学位論文要旨



No 118484
著者(漢字) 陳,姃湲
著者(英字) JIN,JUNG WON
著者(カナ) ジン,ジョンウォン
標題(和) 近代中国における伝統的女性像の変遷 : 「賢妻良母」論をめぐって
標題(洋)
報告番号 118484
報告番号 甲18484
学位授与日 2003.06.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第403号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 東洋文化研究所 教授 黒田,明伸
 総合文化研究所 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 京都大学 教授 濱下,武志
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、いまや中国伝統の儒教的女性像の代名詞でように一般に認識されている「賢妻良母」が、1900年代初中国に登場してから五四新文化運動時期を経て1930年代初めにいたるまで、如何なる意味やイメージの変遷をたどり、中国伝統=儒教の女性像と成りえたかを明らかにすることを目的とする。「賢妻良母」が最も新しい女性像から旧時代を代表する女性像と変化する過程を明らかにすることで、近代中国において「伝統」が如何に創造されていったかを究明する一つの手がかりを提供したい。

「賢妻良母」の言葉及び概念は、1900年代初女子教育を振興させる目的をもったスローガンとして維新派の知識人によって始めて中国で用いられるようになった。国家存亡の危機に直面させられ富国強兵の方策を講究していた維新知識人にとって、「賢妻良母」とは、従来単に男性に依頼して生活するのみであった伝統的女性像とは違い、国家に寄与できるだけの知識と教養を身につけたまったく新しい女性像であった。五四新文化運動とともに女性問題の内容が職業問題・自由社交・男女共学・出産問題などにまで多様化されるにつれ、賢妻良母」も教育された賢い女性を意味する肯定的使用例一辺倒ではなく、男性に依頼する依存的存在、自由な決定権をもたない無知な存在など否定的意味をも持たされるようになり、新文化運動が克服するべき対象である伝統のもの、即ち旧時代の儒教女性像へと変貌した。五四新文化運動時期を経て、「賢妻良母」はその存在価値を否定されたのみならず、「新」から「旧」への変化をも余儀なくされたのである。新文化運動の気運がある程度鎮まり、ファシズムの影響が日々強まっていた1930年代になると、新生活運動など復古主義の傾向のもとで「賢妻良母」は、いわゆる「婦女回家」論争のもとで、「家を守る」女性として再び肯定的な意味を付与されるようになった。しかし、ここで注目せねばならない点は、五四新文化運動が「賢妻良母」に齎した二つの意味の変化-「新」から「旧」へ、「肯定」から「否定」へ一のなかで、時間軸の変化、つまり旧時代の産物であると見方は1930年代以降今まで変わることはなかったという点である。以降「賢妻良母」を巡る論争は、抗戦期の1940年代、そして建国後の1950年代まで、周恩來、郭末若、林語堂などの著名人の名を連ねつつ繰り返し行われるようになるが、そのなかで「賢妻良母」は常に中国伝統を引き継ぐものとして取り上げられていた。「新賢妻良母」という当時の流行語から明らかに象徴されるように、「賢妻良母」それ自体は旧時代の産物=伝統として見なされていたのである。

本稿は、1900年代初め、新時代に相応しい理想の女性像として創造され登場した後、僅か3・40年の年月を経ただけで、旧儒教価値観の中での「伝統婦女」-それが復古主義のもとでの古き良き伝統像であるにせよ、もしくは、取り払うべき古臭い伝統像であるにせよ-へと変化を成し遂げた「賢妻良母」の歩んだ変遷を読み取ることを通して、近代中国において新しい未来像のみが模索されたばかりではなく、同時にその未来像と対を成す「伝統像」もが絶えず創造されていたことを、中国女性史の領域から明らかにし、ひいてはその想像された「伝統像」が反映する時代的要求及び思想的背景をも明らかにしたい。

「賢妻良母」に関する研究は、日本近代女性史を皮切りとして、すでに中国史および韓国史の分野においても注目されるようになった。それらの研究成果はともに「良妻賢母」・「賢妻良母」、もしくは「賢母良妻」のもつ近代的性格を強調し、儒教との関連性を否定する方向性をもっていたといえる。特に、中国史分野における「賢妻良母」は、近代女性教育史の領域や、女性観の変遷に関する研究の中で主に扱われてきた。前者が「賢妻良母」を清末学制のの表象する女子教育理念として見做しているならば、後者は近代以降変遷してきた女性の理想像を追う中で、五四新文化運動以前の理想像として「賢妻良母」を位置付けしている。つまり両者ともに「賢妻良母」を清末という特定の時代を代表する理想的女性像として取り上げているのであり、それは新文化運動と共に登場した「ノラ」や「摩登女性」に代表される「新女性」に取って代わられたと見なすのである。

以上の如く、従来の研究では、「賢妻良母」をある時代を代表する理想像であるという認識のもとで、それが1900年代以降も議論されつづけながら見せる変化には注目してこなかった。換言すれば、「賢妻良母」はより新しい女性像、たとえば、「ノラ」や「鉄姑娘」、「女強人」、「摩登狗兒」などの登場とともに淘汰を余儀なくされた、清末の理想の女性像であるとされてきたのである。

本研究では、以上のような「賢妻良母」に対する記述に二つの疑問を提出する。まず、第一に、1900年代初め、新文化運動を前後した1910・20年代、そして復古主義のもとでの1930年代の「賢妻良母」で表現されるそれぞれ女性像の内容が、必ずしも同一ではなかった点である。つまり、1900年代の「賢妻良母」が女子教育のスローガンであったならば、新文化運動時期の「賢妻良母」は多様化された女子問題を反映して、女子教育以外の部分で描写される女性像であり、1930年代のそれは更に職業を持たない主婦としての女子のあり方を論ずるキーワードであったという点である。第二に、その各時期の賢妻良母が、それぞれ違う外来文化に影響され想像された概念であったことを明らかにする。1900年代のそれは、明治日本の女子教育理念に影響されており、1910・20年はエレン・ケイを筆頭とする西方女性理論を、1930年代は3K主義と言われるイタリア・ドイツのファシズムの女性論がその思想的背景としてあげられる。言い換えれば、異なる文化圏からの思想的影響が各時期「賢妻良母」論の方向や意味合いを決定した側面も存在したのであり、「賢妻良母」という四文字に託された意味含蓄や女性像は、各時期毎に相互に断絶されていたともいえよう。このようにして想像されつづけた「賢妻良母」像は、新しい女性像を模索する過程の上で、「新女性」そのものの意味から、更なる「新女性」を想像するためには必然的に付随する古い伝統の女性像として、新たに創造されていたのである。

まず、第一章は、1900年を前後して中国に始めて登場した際の「賢妻良母」が持つ「近代性」及び「外来性」を明らかにする。国家存亡の危機に直面させられていた近代東アジア国家では、中国のみならず、日本及び韓国においても、「賢妻良母」が富国強兵に寄与できる理想の女性像として求められ始めた。新しい女性像としての「賢妻良母」は、伝統的女性像と区別される必要があった故に、先進外国の女性像を原型としなければならなかった。つまり、韓国や中国が日本女性像をモデルとして「賢妻良母」像を創造したならば、日本は更に欧米の先進国からその原型を求めていたのである。本稿では、日本「賢妻良母」像の創始者とされる中村正直と、中国の地で「賢妻良母」教育を実際試みた服部宇之吉に注目し、中国に「賢妻良母」像が登場するまでの過程及びその意義を明らかにする。

第二章では、五四新文化運動を経て、当初外来の新女性を意味していた「賢妻良母」が、中国伝統を引き継ぐ旧時代の女性像に姿を変える過程を、『婦女雑誌』(1915年-1931年)に登場する「賢妻良母」像を追うことで明らかにする。まず、『婦女雑誌』が時代とともに変化する女性論を充実に反映していることを資料批判的視角から検証した上、五四新文化時期とその前後に「賢妻良母」が遂げていく変身の過程、そして、それぞれ「賢妻良母」に反映される内容の変化を明らかにする。

第三章では、近代中国において最も激しい思想的遍歴を見せた人物のひとりである江亢虎(1883-1954)を取り上げ、中国現状と自らの思想の変化にあわせて、彼が「賢妻良母」に如何に異なる解釈を与えていたのかを明らかにする。江亢虎は日本留学時期に良妻賢母に対する批判的言論に接しており、その理念をもとにして1900年代後半自ら北京で女子学校を経営していたのみならず、1920年代以降はアメリカ滞在時に形成された新しい視角から再び女子問題を取り上げているのである。同時に、江亢虎の女子教育及び女性論が彼の社会主義思想の形成に如何に影響していたかも究明する。

総括すれば、国家存亡の危機を打破する方法を模索するなかで、1900年代中国に登場した「賢妻良母」が西欧や日本という先進外国をモデルとして創造された女性像であったならば、五四新文化運動以降、中国伝統として変貌した「賢妻良母」もなお更なる外来思想の影響のもとで創造された「新しい伝統」だったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1900年代初等に、女子教育を振興させる目的をもったスローガンとして維新派の知識人によって用いられた「賢妻良母」という概念の歴史的分析を中心に、その歴史的展開を1930年代にまでわたって克明に追跡し、従来の伝統的女性像とは異なる、国家に寄与できる知識と教養を身につけた新しい女性像が展開され、かつそれが伝統化されていった過程を以下の3点において実証した。

第1は、中国における「賢妻良母」女性観の輸入過程をめぐって、東アジア近代女子教育思想からみた「賢妻良母」像の近代性、中村正直の「賢妻良母」像の西欧的起源や梁啓超の女性論と明治啓蒙思想との関連、服部宇之吉と日中間における「賢妻良母」論の伝播とそれらの相互関係を明らかにした。

第2は、『婦女雑誌』(1915-1931)が全面的に分析され、新しい資質として衛生知識と経済管理能力を備え、国家と社会の一部分としての女性像が形作られたことを明らかにした。また、五四新文化運動時期に「新婦女」論が登場し、「賢妻良母」の伝統化が進められた。

第3は、女性教育活動に携わり、日本留学経験を持つ江亢虎の女性論の変遷が論じられ、彼の「無家庭主義」、世界主義の女子教育、「社会主義は女子から実践すべし」という観点、社会主義からの婦人解放論、など、極めて特徴的な女性論の展開が後付けられる。さらに、江亢虎が、ベーベルと幸徳秋水の婦人論と対比され、「中国の伝統」としての賢妻良母像が出来上がる過程が明らかにされた。総じて、「賢妻良母」論の伝統化が、東アジア規模の比較史的視野を以って明らかにされた点が高く評価できる。

残された課題として、伝統化される「賢母良妻」に対比して論ぜられる新女性論の内容はどのようなものか、歴史的な伝統的儒教的女性論と伝統化される女性像との関連はどのようなものか、などの諸点が存在する。しかし、このテーマは、新たな資料の発掘の下に、稿を改めて検討すべきであり、本論文において明らかにされた「賢母良妻」論の変遷に関する議論をいささかもそこなうものではないと考える。本審査委員会は、上記のような画期的な成果をあげていることを鑑み、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当するものであると判断する。

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