学位論文要旨



No 118463
著者(漢字) 枡富,龍一
著者(英字)
著者(カナ) マストミ,リュウイチ
標題(和) 2次元反強磁性固体ヘリウム3における基底状態の探索
標題(洋)
報告番号 118463
報告番号 甲18463
学位授与日 2003.05.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5558号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 吉澤,英樹
 東京大学 助教授 福山,寛
内容要旨 要旨を表示する

研究動機

グラファイト上の2次元3Heは面密度が下地層の4/7に達したとき三角格子を組み,4/7整合相と呼ばれる層を形成して固体になる.4/7整合相での3He間の相互作用は反強磁性的であることから幾何学的なフラストレーションが生じる.また,3He間には剛体球的な相互作用が働くため3体以上の高次の直接交換相互作用が重要になってくる.偶数体の交換は反強磁性的,奇数体の交換は強磁性的な相互作用が働くため交換相互作用が競合した系である.このことは電子系と大きく異なる点であり,2次元3Heの物理をユニークにすると同時に興味深いものにしている.

このような系において厳密対角化を用いた理論計算の結果,基底状態はスピン一重項のスピン液体状態であり,励起状態(spin=1)と基底状態(spin=0)の間にスピンギャップ(mK程度)が存在することが報告されている。実験的には100μK程度までの磁化測定からのスピンギャップ(100μK程度)が存在すると見られている.しかしながら,比熱測定からはスピンギャップの存在を確認することは出来ず,むしろ基底状態と励起状態の間に多数の低励起状態が存在していて,基底状態はフラストレートした量子的に乱れた状態(frustrated disordered ground state)であると考えられている.

この2つの異なる主張に決着を付け2次元反強磁性固体3Heの基底状態を解明するため,今回我々は2次元反強磁性固体3Heの直接核断熱消磁を用いて100μK以下の前人未到の温度領域まで冷却し核磁気共鳴による磁化測定を行う.

実験装置

2次元固体3Heの直接核断熱消磁に用いた実験セルを図1に示す.吸着基盤にはグラフォイル(9 mm×9 mm)を100枚程度使用しており(c),表面積は13 m2程度である.実験手順は初めに希釈冷凍機と銅の核断熱消磁(1段目磁場中有効モル数約30 mol)を用いて2段目である3He (約150μmol)及びCu(有効モル数約38 mmol)に初期磁場(Bi)5500 Gaussが印加された状態で初期温度(Ti)200μK程度まで予冷する.その後,超伝導熱スイッチ(g)を用い断熱状態を実現した上で2段目の磁石(a)を最終磁場(Bf)50 Gauss(25 Gauss)まで17時間程度かけてゆっくりと消磁する.消磁終了直後から最終磁場を利用して核磁気共鳴(CW法)を繰り返しながら自然な温度昇温過程で磁化測定を行う.

初めに2段目の核断熱消磁が順調に行われているかを判断するため,グラフォイルと融着されている銅フォイル中の銅の核スピンとグラフォイルに含まれる1%の13Cの核スピンの磁化を測定した.Bi = 5500 Gauss, Ti = 280μKからBf = 150 Gaussの直接核断熱消磁の結果,150 GaussまではCuも13Cも理想的に冷却されている.

常磁性固体3He

この様なスタイルでの核断熱消磁では3He自身の温度を決めることは非常に困難である.そこでまず磁化測定を行うことで3He自身が温度計になる常磁性固体3He (面密度9 nm-2)の直接核断熱消磁を行った(図2a).ブリルアン関数を用いてスピン偏極を温度に変換したものが図2bである.消磁終了直後の3Heの温度はBi = 5500 Gauss, Ti = 240μKからBi = 50 Gaussまでの消磁でTf = 12μK,Ti = 250μK,Bf = 25 Gaussの消磁でTf = 8μKであり3Heは良く冷却されている.

固体4He上の反強磁性固体3He

実験結果

試料は1層目に非磁性の固体4Heを用い,2層目には3Heのみで固体になる量より少なめの3Heと少量の4Heを入れることにより4/7整合固体3Heを形成している.1段目の核ステージと熱平衡状態での磁化測定の結果をキュリー−ワイス則で解析を行った結果,ワイス温度θは-0.9 mKであった(図3).さらに,6体の交換まで考慮した高温展開で解析した結果,多体交換パラメータはJ2eff/J4 = -2.0 (J5/J4 = 0.35, J6/J4 = 1は仮定)であり,厳密対角化を用いた理論計算から導かれる基底状態はスピン液体の領域に属している(図3挿入図).

次ぎにBi = 5500 Gauss, Ti = 190μKからBf = 50 Gaussまで直接核断熱消磁を行った結果を図4に示す.温度は常磁性固体3Heの結果を参考にして構築した熱フローモデルにより評価したものであるが10μK程度まで冷却できていると思われる.

考察

10μK(T/J〜1/30)まで磁化は緩やかに増加し,スピンギャップの存在を示唆するような異常な振舞いは観測されなかった.したがって,もしスピンギャップが存在しても10μK以下であろう.この低温での磁化の緩やかな増加はSpin=1の低励起状態が多数存在していることを強く示唆している.このことよりAF/FMの境界に近い領域ではスピンギャップが急速に減少していると考えられる.

100 μK程度まで4/7整合相の比熱測定の結果からはスピンギャップは観測されておらず,むしろ2つ目のピークより低温で比熱が温度に比例することから多くの低励起状態の存在を強く示唆している.このことは我々の測定結果とコンシステントである.

また,T/Jで比較すると今回の実験は交換相互作用を増強させたHD2層上,HD3層上の実験と同程度まで冷却されていることになる(T/J〜1/30).HD上の系でも同様にスピンギャップは観測されておらずコンシステントな結果である.

次ぎに我々と同じ系であるCollinらの4/7整合相の磁化測定の結果(図4○印)との比較を示す.測定された磁化の温度依存性は100 μKまで非常に一致している.Collinらは低温部を解析することにより100 μK程度のスピンギャップΔが存在すると主張している.しかし,今回の我々の実験から見て彼らの主張には無理がありスピンギャップは非常に小さいかほとんどゼロと思われる.

HD2層上の反強磁性固体3He

固体4Heより格子間隔の大きい HD2層上の反強磁性固体3Heの直接核断熱消磁について述べる.HD2層上の3Heは低密度固体が実現するため大きな交換相互作用が得られる.このことはT/Jを考えれば相対的に低温まで冷却出来たことになり,基底状態の探索に関して有利である.13.5 Kで等温吸着圧測定を行うことにより,グラファイト上に2.05層のHDを準備した.1.5 mK以下の熱平衡状態での温度依存性(図5○印)は池上ら結果(図5菱形)を再現しておりワイス温度θは-10 mK程度である.

Bi = 5500 Gauss, Ti = 200μKからBf = 50 Gaussまで直接核断熱消磁を行った結果を図5に示す.温度は上述の固体4He上の実験と同様に熱フローモデルにより評価したものである.

HD2層上の反強磁性固体3Heについては測定精度上厳密な議論は出来ないが,磁化は低温になるに従い緩やかに増加している.温度で10 μK, T/Jで1/300程度までスピンギャップの存在を示唆するような異常な振舞いは見られなかった.

結論

直接核断熱消磁法を用いグラファイト上の1層目の常磁性固体3He,固体4He上の反強磁性固体3He,HD2層上の反強磁性固体3Heを10μK程度まで冷却することに世界で初めて成功した.2次元反強磁性固体3Heの磁化は緩やかな増加を続け厳密対角化を用いた理論計算から示唆されるようなスピンギャップの存在を確認することはできなかった.この実験から10 μKの温度領域においても長距離秩序は観測されず,スピンギャップはほとんどゼロか存在しても10 μKあるいはJ/300以下である.以上の結果からこの系の基底状態としてはスピンギャップのないスピン液体である可能性が非常に強い.

図1:実験セル.

図2:常磁性固体3Heの直接核断熱消磁.初期磁場5500 Gauss.

図3:熱平衡状態での4/7整合固体の磁化.

図4:固体4He上の反強磁性固体3Heの直接核断熱消磁.

図5:HD2層上の反強磁性固体3Heの直接核断熱消磁.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は”2次元反強磁性固体ヘリウム3における基底状態の探索”と題し、試料自身の核断熱消磁を試み0.01mKに至る超低温領域において単原子層固体ヘリウム3の磁化をNMRにより初めて測定したものであり、全7章から構成されている。

第1章は序論であり、本研究で取り扱う単原子層固体ヘリウム3の低次元系としての特徴,位置づけ,論文全体の構成が述べられている。

第2章では、吸着基盤として用いられるグラファイトの構造と、吸着原子が感じる皺状吸着ポテンシャルについて述べられている。単層固体ヘリウム3は、(1)グラファイト表面(2)1層の固体4Heを被覆した表面(3)2層のHDを被覆した表面上にヘリウム3原子を物理吸着することにより実現されるが、いずれも2次元3角格子を形成している。この吸着第1層,第2層の単原子層ヘリウム3について、面密度と温度をパラメーターとする相図が示されている。

第3章では、これまでの理論的・実験的背景と本研究の目的が述べられている。固体ヘリウム3の磁性は、大きなゼロ点振動による原子自身の直接の位置交換から生ずる交換相互作用で記述される。ヘリウム3原子はハードコアを持っており、その位置交換のためには、周りの原子を押し退けねばならない。その結果、2体のみならず3体,4体などの多体交換相互作用が重要となる。さらに2体,4体,6体は反強磁性的,3体,5体は強磁性的であり異なる2種類の相互作用が競合している。このフラストレーションの大きな系の基底状態の理論的予想が4体交換の強さをパラメーターとして古典系および厳密対角化による量子系について示されている。実験的には、グラファイト表面上の吸着第1層,第2層および2層のHD上の単原子層ヘリウム3について、これまでの比熱,帯磁率の結果を示した上で、本研究の目的が簡潔に述べられている。

第4章では、実験装置が簡単に述べられている。まず試料を mK 以下の温度領域に冷却するための効率的な核磁気冷凍機と一般的な温度計が示されている。

第5章は、3層HD上の単原子層固体ヘリウム3の実験および結果とその考察である。まずNMRセルの詳細に続いて具体的NMR装置と得られた信号から磁化を求める手順に触れた後、基盤の吸着表面積を決める方法や所定の面密度を得るための試料ガスの導入システムが示されている。特にHDガスについては、含まれる微量のオルソ水素をパラ転換する方法が述べられている。実験結果と考察は大きく2つの部分に分けられる。まず低密度液相での磁化測定から、グラファイト基盤の欠陥にトラップされたアモルファス固体ヘリウム3の大きさを評価し、これを非磁性のアモルファス固体ヘリウム4で置換してきれいな単原子層固体ヘリウム3を生成した。次に2種類の面密度の反強磁性固相の磁化が約0.1mKまでの温度域で求められた。その振る舞いは、交換相互作用の約1/30の温度までゆるやかに増加し、スピンギャップの存在を示す大きな減少は観測されなかった。さらに高温領域の磁化を多体交換相互作用ハミルトニアンの高温展開式にフィツトして、多体交換の大きさを評価すると、2層HD上の単原子層固体ヘリウム3の大きさとほとんど変わらないことが判った。また求められた交換相互作用の大きさから、これまでの理論では基底状態としてスピン液体相が予想されるが、スピンギャップが小さく観測されなかった可能性を指摘している。

第6章は単原子層固体ヘリウム3自身に対する初めての断熱消磁の試みが詳しく述べられている。まず実験セルの詳細と実験手順に触れた後、寒剤を構成する銅原子核とグラファイト基盤中の 13 C 核の磁化測定により断熱消磁が予想通りに動作していることが示されている。実験結果と考察は(1)常磁性相 (2)単層固体ヘリウム4上の反強磁性相 (3)2層のHD上の反強磁性相の三つの部分から成っている。この実験において試料温度の決定は非常に重要である。(1)では常磁性相固体ヘリウム3および銅原子核の磁化が ブリリュアン関数に従うことを用いて、試料はむしろ銅原子核により間接的に冷やされていることを示し、試料温度を決めるヒートバスモデルが提唱されている。(2),(3)ではそのヒートバスモデルを用いて測定された銅原子核系の温度から試料温度を決めている。こうして得られた磁化の温度依存性は約0.01mKの温度までゆるやかに増加し、スピンギャップの存在を示す大きな減少は観測されなかった。以上の結果、それぞれの反強磁性相の試料について交換相互作用の1/30 或いは1/300 という従来よりも約一桁も低い温度まで冷却されたにもかかわらず、相転移やスピンギャップの存在が確認されなかった。これをもとに2次元反強磁性固体3Heの基底状態は、スピンギャップの存在しないスピン液体であることが指摘されている。

第7章は本論文の総括であり、本研究で明らかにされた2種類の単原子層反強磁性固体ヘリウム3に関する新しい知見の要約とともに将来の展望が述べられている。

以上をまとめると、本論文では2種類の単原子層固体ヘリウム3の磁化をNMRにより初めて0.01mKの温度領域まで測定したものであり、低次元磁性の物理を理解する上に貴重な情報を提供しており、物理学・物理工学への寄与は大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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