-5など)の種類や割合については、これまで様々な化学的分解法、NMRを中心としたスペクトル解析によって知見が蓄積され、凡そが明らかとなってきている。しかしながらその立体構造についてはいくつかの部分構造について断片的な結果が得られているのみである。本論文は、以上のような状況のもとで、リグニン中の最も主要な結合様式であるβ-ο-4構造の立体化学について研究したものである。

 リグニンの生合成反応においては、前述のラジカルカップリング反応とこれに続くキノンメチド中間体への水酸基付加によって、側鎖に存在するβ位とα位の二つの不斉炭素の絶対配置がそれぞれ決定されるが、このことはβ-ο-4構造においても同様である。

 本論文は5章からなっている。第1章において関連する既往の研究を概観するとともに、第5章では全体の総括をしている。第2章においては、側鎖立体構造の解析手段としてのオゾン分解法の改良について論じている。オゾン分解法は、リグニンのオゾン分解によって芳香核構造を選択的に酸化分解し、erythronic acidとthreonic acidの生成量から元のリグニン中のβ-ο-4構造の側鎖立体構造を解析しようとするものであるが、従来、定量性に難があるとされてきた。本研究では、目的分解生成物であるerythronic acidとthreonic acidを従来法でのラクトン型での検出から、開環型での検出方法に改めるとともに、オゾン反応後にチオ硫酸ナトリウムによる温和な還元処理を加え残存すると想定される過酸化物を除去することで、本法の定量性を格段に改善することに成功した。

 次いで、第3章ではβ-ο-4構造の光学活性-β位不斉炭素の絶対配置-について論じている。側鎖β位不斉炭素の絶対配置は、リグニン生合成中、モノリグノールのラジカルカップリング反応によって決定され、そのR,Sの不斉炭素の存在比は等しい(ラセミ)と考えられてきた。しかしながらリグニン生合成場には多糖類や既に生長したリグニンなどの不斉炭素があるため、ラジカルカップリング反応がこれらの影響を受け、過剰に一方の絶対配置を持つ不斉炭素が誘導される可能性がある。しかし、最も主要な構造であるβ-ο-4構造についてもβ-位のR,Sの不斉炭素の存在比に関する知見はこれまで示されていない。ウダイカンバ木粉をオゾン分解して得られた分解生成物からerythronic acidとthreonic acidをそれぞれ分取し、HPLCに接続した旋光度検出器によってそれらの光学活性を調べた。その結果、erythronic acidがピ-クを示す保持時間において旋光度を持つ標品(D-erythronic acid)と比較すると、木粉のオゾン分解によって得たerythronic acidはほぼフラットとなった。このときクロマト上にerythronic acidのトップピークの保持時間と若干ずれた位置に小さな未確認のピ-クが検出されたが、これをerythronic acidであると仮定してもエナンチオマー過剰率(e.e.)は3%未満であり、ほぼラセミ体として存在することが示された。threonic acidのピ-クを示す保持時間の前後においても、同様のピークが存在しているためこれを加味したが、エナンチオマ-過剰率は8%未満となった。これによってerythro型およびthreo型β-ο-4構造の側鎖構造は両者ともほぼラセミ体として存在することが示された。これとerythro/threo比2.78(erythro:threo=74:26)の結果を合わせ、4種のβ-ο-4構造異性体比をCα・Cβ,αS-βR(erythro):αR-βR(threo):αS-βS(threo):αR-βS(erythro)=37-38%:13-14%:12-13%:36-37%と算出している。これよりβ-ο-4構造のβ-位不斉炭素の存在比はβS:βR=48〜50:50〜52%となると結論している。

 第4章では、β-ο-4構造のerythro体、threo体のジアステレオマ-比について針葉樹・広葉樹間、樹種間、広葉樹のあて材と対向部間等で比較検討し、リグニン中のメトキシル基量、すなわち芳香核骨格構造がβ-ο-4構造のerythro体とthreo体の異性体比を規定する要因の一つであることを確認している。

 以上、本論文は永年にわたり確認の手立てのなかったリグニン中の主要な構造における光学活性の有無について初めて明確な結論を得るとともに、リグニン立体化学構造の解明の道を見出した点で、学術上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク