学位論文要旨



No 118441
著者(漢字) 牛山,克巳
著者(英字)
著者(カナ) ウシヤマ,カツミ
標題(和) 北海道におけるマガンによる小麦食害問題の生態学的管理
標題(洋) Ecological management of wheat damage problems by greater white-fronted geese in Hokkaido, Japan
報告番号 118441
報告番号 甲18441
学位授与日 2003.04.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2641号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 助教授 宮下,直
 東京大学 助教授 高槻,成紀
 立教大学 教授 上田,恵介
内容要旨 要旨を表示する

近年、野生動物による農業被害が急激に増加し、世界各地で大きな問題となっている.しかし、野生動物の農業被害管理に関する研究は、病害虫などと比べると非常に少なく、また、それらの多くは対象動物の生態を適切に把握していないため、持続的な解決方法の提言には至っていない. 対象動物の個体数とその分布を支配する要因を解き明かすことで、農業被害が発生するメカニズムを理解し、生物学的根拠に基づいた管理方法を提言できると考えられる.また、それらの知見を統合することにより、時空間における農業被害の発生リスクを予測することができ、予防的管理に役立てることができる.

野生動物の生態学的知見を生かした管理は、特に、農業被害を起こす動物が保全対象種であり、駆除や追い払いなど対症療法的な対策が使えない場合に有効である.近年、各地でガン類と農業との軋轢が高まっているが、これらガン類の中には、全体的に減少傾向にある種や、分布が局所的である種が多く、保全の対象とされている場合も多い.日本で越冬するマガンは、1971年に狩猟鳥からはずされた後、個体数が順調に回復してきたが、極東地域のガン類の個体数はここ20年間で大幅に減少していると報告されている.さらに、個体数の増加傾向に反し、国内の渡来地数は増加していないため、多くのマガンが少数の渡来地に偏っていることが、保全上、また農業被害を解決する上でも、大きな問題となっている. したがって、国内のマガンの重要な生息地では、マガン個体群の保全と農業被害問題を考慮した、保全管理策を提唱する必要がある.

本研究では、国内で越冬するマガンの重要な中継地である北海道宮島沼周辺で深刻化している小麦食害問題に対し、マガンの生息地利用に関する生態学的知見から、適切な保全管理策を提唱することを目的とした.そこで、以下の項目について検討した.1)食害の現状と被害額の評価、2)マガンの採食地利用と食害発生のメカニズム、3)食害防除対策に対するマガンの反応、4)マガンの分布予測モデルの構築と予防的管理への応用. 以下、順を追って概要を述べていきたい.

食害の現状と被害額の評価

被害額の評価は、管理計画を立てる上での基礎的な情報となるが、多くの場合、推測や不完全は情報に基づいて行われている.マガンによる農業被害の実態は、野外における食害状況の把握と、食害による収量への影響を明らかにすることによって評価することができる.マガンの春期の滞在期のおわりに発生した小麦食害は、食害面積と採食圧という点で最も規模が大きかった.そこで、春期のおわりに実験的に小麦の葉を除去すると、約17%の減収につながっていた.さらに、被害面積と減収率から経済的な被害を算出したが、食害状況に応じて、被害額は年によって大きく異なった.このことからも、食害状況を決定するメカニズム、つまり、マガンの採食地利用の理解が、予防的管理を行う上で不可欠であると考えられた.

マガンの採食地利用と食害発生のメカニズム

ガン類は、食物に対して非常に選択的であり、マガンの採食地選択を支配する要因として、食物の量と質が重要であると考えられる.マガンの主要食物である田圃の落ち籾は、小麦の葉や畦草と比べると栄養価は高いが、密度の減少と共にその摂取率は低下すると考えられる.行動生態学が伝える最適採食理論は、選好性の高い食物の価値が低下し、より選好性の低い食物の価値と同じになると、動物は食物の選択性の幅を広げると予測している.そこで、マガンの採食地の選好性の変化を調査すると共に、田圃の落ち籾の密度とマガンの採食行動の変化を調べた.3年間の調査の結果、マガンの田圃への選好性は年間を通じて高かったが、春期のおわりには、田圃内から畦に選好性が移行し、また、小麦圃場の利用も増加した.落ち籾密度と田圃におけるマガンの採食効率は時間と共に低下したため、落ち籾の減少による田圃の相対的価値の減少が小麦利用を促す主要因であると考えられた.よって、小麦食害は、落ち籾の人為的減少を抑え、畦の相対的価値を高め、小麦の相対的価値を低めることによって軽減できると考えられる.例えば、落ち籾は藁焼きや田起こしによって減少するため、これらの農業活動を管理することによって、マガンを田圃に留めることができ、小麦食害を軽減することができると考えられた.

マガンの空間分布パターンの理解は、被害対策を空間的にどのように実施するかを考える上で重要である.マガンは、秋期にはねぐらである宮島沼に近い地域の田圃をより多く利用した.秋期には落ち籾が一様に豊富であると考えられ、マガンは移動コストを節約するために、なるべく沼の近くで採食したと考えられる.しかし、その結果、沼の近くでは落ち籾が減少し、翌春マガンは秋期に利用しなかった沼から遠い田圃に採食域を広げ、また、沼の近くでは小麦圃場に採食域を広げたと考えられる.このように、マガンの採食地選択には、採食によって得られる利益と移動などから生じる損失とのトレードオフが重要であり、その理解こそがマガンの空間分布パターンを理解する上で重要であると考えられた.

食害防除対策に対するマガンの反応

野生動物による農業被害に対して様々な防除対策が用いられているが、その有効性は対象動物や被害が発生する状況によって変わるため、有効性の評価が不可欠である.また、防除対策の選択や実施方法の検討は、対象動物の生態学的知見に基づいて行われる必要がある.そこで、爆音器やかかしなどの防除器具の設置状況とマガンの小麦利用との関係を調べた.2年間の調査の結果、防除器具は各圃場からマガンを防ぐのに有効であったが、沼の近くの地域で防除が徹底された結果、防除が徹底されていない地域に食害が移動した.今後、より広い地域で防除を徹底し、落ち籾の枯渇が進んでいない地域にマガンの採食域を広げることができれば、食害を軽減することができると考えられた.しかし、分散するコストが高い場合、防除器具に慣れが生じる可能性もあり、継続した調査が必要である.

ヨーロッパでは、代替採食地と呼ばれる管理された草地にガン類を集めることによって、農業被害を防止している.また、防除器具によって追われた個体の採食場所をつくることで、防除器具への慣れを防ぐことができる.まとまった草地がない地域では、圃場に屑もみを散布することによって代替採食地とすることができるが、そのような代替採食地の管理方法に関する情報はない.そこで、屑もみを実験的に散布した代替採食地で、マガンの利用状況を調べた.代替採食地は、マガンを誘致することには成功したが、約600kgの屑もみも2-3日で消費してしまった.高密度に散布された籾のエネルギー摂取率は非常に高く、多くの個体を引きつけてしまい、小麦食害を起こす個体だけを効率的に集めることができなかったと考えられる.散布する屑もみの密度を抑えることによって、マガンの誘因力は減少するが、防除器具によって追われた個体の採食場所をつくり、防除器具への慣れを防ぐという目的は達せられると考えられた.

マガンの分布予測モデルの構築と予測管理への応用

動物の分布予測モデルは、時空間における被害リスクを予測し、農業被害対策を計画する上で非常に有効なツールになる.さらに、現実的には実行するのに多額の資金が必要で、検証が困難な管理方法の検証に使うことができる.行動生態学の理論に基づいた行動ベースモデルは、変化する環境下における動物の分布を予測するために有効なアプローチである.行動ベースモデルでは、個体は環境から得られる情報をもとに、適応度の尺度(例えばエネルギー摂取率)を最大化するように行動する.動物の採食範囲が広い場合、個体が利用できる環境に関する情報は限られており、個体はその認知範囲の中で得られた情報を意志決定のプロセスに用いると考えられる.群れで採食するマガンの場合、他個体から得られる採食地の情報も意志決定のプロセスに加える必要があるが、そのような情報を適切に組み込んだ研究はされていない.そこで、他個体から得られる情報を個体の意志決定プロセスに取り組んだ新しい行動ルール(群れ採食ルール)を提唱し、マガンの採食地利用の研究で得られた知見をもとに、空間明示の行動ベースモデルを構築した.また、食物量の分布に関して全知、そして、無知である個体の行動ルールと比較して、野外におけるマガンの分布パターンを予測する精度を確かめることにより、群れ採食ルールの妥当性を確かめた.

群れ採食ルールは、他の行動ルールと比較して、より多くのマガンの分布パターンを予測することができた.しかし、秋期における群れサイズなどのいくつかのパターンにおいて、予測と現実の間に定量的、定性的な相違がみられた. したがって、モデルを予防的管理のツールとして用いることには限界があったが、春期のおわりの小麦食害パターンに関して比較的良い合致がみられたため、モデルを用いて、防除器具の空間配置や代替採食地の量がマガンの小麦利用の程度に与える影響を調べた.予測と現実の相違点は、今後モデルの精度を高めるために研究が必要な、マガンの生態的特性を明確にしたことになる.このモデルで取り上げた、大きなスケールにおける動物の空間利用に関しては、理論的、実証的な研究が少なく、今後大いに発展する分野であると考えられる.

以上より本研究は、マガンの採食地利用のメカニズムを理解することによって、効率的で、生物学的根拠に基づいた、保全管理策を提言することができることを示した.また、得られた生態学的知見をもとに、様々な管理方策や農地利用の変化がマガンの採食地利用に与える影響を予測することの重要さを示した.

審査要旨 要旨を表示する

近年,野生動物による農業被害が急増し,世界各地で大きな問題となっている.ガン類と農業との軋轢はその代表例である.日本で越冬するマガンは.1971年に狩猟鳥からはずされた後,個体数が順調に回復してきたが,極東地域のガン類はここ20年間で大幅に減少している.さらに,国内での個体数増加に反し,渡来地数は増加していないため,多くのマガンが少数の渡来地に偏っていることが,保全上,また農業被害を解決する上でも,大きな問題となっている.本研究では,国内で越冬するマガンの重要な中継地である北海道宮島沼周辺で深刻化している小麦食害問題に対し,マガンの生息地利用に関する生態学的知見から,適切な保全管理策を提唱することを目的とし,以下の項目について検討した.1)食害の現状と被害額の評価, 2)マガンの採食地利用と食害発生のメカニズム, 3)食害防除対策に対するマガンの反応, 4)マガンの分布予測モデルの構築と予防的管理への応用.

被害額の評価は,管理計画を立てる上での基礎的な情報となる.春期の滞在期のおわりに発生した小麦食害は最も規模が大きかったため,春期のおわりに実験的に小麦の葉を除去すると約17%の減収につながっていた.さらに,被害面積と減収率から経済的な被害を算出したところ,食害状況に応じ被害額は年によって大きく異なっていた.よって,食害状況を決定するメカニズムの理解が,予防的管理を行う上で不可欠であると考えられた.

マガンの主要食物である田圃の落ち籾は,小麦の葉や畦草と比べると栄養価は高いが,密度の減少と共にその摂取率は低下すると考えられる.そこで,マガンの採食地の選好性の変化を調査すると共に,田圃の落ち籾密度とマガンの採食行動の変化を調べた.マガンの田圃への選好性は年間を通じて高かったが,春期の終りには田圃内から畦に選好性が移行し,また小麦圃場の利用も増加した.落ち籾密度と田圃におけるマガンの採食効率は時間と共に低下したため,落ち籾の減少による田圃の相対的価値の減少が小麦利用を促す主要因であると考えられた.

マガンの空間分布パターンの理解は,被害対策を空間的にどのように実施するかを考える上で重要である.マガンは,秋期にはねぐらである宮島沼に近い田圃を多く利用した.秋期には落ち籾が一様に豊富であると考えられ,マガンは移動コスト節約のため,沼の近くで採食したと考えられる.しかし,その結果,沼の近くでは落ち籾が減少し,翌春マガンは秋期に利用しなかった沼から遠い田圃に採食域を広げ,また, 沼の近くでは小麦圃場に採食域を広げたと考えられる.

野生動物被害に対する防除対策の有効性は対象動物や環境条件によって変わるため,その有効性評価が不可欠である.そこで, 爆音器やかかしなどの防除器具の設置状況とマガンの小麦利用との関係を調べた.防除器具は各圃場からマガンを防ぐのに有効であったが,沼の近くの地域で防除が徹底された結果,防除が徹底されていない地域に食害が移動していた.一方,ヨーロッパでは代替採食地と呼ばれる管理された草地にガン類を集めることによって,農業被害を防止している.そこで,屑もみを実験的に散布した代替採食地でマガンの利用状況を調べ,マガンが誘致可能であることを明らかにした.

動物の分布予測モデルは,時空間における被害リスクを予測し,農業被害対策を計画する上で非常に有効なツールになる.さらに, 実行に多額の資金が必要で検証が困難な管理方法の検証にも使用できる.群れで採食するマガンの場合,他個体から得られる採食地の情報も意志決定のプロセスに加える必要があるが,そのような情報を適切に組み込んだ研究はされていない. そこで,他個体から得られる情報を個体の意志決定プロセスに取り組んだ新しい行動ルール(群れ採食ルール)を提唱し,マガンの採食地利用の研究で得られた知見をもとに,空間明示の行動ベースモデルを構築した.群れ採食ルールは,他の行動ルールと比較して,より多くのマガンの分布パターンを予測できた.しかし,秋期における群れサイズなどのいくつかのパターンにおいて,予測と現実の間に定量的,定性的な相違がみられた.比較的良い合致がみられた春期のおわりの小麦食害パターンに関して,このモデルを用いて防除器具の配置や代替採食地の数がマガンの小麦利用程度に与える影響を調べた.

以上より本研究では,マガンの採食地利用のメカニズムを理解することによって,効率的で生物学的根拠に基づいた保全管理策を提言することができることを示している.さらに,得られた生態学的知見をもとに,様々な管理方策や農地利用の変化がマガンの採食地利用に与える影響を予測することの重要性をも示している.したがって,本研究は学術上,応用上貢献するところが大きく,審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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