学位論文要旨



No 118289
著者(漢字) 中冨,浩文
著者(英字)
著者(カナ) ナカトミ,ヒロフミ
標題(和) 成体神経前駆細胞を用いた虚血損傷後の海馬ニューロンの再生誘導と脳機能回復
標題(洋)
報告番号 118289
報告番号 甲18289
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2096号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣川,信隆
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 中村,耕三
 東京大学 教授 御子柴,克彦
 東京大学 教授 加藤,進昌
内容要旨 要旨を表示する

【研究の背景と目的】脳卒中をはじめとする神経疾患において、損傷を受けた組織そのものの修復は現在まで不可能と考えられてきた。一般に、ヒトを含む成熟した哺乳動物の中枢神経系は有意な自己再生能力を失っていると、長く信じられてきたからである。しかしながら近年、自己複製能と多分化能を併せ持つ神経幹細胞が、成体中枢神経系内に残存していることが明らかにされてきた。さらに、側脳室周囲や海馬歯状回といった成体脳内の一部の領域では、生涯にわたってニューロン新生が持続していることも示されている。すなわち、成体脳には部分的ながら再生能が残存していると考えられる。現在、神経疾患に対する新たな治療法として、神経幹細胞や胚性幹細胞の移植による再生医療が注目されている。一方で、本来成体に内在する細胞を何らかの手法を用いて活性化することが出来れば成体脳の潜在的な能力によって損傷組織を再生し得る可能性が考えられる。このような再生誘導療法の開発のためには、成体に内在する神経幹細胞あるいはその他の前駆細胞(ここではまとめて神経前駆細胞と呼ぶ)について、その分子レベルでの性質や再生能を詳細に解析していくことが不可欠である。本研究では、ラットの一過性前脳虚血モデルを用いて、海馬錐体ニューロンの再生誘導と脳機能回復を目指した基礎的研究を行った。

【結果】

遅発性神経細胞死後のニューロン新生

 一過性前脳虚血損傷後の海馬CA1領域では、ほとんどすべての錐体ニューロンが選択的に脱落、変性する、いわゆる遅発性神経細胞死が起こることが知られている。しかし、この錐体細胞の死滅後に果たしてニューロンの再生が起こっているか否かについては、これまでの研究で明らかにされていない。そこで、本研究ではまず、CA1錐体ニューロンが再現的にほぼ完全に死滅し、さらに虚血損傷後にラット個体の長期生存が可能な、新たな4 vessel occlusion modelを確立した。このモデルでは、虚血損傷後7日後(以下DAI7と略記)には、ほとんどすべてのNeuN陽性CA1ニューロンが変性・脱落した。Cresyl violet染色による組織解析によっても、錐体ニューロンの変性を確認した。一方、DAI28では、NeuN陽性細胞の数がDAI7と比較して有為に増加していた(正常個体同一部位の全NeuN陽性錐体ニューロンの約9%)。

内在性神経前駆細胞の活性化による海馬ニューロン新生の強化

 損傷CA1においてDAI28/56に観察される錐体ニューロンが前駆細胞から新たに再生された可能性を考え、内在性の神経前駆細胞の増殖促進を試みた。fibroblast growth factor-2(FGF-2)並びにepidermal growth factor(EGF)を、DAI2-5の3日間、ミニポンプを用いて側脳室内に持続投与した。この条件下では増殖因子による細胞死抑制作用は認められず、CA1領域錐体ニューロンの著明な変性が観察された、しかしながら、DAI28の個体群では、CA1領域錐体細胞層におけるNeuN陽性細胞の数が、虚血未処理群(以下、未処理群)と比較して約4.2倍に増加していた。この数は、虚血損傷により失われた全NeuN陽性ニューロンの約40%に相当した。

内在性神経前駆細胞の虚血損傷応答

 神経前駆細胞の増殖によるニューロン新生を確認するため、虚血脳内の分裂細胞を5-bromo-2'-deoxyuridine(BrdU)の腹腔内投与により標識した。DAI2-4において、多数のBrdU陽性細胞が海馬近傍の側脳室周囲領域(posterior periventricular regionにも:以下、pPV)に観察された。さらに、増殖因子投与群について、DAI2-4の間BrdUを投与し、DAI28で観察したところ、CA1錐体細胞層にニューロン特異的マーカーであるβ-tubulin type III(TuJ1)、Hu、NeuN等を発現する多数のBrdU陽性細胞を認めた。このことから、虚血損傷後の錐体細胞層に観察されるニューロンの多くは、内在性神経前駆細胞の分化により生み出されたことが確認された。

 次に、虚血損傷に対する神経前駆細胞の応答を、特異的マーカーを用いて解析した。Pax6、Emx2、Mash1は発生期海馬の神経前駆細胞に発現し、その分化を制御する転写因子である。これら分子マーカー陽性細胞は主にpPVに存在し、その多くがBrdU標識された。さらに、その増殖は虚血後に促進され、増殖因子の脳内投与によりその数は著明に増加した。

脳室周囲神経前駆細胞による海馬ニューロンの再生

 pPVに存在する神経前駆細胞が海馬CA1領域の錐体ニューロンの新生に関与するか否かを明らかにする目的で、以下のような標識実験を行った。まず、蛍光標識試薬DiIを、DAI2に虚血誘導個体の側脳室に投与し、脳室壁周囲の細胞を選択的に標識した。DiI陽性細胞はDAI4においては脳室近傍に留まっていたが、DAI28では多くの標識細胞が海馬実質、特にCA1領域に移動していた。この際、CA1錐体細胞層のNeuN陽性細胞の88%がDiI陽性であることを、共焦点レーザー顕微鏡観察により確認した。また、増殖性前駆細胞の特異的な標識法として、green fluorescent protein(GFP)発現レトロウイルスを側脳室内に投与した。DAI5において増殖因子投与個体の投与した場合、投与2日後ではGFP陽性細胞は脳室近傍にのみに認められた。一方、DAI28においては多くのGFP陽性細胞が海馬内に認められ、CA1錐体細胞層のGFP陽性細胞の59%がHu陽性ニューロンヘと分化していた。以上の結果から、pPVに存在する神経前駆細胞は虚血損傷に応答して増殖、移動し、CA1錐体ニューロンの新生に寄与していることが明らかとなった。

新生ニューロンの神経回路への組み込み

 次に、虚血脳内で新生されたニューロンが既存の神経回路へ組み込まれるか否かを形態学的に解析した。正常個体海馬のCA1上昇層あるいは放射状層では、microtubule-associated protein(MAP2)陽性の樹状突起が、多数のsynapsin I陽性のシナプス前繊維と結合している像が観察された。虚血後未処理群では、虚血後3ヵ月でMAP2陽性の樹状突起はほぼ完全に消失し、synapsin I陽性シナプス前繊維のみが残存していた。これに対して、増殖因子投与群では、正常個体群と比較して低密度ながら樹状突起の回復が認められた。さらに、電子顕微鏡を用いた微細構造の解析から、この樹状突起上には明瞭な形態を保持したシナプス構造が観察された。

 次に、増殖因子投与個体において観察される新生ニューロンの神経結合を、逆行性標識法により解析した。蛍光標識試薬であるFluoroGoldをDAI49に海馬台に注入したところ、DAI56において、CA1領域NeuN陽性ニューロンの42%がFluoroGoldにより標識された。このことから、再生ニューロンがCA1-海馬台間の軸索投射の再構築に関与していることが明らかとなった。

新生海馬ニューロンのシナプス応答

 続いて、新生海馬ニューロンのシナプス応答について、電気生理学的な解析を行った。まず、対照個体群由来の海馬スライス標本で、Schaffer側枝の刺激により誘起されるCA1錐体細胞層での細胞外記録シナプス後電位(fEPSPs)を観察した。DAI90-120での虚血後未処理群では、このシナプス後電位は非常に減弱していたが、増殖因子投与群では有意なfEPSP振幅の回復が観られた。続いて、典型的なシナプス後電位が記録されたスライスを用いて、高頻度テタヌス刺激に対するfEPSPsの増強、いわゆる長期増強long-term potentiation(LTP)を調べた。対照群では刺激後60分で平均69%の増強が観察されたのに対し、虚血後に増殖因子を投与した群では平均58%の増強が認められた。また、この反応は、刺激後5-20分の間の短期的な増強を欠く点で、対照群で見られるシナプス応答と異なっていた。

新生ニューロンの脳機能回復への関与

 続いて、これらの新生ニューロンが虚血後の脳機能回復に寄与しているかを、海馬依存性の空間認知記憶を反映するとされるモリス水迷路試験を用いて検討した。まずCA1錐体ニューロンの脱落が終了するDAI7-11の期間に、一日2回のテストを5日間連続、計10回おこなった。この期間では、虚血後未処理群、増殖因子投与群ともに、最初の3日間のテストで、対照個体群と比較して有意な空間認知記億の低下が認められた。

 次に、新生ニューロンの機能評価の目的で、DAI49-53の期間に再び10回の学習課題を設定した。虚血後未処理群は重度の記憶学習障害を示したが、増殖因子投与群は、未処理群と比較して有為な記憶学習能の回復が認められた。

【考察】本研究により、虚血損傷後の海馬において、内在性神経前駆細胞からのCA1錐体ニューロンの新生が起こっていることが初めて明らかになった。しかし、その再生能力は限られており、虚血後4週間で損傷によって失われるニューロンのうちの数%未満しか再生されない。本研究では、EGF並びにFGF-2の脳卒内投与により内在性神経前駆細胞の増殖を促進することで、その再生能を亢進し得ることを示した。さらに、新生海馬ニューロンは既存の神経回路に組み込まれ、脳機能の改善に何らかの形で寄与し得ることも明かになった。本研究の結果は、内在性神経前駆細胞を用いた新たな神経再生誘導療法の可能性を大きく広げるものと考えられる。成体脳の持つ潜在的な再生能をさらに高める手法を開発していくことで、損傷神経組織の構造的、機能的再建が可能となり、近い将来、ヒトヘの臨床応用が可能な治療法が確立されることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究ではラットの一過性前脳虚血モデルを用いて、成体神経前駆細胞による海馬錐体ニューロンの再生誘導と脳機能回復を目指した基礎的研究を行い、下記の結果を得ている。

1.一過性前脳虚血損傷後の海馬CA1領域では、虚血損傷後7日後(以下DAI7と略記)には、ほとんどすべてのNeuN陽性ニューロンが変性・脱落した。一方、DAI28では、NeuN陽性細胞の数がDAI7と比較して有為に増加していた(正常個体同一部位の全NeuN陽性錐体ニューロンの約9%)。

2.損傷CA1においてDAI28/56に観察される錐体ニューロンが前駆細胞から新たに再生された可能性を考え、内在性の神経前駆細胞の増殖促進を試みた。fibroblast growth factor-2(FGF-2)並びにepidermal growth factor(EGF)を、DAI2-5の3日間、ミニポンプを用いて側脳室内に投与した。DAI28の個体群ではCA1領域錐体細胞層におけるNeuN陽性細胞の数が、虚血未処理群(以下、未処理群)と比較して約4.2倍に増加していた。この数は、虚血損傷により失われた全NeuN陽性ニューロンの約40%に相当した。

3.神経前駆細胞の増殖によるニューロン新生を確認するため、虚血脳内の分裂細胞を5-brono-2'-deoxyuridine(BrdU)の腹腔内投与により標識した。DAI28で観察したところ、CA1錐体細胞層にニューロン特異的マーカーであるβ-tubulin type III(TuJ1)、Hu、NeuN等を発現する多数のBrdU陽性細胞を認めた。このことから、虚血損傷後の錐体細胞層に観察されるニューロンの多くは、内在性神経前駆細胞の分化により生み出されたことが確認された。

4.pPVに存在する神経前駆細胞が海馬CA1領域の錐体ニューロンの新生に関与するか否かを明らかにする目的で、蛍光標識試薬Dilを、DAI2に虚血誘導個体の側脳室に投与した。Dil陽性細胞はDAI4においては脳室近傍に留まっていたが、DAI28では多くの標識細胞が海馬実質、特にCA1領域に移動していた。この際、CA1錐体細胞層のNeuN陽性細胞の88%がDil陽性であった。また、増殖性前駆細胞の特異的な標識法として、green fluorescent protein(GFP)発現レトロウイルスを側脳室内に投与した。DAI5において増殖因子投与し、投与2日後ではGFP陽性細胞は脳室近傍にのみに認められた。一方、DAI28においては多くのGFP陽性細胞が海馬内に認められ、CA1錐体細胞層のGFP陽性細胞の59%がHu陽性ニューロンヘと分化していた。

5.次に、虚血脳内で新生されたニューロンが既存の神経回路へ組み込まれるか否かを形態学的に解析した。増殖因子投与群では、正常個体群と比較して低密度ながら樹状突起の回復が認められた。さらに、電子顕微鏡を用いた微細構造の解析から、この樹状突起上には明瞭な形態を保持したシナプス構造が観察された。

 次に、増殖因子投与個体において観察される新生ニューロンの神経結合を逆行性標識法(FluoroGold)により解析した。DAI56において、CA1領域NeUN陽性ニューロンの42%がFluoroGoldにより標識された。このことから、再生ニューロンがCA1-海馬台間の軸索投射の再構築に関与していることが明らかとなった。

6.続いて、新生海馬ニューロンのシナプス応答について、電気生理学的な解析を行った。DAI90-120での虚血後未処理群では、このシナプス後電位は非常に減弱していたが、増殖因子投与群では有意なfEPSP振幅の回復が観られた。続いて、高頻度テタヌス刺激に対するfEPSPsの増強、いわゆる長期増強long-term potentiation(LTP)を調べた。対照群では刺激後60分で平均69%の増強が観察されたのに対し、虚血後に増殖因子を投与した群では平均58%の増強が認められた。また、この反応は、刺激後5-20分の間の短期的な増強を欠く点で、対照群で見られるシナプス応答と異なっていた。

7.続いて、これらの新生ニューロンが虚血後の脳機能回復に寄与しているかを、海馬依存性の空間認知記憶を反映するとされるモリス水迷路試験を用いて検討した。まずCA1錐体ニューロンの脱落が終了するDAI7-11の期間に、一日2回のテストを5日間連続、計10回おこなった。この期間では、虚血後未処理群、増殖因子投与群ともに、最初の3日間のテストで、対照個体群と比較して有意な空間認知記憶の低下が認められた。

 次に、新生ニューロンの機能評価の目的で、DAI49-53の期間に再び10回の学習課題を設定した。虚血後未処理群は重度の記憶学習障害を示したが、増殖因子投与群は、未処理群と比較して有為な記憶学習能の回復が認められた。

 以上、本研究により、虚血損傷後の海馬において、内在性神経前駆細胞からのCA1錐体ニューロンの新生が起こっていることが初めて明らかとなった。EGF並びにFGF2の脳室内投与により内在性神経前駆細胞の増殖を促進することで、その再生能を亢進し得ることを示した。さらに、新生海馬ニューロンは既存の神経回路に組み込まれ、脳機能の改善に何らかの形で寄与し得ることも明かになった。本研究の結果は、内在性神経前駆細胞を用いた新たな神経再生誘導療法の可能性を大きく広げるものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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