学位論文要旨



No 118449
著者(漢字) 中泉,拓也
著者(英字)
著者(カナ) ナカイズミ,タクヤ
標題(和) 不完備契約理論の応用研究
標題(洋)
報告番号 118449
報告番号 甲18449
学位授与日 2003.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第168号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,正寛
 東京大学 教授 神取,道宏
 東京大学 教授 松井,彰彦
 東京大学 助教授 松村,敏弘
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

第1章は近年の不完備契約理論に関するサーベイと不完備契約理論に関する理論的基礎付けに関する議論の整理である。以下2〜4章の要旨を示す。

第2章 ホールドアップ問題解消のためのプロダクトシステムのデザインにむけて

組織内等での競争促進の手段として、トーナメントメカニズムがある。ここでは、トーナメントの賞(prize)として賞金ではなく、仕事(task)が与えられ、かつ仕事(task)とそれによる利得が事前に契約に書けない不完備契約の状況で、トーナメントが機能するようなプロダクトシステムのデザインについて検討する。

賞として金額が事前にコミットされない場合、トーナメントで得られるアウトカム自体が確固たるものでなく、加えて、勝者が正当に評価されるかも明らかでない。よって、そもそもトーナメント自体が機能するかどうかさえ明らかでない。ここでは、提供される仕事の性質を特定するようなプロダクトシステムがデザインされ、コミットされると仮定し、トーナメント効果を生み出すようなプロダクトシステムの条件について検討する。

また、上述の不完備契約の状況では、ホールドアップ問題が発生し、事前の投資水準が最適にならないことが知られている。そのため、このようなトーナメント効果の検討は、ホールドアップ問題の軽減のためにトーナメントが利用可能かを検討する意味も持つ。

先ず、勝者にのみ仕事が与えられ、敗者に全く仕事が与えられない場合、敗者の投資水準が無駄になるため、通常の収穫逓減の状態では、非効率となる。よって、以下では、敗者にも仕事が提供されるケースを中心に検討している。

仕事の設定といってもプロダクトシステムのデザインの可能性は数多く存在し、それをあげるにはいとまがない。そのなかで、結論としては、様々なシステムにおいて、勝者と敗者の不可分性(dispensability)が、不完備契約の下でトーナメント効果が得られるかどうかで最も重要であることが示される。まず、両者が不可分(indispensable)すなわち、両者の生産に補完性がある構造のプロダクトシステムを設定する場合、例えば勝者も敗者も同じ完成品への部品を供給するといったケースがあてはまるが、いずれの部品メーカーが欠けても、製品を完成することが出来ず、再交渉の結果分配される事後の利得が平等になってしまう。その結果、トーナメント効果が発揮されないことが示される。

それに対して、両者に補完性がなく、可分的(dispensable)なプロダクトシステムにコミットした場合、例えば、上記ように勝者と敗者が別々の製品に部品を供給する場合、他の部品メーカーが欠けても、製品を完成することが出来る。その結果、再交渉の結果分配される事後の利得も敗者と勝者で差が生じ、トーナメント効果が働くことが示される。

更に、このようなプロダクトシステムがトーナメントをオッファーするアセブラメーカーによって自由に設定できる場合、アセブラメーカーにとっても、トーナメント効果による利得の増加が見込めるため、可分的(dispensable)なプロダクトシステムが採用されることが示される。実際、過去の日本の自動車系列での仕事の割り振り方は、可分型の条件を満たしていたと考えられる。

第3章 多企業間取引における所有権アプローチ

3章では、Hart and Moore [1990]で展開された複数エージェントによる所有権アプローチに取引構造を導入することで、多企業間取引のケースに拡張し、その下で事前のホールドアップ問題を最小化するような所有権の配分を考察する上で、新たな問題を提起する。

Hart and Moore [1990]では、Grossman and Hart[1986]、Hart [1995]で、川上、川下それぞれ1単位、すなわち、1社もしくはそれらが統合された企業内の1部局どうしが取引する場合をn人エージェントのケースに拡張した。そして、その投資水準をできるだけ改善するような資産の所有形態を検討することで、望ましい企業形態を導出している。その結果、企業の資産の性質等によって企業の垂直的統合か独立形態のどちらが選択されるかが決定されること等を示した。

それに対して、3章では、脱系列化・多企業間取引の動きをふまえ、Hart and Moore [1990]で展開された複数エージェントの下での所有権アプローチに取引構造を導入することで多企業間取引に適用し、望ましい企業形態について議論する。その結果、取引構造を明示的に考慮しないと分析されなかった効果が、多企業間取引における企業形態の決定の上で非常に重要な要因となることが示される。すなわち、取引が多企業にわたる場合、資産の性質の要素とは別に、取引の複数化による要因があり、その要因からは、独立形態の方がホールドアップ問題を軽減するために望ましいことが示される。

というのも、効率的な生産のためには、取引や生産を行う当事者に加え、そこで利用される資産が不可欠となるという要素もあるため、当該資産の所有者は生産に従事しなくても、資産を所有するだけで、再交渉の際に交渉力を持つからである。そのため、仮に資産の統合が統合した主体の投資水準を増加させたとしても、この効果によって、別の取引当事者への収益の帰属割合を低下させ、ホールドアップ問題を拡大させてしまうことになる。

例えば川上企業U1が川下企業D1及びD2と取り引きしているとしよう。ここでD1が、D1だけでなく、U1も所有しているとする。つまり、川下企業D1が川上企業U1を統合しているとする。U1はD1のみならず、D2との取引にも利用されている。その結果、資産の所有者である川下企業D1は、再交渉において、U1-D1間の利得に加え、U1-D1の取引の利得をも得ることが出来る。結果として、当事者であるU1とD2の利得が減少し、彼らの投資水準が低下することになってしまう。このように、資産の第3者所有は他の取引に負の外部性を与えることになる。そして、この効果を最小にするためには、すべての企業の独立形態が最適となる。なお、3章では、通常のアウトサイドオプションの効果と、これを比較し、すべての企業の独立形態が選択されるための十分条件をも検討している。

第4章 経営者の交代メカニズムに基づく分権的資本市場の効率性

起業家のプロジェクトに資金を融資する際、起業家がプロジェクトの質を十分把握しているのに対し、貸手にはプロジェクトに関する情報が十分でなく逆淘汰の問題が発生する。しかも、当初の貸出しがサンクコストになる場合、資金を少しでも回収するために収益性の低いプロジェクト (以下これをpoor projectという)に対して追加融資することで、プロジェクトを達成させ、資金をできるだけ回収しようとする誘因が発生する。スクリーニングツールが利用できず、このような追加融資をしないことにコミットできない場合、たとえ起業家が悪いプロジェクトを案件として持ってきたとしても、それを排除することが出来ないという問題が生じてしまう。このとき、起業家を交代(replace)するという事後的な懲罰が利用できれば、悪いプロジェクトを企業が持ってくることを排除するための有効な手段となりうる。

しかし、現実には長期間のプロジェクトを継続する場合、起業家と貸手との間の長期的関係や人的なつながりによって、貸手にも様々な便益が生じることや、起業家の代わりの代替経営者を捜すコストがかかるため、起業家を解雇しにくくなると考えられる。

その場合、起業家との人間関係が薄い第3者によって追加融資や交代の決定が行われたほうが、起業家を交代させやすく、逆淘汰の問題が発生しにくいと考えられる。貸手が資金制約に直面し、追加融資する資金を別の貸手が提供する必要があり、更に情報の問題などで追加融資する貸手をサーチしなければならない等の理由で、追加融資する貸手に交渉力が握られる場合、上述のように、追加融資及び交代の決定が新たな貸手によって実行され、逆淘汰の問題が軽減されることになる。よって、資金が集中することで、非効率なプロジェクトが採択される可能性を生み出しており、ソフトな予算制約の問題が生じていると言える。

結果として、資金が多くの投資家に分散され、個々の投資家が資金制約に直面している場合、余裕資金が少数の投資家に集中しているケースよりも、起業家を交代させる誘因が高まり、プロジェクトの投資収益が高まることが示される。実際、Hellmann [1998] によると米国ではヴェンチャー企業のコントロール権のほとんどをヴェンチャーキャピタルが所有し、起業家をかなり自由にレイオフしてしまう。米国では80ヶ月後に交代させられる経営者の割合は、実に80%にものぼる。

更に、ソフトな予算制約の研究の基本文献であるDewatripont and Maskin [1995]では、プロジェクトを中断することを起業家に対する懲罰としているため、長期的に高い収益を得にもかかわらず短期的にはマイナスの収益しか得られないプロジェクトは、分権化のもとで実現されない。それに対して、ここでは、経営者の交代を懲罰としているため、プロジェクト自体が中断される訳ではない。そのため、短期的には負の収益しか得られないが、長期的には十分な利益を生むプロジェクトに対しても、起業家が交代させられると同時に、追加融資も行われ、別の経営者の下で、プロジェクトが実現される。結果として、より分権化が効率的であるという結論が得られる。

審査要旨 要旨を表示する

不完備契約の理論によれば、企業組織の内部システムや経済組織間の所有関係のあり方、あるいは資金調達における追加融資の可能性の有無が、経済主体の投資インセンブに大きな影響を与える。この論文は、最近急速に発展してきた「不完備契約」の理論を、組織内・組織間のインセンティブ・システムの設計、多数の企業組織の所有関係が関係特殊的投資に与える投資誘因、資金調達におけるソフトな予算制約と規律付けといった、多様な分野に応用した幾つかの応用研究によって構成されている。本論文はまた、現代日本の経済に特有な仕組みを、不完備契約の理論を使うことで、その理由を明らかにする点に特徴がある。以下、その内容を簡単に要約すると次のようになる。

「当博士論文の位置づけと各論文の概要」と題された第1章では、不完備契約理論の内容の解説と分野の研究展望が行われる。

情報の非対称性などがある場合に複数の関係者が経済取引を行おうとするならば、関係者にとって望ましい行動がとられるよう、事前に契約を取り交わしておくことが必要である。契約のあり方を取り扱う契約理論は、一般に完備契約の理論と不完備契約の理論に大別される。前者は、将来起こる不確実性に対応した条件付き条項をすべて契約に記述することが可能であり、またそれらが遵守されるような履行強制(enforcement)の仕組みが完備している場合を取り扱う。これらの条件が満たされない場合を取り扱うのが、不完備契約の理論である。不完備契約の理論では普通、事前の契約に履行強制可能な条件付き条項をすべて記述することが出来ないため、契約の一部を事後的な再交渉に委ねることが必要になる。

不完備契約の下で発生するもっとも重要な問題が、ホールドアップ問題である。いま例えば、部品メーカーとアセンブラからなる系列を考え、部品メーカーが系列内部にとどまる限り意味があるが、系列を解消してしまった場合(外部オプション)には価値を生まない(関係特殊的な)投資を行うことを考えているとしよう。このとき、どんな契約を事前に書いても、それを履行強制する仕組みがない不完備契約の状況では、投資が生み出した収益を部品メーカーとアセンブラがどう分け合うかは、事後的な交渉でしか決められないことになる。

ところで、問題の投資が関係特殊的ならば、投資の結果、アセンブラにとって貴重な資源を持つ部品メーカーも、メーカーの部品を他社より高く評価してくれるアセンブラも、お互いに独占力を持つことになる。つまり、事後的な再交渉は双方独占の枠組みで行われることになり、部品メーカーだけでなくアセンブラも投資収益の一部を獲得することになる。このことを事前に見通すならば、部品メーカーはせっかく投資を行っても、その収益の一部をアセンブラにとられることになるから、それだけ投資のインセンティブが低下する。その結果、実現される投資量は、ファースト・ベストの場合に比べて過小にならざるを得ない。これが、「ホールドアップ問題」である。

本章ではまず、Hart[1995]による所有権アプローチが説明される。上記のような系列を考え、部品メーカーとアセンブラに対応する川上と川下の企業組織(機械設備などの資産)を誰が所有すべきかという問題である。ホールドアップ問題のために、ファースト・ベストは実現できないから、様々な資産所有形態の中でどれがセカンド・ベストを実現するかが問題になる。

さて、系列が協力して生産活動を行うならば、これらの資産は系列内部に残るから、投資の限界収益に影響を与えない。しかし、系列内部での再交渉が決裂するならば、それぞれの資産を部品メーカーとアセンブラのどちらが持つかによって、それぞれが外部オプションで獲得できる利得に差が生まれ、再交渉の結果に違いが生まれる。それがまた、投資インセンティブに差を生む。

所有権アプローチによれば、資産が補完的(部品メーカーにとって、川上の資産を持っていなければ、川下資産を持とうが持つまいが、外部オプションで実現できる投資の限界利得に変わりがなく、アセンブラについても基本的に同じ事がいえる場合)ならば、部品メーカーとアセンブラを統合し、統合企業に川上・川下資産をまとめて所有させることが望ましい。逆に、資産が独立な(つまり、部品メーカーが川上資産を持つ限り、川下資産を持とうが持つまいが、投資の限界収益に変化がなく、アセンブラについても同様のことが成立する)場合、部品メーカーが川上資産をアセンブラが川下資産を持つという独立企業形態が望ましい。

続いて第1章3節では、不完備契約がファースト・ベストを実現できない理由についての最近の研究成果が展望される。伝統的に、不完備契約が生まれるのは、契約にすべての条件付き条項を書き込むことが出来ないと言う記述不可能性の問題や、その行為を実行したことが裁判所などの第三者には証明できないため、法的手段を使って条件付き条項の履行を強制することが出来ないためだと主張されてきた。

これにたいして、Maskin and Tirole[1999]は適切なインプリメンテーション・メカニズムを使うことで、これらの条件が満たされていてもファースト・ベストを実現することが可能なことを示した。第1章の3節は、この問題に関するテクニカルな展望に当てられており、不完備契約がセカンド・ベストしか実現できない理由は、事前の契約で、再交渉を行わないことにコミットできないことにあることを明らかにしている。

第2章は、「ホールドアップ問題解消のためのプロダクトシステムのデザインにむけて」である。

トーナメント・メカニズムは、昇進の持つインセンティブ効果などを説明する、組織内での競争促進の手段として知られている。このメカニズムは、競争の勝者にプライズを与えることでラット・レース的な状況を作り出し、競争に勝とうとする強いインセンティブを生み出す。ところでこの分野のほとんどの文献は、一定額の賞金がプライズとして与えられる場合を取り扱っており、プライズは契約可能であり事前にコミットできることが仮定される。しかし組み立て産業における部品メーカー・アセンブラ関係など、多くのトーナメントでは、そのプライズとして仕事(task)が与えられる場合が多い。この場合、仕事(task)とそれが生み出す利得の多くが事前に契約に書けないと考えられるから、不完備契約の理論を使った分析が必要である。本章は、まさにそのような-&-プライズが契約不可能なため、不完備契約を使ったトーナメントとして定義される-&-状況を分析対象としている。

いま、一社のアセンブラと二社の部品メーカーが系列をくんでいる状況を考える。サプライヤーの投資が系列の生み出す事後的な付加価値を決定するが、投資水準は契約不可能(non- contractible)だとする。つまり、事前の契約では、どちらかにメインサプライヤーの仕事を、もう一方にサブサプライヤーの仕事を与えることしか、コミットできないとする。従って、各部品メーカーに支払う金額や、どちらをメインにするかなどは、契約には書けない。なお、サブの仕事は、メインの仕事の一定割合しか付加価値を生まないことが仮定される。

部品メーカーがすでに投資を行っている事後的な状況では、その投資額(契約不可能だが、観察可能だと仮定されている)を所与として、メインとサブの振り分けと各部品メーカーへの最終的な金銭的報酬が交渉で決定される。報酬額に関する交渉の結果は、シャプレー値に従うことが仮定される。

まず、より大きな投資を行っている部品メーカー(以下、勝者)にだけ仕事を与え、より小さな投資しかしていない部品メーカー(敗者)に仕事を与えないと、系列全体の立場からは敗者の投資が無駄になる。従って、非効率性を避けるために、敗者にも仕事が提供されるべきである。その場合、事後的な交渉では、投資額のより大きい勝者にそれが生かされるようメインの仕事を割り振り、敗者にサブの仕事を割り振るのが、誘因整合的である。

次に、二社の部品メーカーが不可分(indispensable)であり、両社の部品がなければ系列が無価値になってしまう場合、つまり両社が補完的な場合を考える。この場合には、いずれの部品メーカーが欠けても製品を完成することが出来ず、再交渉の結果分配される事後の利得は平等になる。そのため、トーナメント効果は生まれず、各部品メーカーがあらかじめコーディネートして勝者と敗者を選択することが(純粋戦略)均衡になる。この場合、トーナメント効果がないため、部品メーカーの投資水準は、ホールドアップ問題を反映して過小になることが示される。

それに対して部品メーカーが補完的でなく、どちらか一方の部品メーカーだけでも、アセンブラと協力することで正の付加価値を生み出せるという可分的(dispensable)な場合には、結論が大きく変わる。なぜならば、再交渉の結果分配される事後の利得は、与えられる仕事がメインかサブかで異なるため、敗者と勝者で差が生じ、トーナメント効果が働くからである。この場合、部品メーカーが補完的な場合に比べて投資水準は必ず大きくなるが、社会的に最適な水準になるかどうかは、トーナメント効果が生み出す投資インセンティブがどのようにまた(例えば投資費用に対する流動性制約によって)どの水準で制約されるかに依存する。制約が強ければ最適な水準に近づくだろうが、制約が弱ければ最適水準以上の投資が生まれ、補完的な場合よりかえって社会的に非効率になることも考えられる。

なお、トーナメント型の契約がアセンブラ・メーカーによって自由に設定できる場合、トーナメント効果による利得の増加を見込むアセンブラが、可分的(dispensable)な契約を選択しようとするインセンティブが存在する。実際、過去の日本の自動車系列での仕事の割り振りは、同じ部品を作る部品メーカーは系列内に複数社を確保しつつ、特定の車種のために必要な当該部品の供給責任は、単一の部品メーカーに割り当てるという慣行が行われていた。このような仕組みは、可分型の契約だったと考えられる。

第3章は、「多企業間取引における所有権アプローチ」である。本章では、Hart [1995]等で展開された所有権アプローチ(property right approach)を、多企業間取引のケースに拡張し、その下で事前のホールドアップ問題を最小化するような所有権の配分を導出する。

所有権アプローチは、Grossman & Hart[1986]、Hart [1995]に始まる。彼らは、部品を供給する川上部門と、川上から供給された部品を使って最終生産物を作る川下部門の間の取引を考えた。その上で彼らは、生産設備などの資産の所有権構造が、事前の関係特殊的投資のインセンティブに与える効果を考察し、望ましい資産の所有構造を導く企業形態を導出した。その主要な結論は、資産の性質によって、企業が垂直的に統合されるべきか、独立形態を保つべきかが決定されることを示した。具体的には、第1章でみたように、川下・川上に特有な資産が、お互いに補完的か独立かによって、前者なら統合した方が、後者なら独立形態を保った方が良いからである。

しかし彼らの分析は、上流・下流にそれぞれ1社だけが存在する場合を扱っている。これに対してわが国では、最近の脱系列化の動きと共に、部品を供給する川上企業は複数の下流組み立て企業と取引を行い、また、組み立て企業も複数の部品供給企業と取引を行うケースが増えている。このような多企業間取引の増大の動きをふまえ、この論文では、上流・下流それぞれに多数の企業が存在し、それぞれの企業が対岸の複数の企業と取引を行う場合について、望ましい企業形態を分析する。その結果、川上・川下それぞれが1社からなるケースでは分析されなかった効果が、多企業間取引における企業形態を決定する上で非常に重要な要因となることが示される。すなわち、取引先が複数にわたる場合、資産の性質の要素とは別に、取引の多企業化による資産の第三者保有という要因があり、その要因からは、独立形態の方がホールドアップ問題を軽減するために望ましいことが示される。

生産を効率的に行うためには、取引や生産の当事者に加えて、そこで利用される資産が必要不可欠だから、当該資産の所有者は生産に従事しなくても、資産を所有するだけで再交渉の際に交渉力を持つ。このため、生産の直接当事者ではない資産所有者に、投資収益が流出するという外部効果が存在し、それが投資のインセンティブを低下させる。そのため、仮に企業統合によって補完的な資産が統合され、その結果統合主体の投資水準が増加したとしても、この第三者への外部効果によって、取引当事者への収益の帰属割合が低下し、ホールドアップ問題を悪化させてしまうことになる。

例えば以下の図のように、川上・川下にそれぞれ2社が存在し、各々が独立形態を保っている場合を考えよう。このとき、B1がA1を統合し、川下企業B1が資産D1だけでなくU1も所有したとしよう。このとき、資産U1は、U1とD2との取引にも利用されている。その結果、資産の所有者B1は、U1とD1が生み出す付加価値に加え、再交渉でU1とD2が生み出す付加価値の一部をも得ることが出来る。その結果、B2の利得は減少し、その投資インセンティブが損なわれる。このように、資産の第三者所有は他の取引に負の外部性を与えるから、この効果だけが問題ならば、すべての企業は独立形態を選択すべきだというのが、本章の結論である。

なおこの章の後段では、資産の独立性や補完性を基礎とした通常のアウトサイドオプションの効果と、この第三者所有のもたらす外部効果を比較し、すべての企業の独立形態が選択されるための十分条件も検討している。

「経営者の交代メカニズムに基づく分権的資本市場の効率性」と題された第4章は、起業家プロジェクトに融資を行う際の、追加融資のインセンティブとソフトな予算制約の問題を扱っている。

一般に、起業家がプロジェクトを始めるのには、外部から資金を調達する必要がある。この場合、起業家はプロジェクトの良否を把握しているのに対して、貸手は、当初プロジェクトに関して不十分な情報しか持たないという情報の非対称性が存在する。しかも、当初の貸出しがサンクされてしまう場合、収益性の低いプロジェクト (以下これを「悪いプロジェクト」と呼ぼう)でも追加融資によってプロジェクトの継続をはかり、資金をできるだけ回収しようとする誘因が発生する。しかし追加融資をしないことにあらかじめコミットすることは普通できないから、事後的にその方が得ならば、追加融資に応じてしまう。そのため起業家が悪いプロジェクトを案件として持ち込んだ場合、それを排除することが出来ず、逆淘汰(adverse selection)の問題が生じてしまう。

ところでこのとき、経営者を交代(replace)させ起業家を経営陣から外してしまうことで罰を与えることができれば、悪いプロジェクトを企業が持ち込むことを排除する有効な手段となりうる。しかし現実には、長期間プロジェクトを継続すると、起業家(経営者)と貸し手との間の長期的関係や人的なつながりによって、貸し手にも様々な便益が生じること、起業家の代わりの代替経営者を捜すコストがかかるため、起業家を交代しにくくなることなどが予想される。

その場合、起業家との人間関係が薄い第三者によって追加融資や交代の決定が行われたほうが、起業家の交代が容易であり、逆淘汰の問題が発生しにくいと考えられる。従って、貸し手が資金制約に直面し、追加融資を行うための資金を別の貸し手に頼らざるを得ない場合には、追加融資及び経営者の交代の決定が新たな(第三者の)貸し手によって実行されるから、逆淘汰の問題が軽減されることになる。

このことは、当初の貸し手が予算制約に直面しており、追加融資を行う余力がないという「ハードな予算制約」の場合と、十分な予算を持ち追加融資を自分で行える「ソフトな予算制約」の場合を区別するとわかりやすい。ソフトな予算制約の場合には当初の貸し手が追加融資をするため、経営者の交代は起こらず逆淘汰が発生するが、ハードな予算制約ならば、追加融資は第三者の手で行われ、逆淘汰は起こらないことになるからである。

本論文は、まさにこのような状況が起こることを理論的に導出した興味深い研究である。基本的な分析枠組みは、既存の研究に依拠しているものの、当初の貸し手と起業家との人間関係を明示的にモデルに導入することで、適切なパラメータの下では、ソフトな予算制約と経営者の交代に関わる上記の直感が、理論的に正しいことを証明している。

以上紹介したように、本博士論文は、不完備契約の理論という最新の経済分析を共通低音としつつ、それを、契約には書けない「仕事(task)」をプライズとしたトーナメント契約や、所有権アプローチを複数取引先に応用した他企業間取引における企業形態の分析、起業家がプロジェクトを始めるに当たって必要な資金調達の問題などに応用し、新たな知見を導いた先端的研究である。また各章の内容は、単なる不完備契約理論の応用研究にとどまらず、自動車産業におけるアセンブラと部品メーカー間の発注形態の特徴や、系列関係における最近の変化の兆候、あるいはベンチャー資金の銀行や公的資金に対する過度の依存傾向など、わが国の制度的特質の実態をふまえている。その意味で本博士論文は、現実経済の解明のために経済理論を発展・修正したいという著者の姿勢が如実に表れた好論文である。

分析の理論的背景を解説しつつ、この分野の既存の研究を展望する第1章は、要領の良い解説とバランスのとれた評価を与えており、筆者の分析能力とこの分野の理解の深さを伺わせる。また、第2章の分析は、立証可能でありコミットできると考えられる賞金の代わりに、事前に契約に書くことが困難だと考えられる仕事(task)を賞品とするトーナメントを考え、事後的な再交渉によって究極的な賞品が決定される仕組みを分析するという興味深い試みである。特定車種の特定部品の供給先を決定するに当たって、複数の部品メーカーが競争するデザイン・インから始まって、最終的に一社が供給責任を負うことになる生産段階まで、わが国の組み立て産業における部品メーカー・アセンブラ関係では、このような仕組みをしばしば目にするところである。第2章の分析は、このような現実の仕組みが成立する一つの整合的な論理的説明を与えたことになる。

第3章では、従来の研究が、取引先が1社に限られる川上川下企業間の関係に絞られてきた所有権アプローチを、取引先が複数にわたる場合に拡張した、興味深い試みである。取引先が1社の場合には、資産の独立性・補完性が重要な役割を果たし、川上川下の企業統合が重要な戦略オプションとなるのに対して、取引先が複数になる場合には企業統合が有利になるためにはかなり限定的な条件が必要になることを、明快に述べている。

第4章の理論予測に従えば、資金が多くの投資家に分散され、個々の投資家が資金制約に直面していれば、余裕資金が少数の投資家に集中しているケースよりも、起業家を交代させる誘因が高まり、プロジェクトの投資収益が高まることになる。実際、Hellmann [1998] によると、米国ではベンチャー企業のコントロール権のほとんどをベンチャー・キャピタルが所有し、起業家経営者をかなり自由に解雇してしまう。米国では80ヶ月後に交代させられる経営者の割合は、実に80%にものぼる。

また、ソフトな予算制約研究の基本文献であるDewatripont & Maskin [1995]では、プロジェクトを中断することを起業家に対する懲罰としているため、長期的に高い収益を得るにもかかわらず短期的にはマイナスの収益しか得られないプロジェクトは、分権化のもとで実現されない。それに対して、第4章では、経営者の交代をパニッシュメントとして用いているため、プロジェクト自体が中断される訳ではない。そのため、短期的には負の収益しか得られないが、長期的には十分な利益を生むプロジェクトに対しても、起業家が交代させられると同時に、追加融資も行われ、別の経営者の下で、プロジェクトが実現される。このように第4章の分析は過去の関連研究と比べて、資金調達のあり方について社会的により望ましい仕組みを指摘したという意味でも、大きな貢献だというべきである。

とはいえ本論文の分析には、より立ち入った分析が望まれる部分も多い。例えば第2章の、トーナメント効果が発揮されるためには、部品メーカーの補完性が低く可分性が高いことが必要だという理論的結論は明快である。しかし、それがわが国の自動車産業にみられる、特定車種の特定部品の供給責任は一社に限られるという慣行をうまく説明しているという結論には、少し飛躍があると言わざるを得ない。同じことは規模の経済性などからも説明できる一方、部品メーカーによる事後的な供給独占に対して、アセンブラがどのような仕組みで対抗しているのかが明らかでないからである。

また、第3章の取引相手が複数になる他企業間取引の分析でも、各主体の投資インセンティブの水準は、取引相手ごとに独立に定義されているにもかかわらず、生産設備などの資産は取引相手とは独立に定義されている。本来なら、それぞれの資産の「取引相手との関係特殊性」という概念を定義し、その上でそれぞれの資産が、単一の取引相手としか関係特殊性を持たない場合と、複数の取引相手との関係特殊性を持つ場合に分けて分析すれば、より深い分析が可能であっただろう。第3章の分析は、すべての資産が、すべての取引いてと関係特殊性を持っていることを暗黙の前提とした分析になっているからである。

さらに、第4章の経営者交代によって悪いプロジェクトに追加融資するインセンティブを断ち切るという分析は、大変興味深い。しかし、このような結論が得られるのはパラメータがある範囲にある場合に限られる。パラメータがこの範囲から逸脱する場合、どのような代替的な仕組みによって社会的最適が実現されるのか、それとも社会的最適は実現され得ないのか、また、その直感的な理由は何か、などの点について、整理された解説が望まれるところである。

本論文は以上のような問題を残すとはいえ、これらはいずれも筆者の今後の研鑽を通じて改善されるものと判断できるし、それ以上に、本論文の各章で示された先端的で独創的な分析の示す貢献を覆すものとは認められない。特に、第2章〜第4章において示された経済理論・契約理論・金融理論を含めた広範な理解、ゲーム理論と数理経済学を通じた緻密な分析は、筆者の総合的な分析能力の高さと、それを使った今後の研究の進展に大きな期待を抱かせるものである。

以上により、審査員は全員一致で本論文を経済学博士の学位を授与するにふさわしい水準にあると認定し、ここに審査報告を提出する次第である。

多企業間取引の例示(矢印は取引関係を表す)

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