学位論文要旨



No 118351
著者(漢字) 榎本,裕
著者(英字)
著者(カナ) エノモト,ユタカ
標題(和) 表皮の分化を誘導する転写因子(hSkn-1a)による角化細胞由来癌細胞の増殖抑制
標題(洋)
報告番号 118351
報告番号 甲18351
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2158号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 玉置,邦彦
 東京大学 助教授 俣野,哲朗
 東京大学 助教授 後藤,淳郎
 東京大学 助教授 中川,恵一
 東京大学 講師 武内,巧
内容要旨 要旨を表示する

 癌細胞は悪性形質を獲得する過程において、正常な分化過程から逸脱しているが、多くの癌は発生したもとの組織に特有な分化の特徴を残している。癌の悪性度と分化の程度とは逆相関することが広く認められており、低分化ないし未分化の癌は悪性度が高く、高分化の癌は悪性度が低いことが多い。癌細胞は、分化誘導因子に対する反応性が部分的ではあっても維持されていることが多く、一部の癌では分化誘導療法が行われ、成果を上げている。今後様々な組織の分化を制御する分子機構が明らかになり、それぞれの癌細胞に適した安全で有効な分化誘導因子が利用可能になれば、分化誘導療法はさらに実践的な治療法に発展すると期待できる。特に表皮角化細胞は分化によって増殖が停止する細胞であり、角化細胞由来の癌に特異的な分化誘導因子が明らかになれば臨床応用が可能と考えられる。

 表皮は造血組織とならんで細胞分化のメカニズムがよく研究されている組織である。表皮の主要な構成細胞である角化細胞は常に増殖、分化して表皮組織を再生している。基底層の角化細胞(基底細胞)は増殖能を持つ未分化の細胞で、表皮における幹細胞としての役割を持っており、自己を複製するとともに上層の分化した細胞を作り出している。基底膜を離れた角化細胞は増殖を停止して分化を開始する。基底層の上層には有棘層、顆粒層があり、最上層の角層では死んだ扁平な細胞が重層している。角化細胞の分化に伴って発現が増減する遺伝子群が多数調べられており、これらの遺伝子は角化細砲の分化マーカーとして利用されている。基底層に特徴的な分化マーカーにはケラチン5、ケラチン14などがある。分化した角化細胞のマーカーとしてはケラチン1、ケラチン10(KlO)、インボルクリン、ロリクリン、フィラグリン、トランスグルタミナーゼ1、small proline rich proteins(SPRR)などがある。

 これらの分化マーカーの発現制御が厳密に行われていることは表皮のホメオスタシスを維持する上で非常に重要である。しかし、分化マーカーの発現が表皮分化のどの段階で起こるかについては詳細に調べられているが、その発現が時間的、空間的に制御されている機構はよくわかっていない。AP-1、AP-2などの転写因子が多くの角化細胞分化マーカーの転写制御に関わっていることがわかっているが、これらの因子は表皮特異的ではなく、表皮の分化制御の中心となっているとは考えにくい。最近、表皮特異的に発現しているPOUドメインファミリータンパク質としてSkn-1a遺伝子がクローニングされた。POUドメインファミリータンパク質の中には、組織特異的に発現して発生、分化を誘導しているものが多い。Skn-1aは表皮の分化に伴って発現が増加し、代表的な分化マーカーであるK10、SPRR-2Aの転写を促進し、インボルクリンの転写を抑制する。Skn-1aのノックアウトマウスの解析から、Skn-1aは皮膚の分化と創傷治癒反応に重要な役割を示していることが示された。さらに、ヒトSkn-1a(hSkn-1a)が基底細胞の増殖を促すとともにその後の分化過程を促進していることがわかり、Skn-1aは皮膚の分化を誘導する中心的な転写因子と考えられるようになった。しかし、無限増殖能を獲得した角化細胞由来癌細胞におけるhSkn-1a発現の有無も不明であり、hSkn-1aが癌細胞でどのような役割を持ちうるのかはまったくわかっていない。HSkn-1aが、正常な分化過程から逸脱した癌細胞株の分化を誘導できるかどうかを検証することにより、癌細胞における分化調節機構の解明、hSkn-1aを用いた癌の分化誘導療法開発の基礎情報となりうる。

 本研究では角化細胞の分化におけるhSkn-1aの重要性に着目し、hSkn-1aが角化細胞由来の癌に対する分化誘導療法の機能分子となりうるかを確かめるために、角化細胞由来の癌細胞に対するhSkn-1aの作用を解析することを目的とした。角化細胞由来の癌細胞株でhSkn-1aを強制発現させたときの分化マーカーの発現と細胞増殖の変化について解析し、これらの癌細胞株がhSkn-1aに対する分化応答能をどの程度保持しているかを調べた。

 まず、角化細胞由来の培養細胞株(HeLaS3、SiHa、CaSki、HaCaT、C-33A)、および角化細胞以外の細胞に由来する培養細胞株(COS-1、HEK293、Alexander、HepG2)でhSkn-1aが発現しているかどうかをウエスタンブロットで解析した。その結果、すべての培養細胞株でhSkn-1aの発現は検出感度以下であった。角化細胞由来の癌は、癌化の過程でhSkn-1aの発現が停止するか、強く抑制されているものと考えられた。

 子宮頚癌由来細胞株HeLaを用いて、ドキシサイクリンでhSkn-1aの発現を誘導できる細胞株HeLa/Tet-On/hSkn-1aを作成した。この細胞は、培地中に低濃度(2μg/ml)のドキシサイクリンを添加することによって、速やかにhSkn-1aの発現が起こった。hSkn-1aの発現に伴って代表的分化マーカーであるK10の発現がウエスタンブロット法により確認された。hSkn-1aを誘導すると、この細胞は劇的な形態変化を起こし、約1週間で大きく扁平化した細胞が多数出現した。また、増殖曲線とBrdUの取り込みで細胞増殖を評価したところ、hSkn-1aの発現に伴って細胞増殖速度が遅くなり、DNA合成能も低下していた。細胞周期の解析から、この細胞は細胞周期の回転が緩徐になり一部の細胞集団がG2/M期に停止することが示唆された。また、DNAラダー法によりDNAの断片化が検出された。HeLa細胞はhSkn-1aに反応して分化過程を進行させることができ、細胞形態の変化、分化マーカーの発現誘導、増殖抑制、アポトーシスの誘導がおこることが確認された。

 HeLa以外の細胞株でもhSkn-1aによる増殖抑制が起こるかどうかを検証するため、薬剤耐性マーカーとhSkn-1a(ないし対照としてDsRed遺伝子)を同時に発現するプラスミドをそれぞれの細胞にトランスフェクションし、薬剤耐性コロニーの出現数を計測した。HEK293、HepG2では対照と差がなかったが、それ以外の細胞はhSkn-1aを発現させたときにできる耐性コロニーの数が対照より少なかった。これらの細胞株ではhSkn-1aの発現によってできるコロニーの大きさも対照より小さい傾向があり、hSkn-1aによる増殖抑制がおこっていることが示された。また、トランスフェクションないしアデノウイルスベクターを用いて、hSkn-1aを各細胞に導入し、K10の発現変動を調べた。角化細胞由来の癌細胞株ではすべてK10の発現が誘導されていた。角化細胞以外の由来をもつ細胞株では増殖抑制とK10の発現とは必ずしも並行していなかった。特に、AlexanderではhSkn-1aによって強い増殖抑制が見られたもののKl0の発現誘導は検出できなかった。K10をHaCaTに導入すると細胞増殖の抑制とアポトーシスがおこることが報告されており、hSkn-1aによる増殖抑制はK10の発現を介して起こっている可能性もある。しかし、K10が増殖抑制効果を示すためには細胞の網膜芽細胞腫蛋白質が機能していることが必要であること、増殖抑制効果とK10の発現誘導が並行しない細胞株があることから、hSkn-1aの増殖抑制効果はK10以外の機構を通じて起こっていることが示唆された。また、HeLa S3、SiHa、Alexander、HepG2にアデノウイルスベクターを用いてhSkn-1aを導入することによってアポトーシスが起こることがTUNEL法、DNAラダー法により示された。

 今回調べた角化細胞由来の癌細胞は全て、hSkn-1aによる分化誘導に応答し、K10の発現誘導、増殖の抑制がおこった。これらの癌細胞は、hSkn-1aに反応して分化過程を進行させる能力を保っていることを示している。角化細胞以外の由来をもつ癌細胞株の中にもhSkn-1aに応答して増殖抑制をおこすものがあったが、K10の発現誘導とは並行していなかった。HSkn-1aによる増殖抑制はK10の発現とは異なった経路で引き起こされているものと考えられた。また、hSkn-1aの発現によってG2停止とアポトーシスがおこることがわかり、hSkn-1aは角化細胞由来の悪性腫瘍(有棘細胞癌、基底細胞癌、子宮頚癌など)の遺伝子治療における機能分子となる可能性が示された。癌細胞にアポトーシスを誘導する能力の強化や正常細胞に対する安全性の確保等、今後の課題は多いものの、新たな分化誘導療法の開発につながる可能性がある。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、表皮角化細胞の分化過程において中心的な役割を果たしている転写因子hSkn-1aが角化細胞由来の悪性腫瘍に対する分化誘導療法の機能分子となりうるか明らかにするため、テトラサイクリンによる誘導系、トランスフェクションあるいはアデノウイルスベクターによる遺伝子導入系を用いて、hSkn-1aの癌細胞株に対する作用を検討したものであり、下記の結果を得ている。

1.角化細胞に由来する培養細胞株(HeLa S3、SiHa、CaSki、HaCaT、C-33A)、角化細胞以外に由来する培養細胞株(COS-1、HEK293、Alexander、HepG2)におけるhSkn-1aの発現の有無をウエスタンブロット法で解析したが、いずれの細胞株においても検出感度以下であった。

2.HeLaを親細胞として、テトラサイクリンでhSkn-1aの発現を誘導できる細胞株HeLa/Tet-On/hSkn-1aを作成した。この細胞は、培地中にドキシサイクリンを2μg/ml添加することによってすべての細胞がすみやかにhSkn-1aを発現していた。この細胞はhSkn-1aの発現に伴って角化細胞の分化マーカーであるケラチン10が誘導され、細胞の分化が誘導できた。また、hSkn-1aの発現に伴って細胞形態の扁平化、細胞増殖の遅延、DNA合成の低下、細胞周期の分布の変化(細胞周期回転の遅延、G2/M期での停止)が観察された。さらに、ゲノムDNAの断片化によってアポトーシスが検出された。

3.HeLaで観察された現象が他の細胞株でも再現するか検証するために、hSkn-1aとネオマイシン耐性遺伝子を同時に発現するプラスミドをトランスフェクションし、ネオマイシン耐性コロニーの形成能を比較するコロニーアッセイを行った。それにより、角化細胞由来のすべての細胞株でhSkn-1aの増殖抑制効果が見られた。角化細胞以外に由来する細胞株では、COS-1、Alexanderで増殖抑制が見られたがHEK293、HepG2では増殖抑制が見られなかった。ケラチン10の発現誘導を指標にhSkn-1aによる分化誘導を検討したところ、角化細胞由来の細胞株ではすべてhSkn-1aのトランスフェクションによってケラチン10が誘導された。角化細胞以外の細胞株でもケラチン10の誘導が見られるものもあったが、増殖抑制効果とは並行していなかった。hSkn-1a発現組み換えアデノウイルスベクターでは、HeLa S3、SiHa、HepG2にケラチン10の発現誘導とアポトーシスの誘導を認めた。Alexanderではケラチン10の発現は認めなかったがアポトーシスは誘導された。

4.これらの結果から、hSkn-1aは角化細胞由来の癌細胞に対して分化を誘導し、増殖抑制からアポトーシスにいたる変化を惹起できることが示された。角化細胞以外に由来する癌細胞でも同様の効果が見られるものがあったが、各反応は並行して起こっているわけではなかった。

 以上、本論文は表皮分化を誘導する転写因子hSkn-1aの発現が角化細胞由来癌細胞に及ぼす効果を詳細に検討し、癌細胞に対しても分化誘導、増殖抑制、アポトーシス誘導を起こしうる事を示した。本研究は、特に角化細胞由来の悪性腫瘍の分化機構の解明や分化誘導療法の開発に対して重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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