学位論文要旨



No 118447
著者(漢字) 高,士華
著者(英字) Gao,SHI HUA
著者(カナ) コウ,シカ
標題(和) 近代中国における国境意識の形成と日本 : 間島問題をめぐる宋教仁と呉禄貞の活動を中心として
標題(洋)
報告番号 118447
報告番号 甲18447
学位授与日 2003.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第401号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 総合文化研究科 教授 並木,頼寿
 一橋大学 教授 江夏,由樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文は1907年8月から1909年9月までの間島問題をめぐる中日外交交渉を通じて、近代中国における国境意識の変容とそれと日本の関係を究明しようとする。

1907年8月、日本政府は吉林延吉庁(今の吉林省延辺朝鮮族自治州)統監府間島臨時派出所を開設したから、中朝の国境問題を中朝交渉から中日交渉に移させて、所謂「間島問題」が始まった。二年間余りの交渉を経て、ついに1909年9月「間島協約」を締結した。宋教仁と呉禄貞はその交渉に加わって、積極的に行動し、著作も残した。本論文は両氏の間島交渉についての役割と著作を徹底的に分析し、中国の国境意識は清朝前期から近代にかけてどのように変容したか、両氏は日本のどのような国境意識の影響を受け、交渉の中でどのような役割を果たしか等を究明する。また近代中国における国境意識の政治的性格も把握しようとする。総じて間島問題の交渉が近代中国の国境意識の形成史における位置と意義を明らかにしようとするものである。

本論文の構成は以下の通りである。

資料・構成と問題意識

研究現状と論争点

問題意識と目的

歴史としての間島問題

清朝から近代までの間島問題

間島問題の原点

清朝政府の国境観

近代から1895年までの問題の中心点

「越墾」問題

乙酉勘界談判

丁亥勘界談判

1896年から1907年までの清朝の解決策とその矛盾

朝貢システムの崩壊と間島問題

ロシア、日本と間島

宋教仁と間島問題

宋教仁の東北における活動

同盟会と間島問題

『間島問題』の完成と出版

呉禄貞と間島交渉

日本の介入

清朝政府の対応

呉禄貞の「辺務交渉」

『調査延吉辺務報告』の完成

宋教仁と呉禄貞の比較

学ぶ対象としての日本と反対対象としての日本

『間島問題』と『調査延吉辺務報告』の比較

両氏の国境観の異同

結論

日本の役割

相手国としての朝鮮

間島問題の歴史的な位置

近代中国国境意識の特徴

相関条約

中日現地交渉の組織

参考資料の目録

序章は史料の整理を通じて間島問題を再研究する重要性を説明し、先行研究の問題点を指摘する、その上で、問題意識と論文の構成を明確にする。

研究史の経緯からみると、間島問題の研究は三つの特徴がある。第一に、清朝前期における中国国境(中朝国境を含めて)の特徴は「暖昧不明論」、「無国境論」などの否定的指摘が多い、第二に、これまでの研究者たち、特に中国と韓国の研究者は間島の領有権をめぐって、自国の領土であることを証明することが多い。第三に、近代中国における国境意識形成史の一環として間島問題を捉えることが少ない。特に、宋教仁と呉禄貞の間島問題交渉に関する役割、そして留日経験がある両氏の国境意識と日本との関係についての研究はおろそかになっている。しかしながら、清朝前期における中国国境の特徴について、近代的国際関係論の角度からの議論があまりにも多いが、前近代における国境の実像を究明することが難しい、そして近代への国境意識の変容を解明することにも不利になる。単純な領有権の論争を超えて、「版図」、「彊域」、「辺界」などという中国の伝統的な概念から、中国に固有である国境の空間構造、理念などを分析して、宗主権時代にある中国国境の全体像から間島問題の流れを把握するほうがよい。そして文化境界と政治境界そして国家安全論の角度から、交錯する文化境界線、政治境界線、国家安全防衛線の消長を具体的に説明して近代中国における国境意識の特徴を究明することが本論文の使命である。近代中国の領土の範囲に規定された境界の研究は、想像的政治共同体として中国近代における国民国家像・ナショナリズムの正体に対する解明にも寄与できると思う。

第一章は歴史としての間島問題の背景を考察する。

「間島」は清朝の「瀧興之地」の一部分として、清朝の1644年「入関」以来、「封禁」政策を取って、間島地域も一時的に政治の空白地となった。19世紀70年代以来、朝鮮の北部からの移民がますます増えてきて、中朝両国の国境紛争であるいわゆる「間島問題」も始まった。

1907年までの間島問題は、「査辺」、「勘界」、「交渉」の三段階で展開する。対応する時代も以下の三つの段階がある。

朝貢関係段階一「査辺」:国境の一方的調査。

朝貢関係下の近代段階一勘界:双方の共同探査。

完全な近代段階一r交淘:国家平等の名義の上で国境紛争の解決。

各段階の特徴を分析すると同時に、清朝の朝貢システム支配下での国境意識、そして近代への変容と矛盾点も解明する。

清朝前期には中華世界を支える超国家的文化境界線を強調し、理想的な国家安全防衛線も政治の国境線から離れ、最も密接な関係があった朝鮮は中国の国家安全防衛線として認識され、中国を守衛する(いわゆるr守在四夷」)。国境についての認識は朝貢システムの宗主権の下で相対化、弱体化された。しかし、近代への変容過程に於いて逆に文化境界線、国家安全防衛線が収縮され、強化、絶対化された政治境界線と統一した。このような歴史背景の変化から考察すると、清朝における国境認識の全体を把握できるであろう。

第二章は間島問題についての宋教仁の関わりを検討する。

宋教仁は日本への留学経験をもつ辛亥革命時の有名な指導者であり、彼の中国東北における革命活動は間島問題の研究のきっかけとなった。宋教仁は1907年3月同盟会のメンバーとして中国の東北に渡り、r馬賊j工作をし、蜂起を計画したが、失敗して日本に逃れた。いままでの研究は宋教仁の東北活動について不明点がいくつかあり、本章はその真相を解明し、そして同盟会は革命組織として聞島交渉にどの程度関与したかも実証する。宋教仁は日本に戻って様々な資料を見つけ、間島が清朝の固有領土であることを証明する『間島問題』を著し、1908年8月上海で出版した経緯を明らかにする。そして宋教仁の利用した資料、論拠などの徹底的な分析を通じて、宋教仁の国境意識の形成と日本からの影響を明らかにする。

第三章は呉禄貞の間島交渉についての活動を解明・分析する。

呉禄貞は日本陸軍士官学校の清国留学生一期生として卒業し、帰国した後、革命派軍人として湖北、北京で活躍し、1907年東三省総督徐世昌の招請に応じて東三省督練処総辮を任命され、まもなく日中の国境が起きた吉林省延吉庁に派遣され、そして辺務誓辮、督辮として主な間島交渉に参加し、日本側と激しく対抗した。呉禄貞は間島交渉の中でどのような役割を果たしか、また日本側がかれにどのように評価したかなども整理する。呉禄貞はさらに中国の主張を示すために、『調査延吉辺務報告』をまとめ出版させた。「官爵と言われた町調査延吉辺務報告』はどの程度清朝政府の意思を反映したか、思想の面で日本の影響があるかどうかなども深く分析しようとする。

第四章は宋教仁と呉禄貞は比較する。

両氏の日本の留学経験は彼らの思想にどんな影響があるか、この影響は日本の思想か、ただの日本からの思想か、或いはこの影響は思想なのか、思想の材料だったかなどについて、宋教仁の『間島問題』と呉禄貞の『調査延吉辺務報告』を利用して分析する。それ以外に、宋教仁と呉禄貞の比較もおこなう。両氏とも日本に留学した経験があり、革命派でもあり、間島問題の交渉に加わった目的も同じである。要するに清朝「政府」のためではなく、中国「国家」の主権、領土を守るために、国境交渉に積極的に行動した。しかし、.両氏は留学の時期が違い、見方を表明する立場も異なる、呉禄貞は清朝の官吏で、宋教仁は単なる民間人である。そして宋教仁の『間島問題』と呉禄貞の『調査延吉辺務報告』とはいくらかの相違点がある。それらの相違点の比較を通じ、両氏の国境意識の原点を探し求め、そしてその原点と伝統的な国境意識の関係、日本での影響の有無、もしあるならばどの程度であったかなどを究明しようとする。

結論は近代中国における国境意識の性格及び機能の形成と日本の関係を総括する。

両氏は国廃を越えて日本で学んだ近代的知識を利用して、日本の中国に進出と対抗して間島問題の交渉を成功させ、中国の国境を再構築することに力を尽くした、ここには中国における近代国境形成史の中での日本の役割の両面性が典型的に表われた。

日本における陸上国境の思想の不発達と近代國際法の特性によって、日本からの国境意識の影響は思想よりむしろ思想の材料ほうが多いとはいえるであろう。

実際の間島交渉は三国両方と関係がある、しかしながら、当事国としての韓国の役割がほとんど見られなかった、清朝政府は日本の進出に抵抗した以外、韓国を強く非難し、韓国のナショナリズムも無視され、ここからみると、東アジア近代史の複雑性もみえるであろう。

近代の中国は伝統的な版図が縮小されながらも同時に補強、整備がされ、古い帝国時代の版図が最大限的に保存され、現代の中国の領土となった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「間島問題」をめぐって形作られた清末期中国の国境意識を、日本留学の経験を持つ呉禄貞と宋教仁の活動に焦点を当て、伝統的華夷的辺境意識から国境意識へと変容する様を地政論的に検討した近代中国論である。

現在の中国東北部にあり、朝鮮民主主義人民共和国と境界を接する延辺自治区に大体相当する地域が歴史的には「間島」と呼ばれ、中国・朝鮮・日本の間で「間島問題」といわれる領土・国境問題を生じさせてきた。本論文の第一の特徴は、20世紀初頭における、清国と日本との国境交渉を対象としながら、従来の外交史という枠組みのなかではなく、清国が従来の中華意識に基づく辺境観を、日本との国境交渉の過程で、近代領域国家としての内容に変換させたことを論じており、従来の西洋との関係からではなく、東アジア地域史のなかから、近代国境観を論じようとした点である。

第二の特徴は、呉禄貞と宋教仁という、それぞれは日本陸軍士官学校の清国留学生一期生ならびに日本への亡命・留学の依験を持つ革命派で、ともに日本との間島交渉に当たった二人の人物を取り上げ、彼らの著作ならびに活動から、留学時の国際法の受容を論じた点であり、従来の革命運動家の分析にとどまらない政治外交家としての実績を明らかにしている。第三の特徴は、宋教仁の中国東北地方における足跡を克明に辿る事によって、従来東北地方の辛亥革命期の研究が持つ問題点を、具体的な文献や論点の15項目以上にわたって疑問を呈し、従来の了解の根拠を批判している点である。それによって、これまで全国的に一様な辛亥革命像が描かれてきたことに対して、東北地方が持つ独自の地域的特徴を明らかにした。

上記のように、本論文は、近代中国の境界史研究におけるこれまでの研究史を一新する成果を挙げたものとして極めて高く評価されるが、今後に残された検討課題として、間島問題をめぐって議論された国境意識の形成、日本留学生の国境交渉における役割、辛亥革命期の東北地方の特徴、などの議論が、これまでそれぞれが独立分野として深められてきた研究の全体とどのように関連するのかという点がより検討・整理されなければならないと思われる。しかし、このテーマは、全く新たな資料的・方法的準備のもとに、稿を改めて検討すべきであり、本論文において明らかにされた近代中国における国境意識の形成に関する議論をいささかもそこなうものではないと考える。

本委員会は、上記のような大きな成果をあげていることに鑑み、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当するものであると判断する。

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