学位論文要旨



No 118510
著者(漢字) 糸数,七重
著者(英字)
著者(カナ) イトカズ,ナナエ
標題(和) 学習障害モデル動物に対する漢方生薬黄耆・晋耆・甘草の予防的効果
標題(洋)
報告番号 118510
報告番号 甲18510
学位授与日 2003.09.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2209号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 助教授 中安,信夫
 東京大学 助教授 郭,伸
 東京大学 助教授 森田,明夫
 東京大学 客員助教授 平井,浩一
内容要旨 要旨を表示する

序論

漢方薬は1種類の処方が様々な疾患の治療への応用が可能であることから、臨床的に有効性の高い治療法であると考えられる。一方でその使用方法は現在でも伝統的な論理に則ったものがよしとされ、非科学的または一般的な使用が困難とされることも多い。さらに、近代科学とは異なった論理体系に基づいた医薬品であることから、他の一般的な医薬品と同等の評価を行うことが難しくなっている。また、生薬名が同一であっても複数の基源植物に由来し、基源植物同士で含有成分や植物種が異なる場合もあるといった問題がある。本研究は漢方薬を科学的な根拠に基づいて使用するための基礎データの蓄積を目的として行った。まず漢方薬が多用される老人性疾患のうちの痴呆に着目し、この痴呆を含む学習障害に関して新しいモデル動物を作成・確立した。さらに、漢方薬を構成する生薬のうち黄耆・晋耆・甘草について、新しいモデル動物を用いて学習障害に対する影響を検討した。また、智に一般的な生薬名は「オウギ」でありながら、植物種・含有成分を異にする黄耆 (Astragalus membranaceus) および晋耆 (Hedysarum polybotrys) の効果の差を検討した。

L-DOPA誘発性学習障害モデルマウスの確立

L-DOPAはパーキンソン病治療薬として一般的に使用されているが、神経毒性を有するとの報告もあることから、薬物感受性の高い動物に対するL-DOPA大量投与による学習障害誘発を試みた。C57BL/6NマウスにL-DOPA10-1000mg/kgを単回経口投与し、一定期間飼育した後に Step-Through 試験にて学習行動を観察したところ、L-DOPAの投与量依存的かつL-DOPA投与から学習行動試験までの飼育期間が延長するに伴って進行する時間依存的な学習障害が誘発されていた(Fig1. A, B)。L-DOPAの光学異性体であり血液脳関門を通過しないD-DOPAでは学習障害誘発作用はなく(Fig.1C)、この作用はL-DOPAが脳内に取りこまれ、神経に直接影響を及ばして生じると考えられた。また、誘発される学習障害が時間依存的であり観察期間中では回復をしないことから、進行性の痴呆を再現している可能性が示唆された。

メラトニン誘発性学習障害モデルマウスの作成

神経細胞死の過程で脳の免疫系を司る細胞である microglia の活性化が関与していることがこれまでに度々指摘されている。方で、乳児期のラットに対してメラトニンを腹腔内投与することで脳内の microglia の活性化が可能であったとの報告から、生後1日齢のC57BL/6Nマウスに対して2週間にわたってメラトニン10mg/kgを隔日で腹腔内投与しておき、その後マウスが5週齢に達したとき学習行動試験を行った。その結果、メラトニンの腹腔内投与により用量依存的に学習障害が誘発された (Fig. 2)。また、Contol 群 (Fig. 3A) に対してメラトニン投与群 (Fig. 3B)では海馬CA3野の細胞層の脱落が観察された。

学習障害モデルマウスに対する生薬およびそその成分の影響

以上2種類のモデルを用いて生薬の効果を検討した。L-DOPA1000mg/kg を経口投与し、その24時間後から生薬抽出物を飲料水として摂取させた場合、黄耆・晋耆・甘草はともに濃度依存的L-DOPA誘発性の学習障害を抑制した (Fig. 4A)。黄耆と比較すると晋耆ではより低用量から学習障害抑制効果が観察され、また50mg/mlの濃度で抽出物を摂取させた場合にはほぼ完全に学習障害の成立を阻害した。しかし、L-DOPA投与の1週間後から生薬の摂取を開始させた場合では、生薬摂取開始1週間の時点でも、動物はL-DOPA投与のみを行って1週間経過した場合と同様の学習障害を呈した。ただし、その学習障害強度は、L-DOPA投与のみを行って2週間経過した場合ほど強いものではなかった。この現象は黄耆・晋耆・甘草の全てで同様に観察された (Fig.4B)。

また、黄耆・晋耆・甘草全てに共通に含まれる成分であるポリアミン類に関して学習障害抑制効果の有無を検討した。ポリアシン類のうちスペルミン・スペルミジンは濃度依存的に学習障害抑制効果を示したが、スペルミジンのほうがより低濃度から効果を発揮した (Fig.5)。また、黄耆とポリアミン含有量をHPLCにて測定したところ、黄耆はスペルミンのみを含み、晋耆はスペルミン、スペルミジンを共に含有していた (Table 1)。

また、メラトニン誘発学習障害モデルへの生薬の影響を検討するため、妊娠中期のマウスに黄耆・晋耆・甘草の抽出液を飲料水として摂取させた。産まれた仔には生後24時間後よりメラトニンを投与し、生薬の投与は授乳中の母マウスに生薬を摂取させることで経母乳投与を行った。離乳後は直接飲料水として生薬抽出物を摂取させて飼育した後、学習行動試験を行った。その結果、晋耆は全ての個体に大して学習障害抑制効果を示したが、黄耆の郊果には個体差が大きく、甘草はこのモデルに対しては効果をもたないことが示された (Fig. 6)

総括

以上の研究よりC57BL/6NマウスへのL-DOPAの経口投与による進行性の学習障害モデルの作成に成功し、また乳児期のC57BL/6Nマウスへのメラトニンの腹腔内投与により、海馬での神経脱落を伴う学習障害モデルの作成に成功した。上記に二つのモデルを用い、漢方生薬である黄耆・晋耆・甘草抽出物の学習障害予防効果を明らかにした。また、L-DOPA誘発性学習障害モデルに対する有効成分は、黄耆・晋耆・甘草に共通して含まれる成分であるポリアミンのうちスペルミンおよびスペルミジンであり、黄耆および晋耆において、効果の差と、より有効性の高かったスペルミジンの含有量の差が一致していたことから、黄耆・晋耆および甘草のL-DOPA誘発学習障害に対する活性中心がスペルミジンである可能性を示した。一方でメラトニン誘発性の学習障害に甘草が無効であったことからこのモデルに対する効果の中心はポリアミン類ではないことを示した。筆者は全く新しい観点からの学習障害モデル動物の作成に成功し、またそれを用い、官報生薬の学習障害予防効果およびその生理活性物質について示すことに成功した。モデル成立および学習障害予防のメカニズムについては更なる検討が必要ではあるが、今回作成したモデルが現在の臨床における学習障害誘発の機序をよく再現している可能性があること、また使用した漢方生薬のうち、特に効果の大きかった晋耆は、漢方理論において長期にわたって予防的に服用することが可能とされる「上薬」であることから、今後の高齢化社会において、痴呆等に対し有効な予防薬の開発に向かう重要な知見であると考えられる。

L-DOPAおよびD-DOPA投与のマウスの学習行動に与える影響。L-DOPA投与1週間後 (A). 4週間後 (B) およびD-DOPA投与 (C)

メラトニン投与の学習行動に与える影響

対照群 (A) およびメラトニン投与群 (B)の海馬組識像の一例

L-DOPA誘発性学習障害に対する生薬抽出物の効果 (A). 生薬抽出物の効果は予防的なものである (B)。

L-DOPA誘発性学習障害に対するポリアミン類の効果 黄耆および晋耆に含まれるポリアミン類

メラトニン誘発学習障害に対する生薬抽出物の効果

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、現時点で臨床に使用されていながらもその薬効及び作用機序に関して未知の部分の多い漢方薬のうち3種類の生薬に関して、中枢神経に対する作用、特に学習障害に対する効果を明らかにすることを目的として行ったもので、新規の学習障害モデルマウスを作成した上で検討を行い、下記の結果を得ている。

C57BL/6NマウスへのL-DOPAの経口投与による進行性かつ不可逆的な学習障害モデルの作成に成功した。

C57BL/6Nマウスへのメラトニンの腹腔内投与により、海馬での神経脱落を伴う学習障害モデルの作成に成功した。なおこのモデルはメラトニンの投与時期によって感受性が異なり、新生児期〜乳児期のメラトニン投与にのみ反応して学習障害が生じることを示した。

上記二つのモデルを用い、漢方生薬である黄耆・晋耆・甘草抽出物の学習障害予防効果を明らかにした。効果は生薬の種類によって異なり、L-DOPA誘発性の学習障害に対しては黄耆・晋耆・甘草はすべて予防的な効果を有するが、黄耆よりも晋耆がより効果が大きいことを示した。また、メラトニン誘発性の学習障害に対しては、黄耆および晋耆は効果を有するが、甘草は無効であることを示した。

L-DOPA誘発性学習障害モデルに対して、黄耆・晋耆・甘草に共通して含まれる成分であるポリアミンのうち、スペルミンおよびスペルミジンに学習障害予防効果があることを見出した。

黄耆および晋耆において、効果の差と、より有効性の高かったスペルミジンの含有量の差が一致していたことから、黄耆・晋耆および甘草のL-DOPA誘発性学習障害に対する活性の中心がスペルミジンである可能性を示した。

以上、本論文は全く新しい観点からの学習障害モデル動物の作成した上で、それを用い、漢方生薬の学習障害予防効果およびその生理活性物質について示すことに成功した。モデル成立および痴呆予防のメカニズムについては更なる検討が必要ではあるが、今回作成したモデルが現在の臨床における学習障害誘発の可能性をよく再現していること、また、使用した漢方生薬のうち、特に効果の大きかった晋耆は、漢方理論において長期にわたって予防的に服用することが可能とされる「上薬」であることから、今後の高齢化社会における有効な学習障害予防薬の開発に向かう重要な知見であり、学位の授与に値するものと考えられる。

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