学位論文要旨



No 118495
著者(漢字) 大河原,健人
著者(英字)
著者(カナ) オオカワラ,ケント
標題(和) 外科侵襲後のEuthyroid sick syndromeの成因と意義 : 交感神経系との関わり
標題(洋)
報告番号 118495
報告番号 甲18495
学位授与日 2003.07.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2206号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 花岡,一雄
 東京大学 教授 齋藤,英昭
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 助教授 岡崎,具樹
 東京大学 講師 小川,利久
内容要旨 要旨を表示する

背景

手術や外傷,重症感染症などの侵襲を受けた後に血中の甲状腺ホルモン濃度が低下する病態は,euthyroid sick syndrome (ESS)として知られている.ESSでは血中triiodothyronine (T3)濃度が低下した状態にあり,thyroid stimulating hormone (TSH)の血中濃度も正常から低値を示す.また,ESSの程度は疾患の重症度や予後と相関する.ESSにおける血中T3濃度の低下は,末梢におけるT4からT3への脱ヨード反応の抑制と視床下部や下垂体などの中枢性の抑制が考えられているが,そのメカニズムについては不明である.

生体は侵襲に対して神経系・免疫系・内分泌系などのさまざまな生体反応(neuro-immuno-endocrine system)を示す.侵襲後には炎症性サイトカインが増加することから,最近では,ESSと炎症性サイトカインとの関係が研究されている.また,一方で生体は侵襲を受けると交感神経系が賦活する.交感神経活性が中枢性サイトカイン産生に影響したり,視床下部-下垂体-副腎系などの内分泌系を調節したりすることから,ESSの成因に交感神経系が関与すると推測する.ESSもこれらのneuro-immuno-endocrine systemによる生体反応の一つと考えると,交感神経系の賦活が侵襲後のESSの発症に重要な役割を果たしている可能性がある.

ESSが発症し甲状腺ホルモンが低下することは,侵襲下の生体にとって消費エネルギーを節約するという合目的な反応のようにみえる.しかし,甲状腺ホルモンの低下が著しい場合の予後は不良であり,ESSが生体にとって有利なのか不利なのかについての結論は出ていない.本研究の目的は,1)ESSの成因に交感神経系が関与しているか?,2)ESSは生体にとってどのような意義があるか?の回答を得ることである.

<臨床研究>消化器外科手術後にESSが発症するのか,もし発症するとすれば,手術侵襲の程度が異なるとESSの程度に影響するかどうかを知るため,以下の臨床研究を行った.

[方法]東京大学医学部附属病院分院外科に入院した患者のうち,2000年4月から5月に開腹により胃切除術を受けた患者(OS群)8例と腹腔鏡下に胃切除術まはた胆嚢摘出術を受けた患者(LS群)4例を対象とし,術後7日間の甲状腺機能の変化と術後3日間の血漿catecholamine濃度を比較した.

[結果]OS群はLS群より有意に手術時間は長く術中出血量は多かった.また,OS群での術後の血漿catecholamine濃度もLS群より有意に増加した.OS群の血清T3値はLS群より有意に低下し,術前値までの回復も遅延した(Fig.1).

[考察]手術時間,術中出血量,術後の血漿catecholamine濃度はいずれもOS群でLS群より有意に増大しており,OS群で手術侵襲の程度が大きかった.血清T3値はOS群でLS群より有意に低下し,回復も遅延したことから,侵襲の大きい手術でESSの程度は増大した.

<実験1>ラットのESSモデルを確立する目的に,ラットにLPSの腹腔内投与または胃切開術という侵襲を加えESSを誘導した.

[方法]体重250-350gのWistar系雄性ラットを用いた.LPS群(n=9)には腹腔内にLPSを1mg/kg投与し,Gx群(n=7)は開腹して胃切開を施行し再縫合した,Control群(n=8)はLPSの代わりにsalineを腹腔内投与した.各群は持続輸液しながら48時間の経時的な甲状腺ホルモンの変化を調べた.

[結果]LPS群とGx群の血漿T3値は6時間後よりcontrol群に対して有意に低下し,血漿TSH値はcontrol群との有意差はなかったが,両群とも6時間後に低下した.

[考察]ラットにLPS腹腔内投与および胃切除術を行ってESSを誘導することができた.

<実験2>実験1で確立したLPSによるラットのESSモデルを用いて,1)epinephrineの投与によりESSを誘導できるか,2)交感神経遮断薬の投与によりESSを抑制できるかどうかを知ることを目的とした.

[方法]体重220-270gのWistar系雄性ラットを用い,実験1と同様に,LPS(1mg/kg)またはsalineを腹腔内に投与し,24時間の持続輸液を行った.輸液内に加える交感神経系作動薬または遮断薬の有無によりラットを以下の各群に分けた.

<実験2-1>LPS+E群(n=7):LPS+epinephrine,saline+E群(n=8):saline+epinephrine,LPS+saline群(n=7):LPS+saline,saline+saline群(n=7):saline+saline.交感神経作動薬はepinephrineを5μg/kg/minの速度で投与した.

<実験2-2>LPS+α-blocker群(n=8):LPS+phentolamine,LPS+β-blocker群(n=7):LPS+propranolol,LPS+saline群(n=7):LPS+saline,saline+α-blocker群(n=7):saline+phentolamine,saline+β-blocker群(n=8):saline+propranolol,saline+saline群(n=7):saline+saline.α受容体遮断薬はphentolamineを10mg/kg/day,β受容体遮断薬はpropranololを10mg/kg/day投与した.

[結果]Epinephrineの投与(saline+E群)により血漿T3値は6-24時間後でsaline+saline群より有意に低下した(Fig.2).α-blocker(LPS+α-blocker群)はLPSによる血漿T3値の低下を改善しなかったが,血漿T4値の低下を6時間後から改善し24時間後では有意な改善となった.β-blocker(LPS+β-blocker群)はLPSによる血漿T3値の低下を6時間後で有意に改善したが,24時間後ではその効果は見られなかった.また,LPSによる血漿T4値の低下を6時間後に有意に改善したが,24時間後ではその効果はなくなった(Fig.3).

[考察]Epinephrineの投与により血漿T3値は有意に低下し,LPSにより誘導されたESSと類似した甲状腺ホルモンの低下を示した.ESSの6時間後にみられる血漿T3値の低下は末梢での脱ヨード反応の抑制による効果と考えられ,6時間後からみられる血漿T4値の低下は甲状腺でのT4の合成と分泌の抑制による効果と考えられる.従って,ESSでは甲状腺からのT4の分泌はα受容体を介して抑制され,末梢でのT4からT3への合成はβ受容体を介して抑制されていると推測される.

<実験3-A>LPSで誘導したラットのESSにおいて血漿T3値を改善した場合の肝機能,サイトカイン産生および窒素バランスに与える影響を調べた.

[方法]体重220-270gのWistar系雄性ラットを用い,実験1と同様に,LPS(1mg/kg)またはsalineを腹腔内に投与し,24時間の持続輸液を行った.ESSを誘導する群と誘導しない群,輸液中にT3(10μg/kg/day)を加える群と加えない群で,以下の4群に分けた.LPS+T3群 (n=7) : LPS (1 mg/kgip)+T3, LPS+saline群 (n=7) : LPS (1 mg/kgip)+saline, saline+T3群 (n=7) : saline (0.2 mlip)+T3, saline+saline群 (n=7) : saline (0.2 mlip)+saline.

カニュレーション直後(baseline値)とLPSまたはsalineの腹腔内投与から6時間後の血漿中のT3, T4, freeT3, freeT4, interIeukin-6(IL-6)濃度と24時間後の血漿中のaspartate aminotransferase(AST),alanine aminotransferase(ALT)濃度を測定した.また,24時間内の尿中総窒素量を測定した.輸液中に窒素を含んでないため,尿中総窒素量がそのまま窒素バランスとみなした.

[結果]T3の投与は血漿AST, ALT値と血漿IL-6値,窒素バランスに影響はなかった(saline+T3群vs saline+saline群).ESSを誘導したラットにT3を投与すると血漿AST, ALT値と血漿IL-6値(Fig4)は有意に増加したが,窒素バランスは変化しなかった(LPS+T3群vs LPS+saline群).

<実験3-B>マウスに致死量のLPSを投与し,T3を投与した場合の生存率の変化を調べた.

[方法]マウスを2群に分け,致死量(10mg/kg)のLPS,または,saline 0.1mlを腹腔内に投与した.それぞれの群をさらに2群に分け,T3(10μg/kg)またはsaline 0.08mlを後頸部の皮下に投与し,以下の4群を作成した.LPS+T3群(n=25),LPS+saline群(n=25),saline+T3群(n=15),saline+saline群(n=15).マウスを飼育用ケージに戻し,水分と飼料の自由摂取の管理下で1時間毎にマウスの生死を観察し,48時間の生存率を比較した.

[結果]saline+T3群,saline+salin群とも48時間以内に死亡例はなく,T3による生存率への影響はなかった.LPS+T3群ではLPS+saline群より有意に生存率が低下した(Fig.5).

[考察]LPS投与によりESSを誘導したラットにT3を投与すると,T3を投与しないESSラットと比較して,窒素バランスには影響なかったが,血漿AST,ALT値および血漿IL-6値は有意に増大した.また,致死量のLPSを投与したマウスにT3を投与すると,T3を投与しないマウスと比較して48時間の生存率は有意に低下した.これらよりESSにおいて血中のT3値を改善することは,生体にとって不利であると言える.

総括

ICUやCCUなどでみられる重症疾患のみならず,消化器外科手術後の患者にもESSは発症していた.また,このESSの程度は手術侵襲の大きさによっても異なっていた.

ラットにepinephrine投与するとLPSで誘導したESSと同様の血中申状腺ホルモン値の低下がみられ,ESSの成因には侵襲下での交感神経系の賦活が重要な役割を演じていた.Epinephrine刺激による血中甲状腺ホルモン値の低下は,下垂体からのTSHの分泌や甲状腺からのT4の分泌,肝でのT3の合成を抑制した結果であり,それぞれα作用,β作用の異なる受容体を介していることが示唆された.

ESSにT3を投与して血中のT3濃度を改善したラットの実験では,ESSを改善させたときのタンパク異化反応に与える有意な影響はみられなかったが,IL-6産生は有意に増加し肝機能は有意に悪化した.また,ESSを改善したマウスの実験では,T3を投与することにより生命予後は増悪した.これらの結果から,ESSを改善することは生体にとって不利であると考える.今後,ESSを改善すると,なぜ炎症性サイトカインの産生が増大し肝機能が障害されるのか,なにが生命予後に影響するのかについてはを追及することは重要である.

Changes of serum levels of triiodothyronine (T3) after open surgery and laparoscopic surgery. OS : open surgery group, LS : laparoscopic surgery group. Data are expressed as means±SE. *Significant difference from the values in laparoscopic surgery, p<0.05, unpaired t-test. †Significant difference compared with baseline values, p<0.05, one-way ANOVA.

Changes of plasma levels of tiiodothyronine (T3) with or without epinephrine administration in rats. Saline+E: epinephrine-treated and saline-injected rats. Data are expressed as means±SE. *Significant difference from saline-treated rats, p<0.05, unpaired t-test.

Changes of plasma levels of triiodothyronine (T3) and thyroxine (T4) after administration of adrenergic receptor blockers in LPS-injected rats. LPS+α-blocker : α-blocker-treated and LPS-injected rats, LPS+β-blocker : β-blocker-treated and LPS-injected rats, LPS+saline : saline-treated and LPS-injected rats. Data are expressed as means±SE. *Significant difference from saline-treated rats, p<0.05, Dunnett's multiple comparisons.

Plasma interleukin-6 (IL-6) levels at 6 h with or without triiodothyronine (T3) treatment. Data are expressed as means±SE. *Significant difference compared with saline-injected group, p<0.05, ANOVA. †Significant difference compared with saline treatment group, p<0.05, ANOVA.

Survival rates in LPS-(lt panel) or saline-injected mice (rt panel) with or without triiodothyronine (T3) treatment. T3 : T3-treated mice, saline: saline vehicle-treated mice. Parentheses represent the numbers of animals. There were significant differences between LPS- and saline-injected mice groups, p<0.01, Log-rank test.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、外科的侵襲を受けた後に血中甲状腺ホルモン濃度が低下するeuthyroid sick syndrome (ESS)の成因と生体に対する意義を明らかにするために、消化器外科手術後のESSを調べた臨床研究と、Lipopolysaccharide (LPS)によりESSを誘導した動物実験により、以下の結果を得ている。

開腹手術(胃切除術)と腹腔鏡下手術(胃切除術あるいは胆嚢摘出術)の術後7日間の甲状腺ホルモンの経時的変化を調べた結果、血中triiodothyronine (T3)濃度はどちらの手術後にも低下し、消化器外科手術後にESSが発症していることが確認された。また、手術侵襲の大きい開腹手術後で甲状腺ホルモン(T3)は有意に低下し、術前値までの回復も遅延していたことから、侵襲が大きいほどESSの程度が大きいことが示された。

ラットにlipopolysaccharide (LPS)を投与すると、血中T3濃度は低下してESSが誘導された。また、ラットに交感神経刺激薬(epinephrine)を外因性に投与すると、LPS導されたESSと同様の血中T3、T4濃度の低下を示し、交感神経系の賦活がESSの発症に重要な役割を演じていることが示された。

LPSで誘導したESSラットにα受容体遮断薬(phentolamine)を投与すると、血中T4濃度の低下は抑制された。また、ESSラットにβ受容体遮断薬(propranolol)を投与すると、血中T3濃度の低下が抑制された。これらの結果、ESSでは甲状腺からのT4の分泌はα受容体を介して抑制され、末梢でのT4からT3への合成の抑制はβ受容体を介して抑制されていることが示唆された。

LPSで誘導したESSラットに外因性にT3を投与して血中T3値を改善させると、血清AST、ALT値は有意に増加し、血漿interleukin-6値も有意に増加した。すなわち、LPS投与の侵襲に対してESSを改善させることは肝機能、免疫能に悪影響を及ぼすことが示された。

致死量のLPS投与によるマウスのESSで、外因性にT3を投与して血中T3値を改善させると、生存率が有意に低下した。すなわち、ESSは生体にとって有利な防御反応の一つであると考えられた。

以上、本論文は消化器外科手術後のESSの臨床研究とLPS刺激によるラット、マウスのESSモデルの実験から、ESSの成因には交感神経系の賦活が重要な役割を演じていることと、LPS刺激によるESSは生体にとって有利な防御反応であることを明らかにした。本研究は、これまで明らかでなかった生体に対するESSの意義にひとつの回答を与え、また、発症機序の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク