学位論文要旨



No 118443
著者(漢字) 周,程
著者(英字) ZHOU,CHENG
著者(カナ) シュウ,テイ
標題(和) 東アジア近代科学啓蒙思想の形成と展開 : 福沢諭吉から陳独秀まで
標題(洋)
報告番号 118443
報告番号 甲18443
学位授与日 2003.04.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第441号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 教授 村田,純
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 講師 岡本,拓司
 日本大学 講師 加藤,茂生
内容要旨 要旨を表示する

近代社会への移行期において、西ヨーロッパ各国で行われた啓蒙運動は現れ方に一定の違いがあるにもかかわらず、理性・科学を唱えて宗教的蒙昧主義に反対し、自由・民主を唱えて封建的専制主義に反対するという点で一致していた。したがって、われわれが科学と民主を提唱することを西欧啓蒙の真髄と見なしてもいい。啓蒙運動は真っ先に西ヨーロッパで現れたが、それは西ヨーロッパの特有の現象ではない。東アジアでも同様に封建社会からブルジョア社会へ移行する際に、理性・科学と自由・民主を唱え、因襲・迷信と封建・専制に反対する啓蒙思潮が興った。例えば日本の場合、幕末から明治初期にかけてそれが見られた。とくに明六社に参加した人たちによって展開された思想は基本的に啓蒙思想の性格を備えていた。中国では、清末から民国初期にかけて、啓蒙思想の展開を見ることができる。とくに民国初期『新青年』を中心に結成されたグループが推し進めた新文化運動は、しばしば啓蒙運動と称される。しかし、東アジアの啓蒙思想は、ある程度、西ヨーロッパの啓蒙思想と同様な内容を持つとはいえ、そのおかれた歴史的・文化的な条件が異っていたため、西ヨーロッパの啓蒙に見られないさまざまな問題を抱えており、西ヨーロッパの啓蒙と異なったさまざまな様相を帯びたわけである。しかも、東アジア内部でも、とくに日本と中国との間で社会構造や、文化風土などが同様ではないから、日中両国の啓蒙思想が現れた特徴はかなり違う。これまで、日本、あるいは中国の啓蒙思想を取り上げる研究はすでに数多く出ているが、東アジアを一つの全体としてその啓蒙思想の展開を浮き彫りにするものはまだ多くはない。そこで、私はは重点を日中両国の代表的な啓蒙思想家福沢諭吉と陳独秀を選んで彼らの思想を究明することを通じて、東アジアにおける啓蒙思想、とくに近代科学にかかわる啓蒙思想の形成およびその主な特徴の解明の一助としたいと考える。全文は序論と六章から構成している。前三章は福沢諭吉の科学啓蒙思想を研究対象とする。第四章は、第一のアヘン戦争から新文化運動期にかけて中国の思想界の変動を描くものである。第五、六章は陳独秀の科学啓蒙思想を扱う。終章はまとめである。序論及び各章の主な意図は次の通りである。

「序論」は、本研究の準備作業に充てられている。東アジア啓蒙思想の研究の必要性及び本研究の問題設定をここで示した。そして本研究の方法にも触れた。歴史研究に実証的方法が必要になる一方で、解釈的理解も不可欠である。つまり、歴史研究は史料の整理と事実の考証に終始してはならない。それをもたらした思想的社会的深層構造をも考察すべきなのである。また歴史研究の目的は単に過去の事実の発掘にあるのではなく、現在の問題の解決にある。本研究ではこの方法が意識的に応用された。

「第一章 福沢諭吉における啓蒙理念の形成」では、福沢がなぜ幕末維新初年において啓蒙の決意を固めたのか、あるいは福沢の啓蒙思想の根底をなす啓蒙理念がどのように形成したのかを考察した。

「第二章 福沢諭吉における科学啓蒙思想の展開」では、主として明治初期における福沢自身の儒学と科学に関する論述に基づいて、旧来の学問に対する批判と新しい学問の唱道についての実像を再構成しようと試みる。

「第三章 福沢諭吉における啓蒙思想の転回と蹉跌」では、主に明治10年代に入ってから、福沢がしだいに啓蒙路線から離れて、ついに科学帝国主義者と宗教利用論者になる思想の変化過程を明らかにしたいと思う。

「第四章 清末における近代社会への思想変動」主としてアヘン戦争の敗北から辛亥革命まで、中国の思想変動はどのように展開したのかを描くものである。この章で鄭観応、康有為、張之洞、厳復、梁啓超などの19世紀の中国思想家の思想に触れた。

「第五章 陳独秀における「民主」と「科学」−−新文化運動期を中心に−−」では、主として「民主」と「科学」というスローガンがどうのように提起されたのか、また新文化運動期において、陳独秀がどのように進化論をもって「デモクラシー」を提唱し、Tサイエンスjをもって宗教と迷信を批判したのかを論議したい。

1920年代、中国で「科学と人生観」論争が行われた。この論争の中で、陳独秀は、どのように科学の旗を守っていたのか。また、その後、反封建主義と反帝国主義の闘争のなかで陳独秀はどのように根元的な民主主義を堅持し続けたのか。「第六章 陳独秀における啓蒙思想の深化と発展−科学と人生観論争」期を中心に−」では、主にそれらの問題に答えた。

以上の考察を通じて、われわれが次のようなことがわかった。啓蒙路線から大きく逸脱した福沢諭吉と異なり、陳独秀は自分が民国初期に形成した、「サイエンス先生」と「デモクラシー先生」によって「中国の政治・道徳`学問・思想上のすべての暗黒」を癒すという理念を終始堅持し続けていた。それのみならず、後に彼はいっそうその内容を充実・発展させた。それは、福沢諭吉を始めとする日本啓蒙思想家より凡そ半世紀遅れて登場した賜物であるといえるかもしれない一方で、近代中国思想が必ずしも日本の近代啓蒙思想に全面的にひけをとるものではないことをも明確に示している。陳独秀は主権が帰すべきところとして「民主」をとらえ、蒙昧主義に対抗する精神の刃として科学的批判精神を強調した。だが不幸なことに、それらは後にさまざまな原因によって中国で十分に理解・重視されなかった。最後には、文化大革命のような専制主義とアナーキズム、蒙昧主義と科学主義が混合して一体になる奇形胎児が生まれてしまう結果になった。

「ポストモダン」思想のはびこる現代世界、とりわけ日本では、科学・理性・自由・平等などのスローガンを大声で唱える啓蒙思想家たちの理念は時代遅れであるかのごとく見なされている。しかし、そういった議論を行う者の多くは、「科学」をごく一般的に否定的に見ることによって批判的精神を喪失してしまい、権威とドグマに抗する精神を冷笑する態度において、啓蒙時代以前の思想水準に帰ってしまっているように思われる。「民主」という理念がけっして時代遅れになっていないのと同様、啓蒙思想家たちに高く掲げられたような「科学」の精神は、いまも生きている。とくに中国では生き続けるべきである。それは、かなりの程度、日本でも同じではないであろうか、という思いが筆者の心をよぎる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近代東アジアの近代科学技術に基づく啓蒙思想の成立と発展について論じた力作である。

周程氏は、まず、西欧近世の啓蒙思想と後発の東アジアにおける啓蒙思想を比較し、19世紀中葉以降の中国と日本の啓蒙思想研究の意義について述べ、東アジアで最初に伝統的な儒教思想を全面的に否定し、近代科学的理性に基づいた福沢諭吉における科学啓蒙思想成立から中国の新文化運動の指導者陳独秀を比較する研究方向を打ち出す。

本論文の前半部分は、福沢諭吉の自由思想(ないし独立思想)、科学思想、その転回について議論している。福沢が東アジアで儒教思想を否定し、近代西欧思想を採用することに踏み切った学問史的意義を高く評価し、その科学思想の内実を丸山眞男らの先行研究により、あるいはそれをも乗り越えて理解しようとする。『学問のすゝめ』や『文明論之概略』には、批判的知性の思想的核心ともいえる懐疑主義思想もが盛り込まれていることを確かめている。しかし、朝鮮や中国など対外関係では、早くから科学技術を利用した「帝国主義的」侵略の芽もが胚胎していたことを確認し、その点で、啓蒙主義的理想主義が晩年まで保持されていたと論断していた丸山の認識が不十分であることを指摘している。

福沢の議論に付随して、近代的語彙としての「科学」、「物理学」などの成立を中国語・日本語の発展史の中に位置づけている点も独創的な貢献である。

後半の陳独秀に関する議論では、陳が唱えた「民主」と「科学」の思想的意味が被抑圧民族に依拠した民主主義思想であり、また迷信などに抵抗する思想が科学思想の中核をなしてしたことを確認し、その意義は、陳が1920年にマルクス主義に転換してからも深まっていったと論定している。科学と倫理学の相互連関、優劣について論争しあった「科学と人生観」論争の分析も、これまでの日本では紹介されてこなかった論点である。

全体として、福沢の科学啓蒙主義が中途挫折で終わっているのに反して、陳の「民主」と「科学」の概念が現在でも生き続けていると結論している。

本論文の独創的貢献をもっと詳細に述べれば、以下のとおりである。

福沢諭吉の啓蒙思想の意義と限界を、後発の陳独秀の思想と比較して論じ、一般に、近代日本の科学技術を取り巻く学問史的状況を明解に論じたこと。

陳独秀の民主主義思想の普遍的意義を確認し、近代中国での科学と伝統倫理思想との相克の様相を明らかにしたこと。

本論文は、日中の代表的科学啓蒙思想を比較史の方法で解明しようとした学問的先鋭さ、学問的意欲の点で際立っている。単行本として中日双方で公刊すべき業績であると認められる。さらに彫琢すべき論点は多様であるが、それは学位取得後数年間の学問的課題とすべきであろう。審査委員全員は、本論文をもって学位取得のためには十分であると判断し、周程氏が中国・日本を中心とする東アジアで第一線に立ちうる科学史家であると判定した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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