学位論文要旨



No 118439
著者(漢字) 小島,泰友
著者(英字)
著者(カナ) コジマ,ヤストモ
標題(和) 小麦製品をめぐる価格伝達構造に関する計量経済学的研究
標題(洋)
報告番号 118439
報告番号 甲18439
学位授与日 2003.04.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2639号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 助教授 中嶋,康博
 東京大学 助教授 齋藤,勝宏
内容要旨 要旨を表示する

本研究では,日本の小麦加工食品市場(ハード系小麦・強力粉・食パン・菓子パン類)を例に,産業組織分析,費用構造分析,価格伝達分析を行い,これらの分析結果を使って,小麦関連産業の余剰変分の計量分析を行った.さらに,麦管理勘定における政府収入と消費者余剰の変分を計量分析し,納税者でありかつ消費者である国民にとっての二重負担問題についても余剰分析を行った.

直接支払を中心とする農政への転換によって,今後ますます農産物価格とその加工食品価格の低下が期待されるが,1980年代半ば以降における砂糖・鶏卵・雑穀などの卸売価格の低下,87年2月以降における小麦の政府売渡価格の引き下げは,必ずしも小麦粉・食パン・菓子パン類の小売価格の低下にはつながっておらず,消費者に利益はもたらされていない.この不完全な価格伝達性のメカニズムを数量的に把握するために,費用構造分析,産業組織分析,価格伝達分析を行い,小麦製品をめぐる価格伝達構造を明らかにした.

製品小売価格の上昇によってたとえ消費者余剰が減少したとしても,円高・内麦政府買入価格の引き下げなどの影響によって麦管理勘定の政府収入が増加し,食糧管理特別会計予算への負担が軽減されれば,納税者にとって利益となるため,ネットの負担額を検証する必要があった.そこで財政負担と消費者余剰に関する二重負担問題を余剰分析した.

第1章では,小麦・小麦粉・食パンの価格伝達性を定量分析し,産業組織分析,費用構造分析を行った.87年以降は,価格伝達弾力性が1以下となる年が連続している.つまり,87年以前における小麦価格の上昇期において,小麦価格の上昇率以上の上昇率で小麦粉価格は上昇しているが,それ以後における下降期においては,小麦価格の下落率以下の下落率で低下しており,政策転換後,小麦粉への価格伝達性が低下していることが明らかとなった.食パンの卸売価格・小売価格の場合,小麦粉以上に価格伝達性は低下している.

小麦粉・パン類の市場構造に関する産業組織分析では,以下のことが確認された.製粉産業における市場構造は,高度経済成長期を通じて現在までそれほど極端な変化はしていない.一方,製パン産業では67〜94年までの期間,調査対象食品の中で,食パンの上位企業への集中化の程度がもっとも顕著であった.

70年代半ばから,新製法の開発と冷凍生地の製造技術の進歩によって,パン製造小売業者数が増加し始め,特に76〜79年にかけて前年比で35%増加した.一方,特に80〜81年にかけて食パンと菓子パンの製造事業所数は前年比でそれぞれ約21%,約25%減少した.70年代後半のパン製造小売業者数の伸長は,80年代初頭の食パン・菓子パン製造事業所の減少と80年前後の非製造小売業者の減少に拍車をかけ,パン類市場に競争性をもたらした.

費用構造分析では以下のことが明らかにされた.80年代前半以降,強力粉の製粉工場販売価格(全国平均)は,製粉大手A社の平均単位コストとほぼ一致して推移している.ただし,この単位コストには,本来控除されるべき副産物(ふすま)収入は控除されておらず,さらに80年代後半以降本格化する新規部門における販管費の一部が含まれているため,価格は高めに設定されている.しかし,製粉A社と互いに大株主である製パン大手X社に対して,ふすま収入を控除した価格で強力粉が供給されており,価格差別が存在している.このほか,87年以降,製粉大手8社における1人当たりの平均人件・労務費(福利厚生費を含む)が高騰しており,これは小麦価格の低下による原料費の削減分が人件費に吸収されていることを示している.

製パンX社では人件・労務費のコスト・シェアが増加している.この固定費の増加は,小麦粉価格の低下による原料費の削減分を相殺しコストアップ要因となった.このほか80年代以後,製パンX社によるシェア拡大と多品種生産が進むなか,作業の機械化に限界が生じ,活発な投資活動にもかかわらずコスト削減をもたらす生産技術の向上は達成できなかった.製パンX社の売上高営業利益率は低下しており,多品種生産体制による効率性の低下とともに,製パン販管費単位コストが上昇したことが価格の下方硬直性につながった.

このほか95年における食パンの内外価格差を日米豪比較したところ,政策下の小麦価格だけでなく,日本の製粉加工費・二次加工費・小売マージンが高いことが確認された.

第2章では,先行研究のサーベイを行い,本研究の基本モデルの説明を行い,価格伝達性のシミュレーション分析を行った.生産要素の代替弾力性の度合いより市場の競争度の方が価格伝達への影響が強く,市場の競争度よりも規模経済性の度合いの方が,影響が強いことが明らかとなった.これらの結果は,本研究とは一部異なる提示方法でMcCorriston et al[1998,2001]によって指摘されている.

第3章では,第1章の産業組織分析と費用構造分析を踏まえて,先行研究の価格伝達構造モデルを食パン市場の実態に即した形に改良・拡張を試みた.モデルの一部として,食パン・菓子パンのVarianのkを計測した.70年代半ばまで,少なくとも製パンX社は自社の商圏において,食パンに関して強い市場支配力を有していたと考えられる.しかし,60年代の後半における大手企業間の市場開拓競争と,70年代半ば以降における新製法の開発と冷凍生地の製造技術の進歩によるパン製造小売業の台頭は,70年代後半の激しい価格競争をもたらした.これは,81年における食パン・菓子パン製造事業所の減少と79年から82年における非製造小売業者の減少に拍車をかけ,市場全体の競争性を高めた.こうして一部市場から撤退していく中で,80年代半ばまで再び価格支配力が強まっていく.しかし,再び80年代後半・90年代では弱まっていき,70〜90年代にかけて全体的には,食パン市場の競争性は徐々に増してきている.菓子パン類も同様に70年代半ばまでと比べて,90年代は競争的である.

このほか,価格伝達構造の改良モデルを使って,製パンX社の食パン卸売価格と強力粉仕入価格の変化率に関して,70〜98年にかけてシミュレーションを行い,変化率の理論値を価格伝達要因別に要因分解を試みた.強力粉仕入価格はハード系小麦の政府売渡価格から約40〜80%の影響を受けている.87年以降は,製粉販管単位コストから約数%〜30%の影響を受けており,販売諸掛・人件費などの急激な増加が,小麦粉価格の下げ止まり要因として作用しており,強力粉の不完全な価格伝達性をもたらしている.これらコストは食パンの卸売価格に対しても約数〜20%の割合で,間接的に価格引き上げ要因になっている.また小麦価格の引き下げは間接的に食パン卸売価格に影響を与えるが,人件・労務費など製パン販管単位コストが食パン卸売価格の上昇要因として最も大きく作用している.

第4章では,小麦のフードシステムの川上(麦作農家・政府),川中(製粉セクター),川下(製パン・小売セクター・消費者)の順に,各セクターの余剰分析を行った.87年の小麦政策価格の引き下げ前後に着目しながら,二重負担問題に関して計量分析を行った.

製粉セクターでは,小麦政策価格の引き下げ以後,強力粉部門の余剰の増加傾向が強いことが明らかになった.製パン産業の余剰は食パン部門では,80年代後半以降,減少傾向にある一方,菓子パン類部門では93・94年を除いて増加傾向にある.小売余剰は,食パン部門では80年代後半以降,大幅ではないが増加傾向にあり,菓子パン部門では増加と減少を繰り返している.最終消費者余剰は,食パン部門では87・88年において増加したが,減少傾向にある.菓子パン部門においても87〜89年まで余剰は増加したが,96年まで減少が続く.ただし,97・98年では菓子パン小売価格の低下により増加し,特に98年では約600億円増加した.

国民にとってのネットの負担額を計算してみると,84・86年度はネットの負担がなく83・87・98年度は国民にとって利益が生じた.特に86年では,菓子パン価格の上昇によって消費者余剰は減少したが,85年のプラザ合意後の円高基調によって,麦管理勘定の政府収入が急激に増加したため,国民の税負担は軽減されネットでは負担が発生しなかった.

しかし,79・80・82年,85・89・92年,95・96・97年では,消費者余剰が減少するとともに,政府収入が減少しており,二重負担が発生している.80年代半ば以降砂糖・鶏卵・小麦粉・雑穀などの卸売価格が低下し始めているが,原料価格の低下に関係なく,二重負担は発生している.特に,輸入麦売買差益が前年比で大幅に減少した89・96年の場合,政府収入が実質値で約300〜350億減少している一方で,消費者余剰もほぼ同様の金額だけ減少しており,二重負担が生じている.

小売業では,小売マージンが上昇傾向にあるため,川上における原料農産物価格の低下は最終製品の小売価格には伝達しない.ただし,小売マージン率が80年代半ば以前の水準に低下すれば,97年以降の菓子パン小売価格の低下以上に価格は低下する可能性があり,小麦製品の価格伝達性は十分高まる余地がある.78〜98年の21年間において,二重負担が生じた年は9年あり,頻度の高さが窺える.自給率向上を目指し財政負担の増加が見込まれる今後においても,製品小売価格が低下しなければ,二重負担が生じる可能性は高い.

審査要旨 要旨を表示する

EUの共通農業政策は、92年改革を転機として、農産物価格支持政策の縮小とこれに代わる直接支払制度の導入を図っている。わが国においても同様に、農産物価格支持制度が徐々に後退し、代替的な手段による農業所得政策が模索されている。こうした一連の改革は、しばしば消費者負担型農政からの脱却と表現される。しかしながら、農産物価格の低下が最終生産物の価格低下につながるためには、当該農産物を起点とするフードシステムにおける価格伝達の構造が決定的に重要である。本論文は、小麦・小麦粉・パンのフードシステムを素材に、わが国食品産業における価格伝達構造を計量経済モデルによって実証的に解明したものである。

論文は、本文6章と理論モデルの数学的導出などに関する6つの補論からなる。研究の課題と論文の構成を提示した序章を受けて、第1章では小麦関連産業の市場構造の変遷と小麦に関する政策の推移が整理される。そのうえで、有価証券報告書などのデータを詳細に分析することで、製粉産業と製パン産業を結ぶ価格伝達のパフォーマンスに関する予備的な観察が行われる。とくに80年代半ば以降の小麦価格低下のもとにあって、小麦粉の価格低下が十分とは言えないこと、また食パンの価格には下方硬直性が存在することが確認され、その要因が仮説的に吟味される。

第2章は価格伝達構造に関する既往の計量経済分析のレビューである。まず、先行研究を価格伝達効率の把握に関する研究、その要因の理論分析に関する研究、同じく要因の実証分析に関する研究に大別し、それぞれの発展のプロセスと到達点が整理される。とくに市場の需給関係を明示した構造モデルについては、その拡張の経緯をトレースし、既往の代表的なモデルの利点と限界を浮き彫りにしている。すなわち、完全競争の仮定の除去と規模の経済性の導入によって、より現実的な構造モデルが構築されてきたことを確認するとともに、マーケットパワー・パラメーターや要素代替の弾力性などに関する前提条件の影響については、申請者自身がモデルの感応度を検証した。

構造モデルはこれまでのところ大半が理論モデルにとどまっている。加えて、単一の外生要因の影響のみの評価に限定されている点で、実証モデルにも改良の余地がある。これらの課題に挑戦したのが第3章である。まず、製粉産業と製パン産業それぞれの需給に関する外生要因の影響を同時に評価できるモデルを構築する。そのうえでキーとなるパラメーターを推定し、これを用いて価格形成に関する諸要因の寄与度を計測した。その結果、ふたつの産業における価格形成の要因と価格伝達の構造が1970年から97年の期間について定量的に明らかにされた。多くのファインディングスが得られているが、なかでも87年以降の小麦価格引き下げのもとでの小麦粉価格の下げ止まりの要因として、販売費及び一般管理費の上昇が指摘された。また、食パン価格の下方硬直性は、多品目生産による効率の低下と販売費及び一般管理費の上昇によるところが大きい。両産業に共通する要因である販売費及び一般管理費の上昇については、原料価格の低下による利益が人件費と多角化の原資として当該産業内部に吸収されていることを意味する。

第4章では、第3章の分析を踏まえて、製粉産業と製パン産業をめぐる経済余剰の分析が行われる。すなわち、余剰の産業内使用を明示的に考慮した連結的な部分均衡分析により、政府・製粉産業・製パン産業・小売業・消費者の各セクターに帰属する経済余剰の時系列変化が把握された。その結果、小麦価格の引き下げ期においても、余剰の産業内使用のもとで多くの年で消費者余剰の低下が生じており、少なからぬ年次について政府支出の増加と消費者余剰の減少という二重の国民負担が発生していたことが示された。

最後の第5章では、論文全体の要約、得られた結果の政策的含意、今後に残された課題の整理が行われている。

以上を要するに、本論文は食品をめぐるわが国初の価格伝達構造分析であり、計量経済モデルを駆使して、価格の形成要因と伝達構造を包括的かつ定量的に明らかにしている。加えて既往のモデルを改善し、価格伝達分析における実証研究の操作性を高めた点にも重要な貢献が認められ、本論文の成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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