学位論文要旨



No 118442
著者(漢字) 藤井,朋樹
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,トモキ
標題(和) 環境と開発 : 教育面への数量的接近
標題(洋) On environment and development : quantitative approach to educational aspects
報告番号 118442
報告番号 甲18442
学位授与日 2003.04.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第440号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 大勝,孝司
 東京大学 教授 松原,望
 東京大学 教授 高木,保興
 東京大学 教授 加藤,道夫
 東京大学 教授 荒井,良雄
内容要旨 要旨を表示する

教育が環境と開発の問題に対して重要な役割を果たすことは広く認識されており、アジェンダ21では、「持続可能な開発を促進し、人々の環境と開発の諸問題に対処する能力を向上させるのに、教育は決定的に重要である。」と謳われている。しかし、教育が環境と開発の問題に対処するのにどの程度有用か定量的に把握されているわけではない。その一方で、教育プログラムに利用できる資源には限りがあり、しばしば他の社会経済開発プログラムのための資源と競合する。従って、他のプログラムとのトレードオフを考える際に、教育の持つ便益を定量的に評価することは必要不可欠である。このことを踏まえ、本研究では環境と開発の問題の教育面への数量的な近接を試みることとし、具体的な事例研究として、カンボジアのデータを用いた分析を行った。

「環境と開発」という言葉には様々な意味があるが、本研究では、環境を「人々が生活する自然的条件」、開発を「人々に機会を与えるものあるいはそうしようとするもの」と捉え、環境と開発を、「開発の過程において、環境を改善する際の障害として、あるいは、環境悪化の結果として生起する諸問題」と定義した。これらの定義の特徴は、人間中心主義の立場が取られていることであり、人々にとっての意味や価値を出発点としていることが、本研究を貫く思想であるといえる。

環境と開発の教育面を厳密に扱うために、本研究では教育の持つ役割のうち、分析の対象を限定し、三段階に分けて研究を行った。第一段階では、人的資本理論を理論的背景として、教育を経済的なリターンを伴う投資として考えて計量経済分析を行った。カンボジアのような貧しい国家においては、この人的資本理論の考え方は特に有意義であるといえる。それは、人々の最も原初的な欲求、すなわち、Maslow のいう、生理学的欲求や安全欲求の充足が所得の増大と非常に密接に連関しているからである。

計量経済分析は具体的には次のように行った。Civil Insecurity Baseline Survey 1998 およびCSES 1999 のデータを用い、人的資本理論に基づき、教育と識字率が消費を説明する際にどうした役割を果たすかを調べた。この際、応用分析では従来現在軽視されがちであったデータの質の問題に留意し、2つのデータを組み合わせたことはこの分析の特徴であるといえる。恣意的なモデルの選択から生ずるバイアスを避けるために、系統的な手法が用いられ、数多くの観測可能な変数から説明変数が選択された。その結果、配偶者の教育およびリテラシーが、家計の支出の決定に有意な説明変数であり、戸主に附帯する係数さえ上回っていることがわかった。このことは、カンボジアでは教育を受けた読み書きの出来る配偶者が、家計の消費に関する判断や所得水準の決定に関して、有意な役割を果たしている可能性があるということを示唆している。さらに、ロジット回帰の結果によると、両親、特に戸主の配偶者が貧しく教育水準が低い場合には、子供が学校へ行く確率は低いということがわかった。この分析結果は、カンボジアでの配偶者教育に関する最初の結果であり、経済発展における母親や女子児童の教育の重要性に関して既に存在する知識に、カンボジアでの新たな結果を付加するものである。そして、この分析結果から数多くの重要な政策的なインプリケーションを導出することができる。

こうした数多くのインプリケーションのうち、本研究で特に重視するのは、次世代以降における意味合いである。つまり、両親、特に戸主の配偶者が貧しく教育水準の低い場合には、子供が学校へ行く確率は低くなり、貧しく教育水準の低い家庭が再生産されてしまうということである。このような、負の循環を断ち切るためには、貧しい家庭でも教育が受けられるようなプログラムを実施することが必要である。カンボジアの場合、こうした教育プログラムに利用できる資源は限られている。憲法上は初等・中等教育は無料であるとされているが、実質的には、これは努力目標に過ぎない。それゆえ、現実問題に対処するためには二つのことが必要である。一つは、利用可能な資源を増やすことであり、もう一つは、それを効率的に利用することである。

貧しい人々のために利用可能な稀少な資源を効率的に利用する方法として用いられるのがターゲティングである。研究の第二段階では、教育プログラムのターゲティングに焦点があてられた。ターゲティングには、自己ターゲティングや地理的ターゲティング、これらを組み合わせたものなど様々な種類が存在するが、ここでは、地理的ターゲティングを焦点に据え、貧しい人々のいる場所を特定し、学校給食プログラムための候補地域を選定するための計量経済学的なアプローチを議論した。

この分析には、CSES1997 とカンボジア人口センサス1998 のデータを組み合わせて用いた。そして、Elbers, Lanjouw およびLanjouw によって開発された小区域推定法と呼ばれる技法を用いて、コミューンごとの貧困率を推定し、これを各コミューンの位置情報とリンクさせることでカンボジアの貧困地図を作成した。小区域推定法は、消費を被説明変数とする回帰分析を行っているという点で第一段階の分析と類似する点をもつが、回帰分析の結果をセンサスのデータに外挿しており、手法や目的の点で差異がある。

貧困地図は、貧しい人々のいる場所を特定し、貧困撲滅のためのターゲティング政策を立案するのに非常に有用な情報を提供するものである。また、地理情報システムを用いて貧困地図を他の地図と重ね合わせることにより、教育プログラムを始めとして、様々なプログラムのターゲティング政策立案補助に用いることが可能である。本研究では、学校給食プログラムを例として取り扱った。

この学校給食プログラムとは、広義には学校給食を始めとして、子供が学校へ行かせるようなインセンティブを与えるプログラムを指し、学校での給食の配給の他に、児童が一定期間以上学校に出席した場合に、現金を支給したり、家庭用の食糧を配給したりするスキームも含まれる。学校給食プログラムの地域を選定するのに、初等教育指標を地図化したものを作成し、貧困地図と重ね合わせた。この方法により、恣意的な政治的影響を排除し、より透明で効率的な資源分配を行うことが可能になる。

この分析の特徴として、いくつかの点を指摘することが出来る。第一に、カンボジアの貧困地図は、小区域推定法のアジアにおける初の応用例であり、この方法の有効性を示す経験的な蓄積への貢献となった。第二に、この分析には、以前の研究と比較して、数多くの地理情報データが用いられている。このことは、先行研究より位置に特有な影響のうち体系的に説明可能な部分が多くなることを意味している。第三に、学校給食プログラムの地域の選定への貧困地図化の技法の応用は、考え方としては単純だが新しい方法であり、どのようにして異なる種類のデータを組み合わせ、どのようにして最貧困層へ資源を分配することが出来るかを明確に示すものである。

学校給食のターゲティングを始めとして、諸政策が成功し、開発が順調に進めば、所得の向上に従い、人々の欲求は生理的欲求・安全欲求から、Maslow のいう帰属欲求・尊敬欲求・自己実現欲求へと階層構造の上部に進むことになる。これらの欲求を充足するには、自己と人間社会のつながりや人間社会と環境のつながりの理解が重要となり、これに伴って、所得の向上という人的資本理論の枠には収まりきらない役割が教育の中で増大する。こうした理解を促進するためには、基礎教育の枠を超えた、より広く深い教育が必要とされる。環境教育もそのような広く深い教育の一種と考えることが出来る。

第三段階では、議論の焦点を環境教育に絞り、その恩恵を、行動経済学的に扱う。環境教育に便益が存在することは一般に認められているが、その便益を定量化するための堅牢な理論的枠組みは存在しない。新古典派経済学の枠組みの中では、通常、個人の合理性に基づき、冪級数的割引が想定されており、環境教育により、自己の行動の長期的影響を考慮し、環境への理解を深める、といった考え方とは相容れない。なぜなら、個人は合理的なので、教育によって更に高い効用水準を実現することは不可能だからである。

一方、心理学的には個人が冪級数的割引を行ってはおらず、自制の問題を個人がしばしば持つことを示す証拠が存在ある。さらに、環境悪化は、近視眼的な便益が長期的な費用に優先されるために起きることが多く、自制の問題の文脈で理解することが出来る。本研究では、環境教育により、非合理的な個人が自身の行動の長期的な影響を理解し、合理的に行動できるようになると考え、動的計画法の議論を敷衍することで、環境教育の便益が測定できることが示した。この便益には、洗練化と合理化の2種類があり、洗練化の影響は必ずしも正ではないが、合理化の影響は正であり、これらを合計した環境教育の便益も正であることが示し、数値的に例証した。

自制の問題という枠組みでは、環境教育の便益うち十分に捉えられない部分もあるが、本研究の理論は、環境教育の便益の最も重要な側面を測定する方法を明らかにした。この理論は、不確実性の導入や複数のプレーヤーの導入など、様々な方向へ発展する可能性を秘めている。データが集まれば、貧困地図化の技法を応用することにより、環境教育プログラムのターゲティングにも利用可能である。第一段階から第三段階までを通して、本研究が示した数量的接近は、環境と開発の問題に対処する際に必要な意思決定をより適切に行うのに有用であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

アジェンダ21でも謳われる通り,「持続可能な開発を促進し,人々の環境と開発の諸問題に対処する能力を向上させるのに,教育は決定的に重要である」は広く人々の是認することである.しかし,これまで環境と開発の問題に教育がどの程度重要な役割を持つのかについて数理的な理論研究を行った例は見当たらない.他方,教育は実施する国や地域の事情に応じてなされるべきで,しかも財政能力の乏しい国々では教育プログラムへの資源配分はことに効率的に使用されるべきである.そのため教育や貧困に関わる現状分析をきめ細かく実施して,その結果を教育政策に反映させることが強く求められる.

論文提出者は上記の課題に対して3段階の研究成果を本論文で示した.

開発途上国のカンボジアを対象国として,所得水準あるいは子供の登校に関する要因分析として人的資本理論に基づく計量経済分析を詳細に行い,貴重な知見を得た.例えば,戸主の配偶者の教育水準が低い場合には,児童の登校率も低く貧困の再生産を起こしやすいという知見が得られた.なお分析にはCIBS1998およびCSES1999と言った性質の異なる社会調査データを組合わせて用いるため,統計的吟味を慎重に行った.

同じくカンボジアを対象国として,標本規模と質問項目に違いの大きい2種類の社会調査データおよびGISデータの組合わせデータを用いて,小区域推定法を応用した巧みな計量経済学的分析により行政最小単位(コミューン)の解像度で貧困地図を策定した.初等教育指標を地図化したものとこの貧困地図とを重ね合わせることにより,例えば学校給食プログラムを実施する場合などに,適切な地域ターゲットを定めるのに有効であることを示した.この分析結果は世界銀行や各種NGOなどでも引用されている.この種の分析は珍しくアジアでは最初の例であると思われる.以前の研究例に比べ多くの地理情報を用いた点でも優れている.

環境教育によりどの程度の便益が生じるのかを定量的に把握するために行動経済学的知見を基にした,動的計画問題形式による一つの理論的枠組みを提唱した.ここでは,現実の人間は限定合理的であるが教育によって経済学的により合理性を持った人間に変化するとの前提で,それぞれの人間が長期間に取得する便益の差を計量している.限定合理的な場合には将来の予定と実行の間に”時間不一致”があることに着目し,割引関数に違いを持つ3つのパターンを想定して論じた.具体的計算例として,非更新性資源の収穫と枯渇の意思決定問題に関して,各種の限定合理性のケースに対し教育効果などのシミュレーションを試みた.これは環境教育の効果に関する定量的理論としては画期的なものといえる.

申請者が開発途上国カンボジアにおける環境と開発に関わる教育の現状を鋭く分析し,かつ教育プログラムの効果的な実施に必要不可欠な貧困地図を詳細かつ巧みな分析により作成したことの功績は大である.その上環境教育の効果を測定するための理論的枠組みを構築し定量的かつ多角的に解明した学術的功績も大である.したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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