学位論文要旨



No 118469
著者(漢字) 安,英姫
著者(英字) AN,YOUNG HEE
著者(カナ) アン,ヨン ヒ
標題(和) 日韓近代小説における小説言説と描写理論 : 田山花袋・岩野泡鳴・金東仁
標題(洋) Descriptive Theory and Novelistic Discourse in Modern Korean & Japanese Novels : Tayama Katai, Iwano Homei and Kim Dong-in
報告番号 118469
報告番号 甲18469
学位授与日 2003.05.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第442号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 助教授 菅原,克也
 東京大学 助教授 斎藤,兆史
 東京大学 助教授 伊藤,徳也
 東京外大 教授 三枝,壽勝
内容要旨 要旨を表示する

自己の内面を暴露する告白小説は、<私>が自己を語る小説であるため、常に一人称として現れた。しかし、近代に入って、西欧及び日韓の近代自然主義小説家たちは、不可能に見える三人称で自己を語る告白言説に取り憑かれた。自然主義文学は人生の真実を求め、内面的自我を偽り無く告白するという内面的必然性があるため、<告白>と深い関連を持っているが、彼らは<告白>を、しかも三人称で行ったのである。一体、三人称で告白するのは可能であろうか。

三人称告白小説の技法を論じるに当たり、非常に重要な描写論として挙げられるのが、岩野泡鳴(1873-1920)と金東仁(1900-1951)の「一元描写」である。三人称による新たな小説描写法を主張した岩野泡鳴と、金東仁の「一元描写」論ならびにその作品を見ることによって、日韓における三人称告白言説と近代文体の形成が鮮やかに浮かび上がってくることだろう。

金東仁は「過去に一人で頭の中で構想した小説たちは、全部日本語で想像したものであるから、朝鮮語で書こうと机に向かうと目の前がつかえる。(中略)この時において「日本」「日本の文章」「日本の言葉」の存在はかなり大きな助けとなった」と述べている。このように金東仁が日本語で考えなければならなかったことの原因は、金東仁と岩野泡鳴の「一元描写」との関連を通してより明らかにされるであろう。ただし、本論文で扱うのは、岩野泡鳴と金東仁の影響関係ではなく、その技法の内実の比較である。本論は金東仁が日本語で考えて韓国語で書いたということの内実と、三人称告白言説の端緒になる「一元描写」を検討し、それを通して韓国近代文学と明治大正期日本文学との関わりを明らかにするものである。

この論文は、三人称告白言説を主に、描写論、翻訳語、言文一致、視点、物語世界から検討することで、日韓自然主義及びリアリズム小説の三人称告白言説の全体像を明らかにし、また、それと近代文体とがどのように関わっているかを考えるものである。そして、日韓の三人称告白言説はどのように展開していくのかを見る。

第一章では、岩野泡鳴と金東仁の「一元描写」について注目した。二人の「一元描写」は主人公の内面を三人称に表す新しい告白体であった。また、作家が自分の顔を隠し、作中人物を三人称にしながら同時にその内面を表現しようとする文体は小説世界の真実と虚構を同時に表す小説技法でもある。「一元描写」においては、語り手は作中人物の言葉を引き出すが、語り手の批判的な位置は失われず、語り手と作中人物の距離が三人称・過去時制によって確保されている。「一元描写」で見られる三人称・過去形式の表現とそれに伴う推量表現の不在は、虚構を生み出す一つの装置である。これはまた、三人称による新たな告白体とも言える。「一元描写」は現実の再現という幻想に見られる「模倣の神化」に対しての挑戦でもあった。彼らは自然主義者たちの「ありのまま」が不可能であることを、虚構の装置である三人称「彼」と文末の「た」形で表現した。虚構であるが何処までも真実を描かねばならないという課題を、作中人物の内面世界を描くことによって解決したのである。岩野泡鳴と金東仁は「一元描写」を通して、主人公の生々しい内面を描くことに成功し、そうすることによって、日本と韓国の近代小説技法において新しい描写方法を創出することになった。

第二章では、西洋語において主体を明確にするために使われる「He」「She」が、主語を必要としない文化圏である日本と韓国に入って、どのような文章の変化をもたらしたかを検討する。その翻訳語は日韓の小説文に浸透し、行為の主体を表すようになる。伝統的な韓国語と日本語の文章は、主語や人称を表す単語が省略されても可能であるし、むしろその方が自然である。というのは、動詞の中に発話の状況を示す発話者と受話者の人称性が現れているからである。伝統的な韓国語と日本語の物語の語りは、述語の語尾活用を豊かにすることによって、主語を表す単語の省略を可能にした。近代の日本語小説と韓国語小説は、このような動詞や形容詞の語尾の多様な変化と活用をなくした。そのため、主語がわかりにくくなり、「He」「She」の訳語「彼」「彼女」「〓」「〓」が頻繁に登場する文章に変わってきたのである。それは新しい小説言説の誕生と同時に既存の小説言説を大きく変更することであった。西欧語の三人称代名詞「He」「She」は、既に発信されたものの代わりに使う。それに対して、日本語と韓国語の「彼」「〓」は、遠くのものをさす指示代名詞であった。日本と韓国には「He」「She」のような三人称代名詞はなく、指示代名詞が指示性と人称性を同時に持っており、三人称代名詞の役割を果たしていた。しかし、近代以後、「He」「She」の翻訳語が入り、指示代名詞「彼」「〓」は、指示代名詞機能の指示性をなくし、人称性だけを持つ三人称代名詞に変わってきた。このような純粋に三人称代名詞のみの機能をもつ「He」「She」によってものされる文章こそが近代文体が志向した言文一致体である。つまり、翻訳語に影響されたこれらの用語が、近代文体及び言文一致を可能にしたのである。

第三章では、日韓における言文一致の問題を文末詞から考えてみた。岩野泡鳴の『五部作』は、その改訂において「彼」「た」を導入した。岩野泡鳴は自分の過去を回顧する際に、現実の時間が介入して物語世界が変容しないように、「彼」「た」によって、物語世界の客観性を保ったのである。岩野泡鳴が「一元描写」を実践するべく行った改訂作業は、物語世界をより虚構として認識させる試みであった。自分の自伝的小説をどのようにして虚構として見せようかという問いは、三人称と「た」形で解決を見た。『五部作』への改訂は、「一元描写」を使用して、全知的語りをしないことによって、作中人物が主役になる物語世界を具現化した。それは言文一致運動による口語体文章を駆使することによって可能になった。他方、韓国近代文学創成期に作られた開化期の小説は語り手の言葉によって終結語尾が異なる、語り手中心の小説である。それに対し近代小説は、報告者としての語り手の顔は全面的に表されず、作中人物の後ろに隠れている、作中人物中心の小説である。このように作者の顔を作品世界から追放したのが口語体文章であり、その追放機能を果たしたのが「〓」である。口語体文章を確立した金東仁の文体では、様々な文末詞が現在時制「〓」・過去時制「〓」に統一され、新たに三人称代名詞「〓」(彼)という主語が表記されることになる。そのような近代口語体小説文章の使用によって、語り手が主役となる物語世界から、作中人物が主役となる物語世界へと、小説は変わって行ったのである。

第四章では、「蒲団」・『五部作』・「ペッタラギ」の語りの視点・内面・告白の在り方を明らかにした。「蒲団」では、語り手が時雄を焦点化することによって時雄の内面を描くと同時に、芳子の視点を取り入れることによって、芳子の内面も表現することになった。それは揺らぐ視点によって、芳子の内面を描くことで、女性の物語を排除しないという結果をもたらす。『五部作』では初出にあった様々な作中人物の視点が排除され、視点はすべて義雄の視点のみに集中する。改訂版では、義雄が主体的な地位を占めており、自分の思うとおりの行動を起こす人物として描かれている。義雄だけに視点をおいた厳しい視点制限はたった一人だけの内面の露出を許して、彼だけの内面を表すことによって、作品を最も男性的な物語にするのである。岩野泡鳴は一生「一元描写」を用いて視点を統一した作品を書きつづけた。他方、金東仁は「ペッタラギ」以後、「一元描写」とは別の新たな視点の方法論を駆使する。「ペッタラギ」の枠内物語は、物語世界の外部にある神の視点ではなく、物語世界の内部の作中人物「僕」の視点によって物語られるのである。そのため、物語世界は、事実性を獲得することになる。ここには全知的な神の視点から、制限された人間の視点に移ることによって、現実をよりリアルに描こうという小説認識がある。従って、「ペッタラギ」では、「僕」が「彼」の物語を間接的に伝えながら話を客観化することに成功しているといえよう。

第五章では、日韓リアリズム及び自然主義小説におけるさまざまな描写論とその物語世界のうち、どれが最終的に現代まで受けつがれることになるのかを見る。『五部作』は「一元描写」の結果、主人公の内面を赤裸々に表現した告白小説として現れた。しかし、その内面は社会との広がりの中で現れるのではなく、常に自分の思想に帰結した。即ち、日本では、<現実>を描くリアリズム小説ではなく、<私生活>を題材にしながら<内面>を描く告白小説が発展していく。結局、告白体言説は、田山花袋の「平面描写」と岩野泡鳴の「一元描写」のうち、岩野泡鳴の「一元描写」が理論的根拠となる。個人の内面に触れようとしない「平面描写」は「私生活のありのままの転写」に終わってしまい、その描写方法に従うかぎり、告白は生まれない。田山花袋は「蒲団」以後、「平面描写」を主張し、赤裸々な内面を暴露する告白小説を書かなくなる。日本自然主義は自分自身をモデルにして内面を暴露していく告白小説として発展していく。実際、私小説における告白言説は、一人の個人の内面を徹底的に描写した岩野泡鳴の「一元描写」に継承される。

韓国の場合、金東仁は、最初に「弱きものの哀しみ」「心浅きものよ」で岩野泡鳴と同じ「一元描写」を使い、内面を浮き彫りにする告白小説を描いた。しかし、彼は「甘藷」では、語り手と主人公が完全に分離する「客観描写」を用いており、当時の貧困な生活と植民地という時代状況を客観的に描く物語世界にたどりつくことになる。このようにして、彼は「甘藷」以後、内面が全く入らない客観描写を用いて、社会性の強いリアリズム小説を描くことになる。韓国では、<私生活>を描く私小説は、殆ど現れず、<現実>を描くリアリズム小説が現れる。すなわち、韓国では、自然主義及びリアリズムは、個人の暗い内面世界を描く告白小説から社会現実をリアルに描くリアリズム小説へと変わっていったのだ。

それでは、金東仁は三人称告白言説を作るために、日本語で考えなければならないほど苦悩したのに、なぜ、「一元描写」の告白小説から、客観描写のリアリズム小説へと移行していたのか。

その理由は東仁自身の創作観と当時の時代的状況からくる作家の現実認識ならびに読者にその答えを得ることが出来るであろう。まず、金東仁にとって自分の創作観である「人形操縦術」を実践するためには、内面を描く「一元描写」よりも、内面に触れない客観描写を用いるほうが、作中人物を操縦しやすかったのである。次に、植民地という特殊な時代状況があった。最後に、韓国の読者は、私小説や告白小説よりも現実世界を描くリアリズム小説を好んだ。このような理由から金東仁小説は告白小説からリアリズム小説に移っていくのであろうと思われる。

以上で、岩野泡鳴と金東仁の小説言説と描写理論の内実の比較を通して、日韓における三人称告白体説と近代文体の形成の内実が明らかになった。そして、日韓近代の三人称告白言説、近代文学の成立と相違とを検討することで、日韓近代文学の交流とその後の展開の差異が明らかになった。本研究はつまるところ韓日比較文学研究というアプローチが近代韓国および日本の文学研究に、さらに豊かな実りをもたらすことを示したものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「日韓近代小説における小説言説と描写理論--田山花袋、岩野泡鳴、金東仁」は、日本自然主義文学と韓国自然主義文学との関わりを論じたものであるが、分析対象となる作家は主として、日本側では田山花袋(1871−1930)、岩野泡鳴(1873−1920)であり、韓国側では金東仁(1900−1951)である。韓国自然主義が日本自然主義の影響を受けたという点についてはすでに指摘もあり、いくつかの先行研究もあるが、安英姫氏は地道で、丹念な調査により、その内実をより明らかにした。その点が本論文の称揚されるべき第一の特長である。以下、そのことを本論文の構成に即して述べる。

本論文は序章「日韓近代文学の関連性」、第1章「「彼」「た」と「一元描写」−−『発展』「弱きものの哀しみ」」、第2章「三人称代名詞「He」「She」の日本語・韓国語への翻訳(翻訳語による新たな小説言説)−−『毒薬を飲む女』」、第3章「言文一致体と文末詞−−『放浪』と「心浅きものよ」」、第4章「語りの視点と内面−−「蒲団」『断橋』「ペッタラギ」」、第5章「日韓近代小説の物語世界−−『憑き物』「じゃがいも」」、終章「日韓近代の三人称告白体言説の成立とその展開」とから成る。序章においては日本の近代自然主義小説家がどのようにして三人称告白体小説を作り出したかという問題の重要性がまず指摘される。そのために日本と韓国におけるリアリズムの問題、そのリアリズムと、のちに詳しく議論される泡鳴の一元描写との関係が素描され、さらに金東仁の「一元描写」「人形操縦説」という方法が言及される。

第1章においては、前章で言及された岩野泡鳴と金東仁の一元描写が比較検討される。その際、今日的な観点からその二人の方法論が再検討されるわけだが、分析方法として援用されるのはジェラール・ジュネットやツベタン・トドロフらの理論である。吟味の結果、二人の方法論に関して共通する点は、第1に作者と作中人物の一元化への志向、第2に作品世界が1人の作中人物の視点から描写されること、第3に3人称語りであることが挙げられる。また二人の相違点としては他の描写方法を、泡鳴が全面的に排除しているのに対して、東仁はそれぞれの特長を認めている点である。そうした二人の類似と相違とを確認した上で、実際の作品の描写がどのように作られているかが以後検討される。東仁の作品としては、一元描写を用いて作られた「弱きものの哀しみ」(1919)のテクスト分析が行なわれる。

第2章においては、西洋語のHe、Sheがどのようにして日本語表現に取り入れられたかが、田山花袋の「蒲団」、泡鳴の五部作、李光洙(1892−?)の「無情」、東仁の「弱き物の哀しみ」、廉想渉(1897−1963)の「初期三部作」を使って論じられる。その際、注目されるのが西洋語三人称代名詞の持つ前方照応性と置換可能性の問題である。日本語、韓国語において、西洋語三人称代名詞の翻訳語としての「彼」「彼女」「Kue」「Keunyeo」がいつ使われる始めるようになったかということはこれまで一応調査されてきたが、それらが実際どのような原則に基づいて日韓文学テクスト中で使われているかが綿密に分析されたとは言い難かった。安氏はそれを上記の作品内の使用法を詳しく検討して、明らかにした。

第3章においては、日韓文学テクストの文末詞の問題が分析される。明治期における言文一致運動において文章をどのように結べば良いかは作家の苦労するところであった。その議論に一応の終止符が打たれ、近代日本語文体が完成した後でも、ル形、タ形を混在した形で文章を書くか、それともどちらかに統一した形で文章を作るかについて作家は苦労しなければならなかった。泡鳴の五部作はそのことを明らかに示している。五部作を構成する作品のうちで最初に発表されたのは『放浪』(1910)であるが、その作品群はその後一元描写の方法に従って改稿され1919年に改訂版として刊行された。その改稿の過程を安氏は丹念に分析し、どのようにテクストが変化したかを網羅的に明らかにした。そこで問題になるのが、どこでどのような視点から内的焦点化が起こっているかという点と、文末詞がどのように変化したかという点である。また韓国側のテクストとしては東仁の「弱きものの哀しみ」「心浅きものよ」(1919)が取り上げられ、それらのテクストが詳細に分析される。そのことにより、東仁の韓国近代文体形成上の貢献が確認される。

第4章においては、語りの視点と内面という観点から日韓の文学テクストが分析される。ここで使用される文学テクストは花袋の「蒲団」、泡鳴の『断橋』、東仁の「ペッタラギ」である。「蒲団」に関する分析では、その作品内における内的焦点化がどこで起こっているかが分析され、その作品が必ずしも主人公、竹中時雄の視点からのみ書かれているわけでないことが確認される。またこの作品内では手紙という表現手段が使われ、それにより竹中時雄の「女弟子」横山芳子の声も聞く事ができるのである。それに対して、泡鳴の五部作では視点は主人公、義雄に固定され、徹底的に義雄の内面が、そして義雄の眼を通して感得される外界世界が描かれる。その結果、「蒲団」は「男」の物語であると同時に「女」の物語でもあるのに対して、五部作は一貫して「男」の物語であり続ける。他方、東仁は「ペッタラギ」(1921)でそれまで行なってきた一元描写から離れ、枠組み小説という構造と異なる語りの形式とを用いることで新たな文学世界を近代韓国文学にもたらした。

第5章においては、五部作と東仁の「甘藷」が分析され、特にその社会的コンテクストが議論される。五部作において伊藤博文の「暗殺」が言及されているが、表現の多くが主人公義雄の行動と内面とに置かれているため、テクストの示す社会的ひろがりは乏しい。それに対して東仁の「甘藷」では福女という「下層階級」の女性が殺されるという個人の悲劇を描いてはいるが、そこに一個人の悲劇を超えた植民地下での民族的貧困の問題が暗示されてもいる。「甘藷」の改稿過程を調べると、そこで東仁が客観描写の様相を強めていることが分かる。泡鳴の一元描写を学び、近代的韓国短編小説を作り出した東仁はここで新たな展開を見せたのであった。その変容については安氏が東仁の短編すべてをいくつかの指標に基づいて分類してみせたことでより明らかになった。

終章において、以上の議論をふまえ、安氏は近代日韓文学における三人称告白体言説の成立とその関係、またその相違をまとめるのである。

以上、述べたように、本論文は近代日韓自然主義文学における影響関係を、その内実に即して明らかにしたものである。その際、それぞれの作品の初出、初版にあたり、その改稿過程を調べ、表現がいかに変容し、その結果、どのような文学的効果が生み出されたかを確認したところに本論文の特色があると言えよう。

もちろん、本論文にも欠点が無いわけではない。題名から推測できるように、近代文学と内面告白との関係などは柄谷行人氏の枠組みにおおく頼っている。また文学理論の面ではさらに多くの理論を参照する必要があることも指摘された。韓国語テクストの日本語訳も誤訳を無くし、さらに推敲する必要があるとも指摘された。しかし、そうした指摘も今回、安氏が行なった地道で丹念な資料調査、テクスト分析から導き出された研究成果の意義を減じるものではなかった。この主題についてさらなる資料調査が必要であるにしても、今回の安氏の調査で多くのことが明らかになったということは審査委員の一致した見解であった。

したがって、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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