学位論文要旨



No 118501
著者(漢字) 呂,静
著者(英字) LU,JING
著者(カナ) リョ,セイ
標題(和) 春秋時代の盟誓に関する基礎的研究
標題(洋)
報告番号 118501
報告番号 甲18501
学位授与日 2003.07.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第404号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平勢,隆郎
 東京大学 助教授 池澤,優
 東京大学 助教授 大西,克也
 東洋文化研究所 助教授 大木,康
 東洋文化研究所 助教授 高見澤,麿
内容要旨 要旨を表示する

盟誓は、未開の社会に始まるコミュニケーション手段である。それは宗教的な信仰を前提に、人々が自らの行為を制約し、社会秩序を維持するものとして機能していた。盟誓は汎世界的な事象であるが、中国春秋時期の「盟誓」は古代史上の一つの特色をなしている。盟誓がこの時代盛んに行われただけでなく、国際間から国内まで社会のあらゆる面で用いられ、周王・諸侯から卿大夫・家臣・国人、さらに隷・俳優まで各階層を巻き込んでいたことである。また、この時代の盟誓では盟書が作られている。春秋の歴史はこうした特異な「盟誓」を通して展開してきたといっても過言ではない。本論は春秋盟誓を対象として全面的な検討を進めるものである。

第二章では春秋時期までの「盟」と「誓」の存在状態を考察した。

ここでは、漢字が社会の下層まで伝播して以降に成立した書物に現れる「盟」と「誓」の使い方には、それ以前との差異が存在することをはじめて明らかにした。甲骨文・青銅器銘文に見える「盟」は「牲血」を用いて先祖を祭る儀式であり、これは殷代から存在していた。動物(牛・羊・鹿・白豚など)と人間(戦争の捕虜や女性)を殺し、その血を取り、深深たる太廟で行われる祭儀であった。西周早期の甲骨片にも、同じような祭祀内容が残されている。この「盟」と称する先祖・先妣を祭る儀式は、殷周時代を通して行われていたことが分かった。また、春秋時代の青銅器銘文の記載から、春秋中末期の〓・斉でも、「盟」をもって先祖を祭祀したことが知られる。

殷・周ないし春秋時期の諸侯国で行われる「盟祀」の具体的な様態や内容等は不明であるが、「盟」の祭儀には祭祀を行う者が神の前で自らするべきこととなさざるべきことをちかう、という内容はまだない。当時の人々が自己のちかいの感情を表すのに用いたのが「誓」という字である。青銅器銘文で誓い行動を表現するのは「誓」、または「析」と「折」であった。

青銅器銘文に記録される誓いの事例をみると、当時の誓いは、地方の長官の監視の下で行われ、またその後誓いに背いた場合には「爰千罰千」、「傳棄之」、「千〓〓」、「則〓」等の財貨による贖罪、肉刑や追放刑といった刑罰が行われており、その点からみて、法の規範に類似しており、法の領域に踏み込んだ特質をもつものであったことを明らかにした。

盟誓には、国際盟と国内盟という二種類がある。第三・第四章は春秋時期国際間の盟誓を論じたものである。

春秋の盟誓は社会秩序維持の機能をもつと一般には認識されている。しかし盟誓を結ぶほど戦争が減るとは限らない。春秋初期の現実はその逆である。つまり、国と国との間の同盟を結ぶに従い、元々一国対一国のものであった戦争は集団対集団のそれに転換し、戦争参加者は増え、その規模は拡大し、被害者や被害地域も広がっていった。盟誓は秩序を安定させるのではなく、社会の激動を促進する触媒であった。このように盟誓と戦争が繰り返され社会が耐え得る限界に達するうちに、この混乱の局面を収拾するため対立勢力を統合しようとする動きが起こった。即ち、「小伯」と呼ばれた鄭荘公・斉僖伯の登場である。彼らの主宰する盟誓は、従前の他者を味方につけようという単純な動機によるものとは異なり、敵側とも同盟を結んで、盟誓を通してあい対立する勢力を統合するという特徴をもつ。このような盟誓は、調停的・容認的、あるいは寛容な性格を帯びている。

その後の斉桓公と晋文公は彼らの覇業を継承・発展させ、ついには中原圏諸侯国の統制を実現した。この実現は周王に関わりがある点を特筆しておきたい。中原の盟主(いわゆる覇主)と同盟国の政治的従属関係は、西周期の政治構造から継承されたものであった。西周時期には、周王は諸侯連合体の頂点に位置していた。春秋時期に諸侯連合体の頂点にあったのは勢力の衰えつつある周王ではなく、当時各諸侯をまとめることのできた有力な諸侯、即ち盟主としての斉桓侯や晋文公や晋襄公・晋悼公等である。

しかし長江流域の楚・呉・越の制覇権威は、中原の「覇者」とは異なり、盟誓の祭儀からではなく自らの有する軍事的な実力によって諸侯の統制を実現したことが、第四章の検討から明らかとなった。

長江流域の楚・呉・越は、中原「覇者」である斉桓公や晋文公と違って、周王と歴史的・血縁的な独特の関係を持たず、周王を中心とする黄河流域の中原圏と対抗する勢力である。楚・呉・越はみな自分が中心であるという政治的理念をもっている。それゆえに楚・呉・越は黄河流域と長江流域を制覇するにあたり、いうまでもなく、中原式の盟誓を受け入れず自らのやり方で行う。そのやり方とは戦争であった。

春秋の「覇者」は同盟を結ぶ場で生まれた。盟誓には、元々周王が独占した霊的、あるいは政治的な権威が染み込んでおり、「覇者」はこのような宗教性の濃厚な盟誓祭儀を行うことによってこそ、霊的・政治的権威の継承者であることを衆人から承認され、そして諸侯を統制する正当性を説明し得たのだ。本論の第五章では、盟誓の具体的な儀式を考察した。春秋盟誓は、凡そ三つの段階に分けられる。第一は準備段階、第二は祭儀を行う段階、第三は載書と供物を神へ捧げる段階であり、第一の準備段階は主として事務的な作業に過ぎず、第二・第三段階は濃厚な宗教性を有することが分かる。そのうち、第二・第三段階で行われる呪術的な作法である「殺牲」、「執牛耳」、「歃血」といった代表的な手順を考証した。これら呪術的な作法は、古代中国における血液の崇拝、及び発達した象徴的な意識という原始的な観念に基づいてできたものである。「殺牲」は、違約者に対する制裁の意味がこめられているというより、血液への信仰によるものであったと考えられる。また盟誓の全過程において、宣誓することと、その内容を聴くことは最も肝心な要素であったから、盟誓の場で重要な役割を果たす器官はいうまでもなく耳と口とである。従って、耳と口を象徴的に強調しようとする意識により、牛耳を取り口に血を塗るという呪術的な行為がとられるようになったのである。

盟誓が行われる際盟辞を文書化したものを盟書あるいは載書と称する。第五章第二節では、『左伝』の盟誓記事に残されている春秋載書を検討した上で、載書という言葉の意味に焦点に当てた。「載書」が盟書という意味をもつことについて、盟辞を策に書き入れる、または盟辞を書き留める策を犠牲の上に「のせる」という従来の解釈は誤っており、甲骨文・金文研究によって見出されている殷・周時代に行われた祭祀の儀式の一つと理解すべきであることを明らかにした。載書が使われること自体は、周王の代わりに諸国のまとめ役を担った覇者が、殷・周王が独占した宗教的権威を引き受けることを物語っているに違いない。

載書は定型的な書式を有する文書である。第三節では、伝世文献に残されている載書と、出土史料の侯馬盟書と温県盟書を総合的に分析した上で、盟書の書式を検討した。盟書の構成は凡そ「序」・「盟約内容」・「条件付き自己呪詛」の三つの部分からなる。載書の制作はその書式と定型的な文言に関する知識を唯一身につけていた「史」・「祝」・「巫」・「覡」に委ねられた。しかし、載書の中心部の所謂「契約条項」内容は、一般に多数当事者の合意の上に成立するのであるが、現実には盟誓の主導権を握る主盟者の意志により決められるケースが多い。契約の制作過程にも、権威が介入する性格が見られる。

第六章では春秋時期国内盟を検討した。国内で盟誓を交わすのは春秋時期から始まったわけではないが、東遷後から春秋時期が終わるまでの312年間のうち『左伝』の時期からとった統計に基づいて、これが春秋中期の後半から急速に増加したことを明らかにした。これは、当時諸国内部の政治情勢が激しく動いていたことの結果というほかに、この時期盟誓の新しいやり方が現れたことでも説明できる。要するに、盟誓の参與者の拡大化という傾向がますます各国に広がっていったのである。盟誓は、もはや国君や大夫など国の支配階層部による秩序維持の手段であるだけでなく、国内秩序全体を再編する手段としても用いられるようになったのである。

国内盟の空間的な、いわゆる地域的な特質も注目される。春秋早期には鄭・晋・衛三国と周王朝が国内盟を頻繁に行っていたことが分かる。春秋中期後半から、魯・斉では諸大夫間の盟誓がはじめて見られる。ここでもっと興味深いことは、『左伝』には秦・楚・呉・越諸国の国内盟の記事が一例も見えないことである。国内盟が出現時期に注目すれば、社会の新しい動きには地域的特質が見えてくる。

国内盟のもう一つの特質は、参盟者の身分についてである。第三・第四章で諸国間の盟誓状況を検討したが、この種の盟誓は概括的にいえば集団間の盟誓であり、その参盟者はほぼ諸侯国の君主である。前八世紀末、国の卿大夫が国君の代わりに他の諸国と盟をしてから、諸侯以下が盟誓に参與するケースが次第に増加したが、これはあくまでも自分の集団の代表としての出席であり、参盟者が主張するのは個人的な意志ではなく共同体の意志であることは疑いない。ところが国内盟誓では、参盟者は国よりももっと細分される宗族や氏族という集団から選出される代表として参加する。しかも集団の代表にとどまらず、盟誓参加者の身分はさらに社会の下層に移行し、個人、即ち「国人」まで参與することになった。盟誓参盟者の身分について新しい動きが現れることにこそ、社会を構成する基盤の変化の兆がみられる。盟誓主体が下層に移るにともない、社会の幅広い階層まで「人的結合」ができるようになったのである。

本稿第二章から第六章までにおいて、春秋時代(殷周も含む)の盟誓を全面的に検討した。このように盟誓を系統的に論じた研究は稀である。その意味から、本論で述べたように、このことを本稿第一の意義として強調できるだろう。とりわけ、最初の原義に述べたように、本論の具体的な検討によって初めて明らかにできた点が存在すること、さらには従来の体系的研究をどう継承し、どう批判するのかについて一つの方向性を提示し得たことを特筆しておきたい。

審査要旨 要旨を表示する

春秋時代にいたるまでの中国は、都市と農村がまとまって「国」をつくり、その「国」が大国によってまとまりを見せていた。春秋時代中期ごろからしだいに「国」が地方と中央をむすびつける県に再編され、それをまとめる中央が、あちこちにできあがる過程で、社会が大きく変動したことが議論されている。

本論文が扱う盟誓は、「国」が大国によってまとまりを見せていた時代にあって、しかも漢字が各「国」に根付いた後、「国」どうしや「国」の内部におけるとりきめを問題にする。

漢字が殷において独占的に用いられていた時の「祭」と釈される字が、周を経て春秋時代の「載」の字になり、とりきめの証たる「載書」(盟誓の誓約書)という言葉を生み出したことに関する考証はは、特に評価された。「載書」は「国」が違えば「盟書」ともいう。この「盟」について殷の血祭り由来するという指摘も、興味深いが、これについては、漢代の「明器」(副葬品)の「明」の用例なども加えた検討が必要であろう。

以上のことを確認した上で、『左伝』に見える盟誓を具体的に検討しなおした部分も本論文の意義を高めている。

一部推論のいきすぎや言葉の不適切な使い方を指摘された箇所もないではないが、限られた史料事情のした、中国古代史研究を新たな段階に進めた点は、高く評価できる。よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク