学位論文要旨



No 118448
著者(漢字) 高松,洋一
著者(英字)
著者(カナ) タカマツ,ヨウイチ
標題(和) 18世紀オスマン朝官僚機構における文書行政
標題(洋)
報告番号 118448
報告番号 甲18448
学位授与日 2003.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第402号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,次高
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 教授 近藤,和彦
 東洋文化研究所 教授 鈴木,董
 明治大学 教授 永田,雄三
内容要旨 要旨を表示する

オスマン朝史は、中東イスラーム世界の歴史研究の中であって例外的に豊富な一次史料に恵まれており、近年ますます研究が活況を呈している。しかしながら、オスマン朝の文書や帳簿そのものに関する研究は、古文書学と文書館学の双方の分野で乏しく、通説の誤りや未解決の問題も多い。とりわけ各文書様式の機能の解明と、官僚機構の中でいかなる文書行政が行われていたのかという問いに答えることが緊急の課題である。

こうした問題の解決のための多くの糸口を与えうる文書の様式が梗概である。梗概はオスマン朝中央の官僚機構において、地方からの様々な報告をはじめとする上申文書の案件を処理する必要から、提出された文書を要約して作成されたものである。様式の点でも機能の点でも固有の特徴を有するが、これまで梗概の研究は皆無であった。

梗概には、大きく分けて数点の文書をまとめて大型の用紙に項目ごとに箇条書で要約したものと、一項目ないし数項目のみを抜粋して小型の用紙に記したものの2種類があり、前者を包括型梗概、後者を項目型梗概と呼ぶことにする。包括型梗概は原文書とともに君主の奏覧を仰ぐために提出され、包括型梗概の各箇条の上部余白には註釈が書かれるが、それがその箇条に記されている事案をいかに処理したのかを示している。項目型梗概は各項目について大宰相が案件を処理させるため各原文書に代わり担当部局間のやりとりに使用された結果が、補筆されている。

以上が梗概の様式的特徴であるが、この様式を分析した結果明らかになった、梗概がオスマン朝の文書行政においてになっていた機能とオスマン朝官僚機構における受信文書の処理は以下の通りである。まず地方から送られた文書は大宰相府のケトヒュダー書記局で包括型梗概の形に要約される。原文書の内容は箇条書きにされ、それぞれの箇条の上にはいかなる処理を受けるべきか註釈を赤インクで加える。それを受取った大宰相は、それにアーメディー局で起草されたテルヒースを添えて原文書とともに包括型梗概を君主に提出する。君主はそれを点検すると、判断結果をハットゥ・ヒュマーユーンとして自ら筆を執ってテルヒースあるいは梗概の余白に記入し、これらを大宰相に返却する。

返却された包括型梗概の各箇条は別の料紙に書き出されて複数の項目型梗概が作成され、多くの場合大宰相によって財務長官に処理を命ずるブユルルドゥが余白に記される。これを受取った財務長官は、各項目型梗概に関連する勅令その他の記録を調査させて結果を余白に記入させ、テルヒースという様式の答申文書を作成して大宰相に提出する。

大宰相はこれを受けて大宰相府内の御前会議局に勅令の起草と財務長官府内の関係部局に勅令の内容を通知するようにブユルルドゥの様式で命令を下し、最終的に勅令の起草と財務長官府への通知が行われる。この過程において梗概のテキストは文書処理の過程で形を変えながら、勅令のテキストへと結実していく。

以上のように梗概はオスマン朝の官僚機構の二大部局である大宰相府と財務長官府の円滑な情報交換の媒体となる役割を果たしていたとも言える。

また、包括型梗概の本文中に実際に到着した文書の点数と種類が明示されることから、当時オスマン朝の官僚機構において、当時の通信の実態がどのようなものであったか、また文書の種類がどのように認識されていたかが判明する。これによって従来文書の様式の名称であると信じられてきたタフリーラートは、独自の様式をもった文書の種類ではなく、文書の一般的な総称に過ぎないことも明らかである。

このように梗概は、オスマン朝中央政府において地方からの情報の実際の伝達に使用された文書として、政策決定過程と文書行政の実体の解明に大きな意義を有する史料である。

梗概が官僚機構において受信文書の情報処理の要となる文書様式であったのに対し、こうした情報処理の結果、官僚機構の発信文書として作成されたのが勅令である。勅令はオスマン朝の文書の諸様式の中で最も研究が進んでいるものである。勅令が備えるべき構成要件ははヨーロッパの古文書学の用語にしたがって分析され、早くから明らかにされていた。

しかしながら勅令の正文の伝存量はきわめて少ない。そのため勅令のテキストを知るために、勅令のテキストの控えとして作成された枢機勅令簿が参照されてきた。これまで勅令正文と枢機勅令簿のテキストに異同があることが指摘され、枢機勅令簿のテキストは実は勅令の正文かち写されたのではなく、草稿から書き写されたのであろうと推定されていた。しかしながら、勅令の草稿とはどのようなものであるかという研究は皆無であり、また勅令簿に草稿から写した実例が示されたこともなかった。

そこで勅令のテキストを1枚の料紙に記した文書を検討し、勅令の起草の実態の解明を試みた。ところが勅令テキストを含む文書には、検討の結果4種類存在することが分かった。

第一のタイプは勅令のテキストの一部分を記したのみのもので、余白に勅令の草稿を提出する旨を告げる財務長官のテルヒースがあるものがあることから、これが勅令の草稿であることは間違いない。第二のタイプは第一のタイプと酷似しているが、必ず冒頭に註記があり、勅令の写しであることと、通知のために大宰相府の御前会議局から財務長官府に送られたものであることが記されている。これは第一のタイプの勅令の草稿の写しであることが明らかである。第三のタイプはやはり通知のために大宰相府の御前会議局から財務長官府に送られたことが、本文の中にしるされているもので、これも勅令の内容を伝えるものであるが、前述の全てのテキストが全て1人称単数で君主自らが二人称の名宛人に語りかける文体をとるのに対し、こちらは3人称で内容が書かれているという特徴がある。これは「通知のカーイメ」という名称をもっている。第4のタイプは勅令のテキストが記されているほかに、それが作成された財務長官内の部局名と「書かれるように」「書かれた」という註記が残されているものである。これは従来の研究で「勅令覚書き」と呼ばれているもので、財務長官府内で起草された勅令の原案を大宰相府に伝達するために作成されたことが分かっている。

さて勅令と枢機勅令簿、草稿の3者を比較すると、従来の主張通り草稿と枢機勅令簿のテキストが一致することが確認された。さらに文章の加筆修正の痕跡に着目し、テキストの変化の跡をたどると、時間軸にしたがって草稿、枢機勅令簿、正文の順で作成されることが明らかになった。従って枢機勅令簿のテキストは、従来の研究で指摘されたように正文の構成要素を部分的に記録したものであるばかりか、テキストに異同が存在する可能性があると指摘できる。つまり枢機勅令簿はあくまで勅令草稿の控えに過ぎないのである。

さて勅令の草稿は枢機勅令簿に書き写されただけでなく、別の料紙に複写されて、大宰相府から財務長官府への通知として用いられた。これが上記の第2のタイプに相当する。また1人称の直接話法ではなく、3人称の間接話法でしるされた「通知のカーイメ」も同じように大宰相府から財務長官府への通知として用いられた。これらは双方とも財務長官府内の主計局をはじめとする部局の帳簿に記録され、勅令のテキストというかたちで情報は蓄積され、部局間で共有されていた。

一方勅令のテキストは、帳簿に記録されるだけでなく、帳簿から書き抜いて別の文書に書き写された。この記録と対をなす行為を der-kenar と呼んだ。帳簿の記録を抜書きすることで、先例を示し、また新たな勅令のテキストの土台を提供した。このためオスマン朝の官僚機構における文書行政の柱となるのは、勅令テキストを帳簿に記録することと、それから抜書きすること、すなわち情報のインプットとアウトプットの繰り返しであった。

以上のようにオスマン朝の官僚機構における文書行政は地方からの受信文書の処理と、発信文書としての勅令の送付および記録というサイクルを単位に行われてきたことが分かる。そしてオスマン朝が残した文書のかなりの部分が以上のようなサイクルのどこかに位置づけることが可能である。

またオスマン朝の官僚機構において情報の蓄積は勅令の帳簿の形で行われたために気づきにくいが、一点の勅令発行の背景には実に多くの文書が作成され、回覧されていたのである。こう考えると、今日伝存するオスマン文書が文書総体のうちのわずかな部分に過ぎないことが理解されるのである。またいかなる文書もそれ自体が独立して存在するのではなく、上記のようなサイクルの中で生産され続けたオスマン朝の文書群総体のコンテクストの中で初めて正しく解釈されうるのである。

史料価値という面で考えれば、情報の詳細さや本源性ということを考えれば、梗概の原文書となった地方からの上申文書がすぐれていることは明らかである。しかしそれがどのように解釈され、処理されたかを知るには梗概を参照する必要がある。処理の結果のみを知るためであれば、散佚している可能性が高い勅令正文に代えて、情報の蓄積度の点で勅令の帳簿は最も優れているが、省略された定型句を除いたことを考慮しても、その本文が実際に地方に送られた勅令正文のテキストと完全に同一である保障はないことも事実である。また勅令を記録した帳簿には誤記も散見されることから、個々の問題に関しては並行して作成された文書や記録も参照する必要が生じる場合もあるであろう。

オスマン朝史は豊富な文書史料の恩恵を受けて今後もますます発展が期待されるが分野であるといえるが、史料を探索する場合に、また発見した史料を研究に利用する際に、官僚機構内の文書行政の中にそれを正しく位置づけることがまず前提とならなければならないのである。

審査要旨 要旨を表示する

論文「18世紀オスマン朝官僚機構における文書行政」は、オスマン朝史研究の主要史料として利用されてきた各種文書の様式と機能を解明し、官僚機構のなかで、いかなる文書行政が行われていたかという問いに答えることを第一の課題としている。それは、内外の研究者による文書の利用は盛んであるにもかかわらず、対象の文書がどのようにして作成され、また送付・受理されていたかを理解することなく研究が進められてきたからである。筆者は、18世紀に作成された1800点の文書を精査・分析することによって、文書行政の仕組みを明らかにし、歴史研究の基盤づくりに貢献することを目標にしている。

本論は、2部から構成され、第1部は受信文書としての梗概(地方から送られた上申書の要約)を分析し、第2部は発信文書としての勅令を検討する。梗概には、数点の文書をまとめて要約した包括型梗概と、一部を要約した項目型梗概の2種が存在する。これらの文書群を整理・分析した結果、地方から送られた文書は、まず大宰相府で要約され、大宰相はこの梗概と原文書を君主に提出して裁可を受ける。この裁可にもとづいて、大宰相は財務長官に処理を命じ、その返答を受け取ったうえで君主の名による勅令を発行した。勅令については、その正文が残されていることはまれであるが、筆者は勅令の草稿と勅令の正文、および枢機勅令簿(勅令の控え文書)とを比較・検討することによって勅令の起草の実体を明らかにすることを試みた。その結果、一連の文書は、草稿、枢機勅令簿、正文の順で作成され、枢機勅令簿の文書、正文との間には内容に異動のあることが確認された。以上のように、本論文は、受信文書と発信を体系的に分析し、18世紀オスマン朝における文書行政の仕組みを具体的に解き明かしている。史料として添付されたオスマン・トルコ語文書の翻訳も実に正確である。ただ、文章表現に工夫を必要とする部分が散見し、この文書研究をオスマン朝の行政史・国政史研究にどう生かすかということも今後の課題であろう。しかし、これまで等閑に付されてきた文書行政の仕組みを解明したことは、世界のオスマン朝史研究に寄与する貴重な成果であり、博士(文学)論文として十分な評価に値する。

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