学位論文要旨



No 118194
著者(漢字) 小林,陽子
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ヨウコ
標題(和) 脳神経分化における細胞形態形成の制御機構 : 新規Rho GTPase活性化蛋白質Nadrinの機能解析
標題(洋)
報告番号 118194
報告番号 甲18194
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2583号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 前田,達哉
 東京都臨床医学総合研究所 室長 梅田,真郷
内容要旨 要旨を表示する

 脳神経系は、巨大な情報処理器官であり、神経細胞突起により形成される複雑なネットワークによって、認知、思考、感情、意志などの複雑な高次精神機能を司っている。脳神経系は、数千億個にものぼる神経細胞とその周囲をとりまくグリア細胞から構成される。その中で、グリア細胞の占める割合は神経細胞の数十倍にも及ぶといわれている。成熟した哺乳動物の中枢神経系のグリア細胞には、アストロサイト、オリゴデンドロサイトおよびミクログリアが存在し、個々に特有の機能を果たしている。アストロサイトは中枢神経系で最も数の多いグリア細胞であり、星状の形態が特徴で、多数の突起を周囲に伸ばして、脳の外表面やシナプス、ランビエ絞輪、血管などを取り囲む。アストロサイトは神経細胞の支持作用、血液脳関門の形成、神経伝達物質(グルタミン酸など)の代謝、栄養物質や神経発育因子の産出など神経活動を支える重要な機能を有している。またアストロサイトは脳損傷時などには、周囲の神経細胞の置かれた状況に応じて自らの形態と機能をダイナミックに変化させることができる。しかしこれらの細胞形態変化、それに伴う機能変化および細胞遊走のメカニズムの詳細は明らかになっていない。これまでに神経疾患において、神経細胞の形態や機能は詳細に解析されてきたが、アストロサイトをはじめとするグリア細胞については報告が少ないことから、アストロサイトの細胞形態変化の理解は重要であると考えられる。

 一方、細胞の形態変化や細胞遊走などの過程では、アクチン骨格系の再編成が必要であり、これらは複雑なシグナル伝達系によって制御されている。細胞の形態変化など、アクチン骨格系は低分子量G蛋白質のRhoファミリーが制御している。多くの細胞でRhoはアクチンストレスファイバーやフォーカルコンタクトの形成を、Racは葉状仮足の形成を、Cdc42は糸状仮足の形成をそれぞれ制御している。しかしRhoファミリー間の活性制御機構については依然不明な点も多い。

 そこで本研究では、本研究室で同定された新規Rho GTPase活性化蛋白質Nadrin(Neuron-associateddevelopmentally regulated protein)の機能解析を通じ、アストロサイトの形態変化のメカニズムおよび細胞骨格系制御機構の解析を試みた。

Nadrinのアストロサイトに対する影響の解析

 Nadrinは発現クローニング法により、PC12細胞よりクローニングされた新規分子である。多くの組織に広範に発現しており、脳では神経細胞のみならず、アストロサイトにも発現していることが明らかになった。NadrinはN末端側より分子間相互作用に関わるcoiled-coil領域、RhoGAP(GTPase-activating Protein)領域、グルタミンリピート、SH3(Src homology)結合領域、PDZ(PSD-95/Dlg/ZO-1)結合領域など多くの機能領域を有する。しかしながらその機能は不明であった。

 細胞の形態変化など、アクチン骨格系を制御するRhoファミリーG蛋白質は分子スイッチとして、それぞれGDP/GTP交換因子(GEF)とGTPase活性化因子(GAP)の二つの因子の助けをかりて、GTP結合型(活性型)とGDP結合型(不活性型)の二つの状態をとる。NadrinはRhoファミリーG蛋白質のGTPase活性を促進し、RhoファミリーG蛋白質を不活性型にするRhoGAP領域を有することから、RhoファミリーG蛋白質の活性制御を通し、細胞骨格系制御に関与することが予想された。

 マウスではアストロサイトのマーカーであるGFAP(glial fibrillary acidic protein)陽性細胞は、胎生16日ころより出現をはじめ、生後発達に伴い、さらにその数は増加する。またアストロサイトは分化や脳損傷などに応答し、平坦な石垣状の細胞から、グリア突起を伸展した星状の細胞に形態を変化させ、reactiveastrocytesと呼ばれるアストロサイトヘと分化する。形態変化前の細胞ではストレスファイバーが強く観察されるが、形態変化をおこすためにはRhoAを不活性化し、ストレスファイバーを消失させる必要があると考えられる。

 そこで、生体内におけるNadrinの機能を明らかにするために、マウスアストロサイトを用いてNadrinの細胞形態変化や細胞移動に対する影響を検討した。まず1.マウス脳の発達段階での発現パターン、2.初代培養のアストロサイトにおけるNadrinの細胞内局在を検討した。また初代培養のアストロサイトは、cAMPの膜透過性アナログであるdBcAMPやForskolinによって細胞内cAMP濃度を上昇をさせると、GFAPの発現が上昇し、急速に星状の細胞に形態を変化させ、分化することが知られている。そこで、dBcAMPを用いて3.Nadrinの形態変化への影響および分化マーカーであるGFAPの発現量変化の検討を行なった。さらに4.形態変化に伴うRhoAの活性の変化を、GST-pull down法により検討した。

 その結果、大脳皮質および海馬では、胎児期から誕生前後にかけて、一旦発現の低下が見られるものの、生後再び発達に伴って発現が増加することが示された。また小脳においては生後3日目ころより発現しはじめ、発達に伴い、発現量の増加が見られた。GFAPは各部位で生後より発現量が増加するが、この増加の時期とNadrinの発現増加の時期が重なることから、Nadrinはアストロサイトの分化に関与している可能性が考えられた。

 細胞内局在を内因性のNadrinの抗体染色により、またGFPを融合したNadrinを強制発現して検討したところ、主に細胞質に存在し、核周辺部や、形態変化前の細胞では特にラッフリング膜に局在することが観察された。同時にNadrinが局在する部位ではストレスファイバーの消失が見られ、このことはRhoAの不活性化およびRacの活性化によるものと考えられた。よってNadrinは細胞内においてRacではなくRhoAに対してGAP活性を有することが示唆された。

 またdBcAMP投与による形態変化時のRhoAの活性を、活性型であるGTP型RhoAに特異的に結合するRhotekinRBDをGSTに融合したものを用いたGST-pull down法にて検討を行なった。その結果、dBcAMP投与後、形態変化に伴い、RhoAの活性が低下することが示された。

 次にdBcAMPによってアストロサイトを刺激し、細胞形態変化に対する影響を検討した結果、Nadrinを強制発現させた細胞では、発現していない細胞と比較し、分化マーカーであるGFAPの発現が上昇することが観察された。さらにcAMP刺激に対する応答の効率が著しくあがり、短時間で星状の細胞に形態が変わることを見出した。また内因性のNadrinが多い細胞ほど、形態変化が早いことが観察されたことから、Nadrinの発現量の増加がGFAPの発現量の増加を引き起こす一つの要因となっており、その結果、形態変化を引き起こす可能性が示唆された。以上の結果から、NadrinはRhoAを不活性化するGAPとして機能することによって、アストロサイトの形態変化を促進していると考えられた。

Nadrinの細胞内におけるGAP活性の検討

 アストロサイトにおける結果は、Nadrinがアストロサイトの細胞内でRhoAに対し、GAP活性を持つ可能性を示唆していた。しかしながら、これまでにNadrinのGAP領域を用いたin vitroGAPアッセイにより、NadrinがGAP活性を有することは明らかにされていたものの、分子全長が細胞内でGAP活性を有するのかは明らかではなかった。そこで実際にNadrinの細胞内でのGAP活性の有無、およびRhoのファミリーG蛋白質それぞれに対する特異性について検討を行なった。

 Nadrinの細胞内におけるRhoAおよびRacに対する影響を検討するために、293細胞に野生型およびGAP領域に点変異体を入れた不活性型Nadrinを強制発現し、細胞内での活性を検討した。それぞれ活性型であるGTP型RhoAおよびRacに特異的に結合するRhotekinRBDおよびPAKCRIBをGSTに融合させた蛋白質を用いたGST-pull downアッセイを行なった。

 その結果、NadrinはRhoAに対してGAP活性をもつことが見出された。点変異体ではRhoAの不溶性化が見られないことから、直接RhoAのGTPase活性を促進し、RhoAを不活性化していることが示された。またRacに対してはGAP活性を示さず、むしろRacの活性化が見られた。従って、Nadrinは細胞内ではRhoAに対するGAPとして機能していると考えられた。また一般にRac、RhoAの活性は拮抗すると考えられているが、その制御はいまだ明らかとなっていない。以上の結果と前述の細胞内局在の結果より、NadrinはRac、RhoA間の活性制御を直接担う分子である可能性が示唆された。

NadrinのGAP活性の制御機構の解析

 Nadrinがどのようなメカニズムで、RhoGAPとしての機能を発揮しているのかを明らかにするために、NadrinのRho GAP活性の制御機構について検討を行なった。NadrinはGAP領域をはさんでN末端側にcoiled-coil領域を持ち、C末端側にSH3結合領域やPDZ結合領域(STAL)を持つことから、これらの部位で他の分子と相互作用している可能性が考えられた。そこでこれらの領域に相互作用する因子の検索を試みた。

 その結果、NadrinはN末端側のcoiled-coil領域で自分自身と相互作用して2量体化することが示された。相同性検索の結果、amphiphysinなどの分子の、2量体化に関わるBAR(BIN1/amphiphysin/RVS)領域と高い相同性を持つことが明らかとなった。さらにN末端側とC末端側が相互作用し、GAP領域をマスクすることで自らGAP活性を抑制している可能性が示唆された。この相互作用はEGFやcAMP刺激によって、解離することが示されたが、解離の詳細なメカニズムは今後の課題である。しかしながらこれまで活性化に関与するGEFなどではGEF活性の制御機構が明らかになってきているが、GAP活性の制御機構については報告がなく、GAPにも同様に活性制御機構が存在することが示唆されたことは大きな意義をもつと考えられる。

 さらに免疫沈降法により、相互作用する因子の検索を行なったところ、NadrinはC末端のPDZ結合領域でEBP50(ERM binding Phosphoprotein 50、別名NHE-RF1:Na+/H+exchanger isoform3 regulatory factor 1)に結合し、EBP50を介して、ERM(Ezrin/Radixin/Moesin)と間接的に相互作用することを見出した。ERMはN末端側でリン脂質や膜受容体等と直接あるいはPDZ蛋白質であるEBP50等を介して間接的に結合し、C末側でアクチンと結合することで細胞膜と細胞骨格系をつなぐ役割を担うと考えられている。EBP50は、ERMに結合する一方、NHE3(Na+/H+exchanger isoform3)やβ-AR(adrenergic receptor)、PDGFRなどの膜貫通受容体にPDZ領域を介して相互作用することが知られている。NadrinのEBP50/ERMとの複合体は、293細胞およびCOS-7細胞ではEGFなどの刺激依存的に形成されることを見出した。アストロサイトにおいては、cAMPで形態変化を誘発した時にERMと複合体を形成していることが示された。従ってNadrinはN末端とC末端が解離することにより、EBP50と結合し、ERMと複合体形成を形成し、ERMとリンクしているRhoAを不活性化することで、アクチン骨格系の制御に寄与しているものと考えられた。

まとめ

 本研究において、NadrinがRhoAを特異的に不活性化するRhoGAPとして機能すること、さらにアストロサイトにおいては、形態変化および機能分化を促進する分子であることを示した。またNadrinのRhoGAP活性が、細胞形態変化を引き起こすシグナルにより制御されている可能性を示す結果を得たことから、GEFだけではなく、RhoGAPにもその活性を制御する機構が存在する可能性を示した。これはRhoファミリーG蛋白質が活性化の制御に加え、不活性化についても厳密に制御されていることを示唆するものであると考えられる。しかしながら、Nadrinを介した形態形成制御機構には不明な点が多く残されている。またNadrinとてんかんなどの神経疾患との関連についても興味が持たれる。今後の解析によって、それらの詳細な解明が期待される。

Nadrin

上:Nadrinの一次構造、右:dBcAMP投与後2時間のアストロサイト。中央のGFP-Nadrinが発現している細胞のみ、形態変化が起懸している。アクチン(Phalloidin)との二重染色。

審査要旨 要旨を表示する

 中枢神経系で最も数の多いグリア細胞であるアストロサイトは、神経細胞の支持作用、血液脳関門の形成など神経活動を支える重要な機能を有しており、脳損傷時などには、周囲の神経細胞の置かれた状況に応じて自らの形態と機能をダイナミックに変化させることができる。これまでに神経疾患において、神経細胞の形態や機能は詳細に解析されてきたが、アストロサイトをはじめとするグリア細胞については報告が少ないことから、アストロサイトの細胞形態変化の理解は重要であると考えられている。しかしながらこれらの細胞形態変化、それに伴う機能変化のメカニズムの詳細は明らかになっていなかった。本研究では、新規 Rho GTPase 活性化蛋白質Nadrin(Neuron-associated developmentally regulated protein)がアストロサイトにも発現していることを見出したことから、その機能解析を通じ、アストロサイトの形態変化のメカニズムおよび細胞骨格系制御機構の解析を目的に行なわれており、序論およびそれに続く六章から成る。

 まず序論では、脳神経系におけるアストロサイトの機能分化の重要性について概観し、またRhoファミリーG蛋白質の細胞骨格系制御における機能について詳しく述べている。NadrinがRhoファミリーG蛋白質の活性を負に制御するRhoGAP領域を有することから、上記の点とあわせて、アストロサイトにおけるNadrinの機能を解明することの意義について述べている。

 第二章では、アストロサイトの形態変化におけるNadrinの機能について述べている。まず初代培養のアストロサイトが、細胞内cAMP濃度により、分化マーカーであるGFAPが発現が上昇すると同時に、急速に細胞の形態変化させて分化する特徴を生かし、cAMPアナログであるdBcAMPを用いて、アストロサイトの形態変化に対する影響を評価するアッセイ系を確立したことを述べている。この系を用いて、Nadrinの形態変化および機能分化に対する影響の検討を行ない、Nadrinがアストロサイトの形態変化および機能分化を促進する分子であることを見出している。

 第三章では、Nadrinが細胞の形態変化など、アクチン骨格系を制御しているRhoファミリーG蛋白質の活性を負に制御するRhoGAP領域を有すること、さらにアストロサイトで得られた結果から、RhoファミリーG蛋白質の活性制御を通して、細胞骨格系の制御に関与していることが考えられたことから、それまで不明であった細胞内におけるNadrinのRhoGAP活性について検討を行なっている。まず細胞内におけるNadrinのRhoGAP活性について検討するために、GST-pull down法をRhoファミリーG蛋白質の活性を評価する系として確立している。この系を用いた結果から、NadrinはRhoAに対して直接RhoAのGTPase活性を促進し、RhoAを不活性化していることが示されている。またRacおよびCdc42に対してはGAP活性を示さず、RacおよびCdc42の活性化する可能性を見出している。一般にRhoAと、RacおよびCdc42の活性は拮抗すると考えられているが、その制御機構については不明な点が多いことから、NadrinがRac、RhoA間の活性制御を直接担う分子である可能性が示唆されたことにより、RhoA、RacおよびCdc42の活性を制御する機構およびシグナル伝達経路の解明の糸口になるものと考えられる。

 第四章では、NadrinのRho GAP活性の制御機構について検討を行なっている。この章でNadrinがN末端側のcoiled-coil領域同士で相互作用して2量体化することを見出し、さらにN末端側とC末端側が相互作用し、GAP領域をマスクすることで自らGAP活性を抑制しているモデルを提唱している。この相互作用は細胞運動性の活性化シグナルによって、解離することが示されたが、残念ながら、解離の詳細なメカニズムは今後の課題として残されている。しかしながらこれまでGAP活性の分子制御機構については報告がなく、GAPにも分子活性制御機構が存在し、その活性が厳密に制御されていることが示唆されたことは大きな意義をもつと考えられる。さらにNadrinに相互作用する因子として、EBP50(ERM binding phosphoprotein 50)およびERM(Ezrin/Radixin/Moesin)ファミリー蛋白質を見出している。これらの分子は膜受容体等と直接あるいは間接的に結合し、アクチンと相互作用することで細胞膜と細胞骨格系をつなぐ役割を担うと考えられている分子であり、NadrinのEBP50/ERMとの複合体は、アストロサイトにおいては、cAMPで形態変化を誘発した時にERMと複合体を形成していることを示している。従ってNadrinはRhoGAP活性を活性化するシグナルによりN末端とC末端が解離し、EBP50と結合してERMと複合体形成を形成し、同時に、ERMとリンクしているRhoAを不活性化することにより、アクチン骨格系の制御に関与しているが示唆されたことを述べている。

 第五章では、Nadrinと脳神経疾患との関与について、特にアストロサイトの機能分化について検討を行なっている。てんかんの人工的モデルであるキンドリングでは、アストロサイトの機能分化が亢進することから、キンドリングを動物に形成させて、その動物を用いて生体内におけるアストロサイトの形態変化および機能分化に対するNadrinの影響を検討し、生体内においても関与している可能性が高いことを示している。

 以上、本論文はこれまで注目されていなかったアストロサイトの機能分化について、新規Rho GTPase活性化蛋白質Nadrinの分子機能の解析を通し、そのメカニズムの一端を解明したことから、てんかんなどの脳神経疾患を理解するうえで、学術上、応用上貢献するところが少ない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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