学位論文要旨



No 118223
著者(漢字) 加納,光樹
著者(英字)
著者(カナ) カノウ,コウキ
標題(和) 目東京湾の干潟域におけるマハゼ仔稚魚の生態
標題(洋)
報告番号 118223
報告番号 甲18223
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2612号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 佐野,光彦
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京水産大学 助教授 河野,博
内容要旨 要旨を表示する

 干潟域は水産有用種を含むさまざまな魚類の成育場となっているため,内湾の水産資源を維持・管理するうえで欠くことができない重要な保全場所のひとつであると考えられている.しかしながら,我が国や東南アジア諸国において,干潟域は大都市近郊の内湾に位置することが多く,その大半が埋め立てや浚渫による開発の危機にさらされている.そのような状況下にもかかわらず,干潟域に生息する仔稚魚の生態はほとんど明らかにされていないため,干潟域の保全や管理方策について仔稚魚の生態学という視点から提言を行なうことは難しいのが現状である.そこで本研究では,我が国の干潟域において最も優占するマハゼAcanthogobius flavimanusの仔稚魚の生態,とくに食性,季節的出現,空間的分布,他の魚種や底生無脊椎動物との関わりについて明らかにすることを目的とした.1997年4月から2002年6月に東京湾の干潟域において得た標本と潜水観察を基に,以下の解析を行なった.

マハゼの形態発育と着底

 鰭条の形成過程と体表の黒色素胞の分布様式に基づいて仔稚魚の発育段階を7期(A-G期)に区分し,それらの遊泳層と行動を飼育下と野外で調べたところ,A期(胸鰭と腹鰭および第1背鰭の鰭条が出現していない上屈後仔魚)からD期(すべての鰭条が定数に達し,脳域に黒色素胞が出現した稚魚)が浮遊期,E期(体背面に黒色素胞が出現した稚魚)とF期(尾部の側中線上に黒色素胞が出現した稚魚)が着底期,G期(成魚とほぼ同じ黒色素胞の斑紋をもつ稚魚)が底生期に相当することが明らかとなった.次いで,これらの生活様式の変化と形態発育との関連について検討したところ,浮遊期の後半に摂餌・遊泳機能が,また,浮遊期から底生期にかけては被食の回避に役立つ形質が発達することがわかった.さらに,底生期に入ってからは,浮力調整に関わる形質が変化し,底面で定位しやすい体になるものと判断された.

マハゼ仔稚魚の食性

 浮遊期仔魚から底生期稚魚(体長10-15mm)の消化管内容物を精査したところ,主要な餌生物は着底に伴って動物プランクトンから底生小型甲殻類のハルパクチクス類へと変化することがわかった.

底生期稚魚(体長15-43mm)が主に利用する餌生物は,体長約20mmを境にハルパクチクス類から埋在性や遊在性の多毛類へと変化した.また,稚魚は成長するにつれて,より大きな餌生物を摂餌するようになった.体長25mm以上の稚魚では,消化管内容物量が昼間よりも夜間で多かったため,夜間を中心に摂餌を行なうものと判断された.底泥内における多毛類の垂直分布は昼間よりも夜間に上方へと偏る傾向がみられた.したがって,体長25mm以上の稚魚は,表泥付近に多毛類が多くなる夜間に摂餌時間帯を同調させることで,効率良く餌を得ているものと考えられた.

干潟域に生息する魚類の食性

 干潟域に生息する各魚種の食性を明らかにするために,29種1,399個体の消化管内容物を精査した.多くの魚種で食性多様度が低い値を示すことから,専食性の魚類が多いことがわかった.また,21種(全体の72%)において成長に伴う食性の変化がみられたことから,干潟域は魚類が成長とともに食性を転換する場として重要な役割を果たしているものと考えられた.

 各魚種において,食性が同じような体長範囲をユニットとして区分し,各ユニットにおける各餌項目の体積百分率をもとにクラスター分析を行なったところ,底生小型甲殻類食(25ユニット),動物プランクトン食(16ユニット),デトライタス食(7ユニット),多毛類食(3ユニット),貝類食(3ユニット),魚類食(1ユニット)の6つのグループに分けることができた.多毛類食の3ユニットのうち,2ユニットはマハゼの底生期稚魚と成魚であり,マハゼのように多毛類を専食する種は干潟域において稀であることが明らかになった.

 マハゼ稚魚の捕食者としては6種が認められた.これらのうち,魚食性が強かったスズキLateolabrax japonicusは,干潟域におけるマハゼ稚魚の代表的な捕食者であると考えられた.

マハゼ仔稚魚の季節的出現

 マハゼ仔稚魚の出現量が多い時期は,浮遊期仔稚魚で4月中旬から下旬,着底期稚魚で4月中旬から5月上旬,底生期稚魚で4月中旬から5月中旬であった.このような仔稚魚の季節的出現と環境要因(水温,塩分,捕食者,餌生物量)との関連について検討したところ,水温,塩分,捕食者量の変動は仔稚魚の季節的出現とほとんど対応していなかった.一方,仔稚魚が餌にしている生物(動物プランクトン,ハルパクチクス類,多毛類)の出現量と仔稚魚の密度とはよく対応していた.このような対応関係は,仔稚魚が充分な摂餌を行なううえで有利であると考えられた.

 マハゼの捕食圧によって,餌となる主要な底生無脊椎動物(埋在性多毛類と遊在性多毛類)の個体数密度が減少するかどうかを明らかにするため,野外実験を行なった.マハゼの底生期稚魚が大量に出現する期間に,4区画(魚類や底生大型無脊椎動物を排除したケージ区,自然環境下と同じ密度のマハゼが存在するケージ区,ケージの影響を調べる区,自然区)を干潟域に設け,それらの実験区間で埋在性多毛類と遊在性多毛類の個体数密度を比較した.その結果,埋在性多毛類の密度は魚類や大型底生無脊椎動物の排除区で最も多く,他の3区間では差がなかった.同様な結果は遊在性多毛類についても認められた.このような実験結果から,マハゼの底生期稚魚は多毛類の密度に大きな影響を及ぼすことが判明した.

マハゼ仔稚魚の空間的分布

 河口汽水域内におけるマハゼ仔稚魚の分布様式を調べたところ,浮遊期仔稚魚は海側にある高塩分で砂底の干潟域に多く,また,底生期稚魚は上流側にある低塩分で泥底の干潟域に多く出現した.マハゼの産卵場所は海域にあるため,本種は成長するにつれて海側から上流側の干潟域へと生息場所を変化させることが明らかとなった.なお,上流側の干潟域は多毛類の密度が高く,底生期稚魚が摂餌を行なううえで有利な餌環境であるものと考えられた.

 潟湖内に存在する5つの微小生息場所(アナジャコ類の生息孔が多数存在する干潟域の感潮池と潮下帯,そのような生息孔がまったく存在しない干潟域の感潮池と潮下帯,および干潟域に隣接する転石域)において,マハゼを含むハゼ科の優占魚種3種の個体数密度を調査し,微小生息場所間で比較した.マハゼの底生期稚魚の個体数密度は転石域よりも干潟域で高かったが,干潟域内の4つの微小生息場所間ではほとんど差は認められなかった.このことから,本種の稚魚は干潟域を主生息場所とするが,干潟域内の微小生息場所についてはあまり選択性を示さず,幅広く利用するものと考えられた.一方・エドハゼGymnogobius macrognathosとマサゴハゼPseudogobius masagoはほとんど干潟域のみに分布し,マハゼよりも干潟域への依存度が高かった.さらに,干潟域の中でもエドハゼは主にアナジャコ孔のある感潮池と潮下帯に,また,マサゴハゼはアナジャコ孔の有無とは関係なく主に感潮池に出現した.

干潟域の保全

 これまで,我が国の干潟保全運動の多くは,海域に面し,広大な面積を有する前浜型干潟の保全を対象としてきた.しかし,マハゼのように,成長するにつれて海域から河口汽水域へと生息場所を変化させる種の個体群を良好な状態で維持するためには,前浜型干潟だけではなく,河口汽水域に位置し,より多様な環境特性をもった河口型あるいは潟湖型干潟を一緒に保全することが理想的である.また,干潟域の保全や管理を行なう際には,そのような広い空間スケールだけではなく,各魚種の微小生息場所についても配慮が必要である.我が国や東南アジアの国々の干潟域には,マサゴハゼやエドハゼと類似した生態をもつ絶滅危惧種が多く生息している.それらの魚種の保護においては,現存する生息地をそのまま保全することが望ましいのは言うまでもないが,それでも開発の必要性がある場合には,各魚種の生活史特性に合った開発時期や方法,とくに微小生息場所を破壊しないような開発方法についての充分な検討を行なう必要がある.

審査要旨 要旨を表示する

 干潟域は水産有用種を含むさまざまな魚種の成育場となっているが,そこに生息する魚類の生態についてはほとんど明らかにされていない.そこで本研究は,我が国の干潟域において最も優占するマハゼの仔稚魚の生態,とくに食性,季節的出現,空間的分布,他の魚種や底生無脊椎動物との関わりを,長期にわたる野外調査によって明らかにしたものである.本研究結果の概要は以下のとおりである.

マハゼの形態発育と着底

 鰭条の形成過程と体表色素の分布様式に基づいて仔稚魚の発育段階を7期(A-G期)に区分し,それらの遊泳層と行動を飼育下と野外で調べたところ,A-D期が浮遊期,E-F期が着底期,G期が底生期に相当することが明らかとなった.これらの生活様式の変化と形態発育との関連について検討したところ,浮遊期の後半に摂餌・遊泳機能が,また,浮遊期から底生期にかけては被食の回避に役立つ形質が発達することがわかった.さらに,底生期に入ってからは,浮力調整に関わる形質が変化し,底面で定位しやすい体になるものと判断された.

マハゼ仔稚魚の食性

 マハゼ仔稚魚(体長10-43mm)の消化管内容物を解析したところ,仔稚魚の主要な餌は成長に伴って動物プランクトン,ハルパクチクス類,多毛類の順に変化することが明らかとなった.多毛類を食べるようになった大型稚魚(体長25mm以上)では,消化管内容物量が昼間よりも夜間に多かった.表泥付近の多毛類の生息密度は昼間よりも夜間に高かったため,大型稚魚は夜間に摂餌時間帯を同調させることで,効率良く餌を得ているものと考えられた.

干潟域に生息する魚類の食性

 干潟域に生息する魚類29種の消化管内容物を精査したところ,全体の7割に及ぶ種において成長に伴う食性の変化がみられたため,干潟域は魚類が成長とともに餌を転換する場として重要な役割を果たしているものと考えられた.また,底生小型甲殻類や動物プランクトンを餌にする種が多く,マハゼのように多毛類を専食する種は稀であった.マハゼ稚魚の捕食者としては6種が認められた.

マハゼ仔稚魚の季節的出現

 マハゼ仔稚魚の出現量が多い時期は,浮遊期仔稚魚で4月中旬から下旬,着底期稚魚で4月中旬から5月上旬,底生期稚魚で4月中旬から5月中旬であった.このような仔稚魚の季節的出現は水温,塩分,捕食者量の変動とはほとんど対応していなかったが,餌生物量とはよく対応していた.このような対応関係は,仔稚魚が充分な摂餌を行なううえで有利であると考えられた.

 マハゼの底生期稚魚の捕食圧によって餌となる多毛類の個体数密度が減少するかどうかを明らかにするため,干潟域でケージ実験を行った.その結果,多毛類の密度は底生期稚魚が存在する区よりも存在しない区で高く,底生期稚魚は多毛類の密度に影響を及ぼすことが判明した.

マハゼ仔稚魚の空間的分布

 河口汽水域内におけるマハゼ仔稚魚の分布様式を調べたところ,浮遊期仔稚魚は海側にある高塩分で砂底の干潟域に多く,また,底生期稚魚は上流側にある低塩分で泥底の干潟域に多く出現した.マハゼの産卵場所は海域にあるため,本種は成長するにつれて海側から上流側の干潟域へと生息場所を変化させることが明らかとなった.なお,上流側の干潟域は多毛類の密度が高く,底生期稚魚が摂餌を行なううえで有利な餌環境であるものと考えられた.

 潟湖内の干潟域において,マハゼを含むハゼ科の優占魚種3種の微小生息場所利用を調査した.その結果,マハゼはさまざまな微小生息場所を幅広く利用していたのに対し,エドハゼは主にアナジャコ孔のある感潮池と潮下帯に,また,マサゴハゼはアナジャコ孔の有無とは関係なく主に感潮池に出現した.なお,微小生息場所が限定されていた後2種は,近年,稀少性が指摘されている魚種であった.

干潟域の保全

 これまで,我が国の干潟保全運動の多くは,海域に面し,広大な面積を有する前浜型干潟の保全を対象としてきた.しかし,マハゼのように,成長するにつれて海域から河口汽水域へと生息場所を変化させる種の個体群を良好な状態で維持するためには,前浜型干潟だけではなく,河口汽水域に位置し,より多様な環境特性をもった河口型あるいは潟湖型干潟を一緒に保全すべきである.我が国や東南アジアの国々の干潟域には,マサゴハゼやエドハゼと類似した生態をもつ稀少種が多く生息しており,それらの魚種の保護においては,微小生息場所を破壊しないような開発方法についての充分な検討を行なう必要があると考えられた.

 以上,本研究は干潟域におけるマハゼ仔稚魚の生態を詳細に解明するとともに,それをもとに干潟域の保全や管理方策への提言を行なったものであり,干潟域における魚類生態学の発展に寄与するところが大きい.よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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