学位論文要旨



No 118231
著者(漢字) 小田,真由美
著者(英字)
著者(カナ) オダ,マユミ
標題(和) 胎盤の発生と栄養膜幹細胞のエピジェネティック制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 118231
報告番号 甲18231
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2620号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 助教授 今川,和彦
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

序論

 発生過程では、細胞分化に伴い発現する遺伝子のセットは変化する。細胞分化は不可逆的であることから、変化した発現遺伝子セットを規定する機構が存在するはずである。DNAメチル化は遺伝子のサイレンシングに関与し、転写因子の有無にかかわらず遺伝子発現のスイッチを切った状態に保つことが出来る。転写制御領域のメチル化状態は細胞種ごとに異なっており、メチル化・脱メチル化の両方が細胞の分化過程で起こることにより細胞固有のメチル化パターンが獲得される。このDNAメチル化パターンが細胞特異的に発現する遺伝子セットを規定していると考えられる。

 胎盤は哺乳類の発生に重要であり、その主要な部分は発生の最も初期に胚体細胞と分かれる栄養膜細胞により形成される。栄養膜細胞が持つゲノムDNAメチル化パターンもまた分化に伴い変化することが示されているので、胎盤発生においてもメチル化制御が重要であると考えられる。DNAメチル基転移酵素1(DNA methyltransferasel, Dnmt1)の欠損は胚体および胚性幹細胞(ES細胞)でのDNAメチル化量の低下を起こし、妊娠中期で胚発生は停止する。Dnmt1を欠損したES細胞は増殖することができるが、分化誘導により死滅することから、Dnmt1は胚体細胞の分化過程・あるいは分化細胞の生存に必要であると考えられている。では、胚体細胞とは異なる系列の栄養膜細胞の増殖・分化においてもDnmt1はゲノムDNAのメチル化制御に必要とされるのだろうか?第1章では、胎盤発生過程におけるDnmt1によるメチル化修飾の関与を調べるため、Dnmt1変異胚の胎盤発生を調べた。

 マウスでは、体細胞核移植クローン胚のうち、分娩時まで生き残る胚には必ず海綿状栄養膜細胞とグリコーゲン細胞の増加を主とする胎盤異常が見られる。体細胞核移植胚は受精卵と異なる発現遺伝子セットを持つ体細胞核から発生が始まるため、発現遺伝子セットの大幅な再編成、すなわち、ゲノムDNAメチル化パターンの再構築が必要である。しかし、出産に至ったクローン胎仔においても、その胎盤組織におけるメチル化パターンの異常が既に発見されており、栄養膜細胞の発生過程で発現遺伝子セット形成に異常が起こっている可能性が示唆される。第2章ではクローン胚の栄養膜細胞における発現遺伝子セットの乱れを解析するため、クローン胚由来の栄養膜幹細胞株を樹立し、分化に伴う各種栄養膜細胞マーカー遺伝子の発現様式およびDNAチップによる網羅的な遺伝子発現の解析を行った。

第1章Dnmt1低活性型マウスの胎盤発生

 Dnmt1の低活性型アレル(Dnmt1n)をホモに持つマウス胚(Dnmt1n/n)は妊娠8日目より成長遅延を起こし11日前後に胚性致死となる。そこでDnmt1n/nマウスの妊娠8-10日目の胎盤組織を観察したところ、胎盤組織の基本構造は形成されていた。in situハイブリダイゼーション法によりDnmt1n/nマウス胎盤組織の遺伝子発現解析を行った結果、3種の栄養膜細胞サブタイプ(栄養膜巨細胞、海綿状栄養膜細胞、迷路部栄養膜細胞)のマーカー遺伝子であるPlacental lactogen-1(Pl-1),trophoblastspecific protein (Tpbp),transcription factor EB(Tfeb)等の遺伝子発現部位及び発現時期は正常だった。さらにBrdUの取り込みとTUNEL法により胎盤組織における細胞増殖・細胞死を調べたが、正常胎盤と比較して異常は認められなかった。以上の様に、胎盤を構成する栄養膜細胞の分化および分化後の細胞の増殖・生存にはDnmt1の活性低下は大きな影響を与えていなかった。言い換えると、Dnmt1n/nマウスの栄養膜細胞では、増殖分化を司るゲノム領域のメチル化パターンは保たれている可能性が考えられる。そこで、Dnmt1の活性低下により栄養膜細胞のゲノムDNAメチル化パターンが・実際にはどの程度変化しているのかを解析するため、Dnmt1n/n胚盤胞から栄養膜細胞の分化過程をin vitroで再現できる栄養膜幹細胞(TS細胞)株の樹立を試みた。初代培養により、Dnmt1n/n胚からも、野生型胚からと同様の形態を持つTS細胞様のコロニーが僅かに得られた。ところが、Dnmt1n/nTS様細胞は増殖を続けられず、長期にわたる培養は不可能だった。以上より、胎盤発生でも幹細胞の増殖においてDnmt1のメチル化修飾が重要な役割を果たしていることが示された。これまでの報告とあわせると、Dnmt1の重要性は細胞系列・ステージ特異的に変化していることがわかった。

第2章体細胞核移植クローン胚の胎盤発生

 胎盤の発生にはメチル化修飾が重要であることが第1章で示されたため、クローン胚で発見されている様な胎盤組織のメチル化異常が胎盤形成異常の原因となることが示唆される。クローン胎盤形成時の栄養膜細胞における遺伝子発現にどのような異常が起こっているかを調べるために、クローン胚からのTS細胞株の分離を試みた。卵丘細胞核を未受精卵に移植して得られた胚のうち、胚盤胞様に発生した77個のクローン胚をTS細胞樹立に用いた。クローン胚盤胞からは、自然交配により得られた胚盤胞を用いた場合とほぼ同じ割合でTS細胞様コロニーが見いだされた。これらの一部を継代してTS様細胞株(ntTS細胞)として樹立したものを、以下の実験に用いた。

 まず、3つのntTS細胞株(M9#3,M12#3,M12#12)を用いて、栄養膜細胞分化マーカー遺伝子の発現を指標にin vitroでの分化能を調べた。正常TS細胞では一過的にMash2の発現が上昇するが、M12#12株では分化8日目まで高いレベルでの発現が維持されていることがわかった。Mash2は胎盤の海綿状栄養膜細胞分化と増殖に重要であることが知られているので、クローン胎盤における海綿状栄養膜細胞の過形成との関連が示唆される。胎盤の胎児血管網の形成に必須であるGcm1の発現も通常分化2日目にピークがあるが、M9#3およびM12#3株ではそのピークが2日遅れることから、これらの由来する胚は正常に発生できなかった可能性が高い。

 次に、多数の遺伝子発現を一挙に解析するDNAチップ法を用いて、ntTS細胞における約12,000遺伝子/ESTの発現を対照細胞株(BDF1A#1)と比較した。その結果、約1,500もの遺伝子の発現量変化が観察された。興味深いことに、ntTS細胞株に共通してインプリント遺伝子Igf2rの発現低下(対照細胞株の約1/10以下の発現量)が観察された。さらに複数のntTS細胞株に共通して、Tssc3/Ipl、Meg1/Grb10、Cdkn1c/p57kip2など他のインプリント遺伝子の発現低下が観察された。DNAチップ解析の結果をさらに多くの細胞株で確認するため、2つのntTS細胞株(M12#11,M14#5)と対照株(BDF1D#2B,BDF1C#3)を加えた全9細胞株(5ntTS細胞株を含む)を用い、発現低下の起こったインプリント遺伝子のノーザン法による発現解析を行った。発現の低下はIgf2rでは全てのntTS細胞株に共通で、またTssc3/Ip1の場合はM12#3を除く4ntTS細胞株に共通に観察された。これらの発現抑制された遺伝子は、分化誘導後のntTS細胞でも発現していなかった。以上より、重篤な遺伝子発現異常がクローン胚の栄養膜細胞で起こっていることが明らかになった。

考察

 従来、胎盤のゲノムは他の臓器に較べ低メチル化状態にあることからメチル化修飾は胎盤発生には重要でないとの認識があった。しかし本研究では、栄養膜幹細胞の増殖にDnmt1が重要であることを示した。すなわち、栄養膜幹細胞の増殖もまた、DNAメチル化により制御されるのである。栄養膜幹細胞の増殖にはDnmt1を必要とする。一方、Dnmt1低活性型マウスの胎盤の基本構造や特異的遺伝子発現あるいは細胞増殖および細胞死には異常が見られないことから、栄養膜細胞の分化や、分化後の生存に必要な領域のメチル化にDnmt1はほとんど関わっていないと考えられる。これはES細胞の場合と全く逆のパターンであり、個体発生において最初に分かれる2つの細胞系列が全く異なるエピジェネティクス制御を行っていることを示し興味深い。本研究で、胎盤発生にメチル化が必須であること、メチル化の重要性はゲノムの全メチル化量によらないことが証明されたが、これは栄養膜幹細胞が培養条件下で分離可能であったことにより、初めて明らかになった。また、ntTS細胞の樹立とその解析によって、体細胞核移植クローン胚の胎盤異常の原因を説明できる様な発現遺伝子セットの乱れがあることが証明できた。これらのntTS細胞は、今後のDNAメチル化パターンの異常解析にも非常に有用である。

 以上、Dnmt1低活性型マウス胚と体細胞核移植クローンマウス胚からのTS細胞の樹立法を用いた研究により、胎盤発生のDNAメチル化によるエピジェネティクス制御系の重要性を明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

 エピジェネティクスとは「細胞世代を超えて、DNAの塩基配列を変えることなく継承される遺伝子機能について研究する学問分野」を意味する。DNAメチル化は、エピジェネティクス機構の中心で遺伝子のサイレンシングに関与し、調節領域がメチル化されていると、転写因子の有無にかかわらず遺伝子発現のスイッチは切れた状態に保たれる。哺乳類の発生に重要な胎盤の主要な部分は、発生開始後、最も初期に胚体細胞と分かれる栄養膜細胞により形成される。本研究は、マウスを用いて通常の発生と体細胞核移植による個体発生について、特に胎盤栄養膜細胞に焦点をあて、エピジェネティックスの観点から解析した結果を論じたもので2章より構成されており、要約すれば以下のようになる。

 第1章では、まず、DNAメチル基転移酵素1(Dnmt1)変異マウスの胎盤の形態学的・生化学的解析が行われた。Dnmt1の低活性型アリル(Dnmt1n)をホモに持つマウス胚(Dnmt1n/n)は妊娠8日目より成長遅延を起こし11日前後に胚性致死となる。Dnmt1n/nマウスの妊娠8-10日目の胎盤組織を観察したところ、胎盤組織の基本構造は形成されていた。In situハイブリダイゼーション法によりDnmt1n/nマウス胎盤組織の遺伝子発現解析を行った結果、3種の栄養膜細胞サブタイプ(栄養膜巨細胞、海綿状栄養膜細胞、迷路部栄養膜細胞)のマーカー遺伝子であるplacental lactogen -1(Pl-1),trophoblast specific protein (Tpbp),transcription factor EB(Tfeb)等の遺伝子発現部位及び発現時期に異常は無かった。さらにBrdUの取り込みとTUNEL法により胎盤組織における細胞増殖・細胞死を調べたが、正常胎盤と比較して異常は認められなかった。以上の様に、胎盤を構成する栄養膜細胞の分化および分化後の細胞の増殖・生存にはDnmt1の活性低下は大きな影響はなかった。Dnmt1n/nマクスの栄養膜細胞では、増殖分化を司るゲノム領域のメチル化パターンは保たれている可能性が考えられた。そこで、Dnmt1の活性低下により栄養膜細胞のゲノムDNAメチル化パターンが、実際にはどの程度変化しているのかを解析するため、Dnmt1n/n胚盤胞から栄養膜細胞の分化過程をin vitroで再現できる栄養膜幹細胞(TS細胞)株の樹立を試みた。初代培養により、Dnmt1n/n胚からも、野生型胚からと同様の形態を持つTS細胞様のコロニーが僅かに得られた。ところが、Dnmt1n/nTS様細胞は増殖を続けられず、長期にわたる培養は不可能だった。以上より、胎盤発生でも幹細胞の増殖においてDnmt1によるメチル化修飾が重要な役割を果たしていることが示された。これらより、Dnmt1の重要性は細胞系列・ステージ特異的に変化していることがわかった。

 第2章では、体細胞核移植により作出されたクローン胚からのTS細胞株の分離・樹立が行われた。卵丘細胞の核を未受精卵に移植して得られた胚のうち、胚盤胞様に発生した77個のクローン胚をTS細胞樹立に用いた。クローン胚盤胞からは、自然交配により得られた胚盤胞を用いた場合とほぼ同じ割合でTS細胞様コロニーが見いだされた。これらの一部を継代して樹立したTS細胞株(ntTS細胞;M9#3,M12#3,M12#12)を用いて、栄養膜細胞分化マーカー遺伝子の発現を指標にin vitroでの分化能を調べた。正常TS細胞では、分化誘導後一過的にMash2の発現が上昇するが、M12#12株では分化8日目まで高いレベルでの発現が維持されていることがわかった。Mash2は胎盤の海綿状栄養膜細胞分化と増殖に重要であることが知られているので、クローン胎盤における海綿状栄養膜細胞の過形成との関連が示唆される。胎盤の胎仔血管網の形成に必須であるGcm1の発現も通常分化2日目にピークがあるが、M9#3およびM12#3株ではそのピークが2日遅れることから、これらの由来する胚は正常に発生できなかった可能性が高い。最後に、多数の遺伝子発現を一挙に解析するDNAチップ法を用いて、ntTS細胞における遺伝子発現が解析され、ntTS細胞株に共通してインプリント遺伝子Igf2rの発現低下(対照細胞株の約1/10以下の発現量)がみられることが明らかになった。また、複数のntTS細胞株に共通して、Tssc3/Ipl 、Meg1/Grb10、Cdkn1c/p57kip2など他のインプリント遺伝子の発現低下も見られた。これら遺伝子発現の変化については、ノーザン法解析でも確認された。

 以上より、本研究では、Dnmt1低活性型マウス胚と体細胞核移植クローンマウス胚由来のTS細胞の樹立を行い、DNAメチル化による胎盤発生のエピジェネティクス制御系の重要性を明らかにした。これらの発見と概念の提示は、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論分が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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