学位論文要旨



No 118242
著者(漢字) 矢澤,光弘
著者(英字)
著者(カナ) ヤザワ,ミツヒロ
標題(和) 犬の腫瘍におけるテロメア・テロメラーゼに関する研究
標題(洋) Studies on telomere and telomerase in canine tumors
報告番号 118242
報告番号 甲18242
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2631号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 大野,耕一
内容要旨 要旨を表示する

 近年、小動物臨床における腫瘍症例の増加が顕著になってきており、その診断・治療に関して多大な努力が払われているが、依然として予後不良の場合が多く、臨床上大きな問題となっている。特に犬においては、乳腺腫瘍、リンパ腫、白血病、骨肉腫、肥満細胞腫など、多彩な腫瘍の発生が観察され、これらの腫瘍は臨床的および病理学的に人に発生する腫瘍と極めて類似している。腫瘍発生に関する分子機構の研究は、今後の小動物臨床における新規診断法・治療法の開発において極めて重要であると考えられる。

 腫瘍の持つ異常な性状として、腫瘍細胞が組織中に無秩序に増殖し、その組織を破壊するという特徴がある。正常な細胞が腫瘍化する過程では、複数の遺伝子にわたる変異および発現異常が認められ、それらが協同して腫瘍化に関与することが知られている(多段階発癌)。ras遺伝子やmyc遺伝子などの細胞周期の進行を促進させる癌遺伝子の活性化のほか、p53遺伝子やRb遺伝子などの細胞周期の停止やアポトーシスの誘導を行う癌抑制遺伝子の不活化が、この無秩序な増殖に重要であることが示されている。一方、腫瘍細胞の持つもう1つの性状として、細胞の不死化があげられる。腫瘍細胞が無制限に増殖する(不死化する)上で注目されているのがテロメアとその維持に関わるテロメラーゼと呼ばれる酵素である。

 小動物における腫瘍発生の分子機構については、これまで主に癌遺伝子や癌抑制遺伝子の異常について研究がなされてきたが、細胞の不死化に関する研究はほとんどなされていない。そこで本研究では、犬の腫瘍において、細胞の不死化をもたらす上で重要なテロメアおよびテロメラーゼに関して一連の研究を行った。

第1章 犬の乳腺腫瘍におけるテロメア長

 テロメアは直鎖状染色体の末端に存在し、哺乳類ではTTAGGGのDNA繰り返し配列と特異的結合蛋白から構成されており、染色体同士の融合や組み換えなどを防ぎ、染色体が安定に存在するために必須な構造である。DNAの複製の際には、まずRNAプライマーが合成され、続いてDNAポリメラーゼによってDNAが合成される。DNAの合成は一定方向にしか起こらないため、端部ではDNAは不完全にしか複製されない。このため末端に存在するテロメアは細胞分裂を繰り返す毎に短くなる。正常な細胞ではテロメア長がモニターされており、テロメアが短くなった細胞では細胞周期の進行が停止して老化した状態となることが知られている。

 はじめに犬の腫瘍におけるテロメアの維持状態を把握するため、犬の乳腺腫瘍および正常乳腺におけるテロメア長を測定した。テロメア長の測定のため、ゲノミックDNAをテロメア配列を認識しない制限酵素であるHinf IおよびRsa Iにより切断し、(TTAGG)4をプローブとして用いたサザン法を行った。テロメアによるシグナルの最も強い部分をテロメア長とした。

 12例の正常乳腺組織におけるテロメア長は平均18.Okbp(15.4kbp〜20.6kbp)であり、加齢とともに短くなっていた。27例の乳腺腫瘍組織でのテロメア長は平均14.5kbp(11.0kbp〜21.6kbp)で、加齢に伴うテロメア長の短縮は認められず、その長さは正常とほぼ同様かやや短い傾向にあった。腫瘍細胞は非常に多くの分裂を繰り返していると考えられるが、それにもかかわらず、テロメア長が維持されていることから、DNA複製毎のテロメア短縮が何らかの機構によって補完されているものと考えられた。

第2章 犬の腫瘍におけるテロメラーゼ活性

 テロメアの伸長反応を行うものとして近年注目されているのがテロメラーゼと呼ばれる酵素である。この酵素は、テロメア配列の鋳型となるRNAを用い、テロメラーゼ触媒サブユニット(telomerase reverse transcriptase:TERT)をはじめとする複数の蛋白から構成される一種の逆転写酵素である。テロメラーゼはテロメア配列の末端に結合し、テロメア繰り返し配列TTAGGGを付加する。ここでは犬の腫瘍におけるテロメアの維持機構について検討するため、乳腺腫瘍や皮膚腫瘍などの腫瘍組織中のテロメラーゼ活性を測定した。組織の可溶性蛋白抽出液中に含まれるテロメラーゼ活性を、基質となるオリゴヌクレオチドに対するテロメア配列の伸長反応の生成物をPCRによって増幅することによって検出した。

 犬の乳腺腫瘍や皮膚腫瘍など計53例について検討したところ、45例(95%)の腫瘍でテロメラーゼ活性(3〜924U/2μg protein)が検出されたが、正常な乳腺や皮膚組織ではテロメラーゼ活性は検出限界以下または低値であり、犬の様々な腫瘍においてテロメラーゼがテロメア長の維持に関与していることが示唆された。また、特に乳腺腫瘍では、乳腺癌や悪性混合腫などの悪性腫瘍ばかりではなく、乳腺腫や良性混合腫などの良性腫瘍においてもほぼ同レベルのテロメラーゼ活性が認められたことから、テロメラーゼは腫瘍発生の比較的早い段階で活性化されるものと考えられた。

第3章 犬のテロメラーゼ触媒サブユニット(TERT)遺伝子のクローニングとその正常および腫瘍組織における発現

 一方、テロメラーゼ活性の他、テロメラーゼ構成分子の発現を検討することによって組織および細胞レベルにおけるテロメラーゼの状態を把握することができ、臨床上有用な情報を得ることができるものと考えられた。そこで、テロメラーゼ触媒サブユニット(TERT)遺伝子の部分クローニングを行い、Motif2を含む237bpの犬TERT遺伝子の塩基配列を決定した。得られた遺伝子断片がコードするアミノ酸配列は、ヒトおよびマウスのTERT遺伝子がコードするアミノ酸配列とそれぞれ77.2%および62.0%の相同性を示した。得られた塩基配列をもとに作成したプライマーを用い、培養細胞中でのTERT mRNAの発現をRT-PCR法によって検討したところ、TERT遺伝子は、テロメラーゼ活性が検出されない正常線維芽細胞では発現しておらず、高いテロメラーゼ活性が認められる腫瘍細胞株において強く発現しており、TERT遺伝子の発現がテロメラーゼ活性を規定していることが示唆された。

 また、犬の様々な組織でのテロメラーゼの発現を検討するため、正常組織および腫瘍組織よりRNAを抽出し、TERTmRNAの発現をRT-PCR法によって検討した。TERTmRNAは、ほとんどの腫瘍組織で検出されたが、正常組織においてもリンパ節や胸腺などのリンパ系組織、卵巣、および肝臓などにおいて比較的強い発現が認められた。このTERT遺伝子の発現解析は、小動物臨床において新しい腫瘍診断法の開発に有用と考えられた。また今後の研究においては、細胞レベルでのTERT発現解析が重要と考えられた。本研究の結果、犬の腫瘍組織および正常組織におけるテロメア長、テロメラーゼ活性、およびTERT遺伝子の発現が明らかとなった。これらの研究成果は、犬の腫瘍発生における細胞不死化機構の解釈にとって極めて明確な知見を提供したものであると考えられる。また、本研究成果を応用することによって、テロメア・テロメラーゼ系を用いた新しい腫瘍診断法を確立することが可能となったばかりではなく、テロメラーゼをターゲットとした新規抗癌治療の開発が現実的になったものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 腫瘍の持つ異常な性状として、腫瘍細胞が組織中に無秩序に増殖し、その組織を破壊するという特徴がある。正常な細胞が腫瘍化する過程では、複数の遺伝子にわたる変異および発現異常が認められ、それらが協同して腫瘍化に関与することが知られている。ras遺伝子やmyc遺伝子などの癌遺伝子の活性化およびp53遺伝子やrb遺伝子などの癌抑制遺伝子の不活化が、この無秩序な増殖に重要であることが示されている。一方、腫瘍細胞の持つもう1つの性状として、細胞の不死化があげられる。腫瘍細胞が不死化する上で注目されているのがテロメアとその維持に関わるテロメラーゼと呼ばれる酵素である。

 小動物における細胞の不死化に関する研究はほとんどなされていない。そこで本研究では、犬の腫瘍において、細胞の不死化をもたらす上で重要なテロメアおよびテロメラーゼに関して一連の研究を行った。

第1章 犬の乳腺腫瘍におけるテロメア長

 テロメアは直鎖状染色体の末端に存在し、哺乳類ではTTAGGGのDNA繰り返し配列と特異的結合蛋白から構成されており、染色体同士の融合や組み換えなどを防ぎ、染色体が安定に存在するために必須な構造である。正常体細胞ではDNAの複製の際、その複製様式により、端部は不完全にしか合成されない。このため染色体末端に存在するテロメアは細胞分裂を繰り返す毎に短くなる。はじめに犬の腫瘍におけるテロメアの維持状態を把握するため、犬の乳腺腫瘍および正常乳腺におけるテロメア長をサザン法により測定した。

 12例の正常乳腺組織におけるテロメア長は平均18.Okbp(15.4kbp.20.6kbp)であり、加齢とともに短くなっていた。27例の乳腺腫瘍組織でのテロメア長は平均14.5(11.Okbp.21.6kbp)で、加齢に伴うテロメア長の短縮は認められず、その長さは正常とほぼ同様かやや短い傾向にあった。腫瘍細胞は非常に多くの分裂を繰り返していると考えられるが、それにもかかわらず、テロメア長が維持されていることから、DNA複製毎のテロメア短縮が何らかの機構によって補完されているものと考えられた。

第2章犬の腫瘍におけるテロメラーゼ活性

 テロメアの伸長反応を行うものとして近年注目されているのがテロメラーゼと呼ばれる酵素である。テロメラーゼはテロメア配列の末端に結合し、テロメア繰り返し配列TTAGGGを付加する。ここでは犬の腫瘍におけるテロメアの維持機構について検討するため、乳腺腫瘍や皮膚腫瘍などの腫瘍組織中のテロメラーゼ活性を測定した。

 犬の乳腺腫瘍や皮膚腫瘍など計53例について検討したところ、45例(95%)の腫瘍でテロメラーゼ活性(3.924U/2 gprotein)が検出されたが、正常な乳腺や皮膚組織ではテロメラーゼ活性は検出限界以下または低値であり、犬の様々な腫瘍においてテロメラーゼがテロメア長の維持に関与していることが示唆された。

第3章 犬のテロメラーゼ触媒サブユニット(TERT)遺伝子のクローニングとその正常および腫瘍組織における発現

 一方、テロメラーゼ活性の他、テロメラーゼ構成分子の発現を検討することによって組織および細胞レベルにおけるテロメラーゼの状態を把握することができる。そこで、テロメラーゼ触媒サブユニット(TERT)遺伝子の部分クローニングを行い、Motif2を含む237bpの犬TERT遺伝子の塩基配列を決定した。得られた塩基配列をもとに作成したプライマーを用い、培養細胞中でのTERTmRNAの発現をRT-PCR法によって検討したところ、TERT遺伝子は、テロメラーゼ活性が検出されない正常線維芽細胞では発現しておらず、高いテロメラーゼ活性が認められる腫瘍細胞株において強く発現しており、TERT遺伝子の発現がテロメラーゼ活性を規定していることが示唆された。

 また、犬の様々な組織でのテロメラーゼの発現を検討するため、正常組織および腫瘍組織よりRNAを抽出し、TERTmRNAの発現を同様に検討した。TERTmRNAは、ほとんどの腫瘍組織で検出されたが、正常組織においてもリンパ節や胸腺などのリンパ系組織、卵巣、および肝臓などにおいて比較的強い発現が認められた。このTERT遺伝子の発現解析は、小動物臨床において新しい腫瘍診断法の開発に有用と考えられた。また今後の研究においては、細胞レベルでのTERT発現解析が重要と考えられた。

 本研究の結果、犬の腫瘍組織および正常組織におけるテロメア長、テロメラーゼ活性、およびTERT遺伝子の発現が明らかとなった。これらの研究成果は、犬の腫瘍発生における細胞不死化機構の解釈にとって有意義であると同時に、テロメア・テロメラーゼ系を用いた新しい腫瘍診断法を確立すること、テロメラーゼをターゲットとした新規抗癌治療の開発が可能となったものと考えられ、審査委員は申請者を博士(獣医学)の学位を受けるに必要な学識を有する者と認め、合格と判定した。

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