学位論文要旨



No 118219
著者(漢字) 西村,幸子
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,サチコ
標題(和) 機能的神経回路獲得における脊椎動物特異的Netrin-Gサブファミリー分子の役割
標題(洋) Roles of vertebrate-specific Netrin-G subfamily members in functional neural networks
報告番号 118219
報告番号 甲18219
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2608号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
 理化学研究所 チームリーダー 糸原,重美
内容要旨 要旨を表示する

 動物行動などの脳の高次機能は、無数のニューロンからなる精密なネットワークの上に成り立っている。成体の脳に見られる複雑であるが秩序だった機能的神経回路は、ニューロン同士が軸索と樹状突起を介して適切な連結(シナプス結合)をすることにより形成される。軸索が正しい標的領域へ伸長、投射する過程は、NetrinsやSlitsに代表される軸索ガイド因子、及びそれらの受容体の同定により、ここ10年程の間に急速に理解が進んだ。しかし、個々の投射経路が特異的なシナプス結合を獲得する過程の分子機構についてはほとんど未解明である。

 私は、最近仲柴らが新規のNetrin様分子として分離したマウスNetrin-G1及びNetrin-G2がこの機構に関与する候補分子ではないかとの仮説を立て、その検証を試みた。その背景としてNetrin-Gsの次の特徴に着目した。(1)古典的Netrinsが系統発生的に保存されているのに対し、Netrin-Gsは脊椎動物に特有である。従ってNetrin-Gsは神経系の複雑化に伴って進化してきたと考えられる。(2)分泌型の古典的Netrinsと異なり、GPI結合型膜タンパク質である。すなわち局所作動性分子である。(3)中枢神経系に限局し、相互排他的に特定のニューロン群に発現する。

 本研究では、マウス脳におけるNetrin-Gsタンパクの局在を明らかにし、その情報をもとに遺伝子欠損マウスを形態学的および行動学的に解析することにより、脊椎動物に特徴的な神経回路形成過程におけるNetrin-Gsの機能を明らかにしていくことを目的とした。

 第一章では、特異抗体を作製し、マウスの中枢神経系におけるNetrin-Gsタンパクの分布および細胞内局在を明らかにした。まず成体脳において免疫組織染色を行い、Netrin-G1とNetrin-G2の分布を比較した。各タンパクの分布はいずれの領域においても重複せず、大脳皮質ではG1が第1層および第4層(視床-皮質投射領域)に、G2が第4層および第6層(皮質内投射領域)に分布した。また嗅皮質ではG1がIa層(嗅球-嗅皮質投射領域)に、G2がIbおよび深層(皮質内投射領域)に分布した。さらに海馬歯状回では、それぞれ外側貫通繊維(G1)と内側貫通繊維(G2)上に選択的に分布した。この結果はin situ hybridizationで示された相互排他的な遺伝子発現様式を反映しており、Netrin-G1とG2は高い相同性を有するものの、機能的に分化していると考えられる。

 次に生後0日齢、1週齢、成体脳の免疫組織染色を行い、Netrin-G1タンパクの動態を検討した結果、発達に伴って局在が変化することを見い出した。発達中のニューロンでは軸索全体に渡る分布を示し、軸索束上に強い染色が観察された。一方、成体脳においては軸索束上の分布は消え、軸索終末領域に高濃度に集積することを見い出した。この結果は、Netrin-Gsが発達段階によって異なる機能を担う可能性を示唆している。

 さらに免疫電子顕微鏡法により、成体脳における超微形態レベルでの細胞内局在を検討し、以下の知見を得た。(1)細胞膜表面に局在し、特に膜の接触部に分布する傾向がある。(2)シナプスのごく近傍にも局在するが、シナプス伝達部位内には存在しない。(3)ところにより数分子のクラスターを形成する。この観察結果から、Netrin-Gsはシナプス構成成分では無いが、軸索終末において細胞間相互作用を担う可能性が示唆された。

 第二章では、Netrin-G1及びG2各々の遺伝子欠損マウスを作製し、形態学的解析を行った。遺伝子欠損マウスを作製するにあたって、まずマウスNtng1及びNtng2遺伝子のゲノム構造を明らかにした。Radiation hybrid mapping法によりNtng1はマウス第3染色体上に、Ntng2は第2染色体上にマップされた。また両遺伝子は同様なエキソン-イントロン構造を有しており、これらは進化の過程において同一分子から遺伝子複製により発生してきたことを強く示唆する。

 Ntng1及びNtng2遺伝子には複数のスプライシングアイソフォームが存在する。そこで、全てのアイソフォームに共通し、機能発現に必須なシグナル配列を含むエキソンを欠失させた変異マウスを作製した。免疫組織染色の結果、Netrin-G1変異マウス(以下Ntng1-/-)、Netrin-G2変異マウス(以下Ntng2-/-)共に機能的タンパク発現の欠損を確認した。また、Ntng1-/-マウスにおけるNetrin-G2タンパク、Ntng2-/-マウスにおけるNetrin-G1タンパクの分布が野生型と大きく変わらないことから、両者の機能的代償が起こっている可能性は少ないと考えられた。いずれの変異マウスも成体まで生育し、脳の基本的な組織構築に顕著な異常は観察されなかった。

 Netrin-G1に関して、生後最も高い発現が見られる部位の一つである視床に着目し、トレーサー色素DiIによって視床-皮質投射の軸索を可視化した。野生型との比較により、Ntng1-/-マウスにおいて軸索の分布状態に顕著な異常は観察されなかった。また、体性感覚野への視床-皮質投射は、ヒゲからの感覚入力の有無に応じて可塑性を示すことが知られている。そこでヒゲの除去によりこの可塑性を解析した結果、Ntng1-/-マウスと野生型に差異は認められなかった。これらの結果から、Netrin-G1発現細胞自身の軸索伸長、及びその可塑性にはNetrin-G1の機能は必須でないことが示された。

 そこで次にNetrin-Gsタンパクが軸索終末に集積していることから、軸索の投射先(標的)である樹状突起への影響を検討した。トレーサー色素Biocytinの注入およびゴルジ染色法によって海馬歯状回の顆粒細胞を単一ニューロンレベルで標識し、樹状突起の形態を観察した。その結果、Ntng1-/-マウスでは野生型に比べ樹状突起の張り出しが広く、分枝の数も多いことが明らかとなった。これにより、軸索終末に分布するNetrin-G1は、未知のNetrin-G受容体分子を介して樹状突起の発達を制御していることが示された。また、このような樹状突起の発達異状は、適切なシナプス結合が正常に形成もしくは安定化されない結果と考え、現在Netrin-G2変異マウスも含めて、樹状突起スパインの密度や形態などについてさらに詳細な解析を行っている。

 第三章では、特定の神経回路におけるNetrin-Gsの欠損が高次脳機能に与える影響を検討するため、両変異マウスを用いて行動学的解析を行った。変異マウスの行動特性を系統的、包括的に評価することを目的として、複数の解析法を組み合わせたテストバッテリーが提案されており、本研究では以下のパラダイムを用いた。(1)オープンフィールドテスト(一般活動性、新規環境での探索性)(2)高架式十字迷路テスト(高所性の不安行動、新奇環境での探索性)(3)モリス水迷路テスト(空間学習および記憶)(4)嗅覚弁別学習(匂いの弁別、嗅覚性の記憶)(5)プレパルスインヒビション(聴覚性驚愕反応、脳内ゲーティング機能)

 高架式十字迷路テストにおいて、通常野生型は高所性の不安から壁のあるアームヘの選択的滞在傾向を示すが、Ntng1-/-マウスはいずれの場所への滞在傾向も示さなかった。また脳内ゲーティング機能の低下や拘束ストレスに対する過剰反応が観察された。モリス水迷路テスト及び嗅覚弁別学習においてNtng1-/-マウスの記憶能力は野生型と比較して正常であった。一方Ntng2-/-マウスはこれとは異なる表現型を示し、モリス水迷路テストにおいて空間の学習、記憶に成績の低下が見られた。これらの結果から、Ntng1-/-マウスは知覚情報の処理過程の不全、Ntng2-/-マウスは学習や記憶など高次の統合機能の不全が想定される。

 脊椎動物に特有な膜結合型Netrin-Gサブファミリー分子の発見は、高等動物における神経回路形成機構の多様性を反映するものである。本研究では、マウスNetrin-G1とNetrin-G2が脳のほぼ全ての領域に渡って、重複しない特定の経路に選択的に分布することを明らかにし、Netrin-Gサブファミリーがさらに機能的に分化していることを示した。遺伝子欠損マウスの形態学的解析からNetrin-Gsは、従来の分泌型Netrinsで知られてきた神経回路形成初期における軸索ガイダンス機能(大まかな神経回路形成)と言うよりは、個々の回路の精緻化もしくは維持の過程に働くことが示唆された。また、両変異マウスがそれぞれ特徴的な行動異常を示すことから、Netrin-G1及びG2が各々特定の回路において高次脳機能の発現に重要であることを示した。これらの知見は、両分子が経路特異的なシナプス結合の形成に重要な役割を果たす、との当初の仮説を強く支持するものであり、脊椎動物における機能的神経回路獲得機構の解明に新たな理解をもたらしたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 脳は外界の刺激情報を統合処理し、最終的に適切な行動として出力する器官であるが、その高度な機能発現の基盤は膨大な数の神経細胞からなる精密なネットワークである。近年、複数の軸索ガイド因子やそれらの受容体の同定、線虫やショウジョウバエを用いた遺伝学的解析によって、基本的な神経回路形成の分子基盤が急速に明らかとなってきた。しかし、より複雑な高等動物の中枢神経系を考えた場合、例えば個々の投射経路が特異的なシナプス結合を獲得する過程の分子機構についてはほとんど未解明である。脊椎動物では無脊椎動物に比べて軸索ガイド因子群の分子的多様性が報告されており、これは脊椎動物における神経機能の多様性を反映するものである。

 そこで、本研究では脊椎動物の中枢神経系に限局して発現する膜結合型のNetrin様分子であるNetrin-G1とNetrin-G2が、神経系の複雑化に伴って進化してきた分子であると位置付け、脊椎動物に固有な機能的神経回路の獲得過程における役割を解明する目的で研究を行った。Netrin-G分子群の生理機能を明らかにするため、マウス脳におけるタンパクの局在を明らかにし、その情報をもとに遺伝子欠損マウスを形態学的および行動学的に解析した。

 第一章においては、Netrin-Gタンパクに対する特異認識抗体を作製し、マウスの中枢神経系における両分子の分布および細胞内局在を明らかにした。まず成体脳において、免疫組織化学的手法によってNetrin-G1とNetrin-G2の分布を比較した。各タンパクは大脳皮質、梨状皮質、海馬などいずれの領域においても、重複しない特定の経路に選択的に分布した。また、Netrin-G1は主に皮質への知覚入力経路に、Netrin-G2は主に皮質(海馬)内の連絡経路に分布する特徴が見い出され、両分子は高い相同性を有するものの、機能的に分化していると考えられた。また、生後の発達を追ってNetrin-G1タンパクの動態を検討した結果、(1)発達中のニューロンでは軸索全体に渡る分布を示し、一方(2)成体脳においては軸索束上の分布は消え、軸索終末領域に高濃度に集積することを見い出した。この結果により、Netrin-Gが発達段階によって異なる機能を担う可能性が示唆された。さらに、免疫電子顕微鏡法によって成体脳における超微形態レベルでの細胞内局在を検討し(1)Netri-G1,G2の両分子が細胞膜表面に局在すること、(2)シナプス伝達部位のごく近傍に高頻度に存在することを見い出した。以上の観察結果から、Netrin-Gサブファミリータンパク群は細胞間認識分子として個々の投射経路の特異性決定に働く可能性が示唆された。

 第二章では、Netrin-G1及びG2各々の遺伝子欠損マウスを作製し、それらの形態学的解析を行った。遺伝子欠損マウスを作製するにあたって、まずマウスNtng1及びNtng2遺伝子のゲノム構造を解析し(1)Ntng1はマウス第3染色体上に、Ntng2は第2染色体上にマップされること、(2)両遺伝子は同様なエキソン-イントロン構造を有していることを明らかにした。続いてNtng1及びNtng2遺伝子の機能発現に必須なシグナル配列を含むエキソンを欠失させた変異マウスを作製した。いずれの変異マウスも成体まで生育し、脳の基本的な組織構築に顕著な異常は観察されなかった。Netrin-G1に関して、最も高い発現が見られる部位の一つである視床に着目し、トレーサー色素Dil標識やCytochrome oxidase染色によって視床-皮質投射を可視化し、軸索の発達状態を観察した。その結果Netrin-G1発現細胞自身の軸索投射、及びその可塑性にはNetrin-G1の機能は必須でないことが示された。そこで次にNetrin-Gsタンパクが軸索終末に集積していることから、軸索の投射先(標的)である樹状突起への影響を検討した。トレーサー色素Biocytinの注入によって海馬歯状回の顆粒細胞を単一ニューロンレベルで標識し、樹状突起の形態を観察した。その結果、Ntng1-/-マウスでは野生型に比べ樹状突起の張り出しが広く、分枝の数も多いことが明らかとなった。これにより、軸索終末に分布するNetrin-G1は、未知のNetrin-G受容体分子を介して樹状突起の発達を制御していることが示唆された。

 さらに第三章では、上述の様な特定の神経回路の発達異常が高次脳機能に与える影響を検討するため、両変異マウスを用いて行動学的解析を行った。変異マウスの行動特性を系統的、包括的に評価するため、複数の解析法を組み合わせたテストバッテリーを実施し、G1,G2変異マウスの比較解析から、これらの変異マウスが各々特徴的な行動異常を示すことを明らかにした。Ntng1-/-マウスは高架式十字迷路試験での異常行動、水泳能力の低下、また脳内ゲーティング機能の減弱や拘束ストレスに対する過剰反応が観察された。モリス水迷路テスト及び嗅覚弁別学習においてNtng1-/-マウスの記憶能力は野生型と比較して正常であった。一方Ntng2-/-マウスはこれとは異なる表現型を示し、モリス水迷路テストにおいて空間の学習、記憶に成績の低下が見られた。これらの結果および第一章におけるタンパク分布の特徴から、Ntng1-/-マウスは知覚情報の処理過程の不全、Ntng2-/-マウスは学習や記憶など高次の統合機能の不全が想定された。

 脊椎動物に特有な膜結合型Netrin-Gサブファミリー分子の発見は、高等動物における神経回路形成機構の多様性を反映するものである。本研究では、マウスNetrin-G1とNetrin-G2が脳のほぼ全ての領域に渡って、各々異なる投射経路に選択的に分布することを明らかにし、Netrin-Gサブファミリーが脊椎動物においてさらに機能的に分化していることを示した。遺伝子欠損マウスの形態学的解析からNetrin-Gsは、従来の分泌型Netrinsで知られてきた神経回路形成初期における軸索ガイダンス機能(大まかな神経回路形成)と言うよりは、個々の回路の精緻化もしくは維持の過程に働くことを示唆する所見を導き出した。また、両変異マウスがそれぞれ特徴的な行動異常を示すことから、Netrin-G1及びG2が各々特定の回路において高次脳機能の発現に重要であることを示すと共に、統合失調症などに代表される神経発達障害性の精心疾患の動物モデルを提供しうる可能性を示した。以上のように本研究では、脊椎動物における機能的神経回路獲得機構の解明において新たな概念を裏付けるのに重要な知見をもたらしたものである。

 従って、審査員一同は、当論文内容が農学博士の資格を有するとの結論に達した。

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