学位論文要旨



No 118233
著者(漢字) 佐野,忠士
著者(英字)
著者(カナ) サノ,タダシ
標題(和) 犬における完全静脈麻酔法確立のための基礎的研究
標題(洋)
報告番号 118233
報告番号 甲18233
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2622号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 助教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 西村,亮平
内容要旨 要旨を表示する

 全身麻酔に求められる必要条件としては、「意識消失」、「鎮痛」、「筋弛緩」および「有害反射抑制」の4つが挙げられるが、これを単一の麻酔薬で満たそうとすると非常に深い麻酔が必要となり、低血圧など様々な問題を引き起こす。このため、現在では各必要条件に対し各種薬剤を比較的低用量で組み合わせて麻酔状態を作り出す「バランス麻酔」の概念が主流となっている。一方、従来麻酔薬の中心として吸入麻酔薬が用いられてきたが、生体に及ぼす様々な影響の他、大気に放出された後の影響も無視できないことが明らかとなってきた。近年作用発現が迅速で、蓄積性が無く持続投与速度の調節により麻酔深度を容易に変えられる静脈麻酔薬プロポフォールが導入され、これに鎮痛薬や筋弛緩薬を組み合わせて薬物の経静脈投与のみで麻酔状態を得る、完全静脈麻酔法(TIVA;Total Intravenous Anesthesia)が人医領域では広く行われるようになっている。しかし獣医学領域においてはTIVAはまだあまり普及していない。その理由の1つには、使用される静脈薬に関する薬物動態学および薬力学について不明な点が多く、更に使用薬物間での相互作用に関する知識がほとんどないためである。そこで本研究では犬におけるTIVA確立の為に、TIVAにおいて催眠要素達成の為に,全身麻酔導入および維持薬として用いられるプロポフォール(Prop)および鎮痛要素達成の為に用いられるオピオイド鎮痛薬のフェンタニル(Fent)の薬物動態および薬力学的な作用の特徴を、実験犬および臨床例を用いて明らかにする事を目的とした。まず健康な実験用ビーグル犬を用いて、麻酔導入に必要なProp量を求め、その時の麻酔持続時間および副作用についても検討した。更に麻酔維持に必要な血漿中濃度を求める基礎として、抜管時血漿中Prop濃度測定も行った。次に、臨床例において同様の評価を行い、臨床応用を行う上での問題ついて検討した。その結果、前投与薬を用いない場合、実験犬および臨床例のいずれにおいても約6.0mg/kgで円滑な麻酔導入を行う事が可能であった。一方、各種前投与薬の使用により導入に必要なProp量を30〜60%減少させることができた。導入前の動物の取り扱いが容易となり、麻酔導入もより円滑となり、更に麻酔維持に必要な血漿中Prop濃度も低下し、麻酔時間も延長したがその程度は用いた麻酔前投与薬の種類によった。様々な疾患を有する臨床例への使用においては、動物の状態に合わせた前投与薬の適切な選択が重要で、導入時のProp過量投与にも注意する必要があることが示された。一方、臨床例のメデトミジン前投与群を除いたいずれの群においても、Prop投与により高率に無呼吸の発生が認められた。これらは全て気管内挿管および人工換気によって対処し、これによる臨床的に明らかな問題は生じなかった。その他生じた徐脈、低血圧、頻脈などの副作用も軽度であり、臨床的に大きな問題を引き起こすことはなく、犬における麻酔導入薬としてのPropの臨床的有用性が示された。

 次に犬におけるPropの薬物動態を明らかにするために、Propをボーラス投与した場合と、その後一定速度で4時間まで持続投与した場合の血漿中濃度の変化について検討し、併せて循環呼吸器系および覚醒時間等の薬力学的な測定も行った。ボーラス投与後の血漿中濃度の変化は3コンパートメントモデルに当てはまり、分布相半減期が短く、消失相半減期がやや長い事が明らかとなった。一方、持続投与群では投与時間にかかわらず動物は横臥し自発運動のない安定した麻酔状態が維持されていた。その間の血漿中濃度はわずかに上昇する傾向が認められたが、検討した範囲では投与方法や投与持続時間には影響を受けない大きな分布容積、高いクリアランスを有し、持続投与終了後の血漿中薬物濃度はbolus群と同様速やかに低下した。また麻酔状態からの覚醒も投与方法および投与持続時間に関係なく速やかであったが、抜管時の血漿中Prop濃度は投与持続時間が延びると上昇する傾向を示した。一方、Prop投与による循環呼吸器系および体温などの生理機能へ及ぼす影響は投与方法、投与持続時間に依存せず比較的軽度で、臨床的には大きな問題とならない程度であり、更に投与終了後の麻酔状態からの回復に伴って麻酔前の状態に回復した。これらの結果から、犬においてProp持続投与によって安定した麻酔状態を得ることができ、少なくとも4時間までであれば薬物動態に大きな影響はなく、覚醒も速やかで安全性にも大きな問題が無いことが明らかとなった。

 次にTIVAにおいて鎮痛要素を担うFentについて、Propと同様の観点から犬におけるFentの薬物動態の特徴を明らかにすると同時に、循環呼吸器系および体温など生理機能に及ぼす影響について調べた。ボーラス投与後の血漿中Fent濃度の変化は2コンパートメントモデルに当てはまり、投与後速やかな血漿中濃度の低下が認められた。持続投与を行った群では、いずれも血漿中Fent濃度は比較的安定しており10μg/kgボーラス投与後10μg/kg/hrの速度での持続投与により、人および犬において有効な鎮痛効果を示すと報告されている血漿中濃度範囲の値を維持することが可能であった。従って、この投与量・投与方法が犬におけるFent持続投与法の一つの基準になると考えられた。また大きな分布容積を有し、これは投与方法および投与持続時間による影響は軽度であったが、比較的大きな個体差が存在し、投与方法による影響を受けるクリアランスは持続投与および投与量の増加により減少する傾向を示した。また投与終了後の血漿中濃度の低下も投与持続時間により遅延する傾向を示した。一方、心拍数は比較的大きく低下し、持続投与中はこれが継続した。また体温も持続投与により徐々に低下した。いずれの変化も臨床的に問題を引き起こす程度では無かったが、実際の臨床例へのFent投与および他の薬物との併用時にはこれらに対する注意深い観察および適切な処置が行えるようにしておく必要があると考えられた。

 最後にProp-Fentを併用して持続投与した場合の血漿中濃度の解析を行い、薬物動態パラメーターや生理機能に両剤の併用が及ぼす相互作用について検討した。更にProp-Fent持続投与によるTIVAの実際の手術症例への応用を行った。その結果、Prop-Fentを併用して持続投与することにより血漿中Prop濃度はやや上昇する傾向を示したが有意な変化ではなく、薬物動態パラメーターも有意な変化は受けなかった。一方、血漿中Fent濃度はFent単独持続投与時と比較して有意に高い値で維持され、クリアランスも低下した。またProp-Fent持続投与併用時には麻酔状態からの覚醒にも長時間を要しており、より適する血漿中Fent濃度維持および良好な麻酔状態からの覚醒を得るために、人のTCIを適用した投与方法による調節を行う必要があると考えられた。また心拍数減少、血圧低下、呼吸抑制および体温低下がProp単独あるいはFent単独使用時より強く現れることが明らかとなり、臨床応用を行う場合にはこれらの点に注意する必要があると考えられた。一方、TIVAを適用した手術症例には、様々な全身状態の動物が含まれ、手術内容も様々であったが、Prop6.0mg/kgボーラス投与で麻酔導入した後Prop0.4mg/kg/minおよびFent10μg/kgボーラス投与+10μg/kg/hrの併用によって安定した外科手術を行うのに十分な麻酔状態を継続して得る事が可能であった。全ての症例で無呼吸の発生が認められたが、気管内挿管および100%酸素吸入による調節呼吸により臨床的に大きな問題を引き起こすことなく、また生じた徐脈などの他の副作用の程度も軽度で、アトロピン投与もしくは無処置で改善しProp-Fent持続投与併用によるTIVAは臨床的に有用で安全である事が示された。麻酔からの覚醒は個体差が大きく、今後は動物の状態や手術内容に合わせて薬物投与量、投与方法および併用薬物を選択する必要があり、更なる検討を要すると考えられた。

 以上本研究では、TIVAにおける催眠要素達成の為のPropの全身麻酔導入薬/維持麻酔薬としての臨床的有用性、鎮痛要素達成のためのFentの臨床的有用性、および様々な手術症例に対するProp-Fent持続投与併用によるTIVAの臨床的有用性および安全性を示す事ができた。本研究の結果を基礎として、今後獣医学領域においてTIVAをより良い麻酔法として臨床応用していく為には、個々の動物の状態に合わせた薬物選択および投与量調節、速やかな麻酔状態からの回復を確実にするための、より最適な投与方法に関する更なる研究が必要であり、麻酔深度や有効な鎮痛状態など、各薬剤の効果判定を客観的にそしてリアルタイムに行うことのできる評価法およびモニター類の開発なども期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 従来、小動物領域では人と同様、吸入麻酔薬による麻酔法が最も広く用いられてきたが、設備、器具による使用場所の制約、あるいは麻酔ガスによる汚染といった問題も提起されてきた。

 近年、作用発現が迅速で蓄積性が無く、投与速度調節により麻酔深度変更可能な静脈麻酔薬プロポフォールが導入され、これに鎮痛薬や筋弛緩薬を組み合わせた薬物の経静脈投与のみで麻酔状態を得る完全静脈麻酔法(TIVA)が人医領域では広く行われるようになた。しかし静脈麻酔薬の薬物動態・薬力学について不明な点が多く、薬物間の相互作用に関する動物でのデータがほとんどないため獣医学領域においてはあまり普及していない。

 そこで本研究では、犬におけるTIVA確立を目的とし、TIVAにおいて催眠要素達成に用いられるプロポフォール(Prop)および鎮痛要素達成に用いられるフェンタニル(Fent)の薬物動態・薬力学的作用の特徴を検討し、あわせて臨床応用の可能性を検討した。

 まず実験犬および臨床例における導入時の標準Prop量を求め、その時の麻酔持続時間と副作用について検討した。その結果、前投与薬を用いない実験犬および臨床例の導入時標準Prop量は約6.0mg/kgであった。前投与薬を用いると、Prop用量は30〜60%減少し、麻酔時間は延長した。また、抜管時(麻酔覚醒時)のProp濃度も前投与薬の使用で低下した。臨床例では高率に無呼吸が発生したが、一般的な気管内挿管、人工換気で対処し問題は生じなかった。

 次に犬におけるPropの薬物動態を明らかにするために、Propボーラス投与(単回投与: bolus)と、その後持続投与した場合の血漿中濃度変化について検討し、生理機能の変化も記録した。bolus後のPrep血中濃度推移は3コンパートメントモデルに当てはまり、分布相半減期が短く、消失相半減期がやや長いことが認められた。持続投与群ではいずれも安定した麻酔状態が得られ、持続投与中血漿中濃度は軽度上昇したが、投与持続時間には影響を受けない大きな分布容積、高いクリアランスを有し投与終了後の濃度は速やかに低下した。また覚醒も持続時間に関係なく速やかであったが、抜管時濃度は投与時間により変化した。麻酔時の生理機能の変化も投与持続時間に依存せず比較的軽度であり、安定した麻酔状態を得ることができた。

 次に鎮痛要素を担うFentについて同様に薬物動態と生理機能への影響について調べた。bolus後の濃度推移は2コンパートメントモデルに当てはまった。持続投与ではいずれも血漿中濃度は比較的安定しており、従来の報告と同様10μg/kg bolus+10μg/kg/hr持続投与で有効な鎮痛効果を示すことが示され、これが犬におけるFent持続投与法の一つの基準と考えられた。また分布容積は大きいが個体差があり、クリアランスも投与量の増加によって低下する傾向にあった。投与終了後の濃度低下も持続時間により遅延する傾向を示した。心拍数は比較的大きく低下し、それが持続投与中は継続し、体温も持続投与により低下した。これらの変化は臨床的に正常範囲内であったが、臨床例への応用、他の薬物との併用には注意が必要と考えられた。

 最後にProp-Fent併用持続投与が各薬剤の薬物動態や生理機能に及ぼす相互作用について検討し、さらにProp-FentによるTIVAを実際の手術症例へも適用した。その結果、Prop濃度は単独投与時よりもやや高値を示したが有意ではなく、薬物動態にも有意な変化は生じなかった。一方、Fent濃度は単独投与時より有意に高値で維持され、クリアランスが低下した。併用時には麻酔からの覚醒に長時間を要し、より最適な血漿中薬物濃度維持および良好な覚醒を得るための投与法の調節が必要と考えられた。また、血圧低下、呼吸抑制、体温低下等の生理機能の変化は増強される傾向にあり、臨床応用の際には注意を要すると考えられた。一方、TIVAを適用した症例には様々な全身状態、手術内容が含まれていたが、Prop; 6.0mg/kg bolus +0.4mg/kg/minとFent; 10μg/kg bolus +10μg/kg/hrで安定した麻酔状態を得ることができた。全症例で導入時の無呼吸が生じたが挿管と人工換気により特に問題は生じず、他の副作用も軽度で、Prop-Fent併用のTIVAは臨床的に有用で安全であることが示された。しかし覚醒、血漿中薬物濃度には大きな個体差が認められ、動物の状態や手術内容に合わせた薬物投与量・投与法および併用薬物の選択などの検討が必要と考えられた。

 以上本研究はPropとFentによるTIVA確立のための薬物動態・薬力学的基礎を確立し、あわせてTIVAの臨床的有用性、安全性を示したもので、学術上、応用上貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の博士論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク