学位論文要旨



No 118211
著者(漢字) 鈴木,尚子
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ナオコ
標題(和) ホルモンによるインスリン様成長因子/インスリン生理活性の新しい修飾機構
標題(洋)
報告番号 118211
報告番号 甲18211
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2600号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 千田,和広
内容要旨 要旨を表示する

 生物は、外界の環境や生体内の状態に応答して生命を維持するために、200種類以上の多種多様な細胞の機能を、数多くの情報伝達機構を駆使して巧みに調節している。生物に備わっている情報伝達機構は、大きく二段階に分けることができる。まず、体内外の変化を標的細胞に伝える神経系・内分泌系・免疫系といった「細胞外情報伝達機構」、そして、それぞれの系の細胞外情報伝達因子である神経伝達物質・ホルモン・サイトカインなどの情報を標的細胞内に伝え、生理活性を発現する「細胞内情報伝達機構」である。これらの細胞外情報伝達因子は、単独で生理活性を示すばかりではなく、お互いの活性を増強する、あるいは抑制することにより、生体内外の変化に適応することを可能としている。したがって、個々の細胞外情報伝達因子の生理的意義を明らかにするためには、その細胞外情報伝達因子と他の因子の相互作用、言い換えれば、それぞれの因子の細胞内情報伝達経路のクロストーク機構の解明が必須となる。

 本論文では、代表的な同化ホルモンであるインスリン様成長因子I(IGF-I)およびインスリンに着目し、「トロピックホルモンとIGF-I」、「成長ホルモン(GH)とインスリン」という2種類のホルモンクロストークをモデルとして、その相互作用機構について研究を行った。

1.トロピックホルモンによるインスリン様成長因子依存性増殖の増強機構

 IGF-Iは、種々の細胞の増殖・分化誘導に必須なホルモンであり、単独ではその活性は弱く、他の因子の存在下で増強されることが特徴である。特に、内分泌細胞では、トロピックホルモンと共存することにより、その活性が相乗的に増強することが良く知られている。本研究グループでは、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を用いて、細胞増殖における甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iの相乗作用の解析を行ってきた。その過程で、FRTL-5細胞をTSHで長時間前処理すると、cAMP経路が活性化され、続くIGF-I刺激に細胞が反応するようになり、その結果、IGF-I依存性細胞増殖が増強することを発見した。更に解析を進めた結果、このTSHによるIGF-I依存性細胞増殖の増強には、cAMP経路長時間刺激に応答した細胞内タンパク質のチロシンリン酸化の増加、更に、IGF-I刺激に応答したIGF-Iレセプターキナーゼ基質のチロシンリン酸化の増強が必須であることが明らかとなった。一般に、細胞内タンパク質のチロシンリン酸化は、チロシンキナーゼ(TK)およびホスホチロシンホスファターゼ(PTPase)の活性バランスにより調節されている。FRTL-5細胞において、cAMP経路長時間刺激は細胞内のTK活性を増加させるが、IGF-Iレセプターキナーゼ活性には影響しない事が明らかにされている。そこで、本研究では、FRTL-5細胞におけるcAMP経路およびIGF-I経路の刺激に応答したPTase活性の変動を明らかにすることを目的に研究を進めた。

1)TSH処理に応答したPTPase活性の変動

 PTPase活性の測定系を確立した後、TSHで種々の時間処理したFRTL-5細胞のPTPase活性を測定した。その結果、TSH長時間処理に応答したPTPase活性の上昇が、細胞質画分に観察された。更に、TSH24時間処理時に、PTPase阻害剤であるorthovanadateを添加すると、TSH依存性チロシンリン酸化が更に増加した。これらの結果は、cAMP経路の長時間刺激により、細胞質中のPTPaseが活性化されるが、このPTPaseは、cAMP経路長時間刺激に応答した細胞内チロシンリン酸化の増強に関与しておらず、むしろ、cAMP依存性チロシンリン酸化を抑制していると考えられた。

2)TSH処理後IGH-I処理に応答したPTPase活性の変動

 次に、TSH24時間前処理後、種々の時間IGF-I刺激した際のFRTL-5細胞のPTPase活性を測定した。その結果、細胞質画分にIGF-I短時間刺激に応答したPTPase活性の上昇が観察された。続いて、TSH長時間前処理後、IGF-I短時間処理したFRTL-5細胞から細胞質画分を調製し、QAE-HPLCを用いて分画後、それぞれの画分のPTPase活性を測定した。その結果、複数の画分にPTPase活性が認められ、特に1つの画分の活性は、TSH依存的に上昇し、その後のIGF-I刺激により、この活性上昇が抑制された。これらの結果は、FRTL-5細胞内には複数種のPTPaseが存在し、そのうちの少なくとも一種のPTPaseは、cAMPシグナルとIGF-Iシグナルの合流により活性が制御され、このようなPTPaseは、IGF-I依存性チロシンリン酸化の増強になんらかの役割を果たしていることを示唆していた。

2.成長ホルモンによるインスリン依存性糖取り込みの抑制機構

 インスリンは、糖質・脂質・タンパク質代謝において同化活性を有し、血糖を低下させるホルモンである。近年、他のホルモンやサイトカイン、栄養因子などにより、標的細胞がインスリンに反応しにくくなる、すなわち「インスリン低抗性」が引き起こされることが報告されており、このインスリン抵抗性が、II型糖尿病発症の主な要因になると言われている。一方、GHは、IGF-Iの産生を介した成長促進活性と同時に、抗インスリン作用に代表される代謝制御作用を有している。この抗インスリン作用は、巨人症患者に頻繁に発症する糖尿病、GH分泌不全・GH欠損の患者の治療に用いられるGH製剤の副作用として起こる糖尿病などの原因と考えられ、臨床上問題となっている。しかし、GHによるインスリン抵抗性発生機構は、ほとんど明らかにされていない現状である。そこで、本研究では、GHおよびインスリンの標的細胞である脂肪細胞・筋管細胞に注目し、主にマウス脂肪細胞3T3-L1を用いて、GHによるインスリン抵抗性発生機構を明らかにすることを目的に研究を進めた。

1)GH長時間前処理に応答したインスリン依存性糖取り込みの抑制

 分化した3T3-L1脂肪細胞を、種々の時間GHで前処理した後、インスリンで短時間処理、糖取り込みを測定した。その結果、3T3-L1脂肪細胞を、GHで12時間以上前処理することにより、インスリン依存性糖取り込みが有意に抑制され、特に、GH前処理後に低濃度のインスリンで刺激した際に、GHによる抑制効果が顕著であった。この抑制効果は、GH24時間処理後、GHを洗浄除去しても、12時間は持続された。このように、3T3-L1脂肪細胞を用いた実験により、GH長時間処理が、インスリン抵抗性を引き起こすことを、細胞レベルで示すことができた。

2)GH長時間前処理に応答したインスリンシグナルの変動

 一般に、脂肪細胞・筋管細胞などインスリン標的細胞では、インスリン刺激に応答して活性化されるインスリンレセプター(IR)TKにより、insulin receptor substrates(IRS)をはじめとする細胞内基質がチロシンリン酸化され、このIRSのリン酸化チロシン残基を認識して、SH2ドメインを介してPI3-kinase(PI3K)のp85制御サブユニットが結合、PI3K経路が活性化される。このlRS-PI3K経路の活性化が、糖輸送体であるglucosetranspoter4(GLUT4)を細胞質から細胞膜表面上へ移行させ、その結果、細胞内への糖取り込みが促進されると考えられている。3T3-L1脂肪細胞についても、この一連の機構が、インスリン依存性糖取り込みに必須であることが報告されている。そこで、GH長時間処理が、ここに述べたインスリンシグナルに及ぼす影響について検討した。GHで24時間前処理後、インスリンで刺激、IRおよびIRSのチロシンリン酸化の変動を解析した結果、GH前処理は、IRTK活性化に影響を与えなかったが、GH単独処理でIRS-1/IRS-2のチロシンリン酸化が誘導され、これらのチロシンリン酸化は、続くインスリン刺激により相加的に増加した。これらの結果は、GH前処理は、インスリンの初期シグナルを抑制するというよりも、むしろ、シグナルを増強していることを示している。続いて、GH長時間処理が、PI3K経路に及ぼす影響について検討した。その結果、インスリン刺激に応答してIRS-1/IRS-2に結合するp85PI3Kの結合量は、IRS-1/IRS-2のチロシンリン酸化量を反映し、GHにより増加することがわかった。更に、PI3K活性を測定したところ、lRS-1に結合するPI3K活性は、1RS-1のチロシンリン酸化およびlRS-1に結合するp85PI3K量を良く反映し、GH前処理により上昇した。これに対して、インスリン依存的にIRS-2に結合するPI3K活性は、GH前処理により抑制されることを発見した。このように、GH長時間前処理は、IRS-1,IRS-2を介したインスリンシグナルに異なる影響を及ぼすことが明らかとなった。

3)GH長時間前処理が、インスリンに応答したGLUT4の膜移行に与えた影響

 次に、インスリン依存性糖取り込みを担うGLUT4の動態について解析を進めた。GH長時間処理は、GLUT4の発現量に影響を与えなかった。先にも述べたように、GLUT4は、インスリン刺激に応答して細胞質内のLDM画分から細胞膜画分へ移行することが明らかとなっているが、GH長時間前処理した細胞においても、インスリンに応答したGLUT4の細胞膜画分への移行が確認された。そこで、細胞外から細胞膜表面上のタンパク質をビオチンラベルし、GLUT4の細胞外ドメインがラベルされるかを検討した。その結果、GH前処理後インスリン処理した脂肪細胞においても、GLUT4は細胞膜を貫通していることが明らかとなった。一連の結果は、GH長時間前処理は、インスリン刺激に応答して細胞膜に移行したGLUT4の糖取り込み機能を抑制する可能性を示している。

 他の結果も併せると、インスリンに応答したIRS-1-PI3K経路の活性化を介して、細胞膜へGLUT4が移行し、GLUT4は細胞膜を貫通するが、GHは、PI3K経路を介した何らかの機構でインスリンシグナルを抑制、GLUT4の機能不全を引き起こし、その結果、糖取り込みが抑制されるという作業仮説が考えられた。近年、高グルコース、グルコサミン、レプチン処理した脂肪細胞においても、インスリン依存的なGLUT4の膜移行が誘導されるにも関わらず、インスリン依存性糖取り込みが抑制されることが報告されており、いくつかのインスリン抵抗性」において、今回、見出したような新しい機構が、普遍的に稼働している可能性も考えられる。

 本論文では、IGFあるいはインスリンという同化ホルモンのシグナル伝達系に、他のホルモンがどのようにクロストークするかを検討し、新しい知見を得ることができた。IGFとインスリンは共通したシグナル経路を介して作用を発現しているが、トロピックホルモンあるいはGHは、異なる段階に、異なる機構で、それぞれのシグナルを修飾し、活性の調節を可能としている。これらは、生物が生命を維持するために必要な、生理的意義の高い生命現象と考えられる。今回の研究成果が、正常な成長・発達・代謝の制御機構、糖尿病などの疾病の発生機構などの解明に展開されていくことを期待したい。

審査要旨 要旨を表示する

 生物は、外界の環境や生体内の状態に応答して生命を維持するために、200種類以上の多種多様な細胞の機能を、多くの細胞外因子の細胞内シグナルのクロストークによって制御している。本論文は、代表的な同化ホルモンであるインスリン様成長因子I(IGF-I)およびインスリンに着目し、「トロピックホルモンとIGF-I」、「成長ホルモン(GH)とインスリン」という2種類のホルモンクロストークをモデルとして、その相互作用機構について研究を行ったもので、緒論、第一部、第二部、総合討論からなる。

 まず、緒論では、本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について、述べている。

 第一部では、トロピックホルモンによるIGF依存性増殖の増強機構についての研究成果を示している。IGF-Iは、種々の細胞の増殖・分化誘導に必須なホルモンであり、単独ではその活性は弱く、他の因子の存在下で増強されることが特徴である。申請者が属する研究グループでは、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を用いて、細胞増殖における甲状腺刺激ホルモン(TSH)とIGF-Iの相乗作用の解析を行ってきた。その過程で、FRTL-5細胞をTSHで長時間前処理すると、cAMP経路が活性化され、続くIGF-I刺激に細胞が反応するようになり、その結果、IGF-I依存性細胞増殖が増強することを発見している。この相乗機構を解明する目的で、TSH処理あるいはIGF-I処理後にホスホチロシンホスファターゼ(PTPase)活性を測定したところ、細胞膜画分には、TSH長時間処理によって活性化されるPTPaseが存在し、細胞質画分では、TSH長時間処理によって活性化されるPTPaseが、続くIGF-I短時間処理によって、阻害されることが明らかとなった。他の結果も併せると、cAMPシグナルとIGF-Iシグナルの合流により活性制御されるPTPaseが存在し、このようなPTPaseは、cAMP経路の長時間刺激によるIGF-I依存性増殖の増強になんらかの役割を果たしていることがわかった。

 第二部では、成長ホルモンによるインスリン依存性糖取り込みの抑制機構についての研究成果を示している。近年、他のホルモンやサイトカイン、栄養因子などにより、標的細胞がインスリンに反応しにくくなる、すなわち「インスリン抵抗性」が引き起こされることが報告されており、このインスリン抵抗性が、II型糖尿病発症の主な要因になると言われている。特に、GHは、IGF-Iの産生を介した成長促進活性と同時に、抗インスリン作用に代表される代謝制御作用を有しており、この抗インスリン作用は、臨床上問題となっている。そこで、分化した3T3-L1脂肪細胞を、種々の時間GHで前処理した後、インスリンで短時間処理、糖取り込みを測定した。その結果、3T3-L1脂肪細胞を、GHで12時間以上前処理することにより、インスリン依存性糖取り込みが有意に抑制されることを見出した。一般に、脂肪細胞・筋管細胞などインスリン標的細胞では、インスリン刺激に応答して活性化されるインスリンレセプター(IR)TKにより、insulin receptor substrates(IRS)がチロシンリン酸化され、このIRSのリン酸化チロシン残基を認識して、SH2ドメインを介してPI3-kinase(PI3K)のp85制御サブユニットが結合、PI3K経路が活性化される。このIRS-PI3K経路の活性化が、糖輸送体であるglucosetransporter4(GLUT4)を細胞質から細胞膜表面上へ移行させ、その結果、細胞内への糖取り込みが促進されると考えられている。GHの24時間前処理は、インスリン依存性IRTK活性化に影響を与えなかったが、GH単独処理でIRS1/IRS2のチロシンリン酸化が誘導され、これらのチロシンリン酸化は、続くインスリン刺激により相加的に増加した。続いて、GH長時間処理が、PI3K経路に及ぼす影響について検討した。その結果、インスリン刺激に応答してIRS1/IRS2に結合するp85PI3Kの結合量は、IRS1/IRS2のチロシンリン酸化量を反映し、GHにより増加することがわかった。更に、PI3K活性を測定したところ、IRS1に結合するPI3K活性は、IRS1のチロシンリン酸化およびIRS1に結合するp85PI3K量を良く反映し、GH前処理により上昇した。これに対して、インスリン依存的にIRS2に結合するPI3K活性は、GH前処理により抑制されることを発見した。最後に、インスリン依存性糖取り込みを担うGLUT4の動態について解析を進め、GH長時間前処理した細胞においても、インスリンに応答してGLUT4が細胞膜表面へ移行することを確認した。一連の結果は、GH長時間処理は、インスリン刺激に応答して細胞膜に移行したGLUT4の糖取り込み機能を抑制する可能性を示している。

 総合討論では、IGFあるいはインスリンの細胞内シグナルおよび生理活性が、他のホルモンによって修飾される生理的意義について考察している。

 以上、本論文は、IGFあるいはインスリンという同化ホルモンのシグナル伝達系に、他のホルモンがどのようにクロストークするかを検討したもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

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