学位論文要旨



No 118489
著者(漢字) 細野,ひろみ
著者(英字)
著者(カナ) ホソノ,ヒロミ
標題(和) 牛乳の商品特性をめぐる消費者評価に関する計量経済学的研究
標題(洋)
報告番号 118489
報告番号 甲18489
学位授与日 2003.07.07
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2644号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 大賀,圭治
 東京大学 助教授 木南,章
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

本研究では,牛乳(乳等省令上の種類別,牛乳,脱脂乳,部分脱脂乳,加工乳,乳飲料を含む)を対象として,安全性と栄養を中心とした商品特性に対する消費者の選好構造の把握を試みた.また,情報が商品特性に対する評価に与える影響についても検証した.

近年多発した食の安全性をめぐる問題を背景に,消費者の食の安全性に対する関心は高まっている.さらに一連の食品表示偽装問題は,食の安全性のみならず,表示に対する消費者の信頼も大きく揺るがした.現在,政府や企業により食の安全性確保のための対策や,食品表示の拡充策が講じられているが,より効率的な施策の実施のために,消費者の安全性に対する評価を定量的に明らかにすることは重要である.

また,食料消費が量的には飽和状態に達したといわれる現在の日本においても,食生活の質的な面では課題を残している.高齢化社会をむかえて,医療費拡大の問題が深刻化しているが,生涯を通じて健康を維持するために,適切な食生活の果たす役割は大きい.中でもカルシウムは平均的日本人が慢性的に不足状態にあり,摂取量の増加が望まれる栄養素である.

このような問題意識のもとで,牛乳の栄養と安全性という特性に焦点をあてて,消費者の評価を定量的に把握することが本論文の目的である.商品特性に対する評価の計測を目的にしていることから,商品レベルの詳細な情報が必要となる.また,商品特性に対する評価は,個人間で異なることが予想されるため,選好構造の把握には個人レベルの情報も不可欠である.さらに,食品の安全性に関する事件が商品選択に与えた影響を把握するためには,時系列的な情報も必要となる.そこで,本論文では以下に示す2タイプのデータを用いた分析を行っている.

1点目は,商品レベルの実際の購買行動と,食中毒事件が商品特性に対する評価に与えた影響を把握する目的でPOSデータを使用したヘドニック価格分析である.2点目は,コンジョイントタイプの商品選択実験に基づく分析で,商品特性に対する消費者評価と,そこに与える直前情報の影響を推計し,さらに,牛乳の商品特性に対する消費者の階層的な選好構造の把握を試みた.1点目のデータは,現実の市場での取引の結果として得られたデータであることから顕示選好データと呼ばれ,信頼性の高いデータであるという特徴がある.そして,2点目のデータは,仮想市場での実験を通して得られたデータであることから,表明選好データと呼ばれる.後者の利点は,実際には販売されていない商品特性の組み合わせに対する評価が可能であり,また,情報の効果の計測といったような実験を行うことができる点にある.それぞれの特徴を生かすため,本研究では両者を用いた分析を行っている.

第1章では,1980年以降に行われた日本の食料消費構造や食料需要に関する既往の研究を整理し,食料需要研究の到達点と残された課題について述べ,本論文の位置付けを明確にしている.また,本論文の背景として,(1)戦後日本における栄養対策の変遷と現在の栄養問題,(2)食中毒事件の発生状況と消費者の食品の安全性や表示に対する意識の動向について論じた.

第2章では,1999年〜2001年の日経QUICK情報のPOSデータを用いて,ヘドニックアプローチを適用し,食中毒事件が牛乳の商品特性に対する消費者評価に与えた影響について分析した.食中毒事件により,消費者の牛乳の特性に対する評価には構造変化がおきたことが確認された.変化の方向は3点にまとめられた.1点目は,品質や成分に関する特性である,乳脂肪分,カルシウム含有量,生乳使用率,HACCPラベルの貼付に対する評価が低下したことである.2点目は,容量やパッケージデザインに関する特性が価格に与える影響が大きくなったことである.そして3点目は,価格形成に与えるブランド力の影響が低下したことである.

第3章では,都内の大手生協の組合員を対象として行ったアンケート調査をもとに,牛乳の購買行動や摂取状況と,回答者の属性及び栄養や安全性に対する意識や知識の関係を記述統計のスタイルで整理した.この分析により,(1)牛乳の摂取量や購入量に影響を与える消費者属性は「年齢」と「世帯人員数」であること,(2)牛乳を購入するときの留意事項としては「期限までの残日数」と「種類別」を重視する傾向にあること,(3)健康に関する意識では,高齢の回答者ほど生活習慣病と関連する項目に対する意識が高いこと,(4)HACCPラベルの認知度は13.6%に留まっており,知識レベルが向上するほど信頼度が高まること,(5)カルシウムに関する知識レベルは高く,骨や歯を丈夫にする働きについてはほぼ全ての回答者が認識しているが,知識の向上が牛乳摂取量の増大には繋がっていないことが明らかとなった.

第4章では,アンケート調査による商品選択実験をもとに,牛乳の商品特性に対する評価と,HACCPシステムとカルシウムの効能に関する追加的な情報が商品特性の評価に与える影響について分析を行った.モデルは,特定の商品の選択確率が他の選択肢の存在により影響を受けないこと(IIA: Independence-from-Irrelevant Alternatives)を仮定した条件付ロジット(CL:Conditional Logit)モデルを適用している.この章では,(1)回答者が牛乳の商品特性に対して同質な選好を持っていると仮定した場合と,(2)回答者の牛乳の商品特性に対する選好構造は一様ではないと仮定した場合の,2種類の推計を試みた.(1)の結果では,商品へのHACCPラベルが貼付されることに対する支払い意思額(willingness to pay : WTP)や,カルシウム強化に対するWTPは,提示する商品によって影響を受けることが確認された.また,情報を提供することによる追加的なWTPの上昇は,HACCPに関する情報を提供した場合も,カルシウムの効能に関する情報を提供した場合もプラスに評価された.しかし,推計式へのあてはまりはよいとは言えず,牛乳の商品特性に関する消費者の選好が一様ではない可能性が示唆された.(2)では,回答者を複数のサブグループに分類して推計を行った.分類は,a)回答者は提供された情報によって商品特性に対する評価を決めると仮定し,提供した情報の種類で分類した場合と,b)回答者は健康に対する意識や牛乳に対するイメージ,あるいは習慣的な行動に基づいて商品選択を行っていると仮定し,クラスター分析によって分類した場合,の2ケースである.その結果,b)が支持され,回答者は3タイプに分類された.回答者のタイプは推計されたパラメータの値から,「低脂肪志向型」,「健康情報反応型」,「安全性志向型」と性格付けられた.

第5章では,第4章で得られた結果を踏まえて,大規模調査(1500人を対象とした)を実施し,特に,(1)商品特性に対する選好構造の階層性,(2)意識・知識を含めた回答者属性が商品選択に与える影響の2点に着目し,消費者行動をより詳細かつ包括的に捉えることを目的に分析を行った.第5章で用いたデータについても,(1)回答者間に商品特性に対する選好の異質性が存在するか否か,(2)特定の商品特性の存在が他の商品特性の評価に影響を与える可能性があるか,を条件付ロジットモデルの適用により確認したところ,その可能性を肯定する結果が得られた.このことは,条件付ロジットモデルを用いて推計を行う場合の,IIAの仮定が適切ではないことを意味している.そこで,IIAを仮定することの妥当性を検討するため,Hausman検定を行ったところ,IIAの仮定は1%水準で棄却された.

IIAの仮定が棄却されたことは,提示した商品が特定の特性のレベルによっていくつかのグループに分けられることを意味し,商品選択において段階的な意思決定がなされている可能性を示唆している.そこで,IIAの仮定を一部緩和したNested Logit(NL)モデルを適用して推計を行った.NLモデルでは,事前にNesting構造を指定する必要がある.したがって,(1)乳脂肪分の含有率,(2)カルシウム強化の有無,(3)HACCPラベル貼付の有無の3タイプを上位レベルの選択に設定し,これらの特性について階層的な選好構造の存否を検証した.

NLモデルによる推計の結果,(1)乳脂肪分の含有率に関する階層的な選好構造(「低脂肪乳」,「乳脂肪無調整乳」,「濃厚牛乳」によるNesting構造)の存在が明瞭に支持された.また,(2)のカルシウム強化についても階層的な選好構造が存在する可能性が示唆されたが,(3)のHACCPに関しては,階層的な選好構造は確認されなかった.得られた結果をまとめると,「低脂肪でカルシウム強化」という健康重視型,「乳脂肪無調整でカルシウム強化なし」という自然志向型,「少しでも脂肪含有量の多い濃厚牛乳」という味覚重視型の3つのタイプの上位選好のカテゴリーが存在する可能性が高い.また,HACCPラベルに対する評価は,カルシウムの添加や乳脂肪分含有率の調整などを施した商品である場合に重視される傾向にある.さらに,HACCPラベルの貼付は,新鮮さにもある程度代替しているとの結果が得られた.

審査要旨 要旨を表示する

量的な飽和状態に達したとされる現代日本の食生活のもとでも、食品需要のパターンが固定しているわけではない。所得や価格といった経済変数の影響力は低下したが、消費者の健康志向や安全志向が強まるなかで、食品需要の規定要因はむしろ複雑化している。本論文は、牛乳(乳等省令による牛乳・脱脂乳・部分脱脂乳・加工乳・乳飲料)を対象に、食品の安全性や栄養に関わる品質と、これらの商品特性をめぐる情報が消費者の購買行動に与える影響について、計量経済学的な手法を用いて評価したものである。

第1章では、1980年代以降の食品需要に関する計量経済学的な研究を詳細にレビューしている。そのうえで、消費者の選好の構造を明らかにするため、本論文では顕示選好データを用いたヘドニック価格分析と、表明選好データを用いたコンジョイントタイプの需要分析を採用することが述べられる。加えてこの章では、戦後日本の栄養政策や食品安全政策の推移を概観することにより、研究の社会経済的な背景を整理している。

第2章は顕示選好データによる分析であり、首都圏の量販店で収集されたPOSデータにヘドニック価格分析を適用して、安全性と栄養素をめぐる商品特性に対する消費者の評価を計測している。安全性についてはHACCPラベルの貼付に、栄養素については乳脂肪率やカルシウム含有量に着目した。計測期間は1999年から2001年であり、乳業メーカーによる食中毒事件の前後で、消費者の評価基準に有意な構造変化が生じていることが確認された。具体的には、乳脂肪分やHACCPラベルに対する評価が低下し、パッケージデザイン(使用色数)への評価が上昇している。使用色数は商品特性の訴求力を強化する企業行動の代理変数であると解される。

第3章では、都内大手生協組合員を対象として実施したアンケート調査の結果を、消費者の属性と、安全性や栄養素をめぐる知識の関係という観点から分析している。この章の分析は第4章と第5章の計量分析の準備であるが、同時にいくつかの興味深いファインディングスも得られた。具体的には、安全性の識別手段としてHACCPの認知度が低いこと、カルシウムの効用に対する認知度が非常に高いこと、これらの知識の差異が購買行動に有意に影響しているとは言えない点などである。

第4章と第5章では、商品選択実験によって得られた表明選好データを用いて、牛乳の特性に対する選好の構造を分析している。商品選択実験は第3章のアンケート調査と同じ回答者を対象に実施された。まず第4章では条件付ロジットモデルを用いて、消費者の同質性を仮定した計測と異質性を仮定した計測のふたつを試みている。前者によれば、HACPPの貼付やカルシウム強化に対する支払意思額(WTP)は有意にプラスであり、しかも、追加的な情報提供によって上昇することが確認された。また後者の結果、消費者は「低脂肪志向型」「健康情報反応型」「安全性志向型」の3つのクラスターに分類されることが明らかにされた。

第5章では第4章の結果を踏まえて、消費者の異質性に加え、選好の階層構造を同定することをねらいとして、ネステット・ロジットモデルを適用している。安定した推計に必要な実験試行数を確保するため、対象を1500名に拡大したうえで、再びアンケート調査を実施した。計測結果の分析を通じて、主として乳脂肪分の含有率に関する上位の選択のもとに、ほかの品質要素に関する選択が行われる選好の階層性の存在が確認された。品質の差異に対するWTPの計測結果は、カルシウム添加や乳脂肪率調整を施した商品群でHACCPラベルに対する評価が高いことや、HACCPラベルが鮮度にある程度代替しうることを示している。

以上を要するに、本論文は牛乳を素材として、安全性と栄養素に関する商品特性を明示的に組み込んで、食品需要の計量経済分析を試みたものである。研究手法の面では、選好の異質性と階層構造を同時に把握することに成功した点で、近年活発化しているコンジョイントタイプの需要分析に重要な貢献をなしている。また、追加的な情報の提示による需要のシフトの大きさが定量的に計測された点は、食品産業の商品政策のみならず政府の栄養政策の見地からも注目に値する。このような意味において、本論文は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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