学位論文要旨



No 118486
著者(漢字) 邱,淑婷
著者(英字) YAO,SHUK TING
著者(カナ) ヤロ,シュク ティン
標題(和) 香港・日本映画交流史 : アジア映画ネットワークのルーツを探る
標題(洋)
報告番号 118486
報告番号 甲18486
学位授与日 2003.06.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第444号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 刈間,文俊
 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 助教授 野崎,歓
 東京大学 名誉教授 蓮實,重彦
内容要旨 要旨を表示する

今、アジア映画は大きな注目を浴びているここでいう「アジア映画」には、単に中国や日本、香港、台湾、韓国などの映画を一括する意味だけでなく、アジアの映画人たちが相互に相手の映画世界に乗り入れている現状を内在している。そのルーツや歩みを探ることが、本論文を執筆する動機である。戦時下に日本の映画人が提唱した「大東亜映画」は、この「アジア映画」のルーツとして想定される。そして、このアジア映画の歩みは、香港と日本の映画交流によって顕在化されていった。このような経緯を、本論文は1930年代から70年代に至る香港と日本の映画の交流関係に焦点を当てて解明していく。香港と日本の映画交流、とくに日本の映画人が香港で多くの映画製作に従事してきた経緯は、これまで何人かの業績が断片的に紹介されたにすぎず、その全体像を総合的に捉えたのは、本論文が最初である。先行研究の少なさから、本論文では多くの香港や日本の映画人にインタビューを行ない、その証言から映画史の空白を埋める作業を行なった。インタビュー記録は、すべて別冊に附してある。

20世紀初期、中国や香港、日本の映画製作はそれぞれのあけぼのを迎えた。ごく少量の映画輸入を除けば、双方の映画界には具体的な交流活動は何1つも見当たらなかったが、30年代初期、フィルム式のトーキー映画を撮るため、川谷将平のアドバイスを受け、上海華光片上有声電影公司は日本発声映画会社の技術を借り、日本へスタッフや俳優を送り出した。また、自国映画の撮影技術向上を目指した羅明佑と関文清は、松竹京都撮影所とコダック駐日カラー現像所の視察を決めている。中国と日本の映画界の繋がりは、このような技術面での提携の動きの他に、映画における左翼思想も初期の日中映画人を結びつけた要素である。魯迅が日本プロレタリア映画同盟委員長岩崎昶の「宣伝煽動手段としての映画」を翻訳したことや、岩崎昶が上海で観た『漁光曲』に感動し、帰国後、「支那映画を語る」を発表したのは、その表われである。だが、日中国交の悪化によって、これらの交流の萌芽にはピリオドが打たれてしまう。香港の人々は、日本映画を観るどころか、愛国心をテーマとした抗日映画を数多く製作するようになる。香港映画界における抗日思想は、蔡楚生や司徒慧敏らの到来によってますます高揚し、映画人たちは、市川采の買収を拒絶し、香港陥落後も日本への協力を全面的に拒否した。この反発のため、たとえ報道部の和久田幸助が占領軍と香港映画人の間で幹旋に努力しても、具体的な映画交流は終戦までほとんど実現されなかった。

戦前や戦中とは異なり、50年代の中期以降、香港映画界には肯定的な対日観が築かれはじめる。それは、戦後のアジアをめぐる国際情勢の急変と映画自体の発展が大きく関わっている。映画自体の発展とは、カラー、ワイド・スクリーンの開発や映画祭の隆盛、海外ロケの流行の他、上海の映画人の香港移転が大きな意味を持っている。中華電影に属していた人々の到来によって、上海と日本の映画人の繋がりが香港へ移植されたからだ。1955年、本格的なカラー映画を撮るため、張善〓が川喜多長政の協力を求めたのは、この連携が実際に機能した好例である。つまり、戦後における香港と日本の映画関係を論ずるには、そのルーツである中華電影や満映に触れなければならない。中華人民共和国政府の映画政策の結果、50年代以後、かつての上海映画に替えて香港映画が東南アジアを含めた中国語圏映画の製作を支配することになった。そこで広大な華僑市場へ進出しようとした日本の映画人は香港映画界に接近を図る。欧米でも高い評価を獲得した大映の永田雅一は、発起人として1953年に東南アジア映画製作者連盟、翌年に東南アジア映画祭を組織し、香港をはじめ東南アジア諸地域の映画産業の結集を計画する。この行動は、日本映画の東南アジアへの輸出、日本のイメージ・アップ、欧米映画のネットワークへの対抗という3つの意図があった。この新たな関係のもとで、日本と香港の間には多くの合作映画が登場する。いわば、50年代中期に日本と香港が主導した「東南アジア映画」は、戦時下の日本が上海で計画した「大東亜映画」の延長という側面を持っている。

香港の映画人が日本映画界に積極的に協力したのは、日本や欧米の市場開拓というよりも、日本人の技術を借りてレベルの高い作品を撮るためであった。なかでも邵〓夫は日本の映画界から人材を招くことに最も熱心で、50年代後期にはイーストマン・カラーやワイド・スクリーンを作るためにカメラマンの西本正、柿田勇を招き、60年代中期になると、製作本数の拡大を目的に井上梅次や古川卓巳、中平康、村山三男、島耕二、松尾昭典といった多くの監督を招聘するに至る。彼らはスタッフを伴って香港に来たため、多く照明や録音、特撮、振付、殺陣、美術、助監督なども、香港映画に関わるようになった。日本人が活躍していた60年代の半ばから、邵氏は、自らのスタジオ・システムをいかし、自作の質と量を向上させ、その黄金時代に邁進していく。

70年代に入ると、松竹・東宝・大映・東映・日活など日本の大手映画会社は斜陽期を迎え、一方、邵氏はその経営方針を変え、日本映画人との関係は疎遠となる。それに対し、新興の嘉禾や他の独立プロは、日本から俳優や技術者を呼び、合作映画を企画しはじめた。こうして、香港と日本の映画交流は、大手対大手の時代から、より多様化した新しい段階に入っていく。特筆すべきは、この時期にカンフースターのブルース・リーがきっかけとなり、それまで香港映画に見向きもしなかった日本の観客がその態度を変え、和製のカンフー映画さえ製作されるようになったことである。日本人が香港映画を受け入れるようになったのは、ブルース・リーやマイケル・ホイ、ジャッキー・チェンといったスターたちの魅力だけでなく、それらの映画が現代社会に通用するリズム感を備えていたことも大きい。日本人に歓迎された香港映画には、程度の差こそあれ多くの日本人の共感を得ていた。例えば、ブルース・リーやジョン・ウーの映画で登場してくるヒーローにノスタルジアを感じる日本人も少なくなかった。この点を理解するには、50年代から60年代にかけて香港で公開された多くの日本のアクション映画と、それが香港の映画人に与えた影響を考察しなければならない。

80年代の中期以降は、香港や中国、台湾、韓国のニューウェイブがきっかけとなり、アジア映画は日本でもその芸術性が評価されるようになり、数々の国際映画祭でグランプリを射止めるに至る。アジアにおける新世代の映画人たちは、資金や人材、技術の交流に熱心であり、日本の映画界もこのアジア映画ブームに乗り、その一員として活動を展開している。しかし、このようなネットワークは、かつての戦時下から存在していたものであり、長い歴史の積み重ねを経て80年代に新たに大きな展開を見せたのである。

歴史的な背景を明らかにし、映画技術の向上と伝播、さらには市場開拓の導向など映画を取り巻く環境が、歴史的記述として整理されることで、より多様な「アジア映画史」の構築が可能となってくる。互いに補完し合うアジアの芸術という、より大きな流れの中で考察するならば、現在のアジア映画も、より深部での読解がなされるに違いない。

審査要旨 要旨を表示する

邱淑〓氏の博士学位請求論文「香港・日本映画交流史−−アジア映画ネットワークのルーツを探る」は、近年めざましい発展を見せるアジア映画を、日本映画と香港映画の相互影響関係を軸に、映画人のネットワーク形成史として解明した画期的な試みであり、今後の香港映画史研究にとって基礎的な文献となる論考である。1930年代から90年代までの香港における映画の発展を、各国映画人の交流という視点で横断的に捉え、戦争やスタジオ・システムの変遷、さらにはグローバリゼーションという人的移動を促す時代の変化が、どのように新たな映画芸術を構築していくか、その過程を考察した刺激的な企てである。

本論文の独自性は、広範な文献調査と多くの映画人に対する綿密なインタビューに基づき、これまで当事者の断片的な回想で語られてきた史実を掘り起こし、香港映画史の空白を埋め、新たな映画史の記述を可能にした実証性にある。なかでも1950年代後半以降に日本の映画人が香港で多くの映画制作に携わった経緯は、本論文によって初めて総合的にまとめられ、従来の香港映画史が書き換えられることとなった功績は評価されよう。公開終了後は映画作品を見る機会がほとんどなく、また制作に携わった映画人の本名がクレジットに記されないなど、香港映画の実証的研究には基礎的資料の不足が深刻な問題であった。本論文には、日本と香港の映画人20名のインタビュー記録と香港抗日映画目録(1934−1941)、上海租界日本映画上映目録(1942−1945)、日本人が関係した香港映画目録(1942−2001)、香港日本映画大事記(1930−1979)、主な人物小伝などの膨大な資料が付されており、今後の香港映画研究に資するところは大きい。

本論文は全五章から構成される。まず第一章「戦前・戦中における香港と日本の映画交流」では、1930年代から太平洋戦争の勃発による日本軍の占領期の香港映画史が概観される。香港は抗日映画制作の基地であり、日本軍の占領後は映画人の脱出や日本への協力の拒否などにより、具体的な日中の映画交流は実現しなかった。占領期の映画工作を担当した報道部の和久田幸助は、日中双方から非難され、映画史でも扱われてこなかった人物だが、彼を日中の狭間に落ちた悲劇の人物として再評価したのは、本論文が最初である。

第二章「中華電影における日中映画交流」では、日本占領下の上海で映画制作を行った中華電影をめぐる日中の映画交流が記述される。中華電影については、中国では対日協力映画として無視され、日本では川喜多長政と張善〓の協力を美談として語られることが多かったが、本論文では新たに発見された中華電影の雑誌『新影壇』を手がかりに、多岐に渡った映画交流の経緯が明らかにされる。本論文によって初めて明らかとなった事実は多く、中華電影における日中の映画人の接触が、戦後のアジア映画ネットワークを構築する基礎となったという指摘は、説得力をもつ。中華電影を大東亜映画の一環として利用しようとした日本側の意図を分析した点も評価された。

戦後から1950年代前半までの香港映画史を扱う第三章「香港・日本映画交流を促進する理由」は、中国革命の進展により左右に分裂した香港映画界と日本の関係を、上海映画人の香港移転や中国革命による映画市場の変化を軸に、日本映画の国際進出と東南アジア市場の開拓をも視野に入れつつ詳述する。マーケットから映画史を記述する試みは、香港映画の考察には欠かせない視点であり、ここではその効果を上げている。香港では50年代初頭に日本ロケを行う作品が唐突に登場するが、従来は謎とされたこの作品群を、台湾市場との関係から分析したのは、本論文の成果である。

1950年代から60年代にかけての香港と日本の映画会社の提携を記述した第四章「香港と日本の映画交流の黄金時代」は、本論文の白眉ともいうべきだろう。電懋と〓氏という香港の二大映画会社と日本映画界の関係が的確に記述され、とくに〓氏が大量に招聘した日本映画人による映画制作の経緯が、映画人の証言をもとに初めてまとめられた。日本の時代劇と香港の新武侠映画の関係や香港の歌謡映画に対する服部良一の貢献、中平康や井上梅次、西本正など重要な働きをした映画人の事跡が詳述される。香港のスタジオ・システムの隆盛と日本映画界の斜陽化が、映画人の移動を促し、香港映画の黄金時代を築く一方で、日本映画にも一定の影響を与えたという記述は、肯定されよう。

第五章「70年代以降の交流及び香港映画と日本映画の相互影響」は、日本と香港の映画制作が前後してスタジオ・システムから独立プロへ移行するに従い、映画交流が多様化して現在に至る過程を概観する。日本における香港映画の受容には、カンフー映画のヒットなどスターの魅力だけでなく、日本映画の影をそこに見たからだという指摘は興味深いが、より作品に即した分析が必要との意見も、審査委員から出された。

最後に本論文は、80年代の香港、中国、台湾、韓国のニューウェーブの登場以降、現在ではかなり一般化した映画人の相互乗り入れというアジアにおける映画のネットワークが、かつての戦時下から存在したそれを受け継ぐものであり、歴史の積み重ねの上に開花したと結論づけている。

第二次大戦時の日本による「大東亜映画」の提唱が、日中の映画人の交流を生み、結果として香港を中心とする映画のネットワークを構築していったという本論文の論考は、これまで扱われることのなかった問題を、あえて映画の作品論には踏み込まず、映画技術の伝播と制作環境の変遷など映画を取り巻く環境に焦点を絞った上で、通史として初めて記述したものであり、その功績は高く評価される。その点で審査委員の意見は一致した。すでに本論文の一部は、香港の学会で報告され、香港や中国、韓国でも高く評価されている。文献資料の扱いや注の一部に不備が指摘されたが、それらは瑕疵にすぎず、本論文の成果を損なうものではないという点でも、審査委員の意見は一致をみた。

したがって、本審査委員会は全員一致で、邱淑〓(ヤウ・シュクティン)氏の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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