学位論文要旨



No 118218
著者(漢字) 千田,将
著者(英字)
著者(カナ) センダ,ショウ
標題(和) クローン動物X染色体不活性化に関する研究
標題(洋)
報告番号 118218
報告番号 甲18218
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2607号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 田中,智
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

序論

 ゲノムの配列情報上に上書きされた可変情報を対象とした学問分野はエピジェネティクスと呼ばれる。さて、近年、哺乳類動物種において体細胞核移植によるクローン動物が誕生した。しかし、クローン動物の発生率は極端に低く、また、生まれた動物においても様々な異常が見られるなど、現段階のクローン技術は、十分に成熟していない。クローン動物のゲノムDNAの配列は、当然、核提供者である正常動物のそれと同一と考えられるので、種々の異常の原因は、遺伝子配列そのものではなく、遺伝情報を司るエピジェネティックな情報の乱れに帰せられるべきである。

 DNAのメチル化、特にCpGアイランドと呼ばれる領域のメチル化は、遺伝子発現調節に重要な働きを持つと考えられている。事実、近年の大鐘らの研究により、クローンマウスのCpGアイランドのメチル化状況は、自然交配のマウスとは異なることが示された。

 哺乳類の雌は2本あるX染色体のうち一本を不活性化することにより、雄との性染色体上遺伝子の量的補正を達成していることが知られている。また、近年、CpGアイランドのメチル化が、X染色体不活性化の制御機構において、一定の役割を担っているらしいことが分かりつつある。現在、クローン動物のX染色体不活性化に関して詳細な解析はなされていない。第一章では、クローンマウスのX染色体不活性化について記す。また、第二章では、第一章で得られた結論からさらに研究を押し進めるに際しての、X染色体上にGFP遺伝子を持つマウス系統(T-GFP-X)の有用性を記す。

 現在のところ、クローン動物のDNAメチル化状態を解析した報告はいくつかあるが、いずれも初期胚、もしくは分娩期を対象としており、成体クローン動物のゲノムメチル化に関する情報は何も得られていない。クローン技術を医療等へ応用する際には、完全に正常なクローンを作出することが必須となる。その為には、発生、成熟後の、さらには老化後のクローン動物の詳細なゲノム異常の解析が求められることは言うまでもない。本研究の第三章において、この問題を取り扱った。

結果

第一章

 哺乳類雌個体においては、母方X染色体が不活性な細胞と、父方X染色体が不活性な細胞の二種の細胞で組織が構築されることとなる。この二種の細胞の存在比は「X染色体不活性化パターン」と呼ばれ、通常、1:1に近い値となる。本章では、クローンマウスにおけるX染色体不活性化パターンの定量化を行なった。これを行なうに際して、筆者は、[C57BL/6 X C3H]F1(B6C3F1)マウスにおいてX染色体不活性化パターンを決定するに有用な一塩基多型(SNP)の情報を得ることに成功した。これを用いて、多数のB6C3F1の遺伝的背景を持つ雌クローンマウスにおいてX染色体不活性化パターンを決定した。その結果、興味深いことに、腎臓における解析で、C57BL/6由来のX染色体の不活性化比率が、80%を超えるクローン個体と、また、逆にC3H由来のX染色体の不活性化比率が80%を超える個体が存在することが明らかになった。さらに、腸における解析においても、同様の傾向が見られた。以上より、一部の雌クローンマウスは非常に偏ったX染色体不活性化パターンを有することが明らかとなった。

第二章

 第一章の研究をさらに押し進めるにあたって有用と考えられるのが、enhanced green fluorescent protein(EGFP〉遺伝子をX染色体上に持つトランスジェニックマウス(T-GFP-X系統)の核提供者としての利用である。これを用いれば、X染色体不活性化パターンを実際に可視化できるものと考えられる。しかし、一般に、トランスジェニック動物を作出した場合、しばしば予想外の発現抑制を受けることが知られている。従って、T-GFP-X系統においても、同様の現象が起きるならば、活性X染色体(Xa)上のサイレンシングとX染色体不活性化パターンの反映としての非発現を混同しない注意が求められる。組織切片観察の結果、腎臓皮質の尿細管部の細胞において、Xa上でサイレンシングが起きることが分かった。一方、腎臓皮質の糸球体、心筋細胞、小脳のプルキンエ細胞などでは、EGFPの非発現がX染色体の不活性化パターンを忠実に反映することが明らかとなった。また、Xa上の細胞種特異的なサイレンシングが、DNAメチル化によって制御されていることも、サザンブロット解析、脱メチル化剤による解析から示唆された。また、不活性X染色体(Xi)上のトランスジーンのメチル化状態も重要な解析対象と考えた。なぜなら、内在性のX連鎖遺伝子と同じように、Xi上のEGFP遺伝子が高度にメチル化されるならば、そのメチル化状態を基にX染色体不活性化パターンを決定する、という利用法も考えられるからである。HapllPCR法により解析したところ、Xi上のEGFP遺伝子は完全にメチル化されていることが分かった。本章の解析により、T-GFP-X系統の有用性が確認されるとともに、将来行なうべき解析法、解析対象とすべき組織、に対して有用な知見が得られた。

第三章

 本章では、成体(170〜330日齢)、および老齢域(676〜835日齢)のクローンマウスのゲノムメチル化解析を行なった。解析にあたっては、1,000以上ものゲノム座位(その殆どがCpGアイランドである)のメチル化状態を一度に可視化できるRLGS法を用いた。また、組織としては腎臓を用いた。先に述べた大鐘らの解析はこの方法でなされている。結果として、成体クローンマウスでは、4個体のうち2個体で、ある同一の座位が過度のメチル化状態にあった。一方、興味深いことに、老齢クローンマウス4個体では、全くメチル化異常座位は見い出されなかった。成体クローンにおいてメチル化異常を示した座位を同定したところ、機能未知遺伝子の転写開始点付近に存在するCpGアイランドに位置することが判明した。また、さらなる解析により、この遺伝子座が常染色体上にあること、インプリンティング遺伝子座ではないこと、が明らかとなった。さて、大鐘らの分娩期クローンマウスの報告では、2個体の解析で、皮膚において計3つ、胎盤において計4つのメチル化異常座位が発見された。今回の解析では、成体クローン4個体で計2つ、老齢クローン4個体で0であったので、個体の成熟期を通して、また、老化の過程で、何らかの形でメチル化異常が除外されるのではないかと考えられる。

考察

 第一章の解析により、一部の雌クローンマウスは非常に偏ったX染色体不活性化パターンを有することが明らかとなった。これは、クローン動物で見られた異常であるので、当然、エピジェネティックな異常のみに起因することは確かである。従って、この結果は、遺伝情報そのものの変化なしに、エピジェネティックな情報の変化のみでX染色体不活性化パターンが乱されうることを立証した初めての実験成果と言えよう。また、これにより、X染色体不活性化機構におけるエピジェネティックな制御の重要性が浮き彫りになるとともに、いまだ謎が多いX染色体不活性化機構を研究する上でのモデル動物としての、クローン動物の有用性が示されたとも言える。

 また、第三章の解析により、成体クローンもゲノムメチル化異常を持つこと、さらに、個体が成熟、加齢するに従って、メチル化異常座位の検出頻度が低下することが明らかになった。現在、多数の遺伝子座において、CpGアイランドのメチル化異常と発癌機構との関連が注目を集めている。また、クローンマウスの検死解剖所見において高頻度で癌が見い出されたという報告がなされている。以上のことから、メチル化異常度が大きいクローン個体は、やがて発癌して死をむかえるが、メチル化異常度が比較的小さな個体は老齢域にまで到達し得る、という概念が想定される。

 さて、今日ではヒトゲノム計画も一通り完了した。生物の系統発生、個体発生の仕組みを正確に理解する為にも、今後、配列情報上に上書きされた可変情報の解読が必須となる。つまりエピジェネティクスの進展である。特定のジェネティックな変異を持つモデル動物は現在の技術で作出することができる。一方、特定のエピジェネティックな変異を持つモデル動物を入手することは、現段階で不可能である。しかし、それに代わり得るものがあるとすれば、それはクローン動物であると考えられる。本研究によって、少なくとも、X染色体不活性化パターン決定機構の研究に関しては、有用なモデル動物となることが示された。また、発癌機構、個体の老化機構の研究においても、重要な材料となる可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 エピジェネティックスとは「細胞世代を超えて、DNAの塩基配列を変えることなく、継承される遺伝子機能について研究する学問分野」を意味する。DNAのメチル化は、遺伝子発現調節に重要な働きを持つと考えられている。近年、哺乳類動物種において体細胞核移植によるクローン動物が誕生した。クローン動物の発生率は極端に低く、また、生まれた動物においても様々な異常が見られるなど問題点が指摘されている。クローン動物のゲノムDNAの配列は、当然、核提供者である正常動物のそれと同一と考えられるので、種々の異常の原因は、遺伝子配列そのものではなく、遺伝情報を司るエピジェネティックス系の異常によると考えられる。なるほど、近年の報告では、クローンマウスのCpGアイランドのメチル化状況は、自然交配のマウスとは異なることが示されている。本研究は、クローンマウスのエピジェネティクス系の異常について、特にX染色体不活性化とDNAメチル化異常を中心に解析した結果を論じたもので、3章より構成されており、要約すれば以下のようになる。

 哺乳類雌個体においては、母方X染色体が不活性な細胞と、父方X染色体が不活性な細胞の二種の細胞で組織が構築されることとなる。この二種の細胞の存在比は「X染色体不活性化パターン」と呼ばれ、通常、1:1に近い値となる。まず、第1章では、[C57BL/6 X C3H]F1(B6C3F1)マウスにおいてX染色体不活性化パターンを決定するに有用な一塩基多型(SNP)を示す領域を得た。このSNP情報を利用して、多数のB6C3F1の遺伝的背景を持つ雌クローンマウスにおいてX染色体不活性化パターンを決定した。興味深いことに、腎臓における解析で、C57BL/6由来のX染色体の不活性化比率が、80%を超えるクローン個体と、また、逆にC3H由来のX染色体の不活性化比率が80%を超える個体が存在することが明らかになった。さらに、腸における解析においても、同様の傾向が見られ、雌クローンマウスの一部では非常に偏ったX染色体不活性化パターンを有することが明らかとなった。

 さて、X染色体上にenhanced green fluorescent protein(EGFP)遺伝子など標識遺伝子を持つトランスジェニックマウス(T-GFP-X系統)を、核提供者として利用できれば、X染色体不活性化パターンの決定機構を解明する上で有用である。しかし、一般に、トランスジェニック動物を作出した場合、しばしば予想外の発現抑制を受けることが知られている。従って、T-GFP-X系統においても、同様の現象が起きるならば、活性X染色体(Xa)上のサイレンシングとX染色体不活性化パターンの反映としての非発現を混同しない注意が求められる。第2章の研究では、本専攻応用遺伝学研究室で作出されたT-GFP-Xマウスにおいて、腎臓皮質の尿細管部の細胞特異的に、Xa上でサイレンシングが起きることが分かった。一方、腎臓皮質の糸球体、心筋細胞、小脳のプルキンエ細胞などでは、EGFPの非発現がX染色体の不活性化パターンを忠実に反映することが明らかとなった。また、Xa上の細胞種特異的なサイレンシングが、DNAメチル化によって制御されていることも、サザンブロット解析、脱メチル化剤による解析から示唆された。また、不活性X染色体(Xi)上のトランスジーンのメチル化状態も重要な解析対象と考えた。なぜなら、内在性のX連鎖遺伝子と同じように、Xi上のEGFP遺伝子が高度にメチル化されるならば、そのメチル化状態を基にX染色体不活性化パターンを決定する、という利用法も考えられるからである。HapllPCR法により解析したところ、Xi上のEGFP遺伝子は完全にメチル化されていることが分かった。本章の解析により、T-GFP-X系統の有用性が確認されるとともに、将来行なうべき解析法、解析対象とすべき組織、に対して有用な知見が得られた。

 最後に、第3章では、成体(170〜330日齢)、および老齢域(676〜835日齢)のクローンマウスのゲノムメチル化解析が行なわれた。解析にあたっては、1,000以上ものゲノム座位(その殆どがCpGアイランドである)のメチル化状態を一度に可視化できるRLGS法が用いられた。成体クローンマウスでは、4個体のうち2個体で、ある同一の座位が過度のメチル化状態にあった。ところが、老齢クローンマウス4個体では、全くメチル化異常座位は見い出されなかった。生後間もないクローンマウスの研究では、2個体の解析で、皮膚において計3つ、胎盤において計4つのメチル化異常座位が発見されたと報告されている。今回の解析では、成体クローン4個体で計2つ、老齢クローン4個体で0であったので、個体の成熟期を通して、また、老化の過程で、DNAメチル化異常が除外されるのではないかと考えられる。

 以上より、本研究ではクローン動物では、X染色体不活性に異常があること、DNAメチル化に異常が見られること、DNAメチル化異常は老化に伴い減少することを立証し、哺乳類のエピジェネティックス研究領域に新たな概念を提供した。また、クローン動物が発癌や老化の有用な病態モデル動物となることも示した。これらの発見と概念の提示は、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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